華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

忠誠心って何だ

2008-02-05 23:31:49 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 

 忠誠心なるものについて、ふと考えている。これを人間が誰でも持っている基本的なモラルのように言う人もいるが、はたしてそうだろうか。

 仁義礼智信忠孝悌――といえば、ご存じ里見八犬伝。え、知らない? 困ったな。思い切りはしょって言ってしまえば、この八つの文字を一つずつ刻んだ珠を持ち、その文字を名前に持つ八人を主人公とする、江戸時代の伝奇小説であるが……。ともかくこの八つは、人間の最低限のモラルと言われてきたらしい(仁義八行、と言うそうな)。だから人間じゃない(人間の心を持っていればとても出来ない)ということで、遊郭の亭主などを忘八と呼んだりもしたと何処かで読んだ。


 そんな話はどうでもいいのだが……このうち、仁・義・智・信、あたりはまぁわかる。礼もまぁわかる。礼儀と解釈すると私のようないい加減な人間にはいささか、いや、かなりうっとうしいけれども、人と接するときのデリケートな思いやり、みたいなものですか。そう言えば誰だったか、儒教で最も大切なモラルは礼だと言っていた人がいる。太宰治だったけか。

 悌も、ま、何とかわかる。年長者に対して従順ということらしいが(長幼序あり、というやつだなあ)、同時にきょうだいの仲がよいという意味もあるようなので、そちらだと思えば特に問題はない。孝は……個人的にはあまり好きな言葉ではないけれど、目くじら立てるほどのものでもないだろう。

 だが、どうしてもわからないのが忠。これは実は非常に異質なモラルと言ってよい。

 仁義礼智信悌孝……は、上からやかましく言うことではないと思うけれども(と言うより、時の権力者がやかましく言うときは何か裏があると疑った方がいい)、その概念自体には何の罪もない。いや、罪などと言うのは変か。ひとが自由にのびやかに生きようとするのを妨げたり、ひととひとの間を引き裂くようなものではない、と言った方がいいだろう。人と人とが関わる時の、ある意味、ごくあたりまえのモラルを表現しているに過ぎない。もしかするとすべての生き物が関わるときの……であるかも知れない。権力者は常にそれらを自分達の都合よく利用しようとするけれども、「それは牽強付会っつうもんやで、おっさん」と笑い飛ばすことはいくらでも可能だ。

 たとえば、私が「忠」以外で最も違和感を覚える「孝」にしても。私は特に親孝行な人間ではないが、親の方は多分、親不孝な子を持って私は不幸せだと嘆いたりはしていないと思う。正面切って問いただしたことはないが、おそらくそのカンは間違っていないはずだ。適当に距離を持って付き合い、互いにそれなりに気に掛け合っている、要するにフツウの親子である。ちょっと話が逸れてしまうが、私の友人の一人が自分の子供達について(彼は二人の男の子を持っている)「産まれてきて、親子の関わりを楽しませてくれただけで充分だ。親の恩なんてものがあるとしたら、僕はそれを過剰なほど返して貰った。もう何もいらないや」と言っていたのを思い出す。だから彼は、親孝行うんぬんなどというしかつめらしい話を聞くと笑いが止まらないという。親子って……子供のいない私が言うのはおかしいけれども、おそらくそういうものだ。

 六親和せずして孝子ありって、老子も言ってるよね? あ、大道廃れて仁義ありとも言ってたっけ。いずれにせよ、モラルが声高に言われるのはそれが衰微していることの証左だというわけで、そんな世の中は住みにくいと思うけれども……ともかく――ケッタイな爺さん達が躍り出てきてぎゃあすか喚いたとしても、「勝手に言ってろ」と冷笑していられる。

 だが、「忠」だけはそんなわけにはいかない。これは人と人との関わりの中で、それをはぐくむために生まれ、そして育てられたものではなく、人為的に創られたものだからだ。誰かが人と人の関係がすべて対等であるということを承伏できなくなった時に、ピラミッド型の関係を正当化し、守るために。多くの人々を飼い馴らすために。

 考えてみるがいい。対等な関わりの中で、「忠」などというモラルの入る余地があるかどうか。愛する異性(同性でもいいけど)との関わりを表現するときに、忠誠心などという言葉が出てくる余地があるか。親子の間でも――親子は完全な意味で対等とは言いにくいけれども、それでも忠誠心などという概念は入り込まない。

 忠誠心、などというと古くさい感じがして、実のところ、現代人には受け入れられにくい。少なくとも若い人達には(たまに古い表現が好きな人がいて、あえて使ったりする例もあるけれども)。でも、この言葉は形を変え、化粧を変えて今も生きている。忠誠心と聞くと肩をすくめる人でも、ロイヤリティーと言われれば納得したりして。愛国心なんていうのも、中身は「国に対する忠誠心」にほかならない。

 仁義礼智信忠孝悌、のなかでオカミが最も重要視しているのは、忠である。そのことは間違いないと私は確信している。あとのモラルはすべて、ベースに忠が存在した上でのもの。だから、うさんくさい色を帯びるのも当たり前だ。戦前の教育勅語についていまだに「いいことも言っていた」なんぞと寝言を言う人もいるが、先っぽで良いこと言ってたって、モトがおかしければしょうがないでしょう。

 今の日本は――かなり前から、だけれども。あるいはずっと昔から、かも知れない――先っぽをいじり回し、ちょっと綺麗で清潔そうな言葉なり振る舞いなりがあれば「いいこと言ってるじゃん」「いいことやってるじゃん」と手を叩く。モトがダメなんだよ、とそろそろ声を大にして言わなければ、取り返しがつかなくなるような気がして私はかなり怖いのだけれども。

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国ゆうのんは……

2007-08-22 23:55:36 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

「国ゆうのんは、ろくなことせんもんや」と何かの折にちょいと口にしたのは、随分前に亡くなった祖母である。彼女は戦争中、大日本婦人会(だと思う)に所属して――積極的に入ったのか強制されたのかは知らないが、ともかく所属して、千人針(※)を縫ったり、日の丸の旗を振って出征する人達を送ったりしたようだ。直接じっくり話を聞いたことはないが、「この戦争は正しい」「日本は勝つ」と信じ込んでいたらしい。

 私の母もそうだったようだ。軍国少女だったのである。おもしろいもので(というと語弊があるが)、母の二人の姉は違ったらしい。まだ純粋な?年頃だった妹弟(母や叔父)とは違って、もうコドモという年ではないから、口づてにひそかに伝えられる情報をキャッチしていたのかも知れない。母に聞くと、二人でこそこそと「(ラジオなどの報道について)絶対あれ、嘘やよねー」などと囁きあっていたという。ただし、むろん他人に言ったりはせず、外ではリッパな愛国者の顔をしていた(そういう人達も多かったのではないか)。

 ともかく、祖母。明治生まれでオカミのなさることは正しいという教育を受けた彼女は、国が間違ったことをしでかすなどあり得ないと信じていたのだろう。だから、敗戦で世の中がひっくり返った時、つくづく「国ゆうのんは、平気で国民をだまくらかすもんやなあ」と思ったのであるらしい。

 彼女は根っからの保守的人間で、選挙でも(いや、尋ねたことはないんですが)多分自民党に投票していたと思う。あるいは保守系無所属の候補に。ただ、その保守性は「オカミからぎゃあつく言われんと、しずかーに暮らしたい。国には、大げさなことはせんといてほしい」という感情に裏打ちされていた気がする。彼女は死ぬまで共産党嫌いだったが、どうやらそれは「共産党が大きくなったら、革命戦争ゆうもんが起きる。また国の都合で死ぬ人が出るんや」と思っていたからであるらしい。

「ほんまに戦後はようなった」と言うのも聞いたこともある。祖母が生きていたら、戦後レジームからの脱却だの、美しい国だのというイキのいい言葉を聞いてどんな顔をするだろう。「もう勇ましい話は結構や。国ゆうもんは、大きな顔せんといてほしいワ」と言いそうな気がする。

(祖母が生きていたら――「無難な選択肢」として民主党に投票したような気がしてならない。その祖母と、どんなふうに言葉を交わせばいいのだろうかと私は最近けっこう真剣に悩んでいたりする……)

 最近、安倍首相はこの2つの言葉をあまり使わなくなったそうである。上滑りだとのことで党内の評判も悪いらしい……が、ひとつふたつの「単なる言葉」の問題ではない。これからも「もう少し耳障りよく」化粧しただけの、同じような言葉が次々と出てくるだろう。バーチャンが愛国婦人だった頃のように。

※弾よけの護符として、手拭いのような布に千人がひと針ずつ縫い目をつけて出征する兵士に贈ったもの――であるらしい。

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ものは言いよう

2007-06-11 23:32:04 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 貧乏ヒマなし状態も、いよいよ病膏肓に入りつつあるらしい。公私ともに細かな(しかも結構しょうもない)用事がこれでもかというほど山積みで、立ち食い蕎麦を掻き込む日々……。電車の中ではいつもウトウト寝てるような気もする。よくぞ乗り越さないものだ(一種の習性で、降りる駅が近づいたあたりで目が覚める。小心者の証明か)。疲労している時の常で、毎晩浅い眠りの中で膨大な夢をみたりもする(と言うよりむろん、正確に言えば目覚めても鮮やかに夢を覚えている)。昨夜はとうとう、仕事の資料を紛失して探し回る夢までみてしまった……何とまあギスギスとリアルな夢であることか。そのうち夜逃げの夢もみるかも知れない。

