華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

自由でありたい。卑屈になりたくない。

2008-02-04 23:48:28 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

  

◇◇◇◇◇身辺雑記――

 昨日、東京は雪だった。今日も街のあちこちに雪が残っていた。道端のそれはほとんど溶けかけのかき氷ふうだけれども、人が踏まないところはまだ白くきらきらと光っていた。雪国のひとにとっては雪は必ずしも嬉しいものではないのだろうが、私は暖かい地方の生まれ育ちなので、この年になってもまだ雪を見ると子供っぽい興奮がわき起こる。

 昨年の暮れに叔母が死んだ。肺癌で、診断がついた時には既に転移していた。私は小さい頃、春・夏・冬の休みは半ば以上、母の故郷で過ごした。亡くなった叔母は母より十歳も下で、私からすると姉さんのような雰囲気があった。私の顔を見るなり庭に飛び出して、裏の菜園から籠一杯のイチゴを取ってきてくれたのはいつのことだったろう。

 年を重ねるにつれて、親しいひととの死別が増えてくる。たとえばここ数年の間に、長く付き合ってきた編集者ふたりと死別した。ひとりはまだ中学生と小学生の子供を遺して。昨年は叔母のほかに、従兄も癌で亡くなった。病死だけではない。自殺か事故か判然としない死に方をした友人もいる。いやでも、命のことや死ぬということを考えざるを得ない。

 私もいつかは死ぬ。いつかではない、明日かも知れない。明日も生きているとは誰も保証できないのだ。船出したいと思い続け、そして船出できぬままで死ぬのかも知れない。だが遠いところ、ここではない所、夢見た地に向けて船出できるのだと思い、私は今日も帆を上げる。誰に命じられるわけでもなく。

◇◇◇◇◇日教組集会の開催をホテルが拒否

 不快に思っている人は多いだろう。いや、不快なんぞという言葉はまだなまやさしい。総毛立つような思い、と言ったほうがいいかも知れない。そう……日教組の教研集会・全体集会が中止になった話である。右翼団体の妨害を理由に、ホテルが開催を拒否した(キャンセルした)のであるという。東京高裁が使用を認める司法判断を下したにもかかわらず、ホテル側は「顧客や周辺住民の迷惑になる」と強弁。ついに日教組は全体集会を断念した、という事件である。

 日教組と関わりのない人にとっては、小さな事件かも知れない(世の中、事件と呼ばれるものは山ほどあるのだから……)。だが、これは決して小さなことではないのだ。私も教育関係者でもなく子供もおらず、つまり日教組とは関わりのない人間だが、それでもニュースに接した途端にゾクリとした。

 日教組という名称だけで拒否反応を起こす人もいるかも知れないが、別に日教組でなくたっていい、たとえば宗教関係の団体であるとか、それこそ「徴兵制復活推進」といった団体でもいい――どんな思想であっても表明する自由はあり、集会を開く自由もある(むろん最低限、それは人間としてノウである、という極端な思想はありますけれどね)。その表明を妨害するのは、人間の自由に対する敵対行為である。私は自分が受け入れられない思想であっても、誰かがそれを訴える自由まで抹殺しようとは思わない。だから街宣車を連ねて妨害しようなんてのはもってのほかの行為であるのだが、それを恐れる(あるいはそれに対する恐れを口実にする)というのは、ひととしての敗北である。ホテルに抗議を!

◇◇◇◇◇せめて屈しない決意を

 居丈高に喚く者に対して膝を屈するのは、一時の方便だと一般に思われているかも知れない。だが、膝というのは一度屈したら二度目以降は自然に曲がる。三度四度と繰り返していくうちに、それが習い性となる。

 むろん、生活のあらゆる場面で昂然としている、なんていうのは無理だ。いや、それができる人も大勢いるだろうが、無理――というのが言い過ぎならば難しいと言い替えてもいいが、ともかく誰もができることではない。私自身、仕事や日常のあれこれの中で、いやになるほど他者に迎合し、膝を屈して卑屈に生きている。ゴマもすります、卑怯な振る舞いもします。それがいいとことだと思っているわけじゃあない、忸怩たるものがありますがね。

 それでも。そう、それでも。……これだけは譲れないということはある。ほかの人のことは知らないが、少なくとも私の場合は、譲れないものばかりが溢れた日々を紡ぐのはきつい。食っていくためにだらしなく、タイコモチのようなまねもするさ。でも、だからこそ、何が譲れないものであるかは知っているし、それを譲ってしまったら死ぬほど恥ずかしいと思っている。そのひとつが、思想信条の自由である。

 突然思い出した?が、私の親戚に、明治生まれの牧師がいた(とっくの昔に亡くななったので、記憶はおぼろだが)。戦争中は非国民と言われ、隣近所から白い眼で見られ、「聖書を読む会」ふうの小さな集会さえ妨害に遭ったという。私は難しいことはわからないが、そういう世の中にだけはしたくないといちずに思う。

 

 

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皆様、今年もよろしく

2008-01-06 23:50:55 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

あけましておめでとうございます。

 お年玉をもらえるわけでもなし、特に正月が嬉しい年でもなくなったが、それでも年が改まると人並みに「今年は……」などと思ってみたりする。むろん大したことなどできるわけはないが、見果てぬ夢に向けて半歩でも近づきたい。

◇◇◇◇

 ブログにさほどの意味はない。いや……こういう言い方は語弊があるかも知れない。私の場合は、と限定した方がいいだろう。ブログの中には、広く訴える力を持つものも少なくないのだ。だが私のブログは、思いつくままに殴り書きしたメモに過ぎない。要するにまあ、寝言みたいなものである。新しい情報提供があるわけでも、深い考察があるわけでも、鋭い問題提起があるわけでもない。他者を励ます言葉もないし、ユーモアも……ないなあ(悪い冗談は時々言うけど)。なさけないほどナイナイ尽くしだから(自分で言ってるから間違いありません)、ひとさまに読んでもらうのは申し訳ないみたいな感もある。

 そんならやめちゃえよ、アホ、と嘲笑する人もいるだろうが、そういう殴り書きでも公開するのは自由であり(むろんそれをアホかと軽蔑するのも自由である)、公開することによって、一緒にものを考えてくれる仲間と出会いたい。それが、私がブログを続けてきた第一の目的である。もしかすると唯一の目的、かも知れない。

