constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

覇権の凋落

2005年04月27日 | hrat
G・ローズ造反「帰る」!“緩慢プレー”批判にブチ切れ (『サンケイスポーツ』)
ローズ、ブチ切れ!「みんなヘタクソ」(『スポーツ報知』)
ローズ逆ギレ「ジャイアンツ大嫌い」(『スポーツニッポン』)
巨人5連敗で崩壊、ローズ逆ギレ「帰る」(『日刊スポーツ』)

10連敗で、勝率は2割を切り、観客動員も今季最低と、悪い流れがすべて集まった昨日の楽天であるが、これだけ負け続ければ、ニュースとしての価値も減少するのも当然で、その代わりに、格好の話題を提供したのが、巨人のローズ。一部には途中退団という声もあるようで、ならば旧近鉄色が強く、「打てる」大砲を探している楽天入りの方向で決着するのが最適解ではないだろうか。

国際政治学で言うところの覇権循環論に従えば、現在の巨人は、明らかに帝国の過剰拡大(overstretch)の症状に蝕まれているわけで、しかも人気というソフトパワーも、最近の視聴率が物語るように、輝きを失っていることを考えれば、覇権交代の時期が間近に迫っていると見ていいだろう。

list11

2005年04月26日 | hudbeni
ASIA / ASTRA
北島健二 / WILD FLOWeR
TM NETWORK / Self Control
FENCE OF DEFENSE / logical aesthetics swimming tragedy album
SOFT BALLET / MILLION MIRRORS
TOTO / TWENTY YEARS OF SERVICE 1977-1997
甲斐バンド / 黄金/GOLD
THE MAD CAPSULE MARKETS / 010
LED ZEPPELIN / LED ZEPPELIN IV
135 / AI YAI YAI

今回の選抜は、ツェッペリンを除けば、各アーティストの後期のアルバムばかりとなった。とくに、135は、初期のオリエンタル風の楽曲の印象が強いため、135のアルバムで最初に購入した「AI YAI YAI」もなかなかCDラックから取り出す機会がない状態だった。

共通性としての危機感

2005年04月22日 | knihovna
アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』(新潮社, 2004年)

昨日の『朝日新聞』夕刊の記事「イラク戦後、漂うムード 「仕方ない」へ広がる疑問 共感を呼ぶ不条理小説」で、『となり町戦争』などと一緒に紹介されていた本。現在、2万部近く売り上げているそうだ。

一時話題になったフランク・パヴロフ『茶色の朝』(大月書店, 2003年)も、『朝日』の記事に無意識的に流れる危機感、つまり無力感が支配するファシズム的状況の到来へのそれに連なる潮流に位置づけられるだろう。

「危機」の喧伝という点では、「右」が言説および行動の双方で「左」を圧倒的に凌駕している現状において、その底流では、現状に対する悲観主義、あるいは否定形/欠如が優位性をもつ思考様式という共通基盤がしっかりと据えられている。

その意味で、しばしば引用されるドイツの神学者マルチン=ニーメラーの以下の言葉に単なる回想以上の意味合いを見出そうとする心理が作用しているのが「左」の思考のプロトタイプといえる。と同時に警句の骨子を簡潔にいえば、「先制行動」という「左」の批判対象であるブッシュ政権の発想であり、深奥において同じ論理を持ちつつも、表層的に対立しあう近親憎悪ともいうべき構造が現在の言論や運動を規定していると理解すべきかもしれない。

ナチスが共産主義者を弾圧した時、
私は不安に駆られたが、
自分は共産主義者でなかったので、
何の行動も起こさなかった。
その次ナチスは社会主義者を弾圧した。
私はさらに不安を感じたが、
自分は社会主義者ではないので、
何の抗議もしなかった。
それからナチスは学生、新聞人、ユダヤ人と
順次弾圧の輪を広げていき、
そのたびに私の不安は増大した。
が、それでも私は行動に出なかった。
ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。
そして私は牧師だった。
だから行動に立ち上がった。
が、その時はすべてが、あまりにも遅かった。

