井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

音大生の出口戦略②その他編

2021-05-30 09:22:38 | 受験・学校
音楽学校とは音楽家になるために必要な訓練をする場所という認識は正しい。
が、だから卒業生は音楽家にならなければならない、という認識は疑問が生じる。

その理由の一つには、全員が音楽家になれる訳はないから、ということは誰しも考えつく。こちらは言わば「消極的」な理由。

ハンガリーには、音楽学校がかなりある。しかし、ハンガリーの人口は1000万人ちょっと。普通に考えたら多すぎる学校の数である。
どうしてこのようにたくさんの音楽学校があるのか。
その理由を昔聞いたことがある。

「私達は良い聴衆を育てるためにやっています。」

日本人なら思うだろう。「聴衆の育成まで考えて音楽をやらねばならないものなのか」

答は「やらねばならないもの」なのである。

そもそもヨーロッパはなぜあれほどまでに文化を大事にするのか。

それは、ヨーロッパが侵略、強奪の繰り返しばかり延々とやってきた国々だから、と言えるだろう。
それぞれが自国を守らねばならない時、もちろん軍事力は必須。
そして、その国民が一致団結するために精神面で必要なのが「文化」であろう。文化は国民の心をつなぐ。そのおかげで精神的に強くなれるのである。
だから文化を守るのも真剣だ。

と、いささか話がずれてしまったので元に戻そう。

良い聴衆になるために音楽学校に行くべし、とは私も思わない。勉強の途上で、その選択肢が出ることには大いに賛成だというに過ぎない。文学部に進んだ者が全て文学者や言語学者になる訳ではないように。

より積極的な「聴衆」として評論家や音楽学者の道もある。こちらは演奏家とほぼ同様の努力がいるので、やはり好きでなければなれないだろう。
逆に好きならこの道もある、ということだ。まあ、こちらは「音楽家」の道なのだが。

もう一つ、積極的な聴衆に近いのが音楽プロデュース業とマネージメント業。こちらは、現在のところ人材不足とみている。
こちらも好きでないとできないが、企画から立ち上げて本番が成功した時は、無上の喜びを感じるはずだ。

この仕事、必ずしも音楽学校出身が必須ではないのだが、私は音楽を学校(教育学部を含め)で勉強した人にやってほしいと思っている。
それは、音楽学校で何を勉強しているかを肌身で知っていないと、ちょっとした演奏家の心の機微がわからないと思うからだ。

あるオーケストラが、リハーサルがうまくいって時間より早めに終わった。早く帰る楽員達を見た外部役員「時間いっぱい働かないとは何事か」と言ったそうな。

これがわからない人には、正直音楽業界には入ってこないでほしい。

音大生の出口戦略①

2021-05-27 18:38:51 | 受験・学校
音大生に出口戦略なんて、ある訳がない。昔からずっと、一握りの人しかプロになれないと言われてきた世界なのだから。

これは正論である。
それでも、なぜかやりたがる人が大勢いたから、出口戦略なぞ考える必要もなく、淘汰されてなんぼの世界だったと思う。

しかし、少子化や不景気やらで、さすがに翳りが見えてきた。
近年では東京芸大附属高校のヴァイオリンが定員割れを起こしたらしい。ヴァイオリン界に身をおく者としては他人事ではない。

今まで永々無窮に築き上げ、世界のトップレベルにある日本のヴァイオリン界だったのだが、何も手を打たないと、それは段々過去の栄光になってしまうだろう。

そのためには「これが出口戦略だ」と考える必要もあるように思えてきた。

なので、改めて考察する。

音大生は、卒業したらどういう進路があるか。

従来から、以下の三つがあると言われている。

①演奏家

②教育家

③その他

誰でもこのくらいは言われなくてもわかる。知りたいのはその先だ……くらいのことは私もわかっているが、まずは分類すべきだろう。

そして②と③の重要性こそ、ポイントだと思う。また、それらの混合型も同じく重要だ。

詳しくは次の記事にするが、②の教育をもっと強化しないといけないように思ったので、これを書いている。

さらに演奏以外の仕事③に分類されるものの重要性も強調したいところだ。

そうしてたどり着く結論は音楽学校有用論でもあるのだが、20世紀では考えられなかったことも含めて考えないと、いずれ無用の長物になってしまう。私としては喫緊の課題と思って、以下考えてみたい。

AMUプラザ熊本

2021-05-23 19:23:21 | 旅行記
4月にできたのだが、やっと中に入る機会を得たアミュプラザ熊本。

JR九州はアミュプラザを作る度に街を作り変えてきた。

小倉ができた時もそれなりにすごかったのだけど、長崎、鹿児島、博多と作る度にパワーアップして、天文館や天神の人口減少に貢献してきた。

ただ、熊本はそれまでのアミュプラザとは大きく違い、立地が市街地の中心部ではない。
今でも駅の裏側は一般の住宅地になっている。佐賀駅でもホテルやオフィスビルが建っているのに、である。

今まで森都心(しんとしん)ビルとかホテル、マンションなど建てても、なかなか発展しなかった熊本駅周辺が、アミュプラザの出現で果たして変わるのか、は個人的に大いに注目していたのである。

