オートバイで行くインド・アフガニスタンの旅

写真やイラストつきのオートバイ旅行記

no.129  あとがき

2018-12-05 09:45:09 | オートバイ旅行記



 


  今回の、この「オートバイで行くインド、アフガニスタンの旅」を読み返してみて感じることは、
  この手の旅をするには、① ラッキーなことに、実にいい時代だった。 ということと、もう一つは
  
  ➁ 旅は一人でするに限るということである。 この二つのことを強く感じたことである。

   
   ① についていえば、旅の道中出会う人々がまだ素朴であり、道路にもクルマは少なく、安心して走れた。
     そう言いながらも、インドをはじめ数度の事故を起こしたが。 
     今の時代は、そうも行くまい。 だから余計そう感じるのである。
  
   
   ➁ については、このバイク旅のように、こちらが一人だったからこそ、いろいろと「もてなし」を受けたし、
     その家にも泊めていただくことも多かった。 同行するメンバーが多いと、そういう訳にはいかない。
     泊めてもらうメリットはホテル代が浮くということばかりでなく、その家を覗けるということもある。


    それにより、普通の旅行では、窺がえ知れないその国の実情などを知る機会が得られる。
    その上、より親密な関係を得られることも多い。


    ということで、僕は特に「旅は一人ですべし」の信奉者になった。
    皆さんもどうですか?  それに一人旅には行動の自由もあるし、寂しくなったら、一時の相棒を
    求めることもできる。
    
    それから、もう一つ最近思うのは、今はバイクに乗らないが、バイク誌の方は相変わらずのファンなので、

    つい本屋に寄り、いろいろなバイク誌を立ち読みしてしまうのだが、


    不思議なことに、国内のツーリングの記事は多いのだが、海外ツーリングとなると、全くと言っていいほど、
    見当たらない。 パソコンを開くとごく少ないとはいえ、見かける。 これは寂しい。
    

     今は、オートバイが満ち溢れている。 いろんなタイプ、排気量も小さいものから、1000㏄以上もある
    大きなものまで選び放題である。 そういう時代だから、日曜日など我が家の前の国道など、時には一つの
    グループで、多い時は50台ぐらいが連ねてやって来る。 それも大型車ばかりだから驚く。
     
    なかには、ハーレーダビッドソンを連ねてやって来るのもけっこういるから驚かさる。
    こういう連中は総じて年配者だ。 それにしても、日本も豊かになったものである。 

    そういう時、ブログなどを見ると、この僕ものもそうだが、時々は載っている。 それは残念だが、
    そういう皆さんのを拝見すると、国内旅行では得られない実に様々な体験をしている。
    それが読み応えがあり、おもしろい。 
    

    若者よ! もっとガンバレ! 
    もっと外へ出よ! と言いたい。

    バイクの旅はキツイこともあるし、金が掛かることも確かであろう。
    でもそれにも増して得るものは多い。 旅の醍醐味を味わえるチャンスも多いはずである。
    加曾利隆さんの「世界を駆けるゾ!」を読んで見るとよく分かるだろう。

     
   

     次号に続く!






   


    
      

no.128 エドガーの伯父さん宅に当分の間お世話に

2018-11-06 18:29:00 | オートバイ旅行記

 こうしてエドガーの伯父さん宅に世話になることになり、先ずは一安心する。
伯父さんの家は当時の西ドイツの郊外住宅地にあり、そういう所に多く建つ、
合掌旨屋根の典型的な二階建て住宅で、地下室がボイラー室とエドガーの部屋になっており、
その部屋には、客用にもう一つ予備のベッドがあるので、ちょうどそれを僕が使わせてもらった。

 そして1,2階が伯父さん夫婦の家、それに屋根裏部屋が新婚さんのいとこ、というふうに、
一軒の家をそれぞれで住み分けている。


 この屋には伯父さんの一人息子がいるのだが、今は病気療養、入院中なので、本来ならば
地下室はこの息子さんの部屋なのだが、その空き部屋にエドガーが収まったわけである。

そしてその恩恵に、この僕も預かっているわけである。


  そういうわけで、早速フィッシャー夫妻とエドガーに僕が報告方々、息子さんのPetterを
汽車に乗って1時間あまりの病院に見舞いに行く。

そしてPetterの了解を得て、無事落ち着つき先が決まったので今度はとりあえず職探しと思ったら、
都合のいいことに、エドガーの勤め先で、運転助手を募集しているとのことで、臨時だが、
使ってもらえることになった。

