佐藤卓己『8月15日の神話――終戦記念日のメディア学』(筑摩書房, 2005年)
戦争をめぐる認識の差異を越えたところに、アルキメデスの点を設定するかのように、ひとつのイメージを枠付ける行為が6日から15日にかけて続くいわゆる「8月ジャーナリズム」。その勢いは、戦後60年というメルクマールを得たことによって、例年以上の盛り上がりを見せている(たとえば、
『文藝春秋』の特集「運命の8月15日56人の証言」など)。
佐藤の本は、いわばこうした「8月ジャーナリズム」の流れに乗りつつも、なぜ多くの日本人が「8月15日」を終戦の日として記憶しているのかという、所与の前提として当然視されていたことに焦点を定める。
「世界標準」によれば、ポツダム宣言受諾を表明した8月14日か降伏文書に調印した9月2日を「終戦記念日」とするのが当然であるが、天皇の玉音放送という、いわば国内限定の8月15日が「終戦」と認知されるようになる過程には、さまざまなメディア・ポリティクスが作用していたことが明らかにされている。
ここで興味深いのは、本来国内向けの「日本標準」である8月15日が、中国においても「終戦」、つまり「対日勝利」を象徴する日付として記憶されるようになったことである。ここには、記念日あるいは記憶の存立基盤自体の移ろいやすさが看取でき、その時々の環境によって、刻印の書き換え(re-inscription)が生じることを示している。中国の場合、以前であれば9月3日が「対日勝利記念日」とされていたが、これさえも中ソ蜜月時代の遺産だったわけで、記憶が政治の従属変数であることを否応なく思い知らされる。
と同時に、第二世界大戦の終結から時間を経ずに、冷戦というもうひとつの世界戦争にシフトしたことを考慮に入れたとき、従来の国際法が前提としてきた二種類の時間観念(戦時/平時)の区分が曖昧化されてきた帰結のひとつとして、日本において8月15日が「終戦」と重ね合わされるようになったのではないだろうか。つまり、佐藤が指摘するように、8月15日の古層には「盆」という日本的伝統があり、戦没者の追悼という行為に結びつける形で、そこに「終戦」が上書きされる「国内事情」があったとすれば、それを補完する「国際事情」として、19世紀的な戦争観の変容があり、それに伴う総力戦の登場、そして冷戦という準戦時体制の日常化が指摘できる。
戦争の作法/文法がなし崩し的に骨抜きにされ、本来的に対極に位置づけられるはずの戦時と平時が連続線上に並べ替えられることによって、二種類の時間観念は統合され、あるいはその意味を喪失したところに、戦争でも平和でもない状態としての「冷戦」という特異な戦時状況が成立可能となった。そしてそのような「冷戦」が「体制」として確立したのも1955年であったことは、8月15日の記憶化にとっても、示唆的である(石井修「冷戦の『55年体制』」『国際政治』100号, 1992年を参照)。
アジアにおける冷戦が米中和解によって部分的な終焉を見た1970年代以降、いわゆる歴史認識をめぐる問題が政治・外交問題として捉えられるようになったことと、「日本標準」の終戦記念日が中国で受容されていったことは無関係とはいえないだろう。換言すれば、戦時から平時への明白な断絶がないまま、時間が止まった状態としての「冷戦」が氷解したことで、新たな断絶を「再発見」する必要に迫られた中国にとって、「8月15日」は格好のターゲットとして受け止められた。あるいは佐藤が述べるように、中国にとっての「8月15日」は否定形の指標であり、すぐれて現代的な意味合いを色濃く帯びたものである。それは、「逆立ちした経路依存(inverted path dependence)」と名づけることができる過去(の記憶)の再編成でもある。
東アジアに万国公法の秩序が浸透した19世紀後半以降、日本・朝鮮半島・中国をつなぐ形で知の連鎖が存在していたことは、山室信一が詳細に分析しているが(
『思想課題としてのアジア――基軸・連鎖・投企』岩波書店, 2001年)、その連鎖が「8月15日」に関しても働いていたことを、佐藤の著書は気づかせてくれる。