constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

追憶の(論壇)現実主義

2009年05月16日 | nazor
戦後日本の、とくに外交安全保障政策に関する公論形成に大きな役割を果たしてきた論壇の衰退が叫ばれて久しい。国際的な冷戦構造の解体と連動する形で、いわゆる「国内冷戦」としての55年体制も溶解した1990年代以降、広く国民一般に浸透し、議論を喚起するような言説を紡ぎだす努力が等閑にされ、自らの思想・信条とは相容れない意見に耳を傾ける姿勢に欠け、むしろそうした異論を徹底的に排除するような形の言語ゲームが展開されている。とくに左派・革新派の退潮が言論においても実際の政治においても顕著となり、論壇空間の重心が右寄りにシフトしたことによって、右派・保守派言説のヘゲモニーが確立されたといえるかもしれない。

しかし論争相手を失ったことは、右派・保守派内部での言説の細胞分裂をもたらし、善悪の二項対立に基づく冷戦思考を極限まで純化させたような観念主義やロマン主義に彩られた言説が一定の支持を得るようになっている。この右派・保守派言説の観念論的転回ともいうべき現象は、右派・保守派の論壇誌のうちで相対的に地に足の着いた議論を提供してきた『諸君!』の休刊や、戦後の論壇現実主義の担い手であった永井陽之助や神谷不二といった論者たちの(肉体的)退場などによっても強く印象付けられる。またいわゆる「田母神論文問題」において文民統制の観点から批判した五百旗頭真・防衛大学校校長に対して、一部の防衛大学校OBを中心に抗議や非難の声が挙がっていることも、従来の右派・保守派についての感覚に照らしてみたとき、高坂正堯や永井といった現実主義の系譜に連なる五百旗頭に対する非難は、きわめて奇異な現象である。

こうした右派・保守派の言論空間の変容(あるいは硬直化)に対して、五百旗頭と同じく戦後の(論壇)現実主義の伝統に連なる村田晃嗣も懸念を表明し、「保守」が「現実主義」との接点を保つことによって、狭量さや硬直化に陥ることを回避すべきだと説く(「正論:保守は現実主義を取り入れよ」『産経新聞』2009年5月14日)。村田の懸念は何も今日的な現象ではない。1960年代半ば、永井は、いくぶん毒を含ませて観念的保守派に対する皮肉を(憲法改正に関連付けて)述べている。すなわち「『安全』のために『独立』を放棄した保守政権に、憲法改正のイニシアチブをとる、何らの権利もない。…。ともかく、自民党が現行憲法の改正を云々するのは、戦後20年の業績を自ら否定し去るようなものである。保守勢力は"反動"から脱して、真に保守らしく、現憲法(戦後体制)を保守する側に回るのがスジである」、あるいは「自民党は、『憲法改正』という党の綱領を改め、保守政党らしく、現憲法の遵守(戦後体制保守)を明確化し、平和と民主主義の精神に徹すべきである」(『平和の代償』中央公論社, 1967年: 165、186-187頁)。

それでは、村田が引用する高坂や永井らの現実主義とはいかなるものなのだろうか。別の論考で村田は、戦後の(論壇)現実主義の展開を揺籃期・爛熟期・拡散期に三区分したうえで、爛熟期の特徴として「学問としてのリアリズムと政策としてのそれの中間に、両者を架橋する形で論壇『現実主義』が大きく介在した点」を指摘する(「リアリズム――その日本的特徴」日本国際政治学会編『日本の国際政治学(1)学としての国際政治』有斐閣, 2009年: 43頁)。そして論壇現実主義を牽引した論者たちに共通する点として、言論におけるドグマ・イデオロギー性の弱さ、アメリカ経験、冷戦終焉までにわたる活動期間の長さ、活動場所としての論壇、そして現実政策への関与という5点を、また現実主義(的思考)が1960年代に入って台頭してきた要因については、冷戦構造の所与性、日本の大国化、アメリカとの同盟関係の管理の必要性、そして世論の保守化傾向を挙げる(48-49頁)。