 これからも御用とお急ぎのない方にたまに覗いていただき、気が向いたときにTBなど送っていただければ有り難いと思う。

 ともあれ今年もよろしくお願いします。

◇◇◇◇

 新年早々知人が亡くなり、パソコンに触れていなかった。ほとんど5日ぶりにパソコン立ち上げて――すさまじい数のゴミに溢れたメール受信箱を整理し、その後で自分のブログを開いたら、何だかなぁ……というコメントが幾つも。「何を言うか」という返答を書いておくべきだと思うが、今日は眠いので一応そのまま放置する。

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今年の暴言大賞「しょうがない」――UTSコラム再掲

2007-12-31 20:12:25 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 

 わっ、おおみそかだ。Under the Sun のコラムを再掲して、今年の締めくくりとします。

◇◇◇◇◇

 この国の政治家共は始終暴言を吐いておりますが、今年は特にそれが目立った気がする。今年というより、おそらくここ何年か、右上がりに増えてきたということだろうか。

 今年、誰でもすぐ思い出すものを2,3挙げると……たとえば、久間防衛相原の「しょうがない」。なにィ? 原爆を落とされたのはしょうがないって? おっさん、何考えてんねん(失礼。母親が遊びに……というか大掃除しに来ているもんで、つられて関西弁になりました)。ほかにも麻生外相の「アルツハイマー」うんぬん、柳沢厚労相の「産む機械」、……枚挙にいとまがないとはこのことである。

 どれを選ぶか迷うほどだが、やっぱりこれですか。久間防衛相の「しょうがない」。

 ――続きはこちら

 

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息苦しい国――ビラ配り有罪判決

2007-12-24 23:57:27 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 

 もう2週間ほど前の話だが……「政党ビラ配り事件有罪判決」。そう、マンションで政党ビラを配った荒川さんという人が住居侵入罪で逮捕され、一審は無罪だったが二審でひっくり返り、有罪になった事件である。

 この事件については、むろん、既に大勢のブロガーが書いておられる。だからあらためて書くのもナンだよな、という気もしないではないが……このところ気になっている問題の一つなので、やっぱり書き留めておくことにしよう。 

 私自身の復習のために簡単に振り返っておくと、被告の荒川さんは2004年12月に、東京都荒川区のマンションで各戸のポストにビラ(共産党の区議団だよりなど)を投函しているところを、住民に通報されて逮捕されたのだそうだ。被告側は「ビラ配布目的での立ち入りを処罰することは、表現の自由を保障した憲法に違反する」として無罪を主張。だが、東京高裁の池田裁判長は「表現の自由は絶対的に保障されるものではない。思想を外部に発表する手段であっても、他人の財産権を侵害することは許されない」とし、この主張を退けたという。

◇◇◇◇◇

 さて……このニュースに接した時に真っ先に浮かんだ感想は、「ヤレヤレ、何とまぁ」である。腐りかけた牛乳をうっかり飲んでしまったような、イヤ~な感覚が神経のどこかを走った。

 この判決について、「共産党の活動、あるいは現政権に異議をとなえる運動に対する弾圧である」という見方がある。基本的には、私もその通りであろうと思う。以前、東京都立川市の自衛隊宿舎における「イラク派兵反対」のビラ配り活動も、住居侵入罪で起訴された。国家権力は、目障りな対象を封じ込め、反社会的というレッテルを貼るためには、なりふりかまわない。

◇◇◇◇◇

 ……ということを前提に置いた上で、私はいま、少し違うことを考えている。「公共の福祉とは何だろう」。自由を制限するとき、公共の福祉という言葉があたかも葵の印籠のように振りかざされる。

◇◇◇◇◇

 いったん今回の事件に帰ってみると、私は「各戸のポストにビラを投函する」という行為が迷惑であるとか、ましてや財産権の侵害になるなどという理屈がどうしても納得できないのである。私自身もいわゆるマンション住まいであるけれども、共有廊下を誰が通ろうと、プライバシーや財産権が侵害されたなどとはつゆも思わない。ビラを投函されただけで侵害されるプライバシーや財産権とは、何と脆弱なものであることか。あほらしくてヘソが茶を沸かす。

 1階に全戸分まとめてズラリと並んだ郵便受けはむろんのこと、各戸の郵便受け(これは主に新聞受けなのだが)にも、毎日山のようなチラシ、ビラの類が入る。何日か出張していると、戻ったときには溢れて下に落ちていたりするほどだ。ウォシュレット取り付け工事、マンション分譲、○○ビデオ販売、ピザや弁当の宅配、学習塾……。霊園案内、なんてのも入っていたことがあって、これはさすがに驚いた。

 我が家のすぐ近くに自民党と共産党の区議が住んでいるせいか、両方の「区議会だより」も始終投函されている。もうひとつ常時入っているのが、近くの教会の……布教ビラというのだろうか、キリスト教について書いたB5版ほどのパンフレット。つい先日もクリスマス礼拝のお誘いが入った。(宗教関係といえば、ほかに時々、立正佼正会だったかのビラも入る)

 私は、すべてOKである。自民党区議団のビラだって入れていただいてかまわないし、無神論者だけれども教会の布教ビラも拒否はしない。興味があれば読む(自民党のビラも、読めばおもしろい――なるほど、こんなふうに言うのかという意味で――のである)。学習塾の案内やマンション分譲その他、ほとんど読まずに捨てるものが多く、そんな時には「資源の無駄やなぁ」とふと思ったりもするけれども、投函する自由を規制しようとはさらさら思わない。

 ビラの投函が迷惑だなんて、そりゃ嘘八百でしょ。と言って悪ければ、勘違いと言おうか。共有廊下に入ってきて扉の外でマイクで大声を上げられたら、そりゃまあ迷惑かも知れない。少なくとも迷惑に感じる人はいるだろう。私自身、徹夜明けで寝ているところだったとすれば、飛び出して「やかましいッ」と怒鳴るに違いない。でもビラが迷惑だなどと感じたことは、長い?人生でたった一度もありませぬ。

 よく考えてみたら誰も迷惑だと思わないことを、「迷惑だ」=「公共の福祉に反する」と決めつけ、規制するのはいったい誰だ。そのような規制によって守られるのは、いったい何ものだ。

 権力を握る者は、「やっちゃいけないこと」を増やすことによって人を支配する。国家でも学校でも家庭でも。その「やっちゃいけないこと」をされることで即、権力が脅かされるかどうかは、実は二の次である。何が一番の目的かといえば――

(1)「やっちゃいけないと言われたことはやりません」という素直な人々と、「なぜいけないのさ」と唇尖らせる人々を峻別できる。(2)「やっちゃいけないこと」を増やせば、総体で違反者も増える。「悪い奴」を創出して彼らに石を投げさせるのは、格好のガス抜きになる。

 息苦しい。

 規則は破られるためにあり、すべての規則は「人々の権利を守るため」にある。え? 財産権も権利だって? そりゃそうかも知れませんが(私は財産なんつうものは無いから大きなことは言えませんけど)、権利にも優勢順位があると私は思う。いかなる差別も受けずに生存し、自由にものを考え、ものを言い、得体の知れないバカデカイもの(国家というのがその代表だ)に振りまわされない権利というのが、至上のものではありませんかね?