 最初の仕事は事務所の引っ越しで、地図や本などを4階まで、運び上げるのだが、これがエレベーター
ではなく、階段を徒歩で上って行くのだから、大変だ。
  

 文句を言いたいところだが、ワーパミ無しでやっているのだから、文句も言えない。
でも金が確実に入るというのは、何としても嬉しい。 
これで当分の間の余裕ができた。


 エドガーには大いに感謝すべきである。
インドのカシミールでの偶然の出会いがなかったら、ここでのこともなく、もっと苦労したろう。

 ところで屋根裏部屋に居を構える「いとこの結婚式」ということでこの屋の皆して、
そのお祝いにお呼ばれした。


 ここでは関係者が皆、一堂に介して祝うという規模の大きなものでなく、
ごく身近な家族が気楽に祝うというものである。

 そういうものだから、内容はドイツ人らしく、ごく慎ましやかなものであった。


 ワインに安い丸パン、それにピーマンと肉の串刺しの焼肉、あとはモツの鍋だけといった
まさに質素なものであった。 

 それで、理解できたのだが、いつぞや僕が外から帰って来た時、お父さんが、玄関前の
土間に座って、表面の可皮が真っ黒になり、中の実がグニャグニャになった、普通なら
棄ててしまうようなバナナを美味しそうにというか、捨るのがもったいないというのか、
とにかくまんざらでもない顔して食べているのを思い出したのだ。

 戦後の名残りがこういうところにまだ見られるのかどうかは分からないが、
僕にとっては、そう思えても不思議でない光景だった。



 という塩梅で、とりあえず語学校入学の一件を除けば、これでひとまずドイツに
落ち着区という目的を果たしたので、こ「のホンダのナナハンによる旅物語がたり」は
終わりにする。


 ここまでお読みくださった愛読者の皆様には、拙い文章にお付き合い下さり感謝申し上げます。

 それでは、皆さん、さようなら!

 またどこかで、お会いしましょう!


 

 旅には良いことがある。

 

 

  


 

 


 

no.127 フランクフルトでエドガーに再会

2018-11-01 17:42:37 | オートバイ旅行記



  翌日の朝、目が覚めたら、すごく静かなのでカーテンを空けたら小雪模様の天気だった。

  エドガーの家には夕方に来るように言われたので、それまで、どう時間をつぶそうか? と、
  思ったが、この空模様では外に出る気もしない。

  そこで、ふと気が付いたのが日本から持参した「都はるみ」などのカセットテープを
  久し振りに聴くことだった。 インド以来、持っていることすら忘れていた。

  もともと、好きな曲ばかり、持って来たのだから、当たり前だが同じ曲を繰り返し、繰り返し
  何度も聞き惚れた。 やっぱり日本語はいい、心から酔える。
            
  そんな風にして時間を過ごすうちに、いつの間にか、夕方近くになり、もうそろそろと思い、
  空も小やみになったこともあり、エドガーの家に向かった。


  エドガーの家に着くと、エドガーはいなかったものの、3階の眼っかちの背の高いおばあさんが
  出て来て、親切にもコーヒーを入れてくれ、それとリンゴもだしてくれた。

  そのおばあさんは子供変わりに小鳥を2羽飼っており、いろいろ話かける。
  そのうちにエドガーの母リディア・フロリーが帰ってきた。

  先ずは挨拶の後、僕がこちらのお宅を訪ねた経緯を話す。

  

  そして、彼女の話では、息子と自分はカナダに移住していたが、西ドイツの故郷のHofに
  帰ることになり、彼女はエドガーに先立ち帰り、エドガーの方は日本はじめインドなどを巡って
  帰ってきたのだが、

  ここHofでは、、仕事が見つからず、それで、今はフランクフルトの伯父の家に下宿して
  そこで職を得ているので、そちらにいる。 とのことであった。

  そこで早速、電話をしてくれた。
  
  電話を替わると、まごうことなき、それは懐かしいエドガーの声だった。

  そうして、とりあえず、こちらはその伯父さんの家のあるフランクフルトに行くことになった。

  その夜はリディアの家で、夕食のご馳走にあずかり、そして再びユースホステルに帰ったのだった。
  
  ユースホステルに帰ると、ホールクスワーゲンのヴァン車が停まっており、男二人のカナダ人だった。
  これから南に行くとのことであった。


  
  翌日の朝起きると雪だったので、フランクフルト行きは諦め、12時ごろ再び、フロリーの家に行き、
  昼食をいただく。

  その後、博物館などに行く。
  それから、雪の中をほっき歩く。行きはJHのおばさんが、車で送ってくれて、帰りはバスで(50円)
   7時に再び、リディア宅を再び訪れ、夕飯をごちそうになる。