メルアの地政学

2005年04月19日 | nazor
現実の国際社会においてはもちろんのこと、音楽業界でも周辺部に位置づけられるグルジア出身というプロフィールがサバルタン的属性を感じさせることもあって、このところ気になっているのがケイティ・メルア(Katie Melua)である。

ノラ・ジョーンズの系譜を引くという見方が多いようだが、個人的にはシニード・オコナーにも通じる部分があるように思えてならない。

ただ「The Closest Thing to Crazy」を耳にする機会がなぜか朝であることが多いため、そのゆったりとした静かなメロディーは、どうしようもなく覚醒し切れていない頭を再び夢の中に引き込むように作用してしまう。

Katie Melua オフィシャルHP

間主観未満の主観

2005年04月18日 | knihovna
桐野夏生『グロテスク』(文藝春秋, 2003年)

数年前にメディアを賑わした「東電OL殺人事件」を素材とした小説。

ストーリーは、主人公である「わたし」による語りによって展開する。そのため、読者は最初この「わたし」の語りあるいは眼差しを通して、彼女の妹ユリコと、高校時代の同級生和恵が相次いで娼婦とて生き、絞殺されたのか、そのプロセスを追うことになる。つまり「わたし」は、完璧なまでの美貌を持つユリコや、滑稽なまでに高校生活に「同化」しようとする和恵の姿に「グロテスク」を見出し、その印象を読者と共有する方法として、彼女たちの「声」によって語らせる。いわば、「わたし」が抱く主観が作りあげた世界に客観性を付与する行為として、別の主観を織り込みながら、間主観性という名の客観性を構築するプロセスと捉えることができる。

しかし、「わたし」の語りの合間に挿入される、ユリコの「手記」、「犯人」チャンの「上申書」、和恵の「日記」、関係者の手紙などは、「わたし」の語りの客観性を担保するよいうよりもむしろ、それに対して疑念を抱かせる役割を担っている。「わたし」が、ユリコや和恵の「グロテスク」さを強調すればするほど、別言すれば、「異常性」を際立たせることによって、得られるはずの「普通さ」や「正常性」という装いは、「わたし」から剥ぎ取られていく。

間主観性を成立させるべき主観、あるいは事実を補強するための「証言」は、「わたし」の存立基盤そのものを掘り崩してしまい、最終的に、「わたし」もユリコや和恵が立った場所に居場所を見出すことになるエンディングが用意される。ここにおいて、「グロテスク」という形容が「わたし」という語り手をも包摂するものであること、それ以上に「わたし」自身の語りによって構成される小説自体が一種の「グロテスク」性を醸し出していると見ることができるのではないだろうか。

・余談
作中にある「リズミカル体操」の場面を読んでいたとき、そのアンバランスで整合性のない動きという記述から、メロディーとして頭の中に流れてきたのは、安室奈美恵「WANT ME WANT ME」。

介入の論理

2005年04月18日 | hrat
オーナーと監督が対立 楽天お家騒動も(『スポーツニッポン』)
三木谷vs田尾、楽天で内紛勃発?(『日刊スポーツ』)
楽天 オーナーと監督で不協和音(『デイリースポーツ』)
田尾監督、三木谷オーナー亀裂(『スポーツ報知』)

とうとう頼みの岩隈でも勝てなくなり、借金2ケタが目の前に迫っている楽天。となると、浮上してくるのが、責任論になるわけで、早速スポーツ紙が「場外戦」の前兆を報じている。かつての阪神のように、「場外戦」ばかりに注目が集まる球団への一歩となりそうな予感。

「介入」のタイミングによっては、現場の状況を悪化させてしまう結果になることは、国際関係における内戦をめぐる対応とのアナロジーで、理解することもできるし、中央司令部(オーナー)と現地指揮官(監督)の認識のずれが、紛争の長期化や混迷をもたらしかねない。しかも三木谷オーナーの場合、ヴィッセル神戸という前例があるので(「J1神戸・松永監督、クラブ史上最短6試合解任へ」『スポーツニッポン』)、こうした介入は「想定内」であるかもしれない。