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いつのまにやら今年もどん詰まり

2007-12-18 23:58:07 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 えっ、もう12月!?とうろたえている間に、今年もあと2週間足らずになってしまった。それにしても今年はほんとに(個人的に)無茶苦茶せわしない年だったなぁ……。
仕事で振りまわされるのが一段落したら、身近で葬式なんぞがあるし。新テロ法案、ビラ撒き有罪判決、こども戦略会議、薬害肝炎、etc,etc,etc,…… 自分の中で整理しておきたい課題は山のようにあるのだが、このところまともにメモ書きもしていない。何か、宿題をためた小学生のような気分である。

 メモはぼちぼち思い出しながら書き留めることにして……

 先月、(財)日本漢字能力検定協会が「今年の漢字」を発表した。2007年の漢字は「偽」だそうである。思わず笑ってしまいますネ。でも、これって「今年の」漢字なのだろうか。現代日本を象徴する漢字、じゃないだろうか。

 「偽」といえば賞味期限偽装など随分騒がれたけれど、そんなもの、考えてみれば大した話じゃあない(いや、賞味期限を偽るのがいいと言ってるわけではありませんよ。念のため)。もっともっと根深い「偽り」が、この国の根っこを腐らせている。いわゆる新テロ法案でも、いったい誰のためのものなのか。国民のためだと政府は言うけれども、落ち着いて考えてみれば「ちょっと待てよ」。

 我々はいったいいつまで、猫なで声のおためごかしに騙されて、肩をすぼめていなければいけないのだろう。

◇◇◇余談

『ビューティー・クイーン・オブ・リナーン』を観に行った。久しぶりの観劇である。主演の白石加代子と大竹しのぶはどちらも癖のある役者で私は好きだし、作者のマーティン・マクドナーにも興味があったので観に行きたく、先月チケットを取っておいたのだ。本当に行けるかどうか不安もあったのだが、何とか時間が作れてよかった……。劇の枠組みだけを言うならば親子のすさまじい相克を描いた喜劇(悲劇、というべきか?)だけれど、舞台であるアイルランドがイングランドから受けている差別、イングランドに対する憎悪、閉塞状況を抜け出すことに対する激しい欲望等々が隅々まで漲り、筋立てとはまた違った世界が二重写し三重写しになっていたように思う。小説であれ劇であれ、すぐれた作品はこんなふうに何重もの構造になる。そして読み手や観客に、否応なく心の何処かの部分で痛みを強いる。痛むことは生きている証であり、痛むことをやめてはいけないのだと――不意に思ったりする。 

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水たまりと、そしてひとつの扉

2007-11-10 23:52:59 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
 東京は雨が降り続いている。いわゆる時雨というやつだろう。激しく降るわけでもなく、休みなく降り続けるわけでもなく……だが晴れやかな空が見えることはなく。まるで今の、この国の姿のようだ。

 もっとも、私は雨が嫌いなわけではない。結構、好きだったりもする。道路を奔る水がまたたくまにズボンの裾をぐっしょりと濡らしてしまう豪雨も、視界を菱田春草の絵か何かのように高湿度にけぶらせる時雨も。

 だが、それよりも好きなのは多分、雨上がりのひとときだ。今日、雨が小やみになった街を歩いていたとき、小さな児童公園の片隅に水たまりが出来ているのを見つけ、何となく近寄ってその水面に見入った。

 私は都市部(地方都市)の生まれ育ちだが、それでも、小さい頃は舗装していない道路が多かったように思う。小学校は町外れの丘にあったから、とくに通学路は大半が未舗装の道だった。雨が降ると道はぬかるみ、そして雨が上がればそこかしこに水たまりができた……。

 その水たまり達を覗くのが、私は好きだった。水たまりの水はむろん泥水で、とてものこと泉のような透明さにはほど遠かった。それでも、長靴を履いた小さな子供の姿を、ほんの微かに映し出して揺れた。時にはあまり泥が混じらず、すぼめて手に持った傘の色などを思いのほか鮮やかに映すこともあった。

 その水たまりに足を入れたくて、実際におそるおそる長靴の爪先を漬けてみて、慌てて足を引く。そんな仕草を私は何度繰り返したことだろう。

 子供の頃の私にとって、水たまりはただの水たまりではなかった。おそらく異界への入り口のように思えていたのだ。同じ「水」でも、池や泉は常にそこに在る。いつも同じ表情を見せてくれる。だが水たまりは、雨上がりのひとときだけ此の世に現れる、不思議な扉であったのだ。そこに足を踏み入れるというのは、もしかすると帰れない世界へ行くことになるのかも知れないと、おそらく幼い私は思ったのだ。『ニルスの不思議な旅』が好きで、水底に沈んだ街がほんのひとときだけ地上に甦るという話に魅惑されていた子供は、ちっぽけな水たまりに沈んだ街の入り口を見たように思ったのかも知れない。

 おいでよ――と水たまりは誘う。行きたいよ、と子供は呟く。「でも怖い」。未知の世界への憧れと恐れとを、子供は体いっぱいに持っているのだ。

 当時から比べれば年を経てすっかりくたびれ、すべてのことを斜に構えて見てしまうようになった現在の私にとっては、水たまりはただの水たまりに過ぎなかった。それが涙が流れるほど哀しかったということを、あなたはわかってくれるだろうか。

 しばらくの間――と言ってもおそらくは数分に過ぎないのだろうが、私は水たまりを睨み、そこに「ここではない世界」への扉を見ようとした。見ることが出来たかどうかはわからない。ただ……在るかも知れない、という思いだけは――鈍くではあるけれども甦った気がする。

 ここではない世界へ。違う地平へ。……いくら憧れても翼など生えないのだと思い知ったくたびれ中年も、憧憬だけはまだある。そしてその憧憬を、見果てぬ夢にしたくないという熾火のようなパッションも。
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お久しぶりです。生きてました

