羽田飛行場を飛び立ったのが、5月2日(日)大安吉日なので、ミュンヘン到着が10月30日(土)友引なので、
思えば、実に半年間を要したのである。 その間、転倒事故はじめ色々な事にであったが、
ラッキーなことにその何れも大事にならず、こうして無事に西ドイツにたどり着いたのである。
そこで早速、ミュンヘンのユースホステルを探し、泊まった。
そこには、この旅行ではじめて目にするほどの大勢の日本人がいた。
その中には仕事を探している者も多かったが、ほとんどの場合がダメだった。
ただ、ユースホステルの受付けに一人の日本人男性がいた。
彼は英語の他にドイツ語も堪能。 それでこの職に就いているのだ。
翌日、早速、住民登録に市役所に出向くが、ドイツ語が不自由とのことで、却下された。
これは弱った。 これがないとバイクを登録できないので、当てにしていたカルネの保証金が
帰ってこないのだ。
そこで、知り合ったばかりの先のユースホステルの受付の日本人の彼に
厚かましくも、仕事探しを頼んでみたのだ。
「瓢箪から駒」という言葉もあるではないか。
彼の方でも、僕のオートバイに興味を持っていたので、すぐに、親しくなれたのも幸いした。
翌日は暇だったので、ドイツ博物館、イギリス庭園、絵画館などに行く。
とくに、そのなかで郊外のダッハオ、Dahhaoは圧巻だった。
Dahhao、
ドイツに来るまでダッハオについては、恥ずかしいながら、まるっきり知らなかったが、
ここがあのナチス・ドイツによりポーランドのユダヤ人強制収容所アウシュヴィッツに先立って作られた
、一番初めのユダヤ人強制収容所だったとのことである。
僕がそこを訪れた時はどうしたことか、他に訪れる人が少なく、年配の管理人(男性)が、出迎えて
くれ、所内をアチコチ巡りながら、説明してくれた。しゃしん
実際に目にするそれらは、想像以上の悲惨なものや、事ばかりで、人間は極限に到れば、ここまで、
悪魔的のことを平気でできるということを物語っている。
この事は我々日常生活においても、起こり得る可能性があるということ示してると思った。
そんなことを教えてくれたダッハオの強制収容所だった。
それにしても、衝撃的な体験だった。 生涯忘れそうにない。
次回に続く!
Dachauの写真はあまりにも衝撃的だったため、カメラを取り出す事さえ忘れた。
その他の写真があっても良さそうだが、ギリシャ以来、カメラを取り出すこと
さえ、忘れている。 一応、ミュンヘンでは街見学をしたとはいえ、この旅行の
本来の目的であるドイツ語語学校に入学しないことには落ち着かない。
そんなこともあって、カメラは相変わらず、バイクのサイドバックの底に
眠ったまま、取り出されることはなかった。