 パソコン立ち上げてもメールのチェックと仕事の処理で手一杯、自分のブログ開いたのも3日ぶりぐらいだ。TBくださった方、ありがとうございます。まとめて読ませていただきます。

 毎度の愚痴はこの辺にして……気分転換?を兼ねて少しばかり、頭をよぎったことをひとつだけメモ書きしておこう。

◇◇◇◇◇◇

 皆さんも始終経験なさることと思う。「ものは言いようだよなあ……」という驚き――眼が点になるというか、一瞬言葉を失うというか、開いた口がふさがらない思いを。

 たとえばストーカー行為は受けるほうには迷惑千万なわけだが、「好きで好きでたまらず、つい付きまとってしまいました」と涙ながらに言えば何となく同情を買ったりする。児童虐待が「しつけ」だったり、レッキとした侵略が「聖戦」だったり……。

 これもひとつの典型例。

【久間章生防衛相は7日午前の参院外交防衛委員会で、集会やデモの情報収集を認めた上で「(自衛隊の活動に関し)市民団体などの動きが国民全体の中で非常に多くなれば止めようとか、少なければ堂々とやれるとか、その判断材料になる。世間の動きを正確に把握することは悪いことではない。皆の動きを情報収集するのを悪いと思うこと自体がおかしい」と述べた】(琉球新報記事より抜粋)

 上記の発言は書いてあるように7日のもので、記事もそのすぐ後のもの。だから皆さんとうに御存知だと思うが、私は最近、情報のキャッチがいつも一拍ずつズレる感じなのである。で、今頃「よく言うよ」感で唖然としているというわけだ。

  ふうん……「民意」を虚心坦懐に受け止めるために情報収集したということですか。つまり「そんなことやっちゃ困る」という声が大きければ、反省して止めようということですか。じゃあ、どんなふうに判断したのか明確に示して欲しいものだ。今回は特にイラク派兵についての動向が主な監視対象になっていたわけだが、反対する声はあまり大きくない、国民の大多数は賛成しているのだと判断したわけですネ。いったいどこからそういう判断が出て来たものやら。

「監視」を情報収集というのも、「ものは言いよう」のうち。平家の陰口をきく者がないか眼を光らせて歩いた「赤袴のかぶろ」の活動も、入道相国清盛に言わせれば情報収集だったんでしょうねえ……。

 情報収集なんて言えば聞こえはいいけれども、水のように透明で公正無視の情報収集なんてあり得ない。ジャーナリズムの取材活動も、ある意味の偏見から免れ得ないのだ。ちなみにここでいう偏見は、必ずしも悪い意味ではない。人間誰だって、自分の眼を通してものを見、自分の思想信条や感性を背景にしてものを考えるのは当然のことではないか。普通使われる意味の「偏見」は極力廃する努力をすべきだとしても、自分の思想や感性まで無色透明にすることはできないし、またそんなことをする意味もない。そのことを我々は常に念頭に置くべきだと私は思う。

 自衛隊(私は国軍だと思っているが、いちおう自衛隊という名称を使っておく)は何のためにあり、そして何のために「情報収集」するのか。問題はその一点にある。言葉にゴマカされまい。

◇◇◇◇◇◇

 ほんともう、変に賢いエライサンにはかないません。いくらでも綺麗に言い換えることができる。その頭の良さを別の方面に生かしていただければ、もうちょいと世の中住みよくなると思うんですけどねぇ。

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「国」の正体――自衛隊が市民団体などを監視

2007-06-06 21:42:03 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 皆さん、すでに情報をキャッチしておられるだろう。そして背筋が寒くなり、うっかり腐りかけた牛乳飲んでしまったようなゲッという気分になっておられると思う。そう……「自衛隊が市民活動を監視」というニュースである。時事通信によれば監視対象は「市民団体やジャーナリストの活動」、中国新聞によれば「市民団体、ジャーナリスト、宗教団体などの活動」(報道記事は下に紹介)

 実のところ――あんまり驚かないというと変だが、そして充分怒ってもいるのだが、「そのぐらいやっているだろう」というのが、正直な感想でもある。軍隊(日本では自衛隊などと姑息な言い換えめいた名称を使っているが)は国を守るなどと言われるが、ここでいう「国」は枠組み、国家体制である。間違っても「国民」じゃない。

「国土」だって守らない。それはつい先頃の、辺野古の問題(米軍基地移設に先立つ現況調査に自衛隊が協力したという問題)を考えただけでもはっきりしている。美しい日本とか何とかのたまう人がおられるが、「うつくしい碧い海」を守る気はないのだ。

 そこにつどう人間よりも、枠組みの方が大切だなんてのはホントはおかしなことだ。たとえば「家庭」というものを考えてみればいい。家庭を守ると言うとき、守るべきは何か。家族(別に親子夫婦でなくてもいい、要するに共に暮らしている人間)、に決まっているでしょう。「家庭を守るために、全員が死のう!」なんて話は聞いたことがない。ところが話が「国」という大きなものになれば、そういう類のトンデモナイことが成り立つ。いやむろん、国の場合は実際にはひとり残らず死ぬわけではなく、ちゃっかり生き残る人達がいるわけだけれど。

 国体は永遠、国民は消耗品。産めよ増やせよと尻叩いて、家畜より簡単に増やせる消耗品だ。先の戦争でも、国民は「自分達がひとり残らず死んでも国は守る」という「気概」を持たされたそうだ。為政者の頭の構造は、その時代と少しも変わらない。為政者などいう輩は、人間の間にその種の存在が誕生してこの方そんなもので、未来永劫そうなのかもしれない。

 ともあれ国体が第一である以上、為政者はそれに反逆――とまではいかなくても、疑問を持ったり、国のやることにイチャモンつける人間は「正直なところ、いないほうがいいんだよなぁ」の存在である。本当はまとめてひっくくって島流しにでもするか、どこかに閉じこめてまとめて洗脳教育したいぐらいだろう。21世紀の今日、民主主義国家を自称している以上、まさかそんなことをおおっぴらに言えないから、口を閉じているけれども(だからこそ、国民の飼い馴らし方は、どんどん巧妙になっているのだなあ……)。

 話が混乱してきたが、為政者にとって守るべき(唯一のとまでは言わないが、少なくとも第一の)ものは国体であり、だから当然、国軍は国体を守るために存在し活動する。チョコマカうるさい動きがあれば監視し、そういう動きに参加する人間をリストアップするのはいわばあたり前のことだ。それを明らかにする証拠がまたひとつ出て来たことを、私は嬉しく思う。

 ――国民を監視する「国」など、私はいらない。

◇◇◇◇◇資料/ニュース紹介

【共産党の志位和夫委員長は6日、自衛隊関係者から入手したとする「内部文書」を公表し、「陸上自衛隊の情報保全隊が市民団体やジャーナリストの活動を監視している」と指摘した。文書は、自衛隊のイラク派遣に反対する団体、個人の調査結果が中心だが、年金制度や消費税に関する集会の報告もあった。同党は「表現の自由やプライバシーを侵害する行為で、憲法違反だ」としており、政府に同日、監視活動の停止を申し入れた。
 防衛省はこれに対し、「内部文書かどうか確認できないが、この種の資料は作成した。イラク派遣の反対運動が高まっていた時期で、対応を考えるのが目的。違法性はない」としている。】(時事通信・6月6日21時1分配信)

【文書は(1)陸自東北方面情報保全隊が収集した情報を週単位で一覧表として取りまとめた二○○四年一月から二月までの一部の「一般情勢」など(2)情報保全隊本部が作成した○三年十一月から○四年二月までの一部の「イラク派遣に対する国内勢力の反対動向」―の二種類。計十一部、百六十六ページで、個人名を黒く塗りつぶした上、報道陣に公表した。イラク関係だけでも、市街地などでの活動で監視対象となっているのは全国四十一都道府県の二百九十三団体・個人で、高校生も含まれ、参加者の写真なども添付されていたとしている。】(中国新聞記事より抜粋)

◇◇◇◇◇ 

 ←碧猫さん作成の護憲パンダ・バナー。

 ←戸倉多香子さんを応援しています。民主党も戸倉さんのような人が増えれば少しは何とか……なる……だろうか。

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「恩」という言葉のまやかし

2007-04-23 23:55:36 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 ごくたまに、古いエントリに対するコメントが入ることがある。何か月も前の記事をわざわざ読んでもらって有り難い――と言いたいところだが、たいていは非難的コメントというところがおもしろいと言うか何と言うか(いや、むろん批判は大いにして欲しいし、場合によっては非難もいいのだけれども、議論の余地無し的なものはちょっと)。

