constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

終戦記念日

2005年08月30日 | hrat
田尾監督もお手上げ…18試合を残し楽天の最下位決定(『サンケイスポーツ』)
楽天の最下位が決定 53年ぶり8月に(『スポーツニッポン』)
楽天まだ8月なのに…最下位決定(『スポーツ報知』)
楽天 早くも最下位決定(『デイリ-スポーツ』)
新球団楽天の初年度最下位が決定(『日刊スポーツ』)

開幕前から最下位がほぼ当然視されていて、100敗するかどうかに注目が集まっていた感が否めない楽天の今シーズン。巨人のように、「あの戦力がありながら…」という認知不協和に悩まされることのない意味で、すんなり受容される終戦である。

ところで『週刊朝日』のみ執拗に追っているロッテの薬物疑惑。ほかの主要メディアが取り上げてくれないことに対する苛立ちなのか、今週号の見出し「『週刊朝日のロッテ叩きは人種差別だ』報道を嗤う」は、『正論』などの嫌「朝日」メディアのメンタリティと変わらないレヴェル。
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ソフトパワー外交の蹉跌

2005年08月25日 | nazor
PUFFY人気で日本PR 駐米大使公邸でパーティー(共同通信)

ソフトパワー外交の一環といえるが、外務省の人たちにとっては、サブカルチャー系の理解可能な最低ラインであり、招待したアメリカ政府関係者などには、軽蔑されない程度に興味を引く交叉点に浮上したのがパフィーだったようだ。

堀田純司『萌え萌えジャパン――2兆円市場の萌える構造』(講談社, 2005年)でも言及されているが、(とくに政府によって)海外に発信され、そしてその一次的受容者である海外のエリート層に伝達されるサブカルチャー的なるものが「日本」をどの程度表象しているのか怪しい。堀田が取り上げているジャンル(フィギュア、メイドなど)は、外交戦略という観点からサブカルチャーを見ている者にとっては、異質なものであり、先験的に抱いている「日本」イメージを貶めかねないものでしかないのだろう。

こうして、ポケモンや宮崎アニメなど「健全な」サブカルチャーと、それ以外の海外に向けて積極的に発信することが憚れるサブカルチャーとに分化していく過程が進んでいく。高級/伝統文化との対比において意味を持っていたサブカルチャー、あるいは閉じられた私的領域にあったサブカルチャーを公(的)化することは、いわば清濁混在したサブカルチャーの浄化でもあり、その過程を経たサブカルチャーは余所行きのベールを纏ったものでしかないだろう。そうであれば、無理してサブカルチャーに頼るのではなく、それこそヴァーチャル空間を通じた「民間外交」に委ね、政府外務省はその身の丈にあったソフトパワー外交を展開する方が「国益」に適うことだろう。
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夏期休暇

2005年08月22日 | hrat
楽天 今季2度目の2ケタ連敗(『スポーツニッポン』)
楽天パ44年ぶり年間2度10連敗(『スポーツ報知』)

「燃え尽き症候群」から立ち直る気配が一向に見えない8月の楽天。レジュラーで1シーズン戦ったことがない若手と、夏場の暑さに体力的な限界を感じるベテランが大半を占めるチーム構成の矛盾点が露呈した結果だろう。

宮城県の夏休みは、全国標準より1週間早い25日前後らしいが、地域密着を打ち出しつつも、東北地方出身者が皆無のチームにとって「時差ボケ」は長引く予感。
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「8月15日」の連鎖現象

2005年08月10日 | knihovna
佐藤卓己『8月15日の神話――終戦記念日のメディア学』(筑摩書房, 2005年)

戦争をめぐる認識の差異を越えたところに、アルキメデスの点を設定するかのように、ひとつのイメージを枠付ける行為が6日から15日にかけて続くいわゆる「8月ジャーナリズム」。その勢いは、戦後60年というメルクマールを得たことによって、例年以上の盛り上がりを見せている(たとえば、『文藝春秋』の特集「運命の8月15日56人の証言」など)。

佐藤の本は、いわばこうした「8月ジャーナリズム」の流れに乗りつつも、なぜ多くの日本人が「8月15日」を終戦の日として記憶しているのかという、所与の前提として当然視されていたことに焦点を定める。

