ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

維持管理は大変!…上田池堰堤(ダム)

2023-02-10 07:02:19 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市神代社家(じんだいしゃけ)にある三原川水系の上田池(こうだいけ)を目指します。アクセスは国道28号の「立石」信号を南下し、しばらく進むと左側に上田(こうだ)八幡神社が見えてきます。それを過ぎて「←上田池」の看板のあるT字路を左折。そのあたりから道が狭くなってくるので要注意です。そのまま行くとダム横に到着します。

その前にダム下へ行ってみることにします。名称は池ですが、ご覧の通り立派なダムです!すげーでしょ?


ダム下には3つの石碑があります。向かって右のは不明ですが、

中央には「共栄●記念」と刻まれています。ま、これもよくわかりませんが。

左には「殉職碑」。ダム築造中に亡くなられた方を慰霊するものと思われます。


もうちょっとダムに近づいてみます。ダム上からの緩やかな傾斜がわかりますね。


上のアクセス通りに行くと右岸に到着しますが、ダム横は駐車スペースがないので少し離れた場所に停めます。そして右岸の貯水側からダムを見ると、こんな感じ。いや、もう、芸術ですやんか。


ダム横に近づきます。この石積みの工法、おそらく大正から昭和初期に築造されたダムに見られるものですね。


ダム横には案内板があります。この下流にあった旧三原町では上田池築造以前は農業用水を三原川から取水していましたが、水量が少なく人々は旱魃の被害に苦しめられていました。そこで大正4年(1915年)、ため池建設計画が持ち上がります。しかし第一次世界大戦による物価高騰やダム形式の検討に手間取り、着工まで数年を要することに。最終的にダム形式は農業用ダムとしては全国初の重力式粗石モルタル形式、高さは41.5mに決まったということです。


兵庫県のため池を示す看板。


これがダム上です。歩いてみましょう。良い感じの古さです。


中央から見た上田池の様子。


一方、41.5m下の景色。ひぃ〜、なかなかの高さです。

そして、下流側の遠景。


ダム上、中央にはこれまた古めかしい建物?が…。


その壁には諸元を記したプレートが嵌め込まれています。これによると起工は大正15年(1926年)1月5日で、竣工は昭和7年(1932年)4月3日とあります。

その下にもプレート。2008年の土木学会選奨土木遺産では「上田池堰堤」として認定されています。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸から見た様子をご覧ください。なんとも歴史を感じさせますね。


左岸に来てビックリ。なんとそこには上田池の築造の経緯と改修の詳細な記録が残されているのです!年代順に見ていきます。

まずは「上田池碑」と題された石碑。


こんなことが記されています。転記すると…

「池は上田河内の渓谷に有り因て名く神代市榎列三箇村耕地整理組合の経営に属す大正15年1月5日工(事)を起し昭和7年4月3日竣成す堰堤高136尺延長72間敷幅120尺天幅14尺体積6千立坪を有する粗石モルタル積石堰堤にして満水面積11町5●歩水深118尺優に20有4万立坪の水を蓄う而して用水路幹線延4110間一大動脈を形成し●十條の支線之より分岐す総て石造又は混凝土(コンクリート)溝にして一度樋を放てば数十分間を出でずして忽ち里餘を奔流し萬頃に灌く地区総面積565町歩内開田136町歩往年旱害の地為に其憂を絶ち瘠土一朝にして膏田と化し穣々佳禾を生ず溜池竝に水路工事は総て組合の直営に就り労役延人員20有5萬工費総額80萬円に及ぶ葢し地方稀に見る農業土水事業にして常時農村失業者の救済も亦之に依て達せらる夫れ組合の地区たるや三原川左岸高地に存し古来水利に乏しく灌漑用水は概ね之で地下水に需むるも炎●句餘に及べば忽ち枯渇し秋禾実らず地力●耗耕作を遺棄する者年と共に多し茲を以て築池の議提唱一再にして止まらずと雖も未だ其機到らず浩歎之を久うす會食糧自給の聲上下に囂しく延て開墾助成法の発布を見るに及び即ち同志相謀り歳餘を費して議を纏め大正11年7月28日始めて組合の設立を見爾来幾多の日子を重ね設計を周にし低資を仰ぎ大小水利問題の解決を遂げ多大の困難を排して其竣功を見るに至る葢し組合員和衷協同戮力一致の賜たらすんばあらず冀(こいねが)くは後世其恵沢に浴する者永へに先人の遺業を追憶し其労を空うせさらむことを
  昭和7年4月 貴族院議員從四位勲三等永田秀次郎●●撰  正八位勲六等河瀬脩二謹書」

「用水路改修記念」と題された石碑。

その裏には次のようなことが記されています。

「昭和7年(1932年)上田池の竣工とともに用水路を新設。榎列(えなみ)、市、神代三地区の開田補水田300余町歩の良田に灌漑を始めた。その後、年を経るとともに施設の老朽化が現れ、昭和36年(1961年)より用水路全面改修工事を計画実施し財政難の折柄役職員組合員一致協力幾多の困難を乗り越えてこれを遂行し現在に至る。」


「樋門改修記念」の碑。昭和61年(1986年)秋、突如樋門から2,500トン余りの漏水を確認。こりゃ大変だということで、早速調査を行ない、翌年3月に第二樋門操作弁の改修を行なう。平成元年(1989年)には第一、三、四樋門の操作弁の改修と第四樋門取水管防銹工事を実施。平成2年(1990年)には堤体漏水防水工事、平成3年(1991年)には樋門取水管内外共防銹工事などや水位計新設に伴う電気設備を設置。いやいや、大変な工事です。


改修工事はさらに続きます。平成24年(2012年)からは毎年樋門の改修工事が実施され、平成28年(2016年)3月に竣工したとあります。


いや〜、こうしてみると施設の維持管理は大変なことがわかりますね。右岸の案内板だけではわからない「見えない苦労」が左岸の碑文から読み取ることができます。

最後にもう一度「ご尊顔」をどうぞ。うんうん、格好良い!
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