 昨年8月15日付けのエントリ(小泉首相の靖国参拝に関するエントリ)に、次のようなコメントが入っていた。コメントのタイトルは「恩知らず」。

【日本人として、当たり前の事です。 後世の為に命を落とされた英霊に、感謝する。 なんだかんだ理屈をくっつけて、これが出来ない日本人は単なる恩知らずです。自分が自分だけで生きていると錯覚している、たんなる思い上がりです。】

◇◇◇◇◇◇

 正直なところ目が点になったような気分である。まず、そのエントリの中の一部を再掲する。これは上記のコメントに対する私の答えでもある。

【靖国神社は(行かれたことのある方はおわかりと思うが)ひとことで言えば「国のために命を捧げた人達(英霊)」を祀る神社である。国のために命を捧げて何が悪いか、という人もいるだろう。私はそういう考え方を一方的に否定しようとは思わないが、しかし第二次大戦の戦死者の人達の多くは、「国に殺された」のだと私は思っている。いやいや徴兵された人達もいる。勇んで戦場に行った人達の中にも、「それが正しい」といわば洗脳された結果であったりもした。無理矢理に命を捧げさせられ、それを美化されれば、むしろ彼らの魂は浮かばれまい。】

【私達は、「靖国神社」という「特殊な思想(注)に支えられた組織」のありようを認め、その思想でもって戦死者達が祀られていることを是とする人物を首相にしてるのだと、あらためて肝に銘ずるべきなのだ。「8月15日の参拝」は、あの日葬られた亡霊を「実は間違ってなかったんだよ」と囁く、靖国神社の思想への賛同表明であると私は思う。】(注=東京裁判を否定し、あの戦争は間違っていなかったのだという視点に立つ思想)

◇◇◇◇◇◇

 私は戦死した人達をバカにしたり貶める気はないし、個々の兵士をひとりひとり人間として否定する気もない。冥福を祈りたいとも思う。彼らは戦場に引っ張り出され、国に殺されたのだ。哀惜の念を持つのはいわば当然のことなのだが、だからといって美化してはいけない。

 死者に鞭打つなという言葉がある。死んだ人の悪口は言わない、という習慣めいたものもある。内心「早く死ね」と思っていた相手でも、死ねば「惜しい人を亡くしました」的な言葉で弔う。それが死者への礼儀だと思われているようだ。そういう習慣との絡みで、「戦死した人のことを、無駄死にと言っちゃいけない」と思われているのかも知れない。だが、それが本当に死者への礼儀だろうか。

 親兄弟や先祖がやったことでも、尊敬する人や親しい友人がやったことでも、過ちは過ち、である。身内だから、親しい人間だからといって隠したりごまかしたりして、あまつさえ「正しいことだった」とねじ曲げるのはかえって礼に反する。過ちや愚行がなされればそれを認め、繰り返さないようにするのが真の意味の「恩返し」ではあるまいか。

 いわゆる「英霊」は、感謝されたいと思っているだろうか。第二次大戦で命を落としたのはむろん兵士達だけではない。空襲で亡くなった人、原爆投下によって亡くなった人達。集団自決に追い込まれた、沖縄や満州開拓団の人達……等々、彼らは感謝されたいと思っているかと考えれば答えは明らかだ。兵士とその他の人達は違うって? 基本的には違いませんよ。戦場で「敵」を殺したかどうかなどの点はもちろん違うけれども、どちらも――何度も言うが、国によって、無くさなくてもいい命を無くさせられたのだ。私達が彼らに言う言葉は、「(死んでくれて)ありがとう」ではなく、「(死なせて)申し訳ありません。二度とこんなことが起こらないよう努力します」であるはずだ。

 

「息苦しい社会はイヤだ」というブロガーの輪、Under the Sun に参加しています。

 戸倉多香子さんを応援しています。(戸倉さんには申し訳ないが、民主党は支持していません。ただしもう少し何とかしろという意味を込めて、貴女を応援します)

 

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「忠誠」って……相手が違うでしょうが

2007-02-21 23:23:01 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)


 3日ほど前の話なので、既に多くのブロガーが書いておられることだが……遅ればせながら私も少しだけ(生活に追われている身なので、反応がいつもワンテンポ遅れるのである……)。

 去る18日、中川秀直官房長官が仙台市で講演した時にこんなことを言ったらしい。
「安倍晋三首相が(閣議で)入室したときに起立できない、私語を慎めない政治家は美しい国づくり内閣にふさわしくない」「閣僚、官僚のスタッフには首相に対して絶対的な忠誠、自己犠牲の精神が求められる。首相の当選回数や、かつて仲良しグループだったかどうかは関係ない」。

 これに対する批判、というか「あきれたもんだ」と肩をすくめる姿が見えるようなコメントも多い。ケッサクだったのは、亀井静香議員(国民新党)の「日本はいつから北朝鮮になったのか」。(記事末に資料掲載)

 なるほど。中川官房長官の頭の中では、安倍首相は「将軍サマ」であるらしい。


〈起立を求める滑稽さ〉

 起立しろとか私語を慎めとか、その部分だけ読むと言われた相手は小学校の生徒かと思ってしまう。「先生が教室に入ってこられたら、起立しましょう。授業中は勝手にお喋りしてはいけません」。……あはぁ。

 まあどんな会議でもその最中に後ろの方で関係ないお喋りばかりしているのはよいことではないが、起立の方はバカバカしさを通り越して発言した官房長官の神経を疑う。

 トップが入室したときに起立するなんていう話は聞いたことがない。一般企業でも――たとえば式典の時などには会長を起立して迎えるなんてことはあるかもしれないが、日常的な会議で社長が入室する時に起立するなんて話は聞いたことがない。むろんそんな会社は存在しない、とまでは断言できないが、少なくとも私の知る範囲では。営利企業以外のいろいろな組織――たとえばNPOなどの会議で代表が入室する時に起立するとか、労働組合の会議で委員長が入室する時に起立するなどという話も。

 首相が入ってくる時、閣僚がサッと起立して迎える。その図を滑稽だと、官房長官は思わないのだろうか。礼儀の問題とからめて「よいことだ」と言う人もいるかも知れないが、これは礼儀の問題ではない。礼儀正しくしましょうということでなく、「一糸乱れぬ行動」の要求である。私は先に神経を疑うと言ったが、疑っていてはいけないのだ。そういう感覚の持ち主なのだと改めて認識すべきであった。



〈忠誠や忠義ほどうさんくさいものはない〉

 だから、「忠誠心」などという言葉が出てくるのだ。官房長官の発言の中で私が最大のポイントだと思い、ほとんど肌が粟立つような印象を持ったのは、「絶対的な忠誠」という言葉。官房長官は、閣僚や官僚は「首相に絶対的な忠誠を誓うべき」だと明言したのである。

 忠誠とは何か、忠誠心とは何か。――語源がどうで、歴史を紐解くとどうで、学問的な検証はどうで――といった話を始めるとコトがややこしくなるので(むろんそういうことを正確に論じられるような知識もないし)、このさいそれらは無視して話を進めたい。

 で、自分のいい加減な感覚だけに頼った話になってしまうのだが……最初に言っておくと、私は「忠義」とか「忠誠」などというものが大嫌いである。忠義や忠誠の名のもとに、過去多くの人々が踏みにじられ、泣かされてきたからというだけではない。

 余談になるが、国への忠、天皇への忠のために多くの人達が戦争に駆り出されて死んでいったのはたかだか半世紀余り前のこと。それ以前でも洋の東西を問わず、無数の人々が忠義のために生活を、そして命までも奪われた。それを肯定的に美しく歌い上げたものはたくさんある。小説もあるし、叙事詩のようなものもあるが、私はそれらすべてが嫌いである。

 話を戻すと――そういった過去の事実があるゆえに嫌いなのではなく(もちろんそういう面も大きいけれども)、そのような「歪んだ美談」の温床になるから嫌い、なのである。

 組織・集団は、そして組織・集団のトップ(とその周辺)は、常に――とまでは言わないが、少なくともかなり多くの場合、構成員に対して「忠誠」を求めたがる傾向がある。「国」のような巨大なものだけではない。小さなサークルのようなものでさえも。その組織・集団と、トップに立つ人間を神聖視もしくは絶対視し、「たとえ火の中、水の中」という気持ちを掻き立てるのが、組織・集団を守るにあたって非常に有効な手段だからだろう。「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という非人間的なモラルほど強いものはなく、おそらく組織・集団のトップはそれを徹底させたいと思うのだ。いったん神聖視・絶対視に成功すれば、トップがどれほど「トンデモナイ奴」でも逆らうことは不義になる。そんな神のような存在になるのは、気持ちがいいのだろうなあ。私はなりたくないけど(むろん、これから先、100年生きたってなれるわけもないけど)。そして、祭り上げた人間達にとって都合がいいんだろうなあ。

