constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

立証責任

2006年02月24日 | nazor
戦犯追及の雰囲気になりつつあるトリノ五輪でようやくメダル獲得に至ったことや、堀江メール問題をめぐる民主党の自壊現象が世間の耳目を集めている中、断続的に報道されているのが沖縄返還をめぐる「密約」である。今日も『朝日新聞』が「『河野氏から沖縄密約否定要請』元局長証言」と報じている。

これまでアメリカ側の公文書や、佐藤栄作の「密使」役を務めた若泉敬の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋, 1994年)、それらの史料に依拠した我部政明の研究(『沖縄返還とは何だったのか――日米戦後交渉史の中で』日本放送出版協会, 2000年)によって半ばその存在が当然視され、常識となっていた「密約」の一部について、吉野文六・元外務省アメリカ局長が認める証言をしたことは、1974年に『毎日新聞』記者のスクープと同じである点で内容的にそれほど新鮮味がない一方で、日本側の交渉当事者という立場にいた者の証言である点で重みがある。

ただ日本政府・外務省としても、これまで頑なに否定してきた経緯を考えると、そう簡単に「密約」を認めるわけにもいかないのは当然だろう。依然としてアメリカ側の史料については日本が関知するものではないと言い、若泉の件については「私的行為」という枠に押し込め、今回の吉野元局長の証言も「日本側の」文書による裏付けのない「個人的回想」にすぎないとして処理されてしまうだろうし、その方向で日本政府も動いている(鈴木宗男議員の質問趣意書に対する政府答弁)。決定的な証拠ともいうべき日本側公文書の存在を政府自らが認めない限り、この問題に関する顕教と密教の二重構造は維持されつづける。

最近、政治史研究において「オーラルヒストリー」が注目を浴びているが、日本政府にしてみれば、文書史料が証言よりも証拠としての価値が高いということだろう。あくまでも証言は文書を保管する役回りに過ぎず、それのみで証拠たりえないという序列が保たれている。

また公文書の取り扱いに関して、しばしばアメリカの公開性が引き合いに出して、日本の「遅れた」状況が批判されるが、「本場」アメリカにおいてもこの原則は揺らぎつつあるようだ(「CIAなど、機密指定解除の公文書を機密再指定…米紙」『読売新聞』2月21日)。
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