「世界標準」によれば、ポツダム宣言受諾を表明した8月14日か降伏文書に調印した9月2日を「終戦記念日」とするのが当然であるが、天皇の玉音放送という、いわば国内限定の8月15日が「終戦」と認知されるようになる過程には、さまざまなメディア・ポリティクスが作用していたことが明らかにされている。

ここで興味深いのは、本来国内向けの「日本標準」である8月15日が、中国においても「終戦」、つまり「対日勝利」を象徴する日付として記憶されるようになったことである。ここには、記念日あるいは記憶の存立基盤自体の移ろいやすさが看取でき、その時々の環境によって、刻印の書き換え(re-inscription)が生じることを示している。中国の場合、以前であれば9月3日が「対日勝利記念日」とされていたが、これさえも中ソ蜜月時代の遺産だったわけで、記憶が政治の従属変数であることを否応なく思い知らされる。

と同時に、第二世界大戦の終結から時間を経ずに、冷戦というもうひとつの世界戦争にシフトしたことを考慮に入れたとき、従来の国際法が前提としてきた二種類の時間観念(戦時/平時)の区分が曖昧化されてきた帰結のひとつとして、日本において8月15日が「終戦」と重ね合わされるようになったのではないだろうか。つまり、佐藤が指摘するように、8月15日の古層には「盆」という日本的伝統があり、戦没者の追悼という行為に結びつける形で、そこに「終戦」が上書きされる「国内事情」があったとすれば、それを補完する「国際事情」として、19世紀的な戦争観の変容があり、それに伴う総力戦の登場、そして冷戦という準戦時体制の日常化が指摘できる。

戦争の作法/文法がなし崩し的に骨抜きにされ、本来的に対極に位置づけられるはずの戦時と平時が連続線上に並べ替えられることによって、二種類の時間観念は統合され、あるいはその意味を喪失したところに、戦争でも平和でもない状態としての「冷戦」という特異な戦時状況が成立可能となった。そしてそのような「冷戦」が「体制」として確立したのも1955年であったことは、8月15日の記憶化にとっても、示唆的である(石井修「冷戦の『55年体制』」『国際政治』100号, 1992年を参照)。

アジアにおける冷戦が米中和解によって部分的な終焉を見た1970年代以降、いわゆる歴史認識をめぐる問題が政治・外交問題として捉えられるようになったことと、「日本標準」の終戦記念日が中国で受容されていったことは無関係とはいえないだろう。換言すれば、戦時から平時への明白な断絶がないまま、時間が止まった状態としての「冷戦」が氷解したことで、新たな断絶を「再発見」する必要に迫られた中国にとって、「8月15日」は格好のターゲットとして受け止められた。あるいは佐藤が述べるように、中国にとっての「8月15日」は否定形の指標であり、すぐれて現代的な意味合いを色濃く帯びたものである。それは、「逆立ちした経路依存(inverted path dependence)」と名づけることができる過去(の記憶)の再編成でもある。

東アジアに万国公法の秩序が浸透した19世紀後半以降、日本・朝鮮半島・中国をつなぐ形で知の連鎖が存在していたことは、山室信一が詳細に分析しているが(『思想課題としてのアジア――基軸・連鎖・投企』岩波書店, 2001年)、その連鎖が「8月15日」に関しても働いていたことを、佐藤の著書は気づかせてくれる。
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ミアシャイマーをめぐる知性/地政文化

2005年08月08日 | nazor
今月号の『諸君』に、ジョン・ミアシャイマーの論考「20XX年、中国はアメリカと激突する」が掲載。

日本では、鴨武彦『世界政治をどう見るか』(岩波新書, 1993年)で、冷戦の終焉(の意味)を直視できないリアリストの典型例として言及されたことで、一部の間では名の知れた学者である。

しかも「ドイツはいずれ核武装する/せざるをえない」という予測は、その後の展開からも明らかなように、外れてしまったこともあって、「常識的」研究者にとっては、真剣に論じるに値しない、あるいは批判対象にしかなりえない「キワ物」扱いされる傾向が強い。