2007-10-24 23:38:23 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 ここ数か月、なぜか多忙な日々が続いていた(なぜか、なんて言うのは変か。多忙の理由と、なぜそうなったかという原因は自分でもよくわかっているのだが。感覚としては、やっぱり「なんでや~」なのだなあ)。やっと一段落と思ったら、また面倒ごとが現れ……。
 私は何年かに一度の割合で、こういう事態を引き起こしてしまう。というか、巻き込まれてしまうのだ(何か憑いてるんじゃないか、お祓いしてもらったらどうだと友人たちにからかわれるぐらいで)。四年ほど前だったか、十人足らずでチームを組む仕事に誘われて気楽に参加したところ、途中でややこしくこじれ、コーディネーター役が突然オリてしまったものだから大混乱。さらに決断の早い人間から順に一人辞め、二人辞め。結局、私を含めて逃げそびれたのろまな人間たちがオロオロウロウロしながら何とかゴールインまで持っていったのだが、いやぁ、あの時もひどい目に遭ったなあ。それでも懲りずに、すぐ巻き込まれる私はいったい何だろう。

 でもまあ、明けない夜はなかったのだ。やっとこさ、ほんとうに今度こそ一段落。今週は休むぞと自分自身に宣言し(自分以外に宣言する相手はいない。何しろ一人で仕事してるんで)、今日は久しぶりに一日中、古書店巡りをして遊んでいた。買い込んできた本を傍らに積んで、ニヤニヤと喜んでいるところである(キモチ悪いって? す、すみません……)。

 さっき読んでいたのは、家永三郎著『歴史家の見た日本文化』(雄山閣)。読みながら少し考えてみたこともあるので、それはまた明日にでも。

 ひとつだけ、なるほどなぁ、おもしろいこと言うなぁと感心した一文を紹介しておこう(まるで予告編)。

【日本というのは、こういう国なのだ。日本の顔を片側からみただけで判断すると、とんでもないまちがいをひきおこす。眉目秀麗の横顔の向こうには、ひっつりだらけの物すごい横顔がついているのである】(「汚い社会と美しい文化」の章より)

 日本文化をこよなく愛する一方で、必死で隠蔽されてきた汚さにも眼を向けずにおれない歴史学者の言葉である。

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肯定的こだわりと否定的こだわり(UTSコラム再掲)

2007-10-03 23:41:44 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

  息苦しい世の中はイヤだ――というブロガーのゆるやかな輪「Under the Sun」 で、複数のブロガーがコラムを書いています。なかなかおもしろいので、気が向いた時に覗いてみてください。(私もときどき書いておりまする。あ、私のはあんまりおもしろくない)

 今回のテーマは「こだわり」。自分の書いたものを、ここに再掲しておきます。

◇◇◇◇以下、再掲

 こだわる……ということを、実のところ今まで真面目に考えたことはない。自分の「こだわり」や、こだわりの是非についても含めて。だから今日は、「こだわる? えっ? 何やねん、それ」という感覚のままに、脈絡なく文を綴ってみようと思う。

 ひとは肯定にこだわるのだろうか、それとも否定にこだわるのだろうか。いや、おそらく両方ともアリなのだろうけれども、どちらのベクトルが強いかは人によるような気がする。妙なたとえになってしまうが、たとえば誰かとメシ食おうよという話になった時――「中華を食べたい! それも四川料理がいいな。四川料理だったら上野に○○って店があってさぁ、あそこの麻婆豆腐が……」などと言うのは前者。「あ、麺類だけは苦手なんよね。それと、今日は胃腸の具合がよくないから脂っこいものはちょっとなー。それ以外なら何でもいいや」と言うのは後者、という感じだろうか。
(毎度のことながら、どうでもいいようなしょうもないたとえで失礼。日常的な些末な場面を背景にして考えないと、アタマがまとまらない癖がありまして……。これも一種の貧乏性だろうか)

 自分自身のことを考えると、どうも私は後者であるようなのだ。「これだけは勘弁して」というものはある。でも、それさえ忌避できれば後は割とどうでもいいような。少し前、同業者数人と組んで、10巻だったか12巻だったかの子供向けの本を作る仕事をした。その準備段階で誰がどの巻を担当するかという話になった時、私は自分が苦手とするテーマのものを1つ2つ取り除けて、「ほかはどれだっていいや」と言った覚えがある。で、他の仲間がそれぞれに選んだ残りのものを担当した。
 思えば、いつも私はそんな生き方をしてきたようだ。むろん、時には「これでなければ」とコダワル局面もないではなかったけれども、子供の頃から多くの場合は消去法的なこだわり方であったような気がする。

 続きはこちら

 

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UTSコラム紹介

2007-08-30 03:33:51 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 夏バテしている間に、TBありがとうございました。コメントもどうもありがとうございます……うーん、反論したいコメントもあるのですが、それはゆっくり考えて近日中に。

 いちおう生きてますというお知らせ代わりに、ひとことお知らせをば。

 Under the Sunで、仲間と手分けてしてコラムを書いています。さきほど、8月30日付けのコラムをアップしましたので、お時間がありましたら立ち寄ってください。

 

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猛暑の中で

2007-08-21 23:22:29 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 東京にいない時の方が多く、東京にいる時も自宅に帰っていなかったりして、3週間ほどブログを書いていなかった。やっと少しばかり息がつけたところなので、またぼちぼち寝言書こうかと。開店休業が続いていたにもかかわらず、TBを送ってくださった方に感謝。またよろしく……です。

◇◇◇◇◇

 いくつかコメントも入れていただきましたが、苦笑するしかないコメントも(笑)。わざわざこんな過疎ブログを覗かなくてもいいのに……。私は読むだけシンドイし、書く方だってしんどいでしょうが。――あのねぇ、私は何言われてもコミュニケーション可と思われる(自分と意見が違っているかどうかは関係ないです、むろん)コメント以外はあんまり気にならないし、私以外の人は、こういうその他大勢ブログのコメントなんかほとんど読まないんだからさぁ。

【このブログももう終わりだな。所詮自分の虚栄のためだったからな。長く続くもんじゃねえよ。てめえがどれだけ偉いんか知らんがな、見え張るだけの目的の癖にいかにもヒューマニズムっぽいこと言いやがって。構造改革で切り捨てられて本当に苦しんでいる人達をダシにしててめえの虚栄張った罪は重いぜ。必ず思い知らされることになるぜ。覚悟はしとけよ。てめえより頭のある奴はいくらでもいるんだ。新聞記者かなんか知らんが思い上がるんじゃねえ。】(by中村主水氏)