1-2地下ステージ

2005年04月14日 | hudbeni
トンガリキッズ「B-DASH」

以前からラジオでちょくちょく耳にしていたが、ようやくフルコーラスで聞くことができた。スーパーマリオをプレイした経験があれば、すぐに思い浮かぶ歌詞と、サンプリングされたメロディは、ノスタルジーを喚起すると同時に、大きなインパクトを与えるに十分なほど。

かつて日本語直訳ロックを掲げた王様の成功を受けて、二匹目のドジョウを狙う形で、女王様や王子様などが次々と現れたが、ファミコンが日常となった世代をターゲットに同じ「企画物」が続く可能性は高いような気がする。

主人と飼い犬

2005年04月13日 | knihovna
「ポスト冷戦」を象徴する内戦やその解決において、国際機関やNGOなどと並んで、重要な主体として民間軍事会社/戦争請負会社が注目されるようになり、その存在や活動はすでに常識となりつつある。

その先行形態として容易に想起されるのが、傭兵や海賊、つまり正当な/公的暴力の行使主体であるところの国家の枠外に在り、競合する私的暴力を行使する主体であろう。フレデリック・フォーサイス『戦争の犬たち』(角川書店)は、プラチナの採掘権を得るために、アフリカの小国ザンガロの独裁政権の転覆を画策する企業に雇われた「傭兵」を扱った作品として古典的な地位を占めている。

転覆作戦当日の描写を最小限にとどめ、そこまでの過程、つまり武器や装備の調達、資金の流れなどを克明に追っていくストーリー展開は、いくつかの山場を作って、読者の関心をつなぎとめるといったありきたりの構成と一線を画する。静かに淡々と、しかし確実に政府転覆というクライマクスへ向かっていく流れによって、簡潔に抑制の効いた描写となった転覆作戦のインパクトが担保されている。またこの手の小説であればメインとなるべき戦闘シーンに「傭兵」をめぐる問題を矮小化させず、戦争を取り巻く政治経済構造というより広範な文脈に位置づける試みゆえに、こうしたストーリー構成となるのはある意味必然であったといえるだろう。

そして「飼い犬に手を噛まれる」という言葉が相応しいエンディングは、THE MAD CAPSULE MARKET'S の曲「家畜」(アルバム「SPEAK!!!!」)の歌詞が描き出す情景と重なり合う。まさに主人の首を喰いちぎるスキが訪れるまで、騙されたフリをし続けたのが主人公キャット・シャノンであり、そこに権力関係の逆転現象を看取することは容易い。言い換えれば、動かないものと定位される強者と弱者の関係に内在する揺さぶりの契機を示唆していると解することができるだろう。

引き裂かれた法王

2005年04月12日 | nazor
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去に端を発する報道は、8日の葬儀をもって沈静化し、次期法王選出会議であるコンクラーベが開催される18日まで、日本のメディアが大々的に取り上げるべき法王関連のネタもない状態に続くと思われる中、ここで、ローマ法王に纏わる私的な記憶を整理してみようと思い立つ。

ローマ法王という単語からもたらされる情景は、人それぞれであろう。カトリック信者ならば宗教的ものが想起されるだろうし、あるいは、これまでの報道でさんざん言及されてきたように、ポーランドをはじめとする東欧諸国の民主化における役割やイラク戦争前の平和解決の主唱といった法王の国際政治上の活動をめぐるものもあるだろう。法王死去をめぐる報道においても、「平和の使者」という側面と同時に、その「保守性」も指摘されていたが、日本においては、どちらかといえば前者に報道の力点が置かれていた印象が強い。これには、宗教の影響がそれほど強くない日本という環境が作用していることは確かだろうが、国内政治でも国際政治でも宗教をめぐる問題が重要性を増している現代にあって、法王の死は、あらためてこの問題を問う機会を提供してくれる。