  翌日はフランクフルトめざしてアウトバーンを行くが、
  生憎と天気はますます悪くなる一方で、雪もひどく、走っているのがきついので、引き返すことにした。

  翌朝も同じ様などんよりとした空だったが、フランクフルトに近づくにつれ、それまでの天気が
  信じられないほどの青空になった。
  
  フランクフルト・アム・マインの伯父さんの家に着いたのは、夜遅くになったが、何はともあれ、
  無事に着け、フロりーとの再会を喜んだ。
  そして、その夜は伯父宅に泊めてもらう。
  
   翌日は金曜日でフロリーは休みなので、午前中はフロリーが日本で世話になった人に出す手紙の
  代筆や日本から来た手紙の翻訳をする。

  午後からは、街見学に出かける。 夜はHof宛てにきていた手紙を受け取り、また、エドガーの母より
  そのことで電話を受け取る。 誰から来ているのかな? と気になったら、インドのカシミールの
  kanwal Singh とcharran Singh の二人からだった。 

  それからトルコのErdar からも来ていて、たいへん懐かしく、早速返事を書いた。

  こうして僕はエドガーの下宿先の叔父の家に厄介になった。


  
  次回に続く!


  




 適当な写真が無いので、こんなバイクで遥々(はるばる)日本から遠路ここ西ドイツまでやって来ました。
 という、慰めです。 この文章はオートバイによる旅での話しであることを思いだして・・・。







  


 



  



 

 no. 126 ミュンヘンの名所、 ホフブロイ

2018-09-30 11:40:16 | オートバイ旅行記



 
 ミュンヘンに来てホフブロイへ行かない人は、先ずはいないだろう。
 それほど世界のビール党垂涎の場所だ。
ミュンヘンの名を知らなくてもホフブロイの名を知る愛好者は多いに違いない。

 僕はアルコール類はダメな方なのだが、それでも話のタネにミュンヘンに来た以上
 ぜひ、行ってみたい。 というわけで、翌日早速行ってみた。

 噂にたがわず、建物の内外といい、早くからビールを楽しもうという人達で、すでに
 溢れかえっていた。

 建物の内にはレストランもあるみたいだが、僕は野外の年季の入った長い木製テーブルに
 席を取った。 というよりは、既にそこに陣取っていたほろ酔い加減の客に強引に
 手を引っ張らっれたのだった。
 周りは既に出来上がっている人々で、席に座ると早くも彼らの仲間に、それと
 同時に、ジョッキを抱えたウエター、ウエイトレスが先ほどからそこにいたかのように
 さーっとジョッキを差し出す。 その早業は見ていて気持ちがいい。


 それと欠かせないのが、何と言ってもおつまみのソーセージだ。
 ドイツ語では  
 ブルストというが、特にバイスブルストという日本でふつうの魚肉ソーセージぐらいの
 大きさのその名のとおり白い色のソーセージである。
 ビールのジョッキと共に、そうしたおつまみもさっと神のごとく出てきて、早くも僕も仲間に。


 僕が座ったテーブルの建物側にはバが陣取り、盛り上がる。
 こうしてあっという間に時間は過ぎ去り、気が付いたら、ユースホステルに
 帰っていったのだった。

 こういったこともあって、僕はすっかりソーセージ党になり、とくに昼は
 彼らのようにホットドックとビールの小瓶で済ますことが多くなった。


 ところで、ドイツのユースはその発祥の地だけあって、規則が厳格で、
 3日間以上泊まることができない。

 それで近くのPullachユースホステルに移った。 2.2DM/泊



  
 しかし、そうものんびりしていられない。

 ただでさえ、西ドイツは物価が高く、手持ちの金が、羽がはえたようにどんどん減っていく。
 その上、ミュンヘン・オリンピックを控えて景気がさらに良いため、物価の上昇も厳しく、
 それもこたえる。 


 そういうこともあって、知り合ったばかりだが、厚かましくもオランダ人の旅行者仲間にも
 相談する。 そして一緒に中華食堂などに出向くが、生憎どこも既に先達がいて、空振りに
 終わった。 このオランダ人は自国語の他に英語、ドイツ語など、語学に堪能で、
 どこに行っても、困らないようだ。
 その彼が言うにはオランダなら、ノーパミ(労働許可書)でも、すぐに仕事が見つかると
 のことである。





 そこで、とりあえず、インドのカシミールで仲良くなったエドガー・フロリーの家を訪ねることにした。
 もともとドイツに着いたら、一番に訪ねて来るように、言われていたので丁度いい、
 彼に会ってそして相談してみようと思いたった。