【私も前から偽善的なブログだと思ってました。多分売れないフリーライターなんでしょね。記事を採用してもらえないからその代わりにネットのサイトでいっぱしの論説書いているんじゃないかしら。哀れな人。自分の能力をわきまえて生きろっていうの。
無能は無能らしく農民やってろ。】(by香織氏)

【おい、ウザイからこのブログさっさと閉めろよ。】(UNknown)

 あ、さよか。見栄張る気はないんですがね……。別に自分が頭がいいとも思ってないですし。売れないフリーライター?? あはは、そうですよ。よくわかりますね、アナタとお付き合いもしとらんのに。だから手から口への生活を続けてるんじゃないか。(ただ、私は政治関連の記事は書いておりません。私の守備範囲は小さな社会問題、です。私は小さいとは思っていませんがね)

 それに、ウザイと言われても困るわけでね。ウザイとか偽善と感じるのは個々人の自由ですが、あなたには軽蔑し、無視する自由があり、同時に続けようとやめようと私の自由。

 別にブログで日本中に自分の考え方を聞いてもらおうとか、世の中変えようと思っているわけじゃあない。ひとりでも多くの人に読んでもらいたい!とかも、思ってないさ。正直なところ。読んでくださる人、コミュニケーションを成立させようとしている人だけでいいやっていう感じ(閉めちまえ!というだけのために、つまりコミュニケーション求めてない人にアクセスされるのは「苦笑」ですね)。

 覚え書きを公開しているだけ。二條河原だかの落書みたいなものですね(四條河原だっけ? メモなんで、確認せず)。一部を除いて、ブログというのはそういうものだと思っていますよ。過剰反応されても困るんだよなぁ。

 ま、、罵倒されることだけは慣れてますので、何言われてもあまりこたえません(無神経とか頭悪いとか、好きなように解釈してくだされ)。本気で「覚悟しとけよ」と言われるなら、メール下さってもいいですよ。メルアドは公開しております。失うものは鉄鎖のみ……とは言わんけどね、あんまりたくさんはないからね。本気で私を軽蔑してすりつぶそうというならば、一寸の虫にも五分の魂って、知ってるよね諸君。

 ……というわけで、閉める気はないです(笑)。ま、ぼちぼちとですがね、続くんですよねぇ、残念ながら。私はその他大勢の人間だから、寝言を言い続ける。どんなにくだらない寝言であろうとも。

 

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政治と政治家に望むこと

2007-07-23 23:01:06 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

  戸倉多香子さん、頑張れ。

  Under the Sun に参加して、コラムなども書いている。コラムは「定期的に更新している方が多くの人に覗いてもらいやすいから」という趣旨で始まったもので、複数のメンバーが交替で書いている。なかなかおもしろいですから、ときどき覗いてください(おまえのはおもしろくないって? いいじゃん、ほかにおもしろいのがあるんだからさ……いかん、だんだんムルに似てきた)。毎回テーマが決められ、今月は「政治・政治家objection」。こんな人に政治家になって欲しい、こんな政治をして欲しい、という思いを書き連ねようというわけだ。

 ついさっきアップした私のコラムのタイトルは「リーダーシップもカリスマ性もいらない。私が政治家に望むことは……」。え? タイトル見ただけで内容はだいたいわかるから、わざわざ読まんでもいいって? 喜んでいいのか、ガックリした方がいいのか。ま、冒頭の部分だけコピーしておきまする。

◇◇◇◇

『広辞苑』を見ると、政治とは「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共におこなう営み」で、「主として国家の統治作用をさす」らしい。ついでに統治というのは、「主権者が国土および人民を支配すること」であるそうな。私は国家嫌いで、統治とか統制という概念も大の苦手だから、こんな定義を読むといっぺんに「政治」アレルギーになりそうだ。

 もっとも、この広辞苑の定義はどちらも少々変ではある。政治というのは人間が集団で生活するときに必要なものだということは確かだが、秩序がどうこうという問題とは(問題によってそういう面は出てくるにしても)直接関係ないし、ましてや国家の統治作用なんぞであるはずはない。統治の方も――生きた概念としては消滅して、歴史用語の中で使われるようになればいい、と思っているからとやかく言う気はないが、日本をはじめとする民主主義国家の場合、主権者は国民ですよねぇ? 国民が人民を支配するって、どうやるのサ。

 まあ、広辞苑にイチャモン付けていても仕方ない。本題に入ろう。

◇◇◇◇◇

 続きを読んでやろうという奇特な方かもしおられたら(いるんか、そんな人)、こちらへどうぞ。

◇◇◇◇◇

 私が戸倉多香子さんを応援しているのは、彼女が私が「政治家というのはこういうものだろ」と思っている像に近く、私の「政治に対する願い」を理解してくれる人ではないか、と思うからだ。「官」はいらない、「吏」が欲しい。誠実で、国民に恥をかかせない有能な「吏」が。(この辺の話はUTSコラムをどうぞ←さりげなく?宣伝)

 

 

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戦争協力の中で最も悲しいものは(2)――言語の罪・断片

2007-06-04 23:56:00 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 先日、戦前の雑誌を読んだ感想などをしょーもなくつらつらと書いた(5月30日エントリ)。翌日にでも続きを書くつもりだったが、ビンボーひまなしとはワタイのことよ、みたいな生活なので、そのまま放り出していた。別に放り出してもかまわない、というか続けて書いても何か意味や意義があるわけじゃあない、屁みたいなもんだけれど……頭の隅っこのほうでウダウダとうごめき続けているものがあるので、少しだけ文字にしておこうか……。

 先述のエントリで、吉本隆明の評論『四季派の本質』を思い出しつつ少し四季派の詩人達の話に触れた。繰り返しになるけれども、私はボードレールの『巴里と憂鬱』を訳し、自らも危ういほどの繊細さに満ちた言語感覚をもって詩を書いた三好達治が、『捷報いたる』などの戦争礼賛詩集を出したことに――10代のまだ多感な若者だった(笑)私は驚き、暗澹とし、その痛みを伴う感覚は今もなお消えていない。

 変な言い方だが、その三好の翼賛詩が彼の以前からの言語感覚で貫かれていたのであれば、私はあれほどのショックは受けなかっただろう。変な言い方だが……「敵ながらアッパレ」(何やソレ)と思ったかも知れない。だが彼の翼賛詩は本当に……無惨なほど俗悪だったのだ。