それ以上に個人的な記憶に刻まれているのは、破り捨てられた写真の法王である。当時それなりに物議をかもし出したこの事件は、1992年、テレビ中継された「サタデーナイトライブ」で、シニード・オコナーによって敢行された。その2週間後、ボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートで、観客の大ブーイングに遭い、ボブ・マーリーの「WAR」をアカペラで歌うだけしか許されなかったという結末をもって「事件」は構成されている。カトリックが多数を占めるアイルランド出身のオコナーが、中絶を断固拒否する法王の姿勢に対するプロテストとして、こうした行動に出たとされる。

オコナーによって引き裂かれた写真が暗に示唆するのは、ローマ法王という存在が常に二律背反的なものでしかありえないということ。あるいはばらばらになった写真の法王こそが真の姿であり、オコナーの行動はその統一性を壊してしまうものであったから、衝撃を持ったともいえるだろう。報道でよく耳にした「寛容」の精神がもつ限界、あるいは普遍主義を標榜するキリスト教という特殊性に対する内部告発的な意味合いを看取することはそれほど的外れではないだろう。

そしてこの行為が、既存の境界線を破壊することを天職としているかのような人物、シニード・オコナーによってなされたことも注目を引く。スキンヘッドという容貌は、容易にジェンダー秩序を転覆する表象と捉えることができるだろうし、レズビアンというカミングアウトはセクシャリティの壁を崩すものであろう。いわば破壊者であるオコナーの標的となったのが、カトリックの頂点に立ち、「保守性」を体現するローマ法王であったことは単なる偶発性以上の意味を持っていると思われる。オコナーという攪乱要因を介在させることで、ローマ法王の存在およびその死は、異なる印象を浮かび上がらせるのではないだろうか。

しばらく音沙汰がなかったシニード・オコナーが、2000年にアルバム「Faith & Courage」を発表したとき、そのライナーノートには、現在カトリックの司祭であると書かれてあった。「転向」ともいえるこの行動は、境界線を破壊することがそのアイデンティティーの一部であるオコナーを象徴するものともいえる。

魅惑の abjection

2005年04月10日 | nazor
産経社説 「封殺」の意味をご存じか (『朝日新聞』4月10日)

『朝日』はまだ「対決」を続けたいようだ。幾分被害妄想気味な論拠に、知識をひけらかす啓蒙主義的/植民地主義的ポジショナリティを織り合わせた論旨で、『産経』としても突っ込みどころ満載の内容になっている印象。

日本政府が、中韓両政府に対し、「冷静に対応を」と呼びかけるその姿勢にも、大人である日本と子供のような我儘を通そうとする中韓という、社会レベルにおける親子関係、国際関係における宗主国と植民地の関係にも通じるものがあるように思われるが、『朝日』と『産経』にも同様の関係性が暗に築かれているのかもしれない。そのメンタリティにおいて、中韓で反日を叫ぶ人々と『産経』のそれは同一線上にある、等号で結ばれる関係と捉えることもできるだろう。

いってみれば、『産経』が忌み嫌うところの中韓と同じ立場に位置づけられるというパラドクスがそこにある。『産経』にとって棄却すべきもの(アブジェクション)が、逆に『産経』を魅了し、言及せざるを得なくし、さらには同じような振る舞いをとってしまうというなんとも皮肉な状況が生じているといえる。

そのようなメンタリティを持つ者に対し、大人の/啓蒙的な視点から諭そうとしたところで、反発が収まるはずもないことを理解できないのは、日本そして『朝日』もいまだ植民地主義的感覚の中で物事を見ている証左であるという印象を持ちたくなる。

恒例行事

2005年04月09日 | nazor
先の教科書検定を受けて、『朝日』と『産経』が予想通り社説で「対決」。議論のかみ合わない構図はいつものことで、相互に応答していながら、内輪だけに通じるロジックに基づく、実のところ対話ではなく独話の域を出ていない感じ。

もし「サヨク的なるもの」を叩きたいならば。『朝日』よりも『毎日』に標準を定めるべきだと思うのだが、そうならないのは『産経』が潜在的に抱く「朝日コンプレクス」ともいうべきメンタリティの根深さに起因するかもしれない。