 傀儡、という言葉がふと浮かぶ。閣僚を初めとする与党の政治家や官僚が首相に絶対的な忠誠を誓えば、首相の名を借りて何でもできるよなあ。総理のご意向ですと言えば、何でも通るよなあ。むかしむかし、天皇や将軍の名のもとに、好き放題のことをできたように。


〈忠誠を誓いたければ国民に誓え〉

 私自身は忠誠や忠義は嫌いだと言ったけれども、その手の観念に価値を見出す人がいるということまでは否定しないし、価値を見出すのは個人の自由だとも思っている。

 ただ、それにしてもである。忠誠誓うのはいいとしても、誓う相手を間違ってりゃせんか。

 何度も繰り返して言っているので、ホント自分でもあほらしいけれど、政治家は「公僕」なのだ。ナントカ省で働く人達も市役所で働く人達も、すべて公僕、パブリック・サーバントなのである。「パブリック」は「国」ではない。ましてや「時の政権」でも「与党」でもない。もともとpublicは「人民」という言葉から出ているそうで(うわ、知ったかぶりしてゴメンなさい)、だからパブリック・サーバントというのは要するにその国に属するすべての人民のために働く人々のことである。


 忠誠を誓いたいのならば、誓う相手は「この国で暮らしている、すべての人々」だろう。それ以外に、誓う相手はいない。


◇◇◇資料◇◇◇

【自民党の中川秀直幹事長が閣僚に安倍晋三首相への「絶対的な忠誠」を求めたことに対し、野党内から21日、「日本はいつから北朝鮮になったのか」(亀井静香国民新党代表代行)などと厳しい批判の声が上がった。亀井氏は記者会見で、自身の閣僚経験を振り返り「(閣議の際)自分は直立不動で首相を迎えたことはなかった」と説明。中川氏をPTAに例え「父兄がしゃしゃり出てくると首相にとって良くない。『政権はおかしい』と世間に言ったのと同じで、PTAとしての愛情がない」と皮肉った。社民党の福島瑞穂党首も会見で「日本は『ハイル・ヒトラー』の世界ではない」と指摘し、「首相の求心力がないと天下に暴露してしまった。首相も立つ瀬がない」と語った。】(時事通信・2月21日配信)
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「愛国心教育法」に反対する・その他雑感

2006-11-23 23:51:04 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 今週はやけに仕事が忙しい。さらに休日の今日は地元の小さな会合の手伝い(下働きの雑用)をしていたので、肉体的にえらく疲れた。チョッピリずつ酒飲みながら仕事の資料を整理しているうちに酔い、酔った紛れにメモを残す――。 

〈愛国心教育法〉

  安倍首相は参院の教育基本法特別委員会で、「国旗や国歌に対する敬意の重要性」を述べたそうだ(注※)。現在の「教育」に問題が多々あるとは、長屋のくまさん・はっつぁんでも思っている。どうにかならんかい、と切歯扼腕している人は多いだろう。だから教育を改革しなければ――という言葉は耳障りよく響くのだけれども、ちょっと待てよ。革命、改革、再生……すべて言葉としてはうつくしいけれど、問題は中身だ。安倍首相の言う教育再生が「愛国心教育の再生」であることを、この発言ははっきりと露呈した。  私はこの寝言ブログで何度も言っているのだけれども、国旗を掲げたい人は掲げたらいいし、国歌をうたいたい人は歌えばいいのである。それをとやかく言う気は毛頭ない。ただし、私は国旗や国歌というものはそれが何処の国のものであっても好きではないので、掲げも歌いもしないけれども。――ちなみに私は世界中の国旗がへんぽんと翻るオリンピックがどうしても苦手で、まともにその中継を見たこともない(「こんなオリンピックなら見てもいい」などのエントリで、その辺のことを書いた)。

 少し妙な話になるが、そう――たとえば私は自分が学んだ学校たちを嫌いではない。それなりの愛着があり、「ここをもう少しこうすればいいのに」ふうの意見や批判を提示するのも、もっといい学校になって欲しいからだ。(私は平凡な、ごく普通の人間である。平凡・普通という言葉を、ある種の矜恃と共に使ってもいる。だから)多くの方が同様ではないかと思う。ただ。私は校歌なるものをやたらに歌うのはどうも好きになれなかったし、襟に校章を付けて街を歩くのも好きではなかった。そんなことでアンデンティティーとやらを保証されたくなかったのかも知れない。

 そういう「感覚」を容認して欲しい。旗を掲げたり歌を歌うことを「愛」の踏み絵にしないで欲しい――私が願うのは究極のところ、ただそれだけである。

 私が偏愛する詩人のひとりである堀川正美は、『新鮮で苦しみおおい日々』の中で次のようにうたった。

【恐怖と愛はひとつのもの/だれがまいにちまいにちそれにむきあえるだろう。(中略)時の締め切りまぎわでさえ/自分らにであえるのはしあわせなやつだ(中略)してきたことの総和がおそいかかるとき/おまえも少しぐらいは出血するか?】

(余談――私はこの最後のフレーズを「おまえも少しは血を流すか?」と誤って覚えていた。メモするにあたって確認した際、誤りに気付いた)

 してきたことの総和が襲いかかるとき、私の全身は涙色の血を流す。いや、私の九穴が血の色をした涙を流すのかも知れない。夢見たものの10分の1も手に入れられず、阻止しようと思ったことを阻止できず、叫びはあたかも荒野をよぎる風のように行き過ぎるままにべんべんとして生きてきた――辺見庸流に言うならば「いまここに在ることの恥」。

 国家から、国を愛せと言われる筋合いはない。愛する対象ぐらいは自分で選ぶ。まんいち――そう万が一、国家に恩があるとしても、だからといって愛せるかどうかは別の話だろう。義理と人情をはかりにかければ、義理が重たい男の世界、だそうである(そういう歌があった……うろ覚えですが)。だが私は正真正銘の「いくじなし」として、小便ちびりそうなほど震えながら言う。「情」のほうが重たいのです――と。

 〈焦燥する自分に向けて〉

  冒頭に紹介した首相の発言は、22日のものである。これを書いている時点から見ると、1日半――いや、2日近く前である。情報のキャッチが遅れている感じもするが、おそらく皆さんも同様だろう、自分の生活でけっこう手一杯な面もあり、1日どころか2日も3日も遅れて情報を得ることもしばしばだ。 私は職業柄いわゆる「ニュース」には敏感になっているが、それでも1日に1度や2度は「あ、そんなことがあったの」「誰それがそんなこと言ってたの」と驚く。そんなとき、良くも悪しくも「情報に振りまわされている」自分に気付いてドキリとする。

 ブログを始めて他のブロガーからTBをいただくようになってからは、そのドキリがさらに増えたような気もする。常に最新の情報を入手してないとまずいよ、という強迫観念。その強迫観念から、少し自由でありたいとも思ったりしている。ひとりの人間が知ること、考えることには限りがある。何でもキャッチしておかねばまずいわけでも、すべての問題について一家言持っていないとまずいわけでもない。

 いま、「ものを考える」「行動する」基本に立ち返りたい、とも思う……。

◇◇◇◇◇

※注/資料【安倍晋三首相は22日午前の参院教育基本法特別委員会で、学校の卒業式などでの国旗掲揚と国歌斉唱について、「自国の国旗国歌への敬意、尊重の気持ちを涵養(かんよう)することは極めて大事」と述べ、「政治的闘争の一環として国旗の掲揚や国歌の斉唱が行われないことは問題」との考えを強調した。自民党の舛添要一氏が、一部の学校では国旗掲揚などが行われていないことを「法律違反」と指摘したのに対する答弁。伊吹文明文部科学相は、国は教育委員会に対し要請や指導をするが、現場が従わない場合の権限が無い点を挙げ、「これをどうするか、与野党を超えて、教育の根幹にかかわる問題として議論してほしい」と述べた】(時事通信・11月22日)

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「国旗・国家問題」東京都の指導は変わらず……

2006-09-27 02:19:43 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)


 日の丸・君が代の強制は違憲・違法――という判決が出たにもかかわらず、下の方にコピーした資料(新聞記事)を見ていただければわかる通り、都教委は自らの方針に自信満々。臨時の校長連絡会を開いて、「今まで通りに国旗・国歌の指導を」と釘を刺した。

 なぜ、それほどまでに国旗に敬礼させたがり、国歌を歌わせたがるのか(あのですね……学者や評論家の方たちによる詳細な論考は、いくら私でもわかっています。私は活字オタクですから、活字だけはあれこれと読みあさってますし。ですからまことに申し訳ありませんが、このエントリに対して学者や評論家の言葉を引いて解説を加えていただくのは御容赦ください。ただ、知識として理解するということと、感覚として理解するということはまた別。私の存在の根底にあるものが、「なぜ? なぜ?」と悲鳴を上げているのだ。ですからご自身の存在を賭け、肉声でもって発言してくださるコメントならば、賛同であれ批判であれ大歓迎である。肉声のぶつかり合いの歓びがなければ、アホらしくてブログなんかやってられっかよ。1円にもなるわけじゃなし、こんな過疎ブログが世の中を変える力なんざ持てるわけないし。かすかに響きあうものを求める思いがなければ、おかしくってやってられるもんか。冗談じゃあねぇよ)。