 ほんの少しだけ書いてみよう……

【はぢしらぬめりけんぱらはめりけんのくがの奥地におひやらひてん】(くが=陸。メリケンつまりアメリカ人を地の果てまで追いやるぞ、ってな意味でしょう。私は解説などするような素養ないですけど)

【神州のますらをすぐりあだの拠るわたのかぎりをおほひたたかふ】(わた=海、です多分。わだつみというやつ)

 先のエントリで戦前(戦中というのかな)の雑誌に投稿された短歌や俳句を少しだけ紹介した。多分多くの人が同じ感想を持たれるのではないかと思うが、ほんともう「流れに耳すすぎ」たいほど(夏目センセイばりに、石に嗽いだっていいけど)紋切り型で俗悪で、読んでいるこちらの方が恥ずかしかった。三好達治の詩歌だって、虚心に読めばそれらと何ら変わりはない。それどころか名前を伏せて投稿したらさすがに選に漏れるだろうと思うほど手垢にまみれ、詩人の言語感覚とはいったい何だろう、と私は頭を抱えずにはおれないたのだ。世の動きや為政者の思惑に容易に陵辱され、媚びを売る程度のものでしかないのか。単なる高踏的なオアソビなのか。

 ……オアソビが悪いとは言わない。私もオアソビは結構好きなのだが、斜に構え抜く背骨のないオアソビなど容易に権力のタイコモチになってしまうことを、彼らは知らなかったのだ(いや知っていたのかも知れないけれども、それならなおさらタチが悪い)。

 いや、違う。吉本ではないけれども、三好達治をはじめとする多くの詩人の言語感覚そのものの「罪」を、我々はいま確認すべき時がきているような気がする。

◇◇◇◇◇

 今日は思考過程のたわごとメモだけ……まだまだ(勝手に)続く。そろそろムルにバトンタッチした方が話が整理されるかも。

◇◇◇◇◇ 

 ← 碧猫さん作成のバナー。初めて知ったのはとむ丸さんのところ。いいなと思ったので、使わせていただきました。ありがとう。私は面倒臭がり屋で(センスもない、のだけど)バナーとか作れないので、作ってくださるかたにほんと感謝です。

 

 

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「戦争協力」の中でも悲しいものは(1)――戦前の雑誌、四季派など

2007-05-30 23:40:29 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

◇◇◇◇半世紀余り前の雑誌を買ってきた

 ときどき趣味的に古い新聞や雑誌などを読む。たとえば1900年前後(明治30~40年代)であったり、たとえば1920年代(大正末期~昭和初期)であったり、「その当時」の社会状況というか……世相がありありとわかって本当におもしろい。真正面から政治や社会問題を扱った記事だけでなく、生活関連情報の記事や娯楽記事や連載小説やコラムや読者の投稿や、さらには広告などからも、当時の匂いが立ちのぼる。マスメディアというのは貴重な歴史資料でもあるんだなあ、と変に感心してしまう(真実を伝えているかどうか、事実を正しく伝えているかどうかはもちろん別の話。何が大きな話題・関心事になっていたのか、どんな価値観が優勢だったのか、世の中にどんな風が吹いていたのか等々を知る上で貴重ということである)。

 むろんほとんどは復刻版の出ているものを図書館で読むが、ごくたまに実物を買うこともある。今日もそうだった。

 立ち寄った古書店に、古くは80年ぐらい前、新しいところでは50年ぐらい前の雑誌がどっさり積まれていた。古い雑誌は結構高価なことが多くて普通は二の足を踏むのだが、中に何冊か(たぶん保存状態が悪いせいで)かなり安価なものがあり、それらを買い込んできたのだ。内訳は『週刊朝日』4冊と、『家の光』(※1)1冊で、すべて昭和の年号を使えば16年から17年にかけて発行された号である。

 

◇◇◇◇ジャーナリズムの罪

 それらを今、パラパラとめくっている。いわゆる戦時中だから、記事は戦意昂揚一色――とまではいかない(釣りだの囲碁将棋だの大相撲だのの記事などもある)けれども、まぁそれに近い。記事のタイトルや中見出しを見ただけでも気が滅入る。むろん今の時代に生きているから気が滅入るのであって、当時の読者はワクワクしながら読んだ……のだろうけれども。少しだけ、ランダムに挙げてみよう(※2)。

『政治に戦勝の意気』(週刊朝日・昭和17年6月7日号の巻頭言)

『成層圏空襲に焦る敵米』(同・昭和17年10月25日号の特集記事のひとつ)

『喝采を博した陸軍の明快な措置』(同・昭和16年2月2日号の週間時評)

『時難克服美談集』(家の光・昭和17年新年号の特集のひとつ)

 グラビアページにも陸軍省提供などと大書した「戦勝写真」が踊り、海軍少将だの陸軍少佐だのの署名原稿(たぶん実際は記者の聞き書きだろうと思う)も目立つ。

 おそらく、内心忸怩たるものがあったとしても、そんな記事を書かざるを得なかったのだろうと思う。私はそれを責めることはできない。私自身、戦争協力の記事を書かなければクビになるどころか、おかみに睨まれ周囲から白い眼で見られ……という時代に生まれ合わせたら、情けないけど尻尾振って書いちゃうかも知れないなあ、たぶん書くだろうなあ、と思ってしまうからだ。でも――これはやはり、日本のジャーナリズム史上に刻印された罪、忘れてはならない汚辱である。

「過ちは繰り返しません」というのは、広島の平和の誓いだけではない。ジャーナリズムも常にその言葉を意識しておくべきだと私は思う。その末端で働く者のひとりとして、常に意識しておきたい、と言ってもいい。私は勤めていた時もまっこうから政治問題を扱う部署にいたことはなく、フリーになってからはヒマネタに近いものか、「三面記事の右側ふうのもの(※3)」を扱う仕事に主に携わってきた。だから何を大げさなと笑われそうな気もするのだけれども……雑誌や新聞は一面トップだの特集記事だのだけで戦争協力したわけではない。生活欄のようなところでも、たとえば「乏しさを補う生活のヒント」だの「兵隊さんに慰問文を送りませう」みたいな形で大いに協力していたのだ。

 

◇◇◇◇戦意昂揚の短歌や俳句

 戦争中の雑誌は今までにも読んだことがあり、その「戦争協力」は何となく知っていたつもりだった。でも、いつでもどこでも発見はあるものだなあ……今日は何となく先に読者の投稿欄などを読み、そこでギョッとさせられた。