 エドガーの家は東ドイツに近いHofという町で、歴史のあるそのあたりの
 中心地のようである。 ミュンヘンからもそう遠くでなさそうである。

 ミュンヘンよりアウトバーンを行く。 途中より雨になり、それがみぞれに変わり、とても寒い。
 
 エドガーの家を訪ねると、2階の住人が下りてきて、彼はフランクフルトに
 行っているから今はいないと言い、明日の夕方に来るようにと言う。

 幸いにもエドガーの家よりさほど遠くないところに、ユースホステルがあり、
 そこに泊まったのだが、その途中にスーパーマーケットがあったので、
 食料でも仕入れようと立ち寄った。 そこで、2リッター入りのコーラやスプライトを初めて見た。 
 珍しいので、つい、その両方を買ってしまった。

 そしてユ-スホステルに着くが、そこはガランとしていてまるで人気がない。
 やっているのかどうか、心配になったのでエントランスに入り大声でスんでみた。
  
 そしたら奥から中年の女性が出てきて、今日は誰も泊まっていないという。

 それで、今夜泊まりたいが、と言うとOKだという。

 いくら天気が悪いと言っても結構広さのある部屋に一人だけというのも寂しい。
 窓から外を見ると相変わらず雨が音もなく降っている。 それがさびしさを一層かき立てる。
 通りの名がベートーベン通りとある。


 次回に続く!

 Hofのユースホステルを撮った写真が残っていたのだが、見つからない。
 残念だ。
 


代わりに日本出発前の自宅ガレージでの勇姿。後ろのバイクは幻の陸王。
 
 

         
                     




 

 

no.125 遂にミュンヘンに着いた。

2018-08-26 15:29:07 | オートバイ旅行記


  

  羽田飛行場を飛び立ったのが、5月2日(日)大安吉日なので、ミュンヘン到着が10月30日(土)友引なので、

 思えば、実に半年間を要したのである。 その間、転倒事故はじめ色々な事にであったが、
 ラッキーなことにその何れも大事にならず、こうして無事に西ドイツにたどり着いたのである。
 
 そこで早速、ミュンヘンのユースホステルを探し、泊まった。
 
 そこには、この旅行ではじめて目にするほどの大勢の日本人がいた。

 その中には仕事を探している者も多かったが、ほとんどの場合がダメだった。

 ただ、ユースホステルの受付けに一人の日本人男性がいた。
 彼は英語の他にドイツ語も堪能。 それでこの職に就いているのだ。

 翌日、早速、住民登録に市役所に出向くが、ドイツ語が不自由とのことで、却下された。
 
 これは弱った。 これがないとバイクを登録できないので、当てにしていたカルネの保証金が
 帰ってこないのだ。

 そこで、知り合ったばかりの先のユースホステルの受付の日本人の彼に
 厚かましくも、仕事探しを頼んでみたのだ。 
 「瓢箪から駒」という言葉もあるではないか。
彼の方でも、僕のオートバイに興味を持っていたので、すぐに、親しくなれたのも幸いした。


 翌日は暇だったので、ドイツ博物館、イギリス庭園、絵画館などに行く。
 とくに、そのなかで郊外のダッハオ、Dahhaoは圧巻だった。

 Dahhao、
 ドイツに来るまでダッハオについては、恥ずかしいながら、まるっきり知らなかったが、
 ここがあのナチス・ドイツによりポーランドのユダヤ人強制収容所アウシュヴィッツに先立って作られた
、一番初めのユダヤ人強制収容所だったとのことである。

 僕がそこを訪れた時はどうしたことか、他に訪れる人が少なく、年配の管理人(男性)が、出迎えて
 くれ、所内をアチコチ巡りながら、説明してくれた。しゃしん

 実際に目にするそれらは、想像以上の悲惨なものや、事ばかりで、人間は極限に到れば、ここまで、
 悪魔的のことを平気でできるということを物語っている。  

 この事は我々日常生活においても、起こり得る可能性があるということ示してると思った。
 そんなことを教えてくれたダッハオの強制収容所だった。
 それにしても、衝撃的な体験だった。 生涯忘れそうにない。



次回に続く!
 


 Dachauの写真はあまりにも衝撃的だったため、カメラを取り出す事さえ忘れた。
 その他の写真があっても良さそうだが、ギリシャ以来、カメラを取り出すこと
 さえ、忘れている。 一応、ミュンヘンでは街見学をしたとはいえ、この旅行の
 本来の目的であるドイツ語語学校に入学しないことには落ち着かない。
 そんなこともあって、カメラは相変わらず、バイクのサイドバックの底に
 眠ったまま、取り出されることはなかった。