 我らが都知事は、「子供達の規律を取り戻すために、ある種の統一行動は必要」と言い、そのひとつが国旗・国歌への敬意だと断言したそうな。ふうん……規律、ねえ。統一行動……ねえ。子供達の世界が凍原のように荒れているのは事実だとしても、それが「統一行動」によって救われるというのはあなたの思い込みでないの? 出口を求めて苦しむエネルギーや感性を、上から統制するのでなく、どう育ててやるかを考えるのが教育というものじゃあないんですかね。ありもしなかった父権幻想(父権と母権については河合隼雄がよく言ってますね。彼の論の是非はともかくとして、日本にほんとうに父権なんてものがあったのか、というあたりは結構納得できる)に魅せられた父権オタクのマッチズモ知事は、都民を戸塚ヨットスクールの生徒扱いして、上から言われたことに忠実に従う「純粋な青少年」を作り出したいらしい。上の世代を否定し、世の中に疑問を持ち、権力に反抗するのは10代の人間に共通したごく自然なメンタリティ(ただし、それをいつまでも持ち続ける人間は――少ないとは言わないが、大多数でないことはおそらく確かである)。『太陽の季節』(はっきりいってつまらない小説だった。風俗的にちょっと目立つことを書けば評価してしまうと言う、文壇とやらの体質にも私は失望した)を書いた作家なら、わかっているはずだと思うが……。もしかすかるとよくわかっているがゆえに、自分が年をとるにつれ、そのエネルギーが怖くなったのだろうか(苦笑)。

 私は国旗を拒否し、国歌を歌わない「最後のひとり」になってもかまわない(何度も言うが、私は「日の丸・君が代」がダメと言っているわけではない。世界中どこのものであれ、国旗も国歌も私は自分自身のメンタリティとして認められないのだ。日本で革命が起き、日の丸・君が代ではない国旗と国歌が生まれても、私はそれを認めないであろう)。かなり前にも書いたような気がするが、私は生まれてこのかた、国旗を掲げたことも国歌を歌ったこともない。ついでに言うと、制服なるものを着たこともない。特に深い思想的な背景があったわけではなく、単に「右へならえ」の日常が嫌だったのだ。そういう人間は、決して少なくないと思う。その感覚を押しつぶそうとする一糸乱れぬ靴音に、私は死ぬまで抵抗する。むろん「いくじなし」なもんですから、勇ましい抵抗はできませんけれどね。

 怒り狂っているせいで、変な記事になった。私は原則として下書きはせず、書き流すだけなので……まっ、所詮は「庶民のメモ」ということで、御容赦。
 

◇◇◇資料◇◇◇
 東京都教育庁は22日、入学式や卒業式での国旗・国歌の強制を違憲とした東京地裁判決(21日)を受け、都内で都立学校の校長を対象にした臨時校長連絡会を開いた。都立高校や盲・ろう・養護学校の校長251人が出席し、同庁は、日の丸と君が代の指導について、今後も従来通りの方針で臨むことを説明した。
 連絡会は非公開。同庁高等学校教育指導課によると、同庁側が控訴する方針を示したうえで、判決の内容を説明し「私どもの行政行為が何ら阻まれるものではないので、今まで通り、通達に基づいて国旗・国歌の指導を実施してほしい」と要請した。また、校長2人から質問があり「控訴審はどうするのか」との問いには「訴訟態勢を強化する」、「(教職員への)職務命令をどう考えたらいいのか」との質問には「一向に変わらない」などと返答があったという。
 同課の高野敬三課長は連絡会後「周年行事や卒業・入学式に向けて課題が出てくる場合、教育庁一丸となって支援していきたい」と話した。
 東京都の石原慎太郎知事は22日の定例会見で、東京地裁判決について「(裁判官は)都立高校の実態を見ているのかね。現場に行って見たほうがいい。乱れに乱れている」と疑問を呈し「子供たちの規律を取り戻すために、ある種の統一行動は必要。その一つが国歌、国旗に対する敬意だ」と指摘した。さらに「(学習)指導要領でやりなさいといわれていることを教師が行わない限り、義務を怠ったことになるから、注意、処分を受けるのは当たり前」と語り、指導徹底を打ち出した03年10月23日の都教委通達の意義を強調した。(9月23日付・毎日新聞)
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法律「以前」の問題? それならばなぜ…… 

2006-09-23 01:37:53 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)


 卒業式や入学式などで日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務付けた東京都教委の通達に対して都立学校の教職員らが「義務はない」と訴訟を起こし、9月21日に東京地裁で原告側全面勝訴の判決が出た。裁判長は「通達は不当な強制に当たり、憲法が認める思想・良心の自由を侵し、教育基本法にも違反する」と述べ、通達違反を理由とする処分も禁止した。(嬉しいニュースだと思い、昨日のエントリでも書いた)

 この判決について、小泉首相は「人間として、国旗や国歌に敬意を表するのは法律以前の問題ではないか」と感想を述べた――そうである。また出ましたね。「心の問題」と同じモノの言い方が。

 法律以前の問題というなら、それはそれでもいい(私は法律以前というより、法律で規制する問題ではないと思っているが)。だが、それならばなぜ「通達」で縛らねばならないのか。むろん通達はいわゆる「法律」ではないが、遵守すべきルールとして提示される点においては法律と同じである(と、ごく普通の感覚では思う)。

 愛国心だって、小泉首相はもしかすると「自分の帰属する国を愛するのは、人間として当たり前のこと。法律以前の問題」とおっしゃるかも知れない。それならば、なぜ教育基本法に盛り込もうとやっきになるか。「法律以前の、心の問題」ではないからこそ、法律で決めてしまわないと不安なのでしょう? 人間として自然なことではないから、守るかどうか目を光らせなければ不安なのでしょう?

 ほんとうに「法律以前の」「心の問題」であるならば、国や自治体でルールを決めるな。法律以前の問題まで決めなければ気が済まないのは為政者のサガであるとしても、ルールというのは決めれば決めるほど「こういう場合は」「ああいう場合は」とシュミレーションせざるを得なくなり、重箱の隅をつつくようになりまさる。紳士協定、などというものはすっ飛んでしまうのだ。それは人間――自分の頭で考え、自分の言葉で語ろうとする人間に対する冒涜である。

 ついでに言うと――「敬意を表せ!! 起立せよ!! 歌え!!」とやかましく言わなければ、日の丸や君が代が好きだという人がもっと増えるかも知れないのにねぇ……。

 
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「愛国心」はなぜ危険か

2006-09-21 01:23:50 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

〈前口上〉

愛に関するメモ――愛国心に興味はない」「愛国心・お客さまコメント(番外)」など、「愛国心」関係のエントリで、コメンテーターの議論が続いている。 さまざまな意見をいただくこと、知識や情報を提供していただくこと、そして活発な議論を展開していただくこと――原則としてすべて大歓迎である。賑やかなのは大いに結構。ただ、ポカンと口開けて横で見ている間に、どんどん話が拡散してきているので、昨日、次のようなコメントを入れた。

【議論のテーマが「愛国心」そのものから少しずつ逸れてきているような気配が……。むろん人権の問題も共謀罪の話も愛国心問題と根っこの所でつながっていますが、それを言えばきりがない。たとえば先日ご紹介した『虫たちの墓』紹介の記事を読み、戦争に関わる問題として東京裁判についてのコメントを入れる――ご自身の感想にからめて軽く触れる程度ならいいのですが、唐突な感じで持ち出してこられたり、コメント欄で東京裁判論争が始まったりするのはちょっと違う気がします。私はせっかくいただいたコメントはなるべく読みたいと思っていますので、あまり広げてくださらぬよう、お願いします(関係ない話が出て来た時に、すぐにストップかけなかった私が悪いのですが……すみません)。】

 これからも、そういうことでよろしくお願いします。愛国心の問題はきっちり煮詰めていきたいと思うので、「国を愛するのは自然なことでしょ」といった粗雑なご意見や、言葉尻を捉えてうんぬんするようなことは御勘弁を。

〈愛国心の定義〉

 愛国心というのは人によって受け取り方が違うので、まず愛国心の定義をはっきりてせるべきだという提唱があった。どんな言葉であれ、その解釈や感じ方は人によって違う。ひとつひとつについて定義づけながら話を進めていかねばならないとすると、もともと言葉に変なこだわりのある私なんざ、それこそ何も書けなくなってしまう虞もあるのだが……「愛国心」に限っては議論の方向性を明らかにするためにも、定義した方がいいだろう。まずは一応、私の愛国心の定義を書いておく。

私が解釈している辞書的定義/ごく単純に「自分が生まれた国、あるいは育った国、住んでいる国等、自分自身がそこに帰属していると考える国」に対して、特別な思い入れ(愛着する心)を持つこと。