ともかく、順番でいくと、次は『朝日』の応答になるが、この「対決」を続けるか、それとも言いたいことは言ったので過去のことにしてしまうか、まあどちらにしても『産経』はこの論争から降りるつもりはないだろうから、『朝日』が『産経』に応答した時点で、その基調において『産経』の土俵で相撲をとることになったともいえる。その意味で、もし「対決」と捉えれば、『朝日』がどんなに「正当な」ことを主張しているとしても、「勝ち」を得るという結末は排除されているのであろう。

「つくる会」 こんな教科書でいいのか(『朝日新聞』4月6日)
教科書問題 驚かされた朝日新聞社説(『産経新聞』4月7日)
産経社説 こちらこそ驚いた (『朝日新聞』4月8日)
朝日社説 本質そらしてはいけない(『産経新聞』4月9日)

起源なき脚注

2005年04月07日 | nazor
今日の『朝日新聞』にあったオレンジレンジの「元ネタ論議」をめぐる記事。最初、「パクリ告発」的な論旨かという予断を持って読んでいくと、オリジナルなものを求める心理に焦点が当たっている内容。

この記事には、『そして誰もいなくなった』の読後感と共鳴するものがあったので、以下その印象をまとめてみたい。

『そして誰もいなくなった』において、孤島に集められた10人それぞれが、犯罪を告発される。動揺が支配する中、その一人が倒れ、死亡する。この場面に遭遇したとき覚えた既読感は、「ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer」のそれだった。もちろん、「ケイゾク」が『そして誰もいなくなった』を元ネタにしたわけで、一種の製作者の「遊び」であり、気がついた人は、ストーリーとは別の楽しみを見つけることになる。

さて「オリジナル」と「コピー」の関係を考えたとき、次の2つの見方が成立する。一方で、「オリジナル→コピー」という、元ネタを前提とした見方で、いわば順序的には「正しい」流れである。他方で「コピー→オリジナル」という逆の時間軸に沿った見方があり、遡及的な論理といえるだろう。

しかし、実際の時間軸において常にオリジナルがコピーに先行するとしても、あるいはそうだからこそ、遭遇するものが常にオリジナルであるとは限らない。言い換えれば、オリジナルよりも先に、そのコピーを目にして、遡及的にオリジナルを発見する過程のほうがより一般的だろう。

そして「コピー→オリジナル」という見方が一般的であることは、オリジナルに希少価値性を見出し、またはその特権化を進める要因として作用するのではないだろうか。「西欧哲学はプラトン哲学の脚注に過ぎない」というホワイトヘッドの言葉に倣えば、脚注にすぎないものがもてはやされる状況に対する違和感が、オリジナルの探求へと駆り立てる。ここで前提となるのが、コピーに対するオリジナルの優位性であることは明らかであろう。つまりオリジナルが優れていることを先験的に措定してはじめて、コピーのパクリ度合いや異同を判断し、評価できる。

このように、脚注というありふれたものに対して、唯一無二であるところのオリジナルを対置することによって、オリジナルとコピーの関係性が担保される。米国における通称ミッキーマウス法をめぐる議論において明らかなように、これは所有権、とくに著作権という考えの底流にあるものとも言え、いわゆる「知の囲い込み」と呼ばれる近年の潮流は、オリジナルの権威を高めるように作用している。

しかし、オリジナルやその特権性自体に目を向ける必要があるのではないだろうか。別の言い方をするならば、無数のコピーからオリジナルを規定するものを発見し、抽出する過程において、そもそもオリジナルが先行的に存在するものではないこと、またはコピーの存在によってオリジナルの存在も規定されていることを考慮するならば、オリジナルも脚注のひとつに過ぎないとさえいえるかもしれない。

そうであるとすれば、起源を渇望する欲求や、それが作り出す起源の不可視化を解体すること、あるいはオリジナルとコピーをめぐる神話を、一歩退いたところから、見直してみることで、浮かび上がってくる問題があるだろう。

こうして、「オリジナルはこれだ」という言明から遂行的に構築される関係性までを射程に入れたとき、いわゆる水掛け論に終始する「パクリ」疑惑をめぐる論争を解消する道筋が見えてくるのではないだろうか。