たしかに(論壇)現実主義は、まさにその時々の国際政治情勢を背景にして論壇という場で、多くが評論という形式で提示された点で、すぐれて文脈依存的であり、議論や説明が不十分な面も否めない。言い換えれば、(論壇)現実主義は、あくまで冷戦リアリズムの一種であり、それゆえに時代拘束性を免れることはできず、村田が挙げる共通点や台頭要因を規定した条件が失われたとき、(論壇)現実主義はその内実を刷新することを余儀なくされる。しかし、そうした条件を所与として展開してきた(論壇)現実主義は、ポスト冷戦期(あるいは村田の区分で言えば拡散期)に入り、自己変革の契機を十分に捉えることができなかったのではないだろうか。

高坂が提起し、永井が昇華・定式化させた「吉田ドクトリン」という(論壇)現実主義第一世代の遺産は、日米安保の再定義などを経て、外交政策上の変更できない不可侵の原理になっていった。日米同盟の神聖不可侵化の帰結は、第一に、外交政策上の争点とはなりえなくなったことを意味すると同時に、具体的な同盟政策の内実よりも、親米か反米かあるい親日か反日かといった観念や象徴レベルに論争の舞台が移行し、冷戦期以上にイデオロギー的様相を呈するようになる。それにともなって現実主義の意味内容も「力の政治」や軍事力の効用を強調する、単純で分かりやすいものの、政策的な構想や処方箋としては無内容に等しい、いわゆる「タブロイド・リアリズム」と化していく。それは、田母神論文がアメリカの(公式)歴史観を否定してみせたように、すくなくともアメリカとの同盟関係を軸に据えた戦後の(論壇)現実主義が整備した枠組みとは相容れない意味で、似非現実主義と呼ぶべき世界観である。

第二に、日米同盟が与件となったことによって、イラク戦争の開戦理由をめぐって村田をはじめとする現実主義第二世代の展開した議論に典型的に現れたように、現実主義が限りなく現実追随主義に傾斜していくという陥穽である。それはまた、対米協力を具体的な形で可視化する方策として、軍事的な貢献が強調されることに見られるように、同盟関係における軍事の論理が優位していく。永井の図式で言うところの政治的現実主義に対する軍事的現実主義の優位であり、そこから単純で素朴な「力の政治」を教条化する似非現実主義までの距離はそう遠くない。高坂や永井ら第一世代が有していた、きわめて冷厳で柔軟な同盟政策観に触れたとき、現実追随主義の位相はいっそう際立つ。第一世代にとって「選択」の問題であった日米同盟は、第二世代には「運命」と捉えられ、あるいは高坂の表現を借りれば(『海洋国家日本の構想』中央公論新社, 2008年: 25頁)、手段としての同盟から目的としての同盟へと「手段-目的」関係が反転している。その結果、「運命」と認識するがゆえに同盟の解消をも考慮に入れた外交構想が提示できない思考停止状況が生まれ、「日本本土の米軍基地はすべて引き上げてもらう」(高坂: 243頁)や、「緊張緩和のテンポに応じて、日米安保体制を、しだいに有事駐留の方向に変えていく」(永井: 130頁)といった同盟を相対化する視点は、それこそ「非現実的」として先験的に退けられてしまう。

一方における現実追随主義と、他方における現実主義のタブロイド化によって挟撃されている状況、それが1990年代以降の(論壇)現実主義の軌跡の先に現出したものであった。タブロイド化した似非現実主義を憂い、慎慮に基づく現実主義の復権を志向する態度が、硬直化した公論空間に対する一種の解毒剤として機能する期待から出てくるものであるとすれば、それはあくまで対抗言説の領野に止まらざるをえない。高坂や永井の議論を対置するだけで満足しては、なぜ第二世代の論者たちが現実追随主義の陥穽に嵌りがちなのかを理解できない。第一世代の議論の中身にまで立ち入って、日本型現実主義の特質や問題点を明らかにする作業が必要とされる。さらにいえば、村田が叙述するような日本における現実主義(思考)の「正史」では捨象された現実主義の多声性に目を向けることができるし、それこそが現実主義の再評価に値する試みであろう。
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