(自分の国という簡単な言い方をしないのは、生まれた国、育った国、いま所属している国等が異なる人もいるから。たとえば小泉八雲が自分は愛国心を持っていると言ったら、その対象は母の祖国であり彼が生まれた国でもあるギリシアか、父の祖国であり幼児期から育ったアイルランドか、最も長く生活したアメリカか、それとも最後に国籍を持った日本か。何処でしょうね)

私自身の愛国心の定義/「自らが帰属している(あるいは帰属していると考える)国」に対して、それを特別なものとして思い入れを持つこと。その思い入れの中身は「愛着心」と「忠誠心」の2種類がある。

〈問題は忠誠心〉

 愛着を持つというメンタリティは、誰も否定・非難することは出来ない。子供が「うちのお母さんは世界一すばらしい人」と思ったり、特定の土地が好きで好きでたまらなかったり、伝統芸能を大切に守りたいと思ったりすることについては、基本的に(あくまでも基本的に、である)問題はない。

 問題は「忠誠心」の方にある(それはまあ、持ちたい人は持ってもかまいませんけれども)。そして国家に代表される人間の集団においては、しばしば「愛着」よりも「忠誠」が重視される。愛国心なるものの危険性は、そこにある。

 よく「自分の国を愛するのは自然なことじゃないか」と言う人がいる。愛着を感じる、という意味だけならばあるいは「自然なこと」に近いかも知れない。私は愛着心も比較的薄い方だが、それでも日本の文化の中で育った人間として、ヘソの緒でつながっている感覚はある。イヤな国にはなって欲しくない。

 しかし、本当に「ごく自然なこと」であれば、なぜわざわざ「愛する心を育て」なければいけないのか。答えは簡単で、実は自然なことでも何でもないからだ。前にも書いたような気がするが、誰も絶対に立ち小便や違法駐車するわけない所に「立ち小便禁止」「駐車禁止」の張り紙などするわけがない。そういった張り紙があるのは、そこでする奴がいる、という証拠みたいなものである。「愛国心教育」の必要性を声高に叫ぶ人々がいるのは、自然に任せていては生まれにくいものだからであり、その場合の愛国心の中身は間違いなく忠誠心の方である。

 コメント欄で「アメリカでもドイツでも国旗に礼を払うのは学校で教えます。国家ならば当然の行為でしょう」と書かれた方がおられるが、そう、まさにその通り。国旗にせよ国歌にせよ忠誠心を養うための小道具であり、だから私はいかなる国のものであっても国旗や国歌は好きになれないのだ。

〈忠誠心にNOを〉

 忠誠心というのは相手が何ものであれ、その相手だけに捧げられる(あなただけを愛する、というやつだ)。そして、忠誠を誓った相手のために、彼の敵を滅ぼすことに情熱を燃やす。忠誠心は一面美しいものであるらしく、王に忠誠を誓ったり、帰属集団に忠誠を誓って華々しく戦いそして死んでいった英雄達の物語は世界中に枚挙のいとまもないが、一歩下がって見てみれば「何だそれ」でしかない。忠誠心に燃えた人間達同士が殺し合って、いったい何してるんだ。いや、本気で忠誠心に燃えている人はいいとしても、巻き込まれて犬死にしたり家を焼かれた人間はどうなるんですか。

 愛国心、などという曖昧な言葉がいけないのかも知れない。いっそ「忠国心」と言っていただければ、わかりやすいと思うのだが。

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お読み下さい、「愛国心に興味なし」コメント欄

2006-09-14 22:49:24 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

愛に関するメモ――愛国心に興味はない」に、多くのコメントを寄せていただいている(と言うより、コメント欄で何人もの方が論陣を張ってくださっている)。ブログの記事1回分ぐらいの長さで中身も充実した堂々たる一文もあって、放っておくのは何とも勿体ない限り。特に村野瀬玲奈さん、ブログを持っておられないということでコメント欄で緻密な国家論、歴史論を展開してくださり、これは別途取り上げなければと思って「お客さまコメント」のエントリを立てようと考えた。

……のはいいが、前置きを書いたところでストップ状態になったままというお粗末。言い訳がましいけれど、まだ議論が続いており、私がそれを追い切れないのである。何せ提起されている問題が、ちょっとやそっとでは片付かない大きな問題ばかり。これは一段落するまで皆さんの白熱した愛国心論を読ませていただき、ちょっと間を置いてから私なりに考えたことをまとめた方がよさそうだという結論に達した(少なくとも現在のところはそう思っている。明日になったらまた変わるかも知れないが)。村野瀬さん、大きなことを言っておきながらスミマセン。

ともかく、である。愛国心は一休みするが、ここを訪れた方には是非、上記のエントリのほか、それに続く次の2つのエントリの「コメント欄」をお読みいただきたい。私の記事は、お暇があったら読んでいただけると嬉しいのですが……という程度。実際問題として、記事よりコメント欄の方がおもしろいことを保証する(なさけな)。

愛国心に興味なし・お客さまのコメント前編

愛国心に興味なし・お客さまのコメント番外

追記/もうひとつの小さな理由――コメント欄で議論が白熱してくると、(これは私のブログの場合だけかも知れないが)どうしてもコメンテーターが限定されがちになる。また、真剣な議論の間に軽いコメントを入れるのは誰しも気が引けるので、簡単な挨拶コメントなどはどうしても入れていただきにくくなる。むろん議論をしていただくのはある意味望むところ。これからも議論の場として使っていただければ少しは自分のブログも役立っている気がして嬉しいのだが、たまには愛国心とは何か!という重いコメント以外の、ほんわかしたコメントもいただけると気分が変わって嬉しいなあ……という欲張った気持ちもあったりする。

そんなわけで先ほど、自分自身の一休みも兼ねて全然違うエントリを立てた(広い意味では似たようなテーマなのだが)。もっともまたしても本の話だから、活字中毒以外はおもしろくないかも知れないが……。

 

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「愛国心」お客さまのコメント・番外――愛「人」主義に乾杯

2006-09-12 22:13:04 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 世界の中心……じゃなかった、世界の片隅で「愛国心に興味はない」と叫んだところ、「私もひとこと」という方がたくさんいらっしゃった。中でも村野瀬さんはかなりまとまった形で理論的に書いて下さり、コメント欄に置いておくのはもったいないので紹介がてら別途エントリを――と思って前口上だけ書いたのだが、さてどんなエントリにすればいいのだろう。ただいま思案中ということで、いきなり番外編。

 同じエントリのコメントで、Looperさんがこんなことを書いてくださった。

【私は、家族や親戚や友人が、平和で穏やかな人生を歩むことができるように、社会がよりよくなる事は望んでいますね。特に、病気や障害を持ったような時にでも、ちゃんと希望を持って生きていける社会になることをね。

それと同じように、中国や北朝鮮や韓国やアメリカやイスラエルやヒズボラやイラクなど、世界中の人々、特に子どもたちが、衣食住に困らず、希望する教育を受けられ、他人に命を奪われる恐怖を受けることなく自分の道を追求できる社会になることを心より願っています。

だからこそ、自分の子どもだけでなく、地域の子どもたちを世話する活動もしているし、地域をより良くする運動にも手を出しているわけですね。地域の自然や文化を子どもたちに知ってもらう運動もやってる。

しかし、国家を無理やり愛させる必要ってなんだろ?
それは、自分より国家が大事だっていう下らない思想を押し付けたいだけにしか思えない。つまり、「お国のために死ねる人」、正確には、「お国のためという名目で、人を殺し・殺されにいく人」を作る事ですね。私は、自分が殺されたくないのと同じくらい、他人を殺したくない。だから、国(郷土のことではない、国家体制の事)なんか愛さない。人を愛する。だから「愛人主義」(爆)なのだ。】

 なるほどなるほど。この「愛人主義」という言葉、お玉さん やとくらさんが同感してブログで取り上げられたこともあって、ひそかにはやり初めている……かも。ご本人はギャグのつもりで書かれたのかも知れないが、こういう軽快なユーモアに触れると本当にホッとする。

 私も基本的にはハゲシク同感。もっとも私は人間以外も(犬も猫もトカゲも赤トンボも、お化けや幽霊も)できるだけ愛したい方なので、「愛命主義」かな。でもそれだと愛人主義、という言葉のように〈爆〉とはいかないのが困るところ。

……などという話はどうでもいいのであって。国などというのは、所詮は道具。こんなことを言うと怒り心頭に達する人もおられると思うが、人間が「うまく暮らしていく」ために、こしらえたものに過ぎない。組織とか社会的仕組みというのは、みんなそうさ。生きている人間の方が大切で、その組織や仕組みのおかげで風通しが悪くなったり息苦しくなったりしても、我慢して守り続けるものじゃあない。

 そういえば村野瀬さんに対して、久々さんが「嫌ならどうぞ他の国に行って下さい」と書かれていた。嫌なら出て行け、というやつですね。これはよく聞く言葉。たとえば高校でも大学でもいいが、通っている学校の教育方針なり規則なりに疑問を持って「変えたほうがいいんでない?」と言うと、「自分で選んで入学しておいて、文句言うな、嫌なら辞めろ」と罵倒されたり……。そういう話じゃあないでしょう。