 現在でも多くの新聞・雑誌が読者の投稿欄を設けている。「意見」を募集する欄もあるし、詩歌の類を募集する欄もある(○○歌壇とか○○俳壇、というやつですね)。半世紀余の前の雑誌にもそういう欄が設けられており、私はその欄を読んで「あまりに悲しく」……そう、気が滅入った。特に、短歌や俳句の投稿欄。

「私の意見」的な欄は、まだいい。いや、いいというのは変だけれども、当時の為政者の意図や社会状況に迎合……と言っては言い過ぎか。何となく煽られて、一億火の玉!みたいな意見を書く人も多かったのだろうなと思う。だが、短歌だの俳句だのまでその色に染まるとは、ほんともう何ごとだろう。紅旗征戎わがことにあらず(あは、私の口癖だったりして)、の定家が泣くぞ。 

 これも少しだけ挙げてみよう(掲載の雑誌と号は略。本来はよくないのだが、ま、私の覚え書きなんで)。なお原文はすべて1字の空きもなく続いているが、読みにくいので適当に空けてある。

「いにしへの ふみにもみずや神くにの みいくさのもと夷ひれふす」

「吾子やがて君の御盾と起つ日あり 思へばわれの努(つとめ)重しも」

「安らかに年を迎へて祈るかな 戦へば勝つ国に生まれて」

「挺身の決意 新緑輝く日」

「いくさ勝つ 青田日に日に濃ゆきかな」

 もちろん編集部が、あるいは選者が意図的にそういう作品を選んだという面は大きいと思うが、それにしても……これだけ載るからには少々の投稿数だったはずがない。

 ところでこれらの短歌や俳句を読んで、皆さんはどう思われるだろう。言葉のきらきらしさを感じるだろうか、感性の奥行きを感じるだろうか。私は感じない。生意気を言ってしまえば、その種の才に欠ける私でさえ作れそうな気がするほどだ。それでもこんな短歌や俳句がはやり、多くの人が争って作り、そして雑誌で優秀作や佳作に選ばれたのだ。それが私には悲しい。

 

◇◇◇◇四季派の詩人たち……

 そこでふと思い出した。随分前のことだが、吉本隆明の『四季派の本質』(だったと思う)という評論を読んだ記憶がある。三好達治をはじめ「四季派」と呼ばれた詩人たちが悲惨なほどの戦争協力の詩を書いたという問題について、なぜだろうかという考察をしたものだ。いま、手元にその評論がないので――何処かに埋まってしまっているので確かめることができないが、四季派の詩人たちが戦争協力したのは彼らが社会に対する認識と自然に対する認識を区別できなかったためであると指摘し、四季派の抒情の本質を批判した文章だったと記憶している。

 それを読んだのは10代の頃だったように思う。ボードレールの詩の翻訳や「母よ――あわくかなしきもののふるなり/あじさいいろのもののふるなり」(三好達治の詩の一節をうろ覚えで書いている。もちろん原文は旧仮名遣い)などの詩に見られる言語感覚に衝撃を受けていた私は、吉本の評論ではじめて三好の戦中詩を知り、二重にショックを受けた。吉本が書いていたことだが、それらの戦中詩は、あの繊細な言語感覚の持ち主が書いたものとはとても思えないほど俗悪で、その惨めさに私はほとんど呆然とした。私が日本的抒情に対して何となく冷ややかな思いを持っているのは、この時のトラウマかも知れない。

 酔いが回って眠くなったので、この辺でいったん幕を引く。続きは明日なり明後日なりに書いてみたいと思う。

 

 ◇◇◇◇注 

※1/『家の光』という雑誌についてはもしかするとご存じない方もおられるかも知れないので簡単に紹介しておくと、JAグループの出版団体である「家の光協会」が発行している雑誌。農家を主な読者対象として、80年余り前に創刊されたらしい。

※2/当然、旧漢字・旧仮名遣いである。雰囲気を伝えるために仮名遣いはそのままにしたが、漢字だけは現在のものに改めた。また現在はほとんど使われない漢字は、場合によって平仮名にしてある。以下、このエントリにおいては続きもすべて同じ。

※3/ニュースの中で小さな記事として扱われる類のもの。社会問題に大きいも小さいもないけれども……。

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セレブへの憧れが意味するもの・1(ほとんど話のマクラ)

2007-05-17 23:49:34 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 ここ数日多忙で、パソコンをプライベートに使う時間がほとんどなかった。遅ればせながら……という感じで、よく覗かせてもらうブログを読んだところである。どれもなるほどなぁと思うものばかり。いやもう、ほんとアタマの刺激になります(刺激されても、別にそれで良くなるわけじゃないけど。少なくともこれ以上悪くならずにすみそうな気が)。

 おもしろかった――自分がグシャグシャともの考える手掛かりになったエントリはたくさんあるが、たとえば2日ほど前にとむ丸さんがTBしてくださった「セレブに弱い女性たちはどこへ」。セレブって何だろう、セレブに憧れる感覚(神経)とは何だろう、と腕組みしてしまった。

 セレブ(celebrityの略らしい)というのは、本当にヤな言葉である。私は嫌いな言葉の多い人間で、しかも年月と共に好ましい言葉より嫌悪の対象となる言葉のほうが増える。セレブという言葉もその典型的なひとつだ。(言葉の本来の意味ではいわゆる名士を指すのだろうが、今の社会では金持ち、エリート、上流階級といった意味合いも含めて使われているような気がする。間違っているかも知れないが、いちおうそういう意味だとして話を進める)

 とむ丸さんは上記のエントリの中で「セレブ、というと好きなのはやはり女性でしょう」と書いておられた。私はとむ丸さんのエントリには教えられることが多いのだが、これには僅かに異論がある。セレブ好きは性別を問わずに存在する(その社会の慣習等によって、性別による現れ方は違うと思うが)。社会的なステータスやブランド品や一流レストラン等々に価値を見出すなどというのは表層的な話で――いや、むろんそういう要素も大きいのだけれども――つまるところは飽くなき上昇志向と、自分も何とかして選民の側に入りたいというエゴイズム……かなあ。

 突然話は逸れてしまうが、人間には「雲の上の存在」(あるいは銀の匙をくわえて生まれてきた人々)に憧れる心がある。少なくとも――そういう心は大いに生まれ得る、と思う。ヘラクレスはゼウスの子であり、天皇は天照大神の裔であり(※1)、本願寺の門主は親鸞の血筋であり(※2)、それゆえに生身に後光が射す。