そんな彼の著書からの抜粋が『諸君』に掲載されたわけだが、ミアシャイマーが日本の学界で見向きもされない理由は、訳者が指摘する「核アレルギー」や「平和主義的思考」よりもむしろ、ミアシャイマーのようなアメリカ知識人が前提とする理論観、すなわち変数をできるだけ少なくし、簡素であること(parsimonious)に重きを置くアメリカの知的傾向に対する違和感があるように思われる(平和主義的とされる日本の学界がどれを指すか不明だが、日本平和学会だとすれば、あまりにその影響力を過大視しているといわざるをえない)。

たしかに変数が少ないほど、概念の操作が容易になり、仮説から結論に至る論理が洗練されたものになるだろうが、このような「条件つきの」理論に基づいた分析や「予測」が、どれだけの意味があるのか、複雑な世界における国家の行動を、ミアシャイマーに典型的に見られるように、パワーの分布/大小という単一の変数だけで分析する行為や発想に知的傲慢さを嗅ぎ取っているからだろう。しかもそこから導かれる「予測」が当たらないとなると、ますます信用度の低下に拍車がかかる。

こうした理論観の背景には、アメリカ社会に根深い反知性主義、あるいは「予測」という発想に見られる「科学フェティシズム」などがあり、「知」をめぐるアメリカと日本の知性(地政)文化の違いと捉えることもできるだろう。さらに、ミアシャイマーなどリアリストが自説を支える根拠として引く歴史の事例にしても、その用い方や配置に関しては、いわゆる道具主義的(instrumental)歴史認識に基づくため、きわめて底の浅い歴史でしかない。そのため、歴史の循環性が強調され、偶発性の次元は捨象される。すなわち歴史に根ざした分析という触れ込みにもかかわらず、そこに見出せるのは非/反歴史的な現在中心主義(a-/anti-historical presentism)に過ぎないといえる。

いずれにせよ、ミアシャイマーの著作は、『諸君』がいうように、日本にとって「衝撃」だとすれば、それは、その分析力の高さではなく、あまりに「アメリカ的」な世界観を垣間見せてくれる点にある。こうした議論に対して懐疑的な目を向けることは、「平和ボケ」の証左というよりも、知的成熟度の高さを示唆するものだろう。
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歴史の教訓

2005年08月06日 | hrat
楽天100戦目に負け越し決定…今季9度目の4連敗(『サンケイスポーツ』)

8月に入ってから4連敗となり、7月の「勢い」が止まったようだ。この間の失点が15、14、8、8と、開幕当初の投壊現象が再来。とくに昨日の試合は、勝利の方程式である吉田と福盛が逆転およびダメ押しを許してしまう展開。

巨人が城島、谷、豊田を調査(『デイリースポーツ』)
巨人投壊の抑え!FA権取得の西武・豊田獲得へ(『サンケイスポーツ』)

巨人がFAで補強した選手は、清原や江藤の例が示すように、総じて不良債権化するという教訓が学習されないまま。鈴木、亀井、十川など「若手を使え」という滝鼻オーナーの発言と矛盾する方針は、結局のところ実権はナベツネが握っていることを暗に示唆しているのだろう。
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キャスティング・ボート

2005年08月01日 | hrat
有銘初完封!楽天 初の月間勝ち越し(『デイリースポーツ』)
楽天・有銘がプロ初勝利!球団初の完封も達成(『サンケイスポーツ』)
有銘完封プロ初勝利 楽天7月勝ち越し(『スポーツ報知』)
有銘初完封!初の月間勝ち越し決めた(『スポーツニッポン』)

なぜか相性のいい西武戦で、有銘がチーム初完封を成し遂げ、7月を10勝9敗1分けで乗り切ることに成功。

パリーグは、ソフトバンクとロッテがプレーオフ進出が確実なだけに、今後は3位争いに注目が集まるわけだが、西武に苦手意識のあり(4勝7敗)、オリックスをカモにしている(11勝2敗)ソフトバンクにとっては、楽天の戦いぶりが援護射撃として機能してくれることは頼もしいことだろう。
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