 しつこく言うが、私は「愛国心」なんぞと言うものに個人的にはまったく興味がない。いま地上に存在している中で、100%信頼できる「国家」などはひとつもない。国家という枠組みは一種の必要悪。現実問題として少なくとも現在のところは存在を認めざるを得ないのだが、そこから可能な限り自由でありたいと思っている。「生活の便」のために、税金も払いますよ。選挙にも行きますよ。法律だって、基本的にはきちんと守ります。でも私の命や想いよりも、そして私とつながる大勢の人の命や想いよりも「国体」が大切だなどとは、0.000……1%も思わない。

 国家フェティシズムに巻き込まれたくないというのが、私のささやかな望みである。

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「愛国心に興味なし」お客さまのコメント・前編

2006-09-11 03:43:56 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 先日「愛に関するメモ――愛国心に興味はない」という記事を書いたところ、多数のコメントをいただいた。私のブログは公開しているとはいえ他者へ呼びかけようという意識のやや薄い「日記」「覚え書き」なので(※)、普段はそれほどたくさんのコメントを頂戴できるわけではない(たいしてアクセスのあるブログでもないし。汗)。だが憲法だの教育基本法だの愛国心だの靖国神社だの天皇制だの……をテーマにするとしばしばコメントが2桁台になり、ヘタレ・ブロガーとしては眼が点になりそうだ。やっぱり皆さん、興味のあるテーマなんだなあ。

(※自分のブログに1ミリでも世の中を変える力があるなどとは、ゆめにも思っていない。私にとってブログとは自分の中で何ものかを確信し続け、さらにごく少数であっても同じ問題意識を持つ人達に対して思いつくままに語りかける手段の一つにしか過ぎない。そういう感覚で気楽に気軽に書いているだけだ)

 コメントは当然のことながら短い感想が多く、「読みましたよ」「同じテーマの記事を書いたのでTBします」などのひとこと挨拶コメントもある(孤掌鳴りがたし。言いっ放しの覚え書きだから原則として読んでくれる人がゼロでもかまわないのだが、所詮は私も凡人。読んだよと言ってもらえれば、それだけでも自分が独り凍原を行く旅人ではないとわかって非常に嬉しいのだ)。ときには難詰調のものや、何を言いたいのかよくわからないコメントもないではない。

 でも同時に自分がわかっていなかったことを教えて貰ったり、新しい視点を提供していただくものも少なくなく、これがブログのおもしろさなのだろうなとふと思ったりする。

 前置きが長くなったが、愛国心関連のコメント群のうち村野瀬玲奈さんが書いてくださった一文について、luxemburgさん から次のようなアドバイスをいただいた。ちなみに村野瀬さんは多くのブログに意見を書いておられる方で、時々私の所なんぞへも来てくださっていつも恐縮している(歴史認識の正確さ、文章の論理性ともに秀逸で、教えられることが多い。ほんとすんません、私みたいなしょーもない寝言ブログまで読んでいただいて……勘弁してください。汗)。

村野瀬玲奈さんがここまで書かれたのはコメント欄ではもったいないから、私なら「お客様エントリーシリーズ」で一個エントリーにしますね。いつものことながら正確な歴史認識に感服します。】

 そっか。そうだよな――というのが率直な感想。私ひとりで納得したり、おもしろがってちゃいけないんだよな。エントリを覗いてくださった方が、みんなコメント欄も読んでくださるとは限らない。それならば、独り占めするのが勿体ないようなコメントは、エントリを立てて積極的に公開していくべきだろう。(これまで私はブログ=覚え書き論者で、要するにあくまで私的なものだという感覚があった。だがいくら私的な寝言でも公開した以上は公的な性格を持つわけで、それならば自己チュー的な感覚は少し改めるべきだろう)

 ――ということで、村野瀬さんのコメント。

【たとえば、「パトリオティズムはならず者の最後の逃げ場所」という言葉に深くうなづく私です。「愛国心」とは何かいろいろな考え方があるでしょう。しかし、現実には、個々人(たとえば久々さん)がどう考えようとも、「愛国心」と国家が呼ぶものを国家は人々に押し付けようとする。国旗という形で。国歌という形で。国家のために死ぬことを称揚するという形で。「~に従わない者は非国民だ」という圧力とともに。】

【我輩はムルである。「愛国心! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした。愛国心! と新聞屋が云う。愛国心! と掏摸が云う。愛国心が一躍して海を渡った。英国で愛国心の演説をする。独逸で愛国心の芝居をする。東郷大将が愛国心を有っている。肴屋の銀さんも愛国心を有っている。詐偽師、山師、人殺しも愛国心を有っている。愛国心はどんなものかと聞いたら、愛国心さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた。三角なものが愛国心か、四角なものが愛国心か。愛国心は名前の示すごとく心である。心であるから常にふらふらしている。誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。愛国心はそれ天狗の類か。」
愛国心に興味のない人はいいのですが、愛国心を他人にも持ってもらいたいと思っている人は、愛国心とは何か、愛国的行為とは何か、きちんと定義してから書き込みをお願いしますね、と言いたくてパロってみました。】

 ムルの奴、最近顔見ないと思ったら、村野瀬さんとこに行ってたのかよ(笑)。うちのトマシーナが、「兄貴、何処うろうろしてんのかなぁ」と寂しがってるぞ。

……てな話はどうでもいい。ここで一部紹介したが、村野瀬さんが提起された問題はいくつもある。それについてこれからひとつひとつ、私なりに――馬鹿の考え休むに似たりと言われようとも――エントリを立ててみたい(という、今回は幕が上がる前の簡単な口上)。今日は狂乱するほど忙しかったので前置きプラスアルファということで、以下、明日以降。 

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愛に関するメモ――「愛国心」に興味はない

2006-09-06 01:57:19 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

〈おまえは愛国心がないのか、と言われても……〉

「おまえは愛国心がないのか」という言い方がある。私自身は自分を愛国心のある人間だとは思っていないので(※1)「愛国心がない」、あるいは「反日」「非国民」などと言われても「はあ? それがどうしたの」という感じであるが、私よりも真面目な人達は、愛国心話に引きずり込まれることがままあるようだ。だが私は、愛国心があるのないのという議論は何処まで行っても不毛であると思っている。なぜならば愛というのは――相手が国であれ何かの思想や宗教であれ、具体的な人間その他の生き物であれ――小泉首相ではないけれども、それこそ「心の問題」だからである。

※1/ときどきTBをいただいたり、こちらから送っている喜八さんによれば、私も愛国者だそうであるが……(苦笑)。いや喜八さん、すみません。おちょくる気はないのです。私を愛国者と言ってくださる方は非常に珍しいものですから……。

〈愛にもいろいろな形がある〉

 いきなり妙なたとえをすると、ある男がひとりの女を愛したとする。その愛し方には、いろいろな形があるだろう。

 自分のような男は彼女に愛される資格はないと思い、遠くからそっと見守るという愛。女が別の男を好きになった時に潔く身を引くという愛、あるいは女の心を取り戻すために修羅場を演じる愛。いっそ来世で(ほとんど文楽の世界……)と思い詰めて共に死ぬ愛。無理心中に至る愛、というのもないわけではない。

『春琴抄』の佐助の愛も、オスカー・ワイルド描くところのサロメの愛も、シラノ・ド・ベンジュラックの愛も、軽大郎女(※2)の愛も、萬貴妃(※3)の愛も、同じ愛であり、愛という意味においては等価である。たとえば軽大郎女の愛は当時の法や倫理から言っても認められないものであったが、そのことと、彼女の「愛」が純粋であったかどうかとは何の関わりもない。

※2/同母兄とのインセストで有名。『古事記』や『日本書紀』に記載がある。事実かどうかまでは私が自分で取材したわけではないので保証できないが、少なくとも私のデッチアゲではない。

※3/明・成化帝の時代に後宮で絶大の権力を振るった妃。皇帝より20歳近く年上で、母と妻を兼ねたような存在だった

 愛はおそらく人間の中で最も尊いもののひとつだが、諸刃の剣でもある。時としてモラルを超え、「この愛のためならば世界が滅びても構わない」と思わせるほどの力があるからだ。いわば美しい危険物でもある。

 自分と、そして愛する対象のことだけしか考えず、成就のためには他者を踏みにじっても構わないという愛。あるいは愛の名のもとに相手を踏みにじっても許されると思う愛、もある(ストーカーなどはそのひとつの現れだろう)。それを「あなたの考え方は間違っている」と言うことは出来るが、彼の心を満たしている愛情を「存在しないもの」として否定することは誰にも出来ない。もしかすると神や仏であればそう言えるのかも知れないが、あいにくと私は確信犯的無神論者である……。

〈愛に深入りしたくない〉

 ともかくそういったわけなので、私は政治や社会を語るときに「愛」という言葉に深入りしたくない。言い換えれば、国その他抽象的なものを語るときには「愛」という「心の問題」は排除したい。