コンティンジェンシーの自然化

2005年04月05日 | knihovna
『オイディプス症候群』を読了。865ページを読みきるのに、2日を費やすことになった。

無関係なものに何らかの因果関係を見出そうとする思考。あるいは、偶発的な出来事に必然性という網をかける思考。それが物事を複雑化し、いっそうの混乱を招く。ナディアの推理を追いかけることで、読者もこの陥穽に引きずられ、最後に駆の現象学的本質直観による解明で溜飲を下げる。乱暴にまとめれば、これが基本的な軸といえるかもしれない。

ところで、本作に流れるのがフーコーの思想であることは明らかだったので、どうしてもフーコーをモデルにしたタジールの行動に注意が向いてしまう。しかし、結局のところ、タジールあるいはその思想が物語の中心かというと、そうでもない読後感を抱いた。

それよりも舞台設定の背後にあるギリシャ神話をめぐる関係性が重要だと感じた。タイトルからして、ソポクレスの『オイディプス王』がモティーフのひとつだということが容易に察しがつくが、それを読んだことがあっても、古代ギリシャにおけるその位置づけが欠落していると、『オイディプス王』というテクストが孤立化し、コンテクストを理解できない構成になっている感じ。

作中でも言及されていたように、孤島という密室に閉じ込められた登場人物たちが次々と殺されていく舞台設定は、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』を連想させる。ということで、今まで読んだことがあるのが『ABC殺人事件』と『オリエント急行殺人事件』の2作だけであるクリスティーの世界に足を踏み入れる予定。

ダイダロスの館

2005年04月03日 | knihovna
笠井潔『オイディプス症候群』(光文社, 2002年)

『硝子のハンマー』を読んだことに触発されて、ミステリー物を求めていたところ、笠井潔の「矢吹駆」シリーズを思い出す。

本来ならば、小説世界の時系列に沿って、『バイバイ、エンジェル』から読み始めたいのだが、すでにこのシリーズの第2作である『サマー・アポカリプス』を読了済みで、そんなルールなど無意味化しているので、現在のところの最新作である『オイディプス症候群』を手に取る。

現在、第3章「ミノタウロスの神像」まで読み進めた。ようやく小説の舞台である牛首島(ミノタウロス島)にあるダイダロス館に、主要登場人物たちが揃ったところ。

20世紀の代表的思想家をモデルにした人物と矢吹駆の現象学的推理がこのシリーズの「売り」。『サマー・アポカリプス』の場合は、ヴェイユだそうだが、ヴェイユの著作はもちろんのこと、解説書や入門書なども読んだことがなかったので、いまいちピンとこなかったが、今回の『オイディプス症候群』で登場するフーコーについては、『監獄の誕生』や『性の歴史』で展開されている議論を曲がりなりにも聞きかじっているので、入りやすい。

ロクセンビル

2005年04月01日 | knihovna
貴志祐介『硝子のハンマー』(角川書店, 2004年)

刊行からほぼ1年経った今日になって、ようやく図書館で借りる。すでに書評などで、2部構成に分かれるストーリーの大枠や「密室」が鍵であることを織り込み済みで、読み進めたので、謎解きに至る伏線の一端がなんとなく見当がついてしまったが、それでも一気に読ませるストーリーだった。

いくつか印象を箇条書き風に列挙すると、弁護士・青砥純子と「防犯コンサルタント」榎本径が、さまざまな可能性を推理し、解決の糸口が見え始めたと思ったら、根本的なところで行き詰まるというパターンが、なんとなく中井英夫の『虚無への供物』(講談社)における奈々村久生たちの推理合戦を想起させた。

介護サルの登場で、否応なく『天使の囀り』を連想してしまい、重要な鍵を握っているのかと思わせる。これは貴志作品の既読者に対するある種のフロックとして機能しているかもしれない。

どうも殺害方法の描写がすっきりしないとうか、十分にその光景が浮かんでこなかった。過去の作品と同様、博学的な情報量は圧倒的だが、どうも一気に読み切る形では、消化不良を引き起こしてしまうのだろう。しかもミステリーになると、なかなかすぐに再読しようという気が起きにくい。