※1/むろん現代は一部を除いて、そう考えている人はいないはずだが。

※2/本当かどうかは知らない。多分、本当なのでしょう。浄土の親鸞にあなたの子孫が代々門主として宗派のトップに立ってますよと聞かせたら、腰抜かすと思いますが。

◇◇◇◇◇◇

 貴種というのが、ロマンの小道具としてに力を発揮するのは確かである。だから「昔話」や「伝説」の主人公として、さまざまな「貴種」が登場する。たとえばグリム童話には、馬に食わせるほどお姫様だの王子様だのが顔を出すではないか。オイディプスの悲劇もカサンドラの悲劇も、彼らがテーバイの王の子であり、トロイアの王の子であったという道具立てによって鮮やかに、そして豪奢に増幅された。古くから洋の東西を問わず貴種流離譚が人気を博しているのも、おそらく「高貴な存在」への憧れと関わりが深い。「高貴な存在」が「数奇な運命によって」、「自分達の住む世界と交わる」という想像――が、ある種のロマンティシズムを掻き立てたのだろう。

 その種のロマンティシズムを私は否定しない。此の世ならぬものへの憧れというのは、わくわくするものであるとも思う。ただしそれがつかのまの蜃気楼や虹と同義の、神話的なあるいは初恋的な憧憬と同義である限りにおいて。

 現実の世界というのは恐るべきもので、利用価値があれば他愛ない蜃気楼であろうが何であろうが骨までしゃぶる。

◇◇◇◇◇◇

 ほんの前置き、落語でいえばマクラみたいなことしか書いていないが、疲れているのでここで中断。明日(?)、ゆっくり続きを書こうと思う。セレブうんぬんについては吐き気を催すような感覚と共に、言いたいことは山ほどある……ような気がする。

◇◇◇◇◇◇

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「留学生の素朴な疑問」に答えてみた

2007-04-24 22:55:12 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 luxemburgさんが、自宅で預かった短期留学生から出た「素朴な疑問」を紹介しておられる。「私なりに全て答えたが、非常に難しかった」そうだ。「Under the Sunの皆さんならこれらの問題にどのようにお答えになるだろうか」という一文もあったので、Under the Sunの隅っこにいる1人として私もちょっと考えてみた。熟考したわけではなく、考えている途上なのだけれども、いったん答えを試みる(それぞれの質問についての詳しい説明は、上記のエントリをお読み下さい)。

1. どうしてみんな制限速度を守らないのか
 
 これは私にとって、今まで考えてもみなかった問題だった。ひとつには自分が車を運転する習慣がないため、実感としてわからないということもある。したがってどう考えればいいか迷うのだけれども……。もしかすると日本では、「法律はオカミの都合で勝手に決めているものであり、国民とはあまり関係ない」という感覚が底流に流れているのかも知れない。あっ、そう考えれば政治に対する関心の低さも頷けるなぁ。

2. 憲法9条というモデルは日本に成功をもたらしたと考えられるが、どういう必要があって変えるのか
 変えたい理由は、堂々と軍事力を持ちたいからだ(現在もむろん実質的には軍事力はもっているのだけれども)。集団的自衛権とやらを正当化したいと思っているのだ。だが、積極的に「変えたい」「変える必要がある」と思っている人達は、そんなに多くない。大多数は、変える必要性を感じていないと思う。どんなことでも「今、現在あるもの」を変えようとする声が大きく響くのは当たり前で(今のままでいいんじゃないの? と思っている人は特に大声を上げたりしない)、それは決して多数の声ではないことを世界に訴えたい。

3. どうして安倍は明らかに日本の威信を傷つけるとわかりながら、従軍慰安婦などの問題であのようなことを言うのか
 威信を傷つけるなどとは思っていないから、言うのである。彼は逆に、過去の過ちを認めれば威信が傷つくと思っているのだ。よく考えれば変な話だが、「自分が間違っていた」の一言が言えず、かえって何だかんだと屁理屈をこねて強引に「自分が正しい」ことにしてしまう人間は(日本だけではなく、おそらく世界中に)時々いる。ちょっとでも弱味を見せるのがイヤなのだ。それは本当はひ弱な人間であることの証拠なのだけれども。こういう首相を持つことは、日本の恥である。  

4. 日本はどうして死刑を廃止しないのか
 死刑廃止を訴える声も多いのだが、いまだ廃止への道は遠い感もある。なぜだろう。……おそらく「悪いことをすれば罰を受けるのは当然」で、特に悪いことの極みである殺人を犯した場合などは「自分の命で償うべき」という感覚が根底にあるのだろうか。そして死刑廃止を言う場合のひとつの理由は「国家に、人間の命を奪う権利まで与えていない」ということなのだが、その観点は抜け落ちることが多い。「国家と個人」を対峙させて考える習慣があまりないせいかも知れない。 

5. 何故石原を選ぶのか
 石原は200万票を超える得票数で当選したが、東京都の有権者数は1000万余。つまり石原を「支持」しているのは都民の20%程度である。残りは反石原か、もしくは「カンケーねぇよ」。問題は次の疑問にもある「投票率の低さ」だ。

6. 何故日本の選挙はここまで投票率が低いのか
 まさしく、「どうでもいい」と思っている人が多いのだろう。政治に何か期待するのは間違いだ、何を言ってもムダさとか、勝手にやってろと思っているのだ。

7. 日本人はNHKを公正と信じているのか
 多分、公正だなどとは思っていない。というと言い過ぎかも知れないが、無条件に信じているわけではないと思う。

8. 何故大学生は勉強しないのか
 私も勉強しない学生だったから恥じ入るばかりだが……ひとつ言えるのは日本の場合、小学校からずっと勉強というのは「つまらないもの」だからかも知れない(いや、おもしろい面もあるのだけれども)。「なぜなのか」「自分はどう思うか」とゆっくり考える余裕なく、慌ただしく「知識」を詰め込む。あまりおもしろくないけれども、やっておかないと将来苦労するよとか、やっておかないと損するよと言われて義務としてやり、その延長で大学にも行く……からではないだろうか。勉強というのは義務ではなく権利なのだとわかったとき、大学生も勉強するようになると私は思う。

◇◇◇◇◇

「最終的に彼の一番大きな疑問は、どうして日本人はここまで悪い政治に黙っているのか、ということであった」と、luxemburgさんは終わりの方で書いておられた。

 うーん、なぜだろう。もしかすると日本人はかなりのニヒリストなのだろうか。「こんな国、どうなってもいい」と思っているのだろうか。これはちょっと落ち着いて考えてみよう……。

 

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