そして、結果は……

「変わった❗️」

博多の展望レストランと同様の物もあるのだが、それに加え、フードコートに付随する何とかというスペースは全面ガラス張りで、絶景を映し出していた。

これまで誰も見たことがない風景が展開していた。

見たことがないと言えば、ついでにもう一つ、トイレの手洗い場。


こちらはダイソン製品なので、私が知らないだけかもしれないが、一応紹介すると、中央に手をかざすと水が出てくる。ここまでは普通だ。

左右に伸びる棒の下に手をもっていくと強風が吹いてくる、いわゆるジェットタオルになっていた。

他にも、数々の新機軸があり、さすがというほかはない。

中心部の繁華街、通町筋の人通りが少ないなあと思っていたが、これはコロナ禍のせいではなかったようである。
アミュプラザ熊本はかなり賑わっていた。

JR九州もご多分にもれず、コロナ禍でかなりの赤字と聞く。
その中、築20年くらいのJR九州ホテルを取り壊して建てたアミュプラザ熊本だ。社運がかかっているだろう。

他都市同様、熊本市周辺の民の動向を変えてしまうか今から注目である。

シンフォニー音楽劇「蜜蜂と遠雷」を観て

2021-05-05 09:25:14 | アート・文化
映画を観て、なにやら割りきれない気持ちになった事は、以前に書いた。でも、原作は面白いと何人かの方から言われた。が、まだ読んでいない。

そしてまた「シンフォニー音楽劇」という形で現れた。
これほど何度も作り替えられるということは、やはり魅力的な原作なのだろうと言わざるを得ない。

この「シンフォニー音楽劇」とは、どういう形態なのか、やはりとても興味をそそられ、ついに観に行ったのである。生のオーケストラやピアニストを使うようだし。



ト音記号と繰り返し記号にはさまれた五線譜を描いた反響板がステージに作られ、その中にオーケストラが配置されていた。ピットに入る訳ではないのである。

その前には2台のグランドピアノが置かれていた。一つはソリスト用、一つは影ピアノ?とでも言う存在。

まず最初にテーマ音楽とも言うべきオリジナル音楽がピアノとオーケストラによって演奏される。その間、文章も映しだされ、ポエジーな世界に観客を引き込む。

そのうちオーケストラの前に紗幕が降り、そこに背景が映しだされて、俳優達はその前で芝居をする。

第1幕にあたる前半は、あまりオーケストラは登場しない。ちょっとつまらないなぁと思いかけたのだが、結構びっくりの仕掛けが控えていた。
主役達が本当にピアノを弾くのである。恐らく「ピアノが弾ける役者」をキャスティングしたと思われる。
プロコフィエフの協奏曲第3番を、ほんの一部だけれど弾いたのだから、少なくとも私よりピアノが弾ける。これには恐れ入った。

そして「歌う」。恩田陸が作詩した歌詞にのせて、ショパンやベートーベンを歌うのである。

オーケストラも「演じて」いた。管楽器は揺らしながら、低弦楽器は楽器を回しながら、最後にはスタンドプレーまでしての熱演だ。

そして、コンクールの本選のシーンに突入していく。

で、コンクールは本物のピアニストによって、プロコフィエフとバルトークの協奏曲第3番が(第1楽章だけだが)しっかり演奏されたから、とても聞き応えがある。

という次第で、見どころはたくさんある舞台だった。

にもかかわらず、熱演にも関わらず、あまり好きにはなれなかった。なぜなのか。

あり得ないことの連続だから、と言って良いかもしれない。

サティの《Je te veux お前が欲しい》をピアノのコンクールの予選で弾いて通過してしまうとか、一人の参加者のためにオーケストラの配置を変えてしまうなど、表面的にもあり得ないことは多い。

しかし、フィクションの世界、その「あり得ないこと」を楽しみに読んだり観劇したりする訳で、一番の不満はそこではない。

私は、それほどコンクールを受けている人間ではないが、それでも少しは経験がある。周囲にはたくさん経験者がいる。
それで、コンクールを受ける人々が一様に、どのような精神状態になっていくかを知っているつもりだ。

簡単に述べると、神経がぼろぼろにすり減るのである。その状態に自分が追い込むのだ。他人ではない。
何故こんな辛いことをやるのか、と自問自答の日々である。

その答えは人によって違うだろう。

ここなのだ!
この葛藤こそ、客観化できれば、フィクションにできれば、一番感動的だと思う。

コンクールとは、それぞれ違う思いを持ったもの同士が一同に会し、美しい音楽と残酷な結果が同居する、凄絶な場所なのだ。

そこさえ描かれていれば、ほかの「あり得ないこと」が混じっても、それほど気にならないのではないかと思う。

逆に、そこが中途半端にしか描かれていないことが、私にとっては最大の「あり得ないこと」なのである。

恩田陸の文章は、とても好きだし、映画も劇も、それなりの手間隙がかかっているだけに、この中途半端な面白さは残念に思う。

次作、があるかどうかわからないが、このような音楽劇は好きなので、また新しい作品が生まれることを期待したい。