 たとえば国を愛するということ。神国・日本を守りたいと思うのも、憲法を改定して天皇を元首とすべきだと思うのも(と、石原都知事が言っている。でっちあげではなく、彼が著書の中で明言していることだ)、「国を愛している」からだろう。アメリカのパシリになりたい、東京裁判は間違っていると思う、他国からとやかく言われたくない、……すべて「国を愛している」ゆえであろうことを、私は疑ってはいない。ときどき「左翼は愛国心がない!」と叫ぶ人がいるが、左翼も(その多くの人は)国を愛しているのである。愛しているからこそ「これではいけない」と思うわけだ。

 オレの方が愛国心が強いぞ、という――愛国心の取り合いは、もうそろそろ止めようではないか。話が泥沼に陥るばかりである。

〈愛する心は独立して存在しない〉

 私は自分が「反日」「非国民」と言われても結構だと言ったが、「ではおまえは国を愛していないのか」と言われればふと戸惑う。

 たとえば、家族。私は両親を特に愛してはいなかった。愛するとか愛さないとか、そういうことを意識したことはあまりないし、ご多分に漏れず、子供の頃は幾分か親というものを憎んでもいた。だが両親の子としてこの世に生を受けたのは紛れもない事実であり、否応なくヘソの緒でつながっているのだという意識は今もある。

 そう……私は6歳で死別した父親が好きで、目を吊り上げて必死で私を育ててくれた母が好きで、春・夏・冬には長期で私を預かってとことん甘やかしてくれた祖母が好きだった。好きだからこそ、自分が安心して戻って行け、誇りを持ってひとに紹介できる存在であって欲しいと思ったのだ。国とか郷土とか言うものも、おそらくはそれと同じである。  

〈国を愛する心を育てるよりも、愛せる国をつくるのが先〉

 たとえば親。子供を博打のカタに遊郭に売ったり、性的虐待をしたり、子供ができないことを無理強いしたり(本人の資質や能力とかけ離れた要求をすることのほか、反社会的な行為を強いることも含む)……自分を苦しめる親を、愛せるはずがない。時には殺意を覚えることもあるだろう。だがしかしどんな親でも――子供は愛したいと思うのだ。その、ほとんど「本能的」と言ってもいい「親を愛したい気持ち」を逆手に取る人間を、私は憎む。

 愛されたいならば、多くの人間は「相手に愛される存在になりたい」と思い、さらに「愛する対象のために自分は何ができるのか」と考える。のっけから「自分を愛せ」と高飛車に言うのは、それは順序が逆だろう。

 愛せ、愛せとお題目のようにとなえずとも、愛するに値する存在ならば愛される。けったいな奴に拉致されて「てめぇ、オレを愛せっちゅうんだ」と迫られても(怖いから口先では愛しますと誓っても)愛せるわけがなかろう。

 繰り返して言う。愛は言葉ではない、「心の問題」である。私も好むと好まざるとにかかわらず日本に生まれ、日本語を母語とする人間だ(※4)。愛憎半ばするとはいえ、ある種の愛着がないはずはない。

※4/ナサケナイ限りだが、私は日本語以外の言語はきわめてあやしい。趣味的に囓った言語はむろんのこと、10年間ならったはずの英語でさえ、社交辞令を述べたり旅行に行って道を聞く程度ならともかく、ある種の武器として使う自信はない。

  日本語でものを考え、表現するしかない人間のひとりとして、この国が、この国の文化が、この国の言語が滅びて欲しくないという気持ちは多分にある。だが「とうちゃん、かあちゃん。やめてよお、違うよォ」と悲鳴を上げざるを得ない両親を持つよりは、親のない子に私はなりたい。

 だが幸いにして「国」というものは、「親」や「家庭」よりも変えやすい。親とつながったヘソの緒は生物学的な現実だけれども、国とつながったヘソの緒は幻想だからである(ついでに言っておくと、私は幻想という言葉を悪い意味には使っていない。見果てぬ夢、と言ってもいい。見果てぬ夢を持たずして、人間は自分が人間であることを主張できるだろうか)。私のようなヘタレ庶民ですら「愛している」と言えるような国を、私は死ぬまで夢見続けたい。 

追記/お玉さんのように「華氏は間違っているかい?」と言いたいのはヤマヤマなのであるけれでも(笑)、我ながら似合わないのでやめる(私が言えば、さぶいギャクにしかならない。これが人徳の差というやつである)。 

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「愛国」に背を向ける生き方

2006-08-20 23:43:11 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)


 8月16日付けのエントリで、加賀乙彦の『悪魔のささやき』を紹介した。加賀は「どんな思想・学説・主義・組織にも自分を預けてしまうことはすまい」と思って生きてきたそうで、その思いの原点は1945年8月15日に遡る。彼は国家のマインド・コントロールに踊られてみごとなまでの軍国少年だったのだが、8月15日を境にした世の中のあまりにも見事な180度の転換を見て、「人間の思想や国家のイデオロギーの脆さ」に激しいショックを受けたのである。

 この本の余韻がまだ自分の何処かに残る中、「なぜ日本人はあれほど鮮やかにマインド・コントロールされてしまったのだろう」と考え続けている。むろんそれだけ、国家のやり方が巧妙かつ強力だったのではあろうけれども。そしてどれほどおかしなことでも、それを主張し、信じる人の割合が集団の中で一定程度以上に達すると、「れっきとした正論」になってしまうのも確かであるけれども。

 冷静に考えて、「おかしい」と思った人はどれだけいたのだろう。むろんいたには違いないが、私達がいま想像するよりもはるかに少なかったのではあるまいか。「おかみのすること」すべてに喜んで従ったわけではなく――たとえば経済統制下で強いられる耐乏生活に不満を持ったり、息子が徴兵されることを内心辛く思ったりはしただろうが、「やむを得ない」と諦め、あるいは「国のために」と自分自身に言い聞かせ、つまりは「おかしい」という認識に達しないまま、皆で地獄への道をひた走っていたのではないか。随分前にはやったギャグを使うと、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」。

 文化人とか知識人とか言われる人達も、その多くが同じ方向を向いて走った。小説家や詩人の多くが戦争賛美の文章を書いたことは、よく知られている。戦後になって「生活のため仕方なかった」「国家の要請に逆らえなかった」といった言い訳がボロボロ出て来たが、みっともないこと夥しい。彼らの中には庶民と比べれば多くの知識や情報を持つ人々もいたはずなのに、世の中がひとつの方向に疾走し始めると、そんなものは何の役にも立たなかったらしい。
 
 もちろん同じ方向を向くのを拒否した「文化人」も、いないわけではない。永井荷風はそのひとり。40年以上にわたって書き続けた『断腸亭日乗』には、「イケイケ」の世の中を揶揄する言葉が散見する。たとえば「(新聞などの)時局迎合の記事論説は読むに耐えない」「文壇の迎合ぶりは憐れというほかない」といった意味の言葉――。とくに印象に残っているのは、「人間の美徳や善行を意味する言葉はその本質を失ってしまい、代用語に成り下がった」と皮肉たっぷりに書いているところだ。
(原文は文語体。いま手元にその箇所を開いているわけではないので、細かい言葉遣いは誤りがあるかも知れないが、内容は間違っていないはずである。興味がおありの方は、ぜひ『断腸亭日乗』をお読み下さい。どんなものでも自分で直接読むに限る。他人が言うことをそのまま信用してはいけない。私は時々本の紹介をするが、すべて私という個人のフィルターを通した紹介に過ぎない)

 永井荷風はいわゆる左翼ではないし、別に「反戦運動」をしたわけでもない。国家というものに鋭く反逆する思想の持ち主でもない(ついでに言うと、戦後はシレッと文化勲章も受けている)。皮肉屋の偏屈ジジイ、という感じではある。ただしその偏屈には、徹底した個人主義の筋金が入っている。だから世の中がどう動こうと、周囲の人々がどう考えようと、「知るか、そんなこと。ワシには関係ないわい」という冷ややかな眼を持ち続けられたのである。むかし『断腸亭日乗』を読んだとき、彼は「日本」が嫌いだったのだな、と思った。大正期の日本も、昭和初期の日本も、戦争に浮かれる日本も、そして戦後の日本も。

 私は文芸評論家でも日本文学史の専門家でもないから、永井荷風や『断腸亭日乗』について論じる気はないし、その力量もむろんない。だが、「こういう人間が多ければ、国全体がむやみに熱くなって妙な方向に突っ走ったりせずにすむのではないか」とは思う。「国を愛そう!」「国を守ろう!」あるいは「国を憂える」エトセトラ、1オクターブ高い声が響くとき、「関係ねぇ」と背を向けるのもひとつの勇気ある決断。みんなが酔っているときは醒めている人間がおかしいと言われるが、そんなときほど距離を置き、冷ややかに醒め続けるのもひとつの決断であると思う。

追記/念のため言っておくと、「冷ややかに醒め続ける」ことと、「白けている」ことや「無関心である」こととは全く違う。 

 
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