たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

古墳と現代をつなぐ <池澤夏樹さん よみがえる古代の友情・・>を読んで

2017-03-28 | 古代を考える

170328 古墳と現代をつなぐ <池澤夏樹さん よみがえる古代の友情・・>を読んで

 

今朝は久しぶりに凍てつく寒さが舞い戻ってきました。というと大げさでしょうか。

 

朝、子どもを連れて、わが家の山林・田畑の境界を見て回りました。彼にとっては地番図や公図を見るのが初めてですが、境界石も時々敷設されているので、きちんとその位置と公図の接点を教えると、それ以外の不明瞭な部分を割合飲み込みが早く理解できたようです。多くは小川や水路、あるいは小さな灌木が境界標の役割を果たしています。あるいは公図上に惹かれている一本の線とどのような交わり方をしているかを地形の形状と付き合わせながら教えると、割合、分かってくれたように思うのです。

 

その後は仕事で忙しくして、少し息抜きの時間となりました。短い時間でブログを書き上げようと思い、ちょうどよい見出しのテーマを見つけ、本日の話題としました。

 

池澤夏樹氏が以前、毎日で連載していた『アトミック・ボックス』はとても魅了された小説でした。瀬戸内の小さな漁村で暮らしていた父が亡くなった後、突然、一人の若い社会学者である女性が主人公となって、さまざまな問題に巻き込まれ、それこそスリリングな展開が続きます。その謎はベールに包まれた中、その女性が次々と難関を乗り越え、その中で得がたいほんとにいろいろな同志の支援を得て、最後には謎の核心の人物に対面して、普通の漁民として暮らしていた父親の隠された謎、わが国で秘密裏に原爆研究がおこなわれていて、その研究者の一人として生き、アメリカの要請で研究が中止になった後身の安全を担保するため、研究資料データを隠して生きていたことが判明し、その計画を主導した大物政治家と対面するのです。

 

もうだいぶ前の小説で内容はほぼ忘れてしまいましたが、彼女は父の秘密を知らず大事なデータが自分に託されたと思い、それをもって行き先のない逃亡を始めます。公安はじめ警察庁上げて彼女の追跡劇が始まるのです。その時々の彼女の奇抜で勇気ある行動は、はらはらしつつ、魅了されました。ついでに瀬戸内の島々で開催されている芸術祭もとりあげられるなど、作者の演出力はとても見事でした。

 

でその池澤さんが新たに『キトラ・ボックス』を刊行したというのです。記事によれば、「小説の真ん中に、キトラ古墳(奈良県明日香村)の被葬者は誰かという謎があり、そこにヒロインたちがネットワークを組んで迫っていきます」という、古代ミステリーの一つ、キトラ古墳に被葬者が誰かを取り上げ、その謎解きをめぐって、『アトミック・ボックス』で活躍した脇役的存在ながら魅力たっぷりのメンバーが活躍するようです。これは読まなくっちゃという感じになります。

 

古代の東西と現代に生きる人がどうやって繋がってくるか、これこそ小説家の醍醐味かもしれません。池澤さんは次のような仕掛けを施しています。

 

<主人公は若き考古学者の女性、可敦(カトゥン)。新疆ウイグル自治区出身で、大阪府の民博こと国立民族学博物館の研究員だ。

 ある日、高松市の讃岐大で考古学を専攻する藤波三次郎准教授からメールが届く。奈良県のある神社で見つかった銅鏡が、ウイグル出土の禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)と同じ鋳型で作られた可能性があるから見てほしいというのだ。そして可敦は、鏡と共に見つかった銅剣に象眼された天文図がキトラ古墳のそれと同じだと気付く。>

 

キトラ古墳の天文図、その起源を遡ることは、東西文化の架け橋になる、あるいは東アジアにおける日本の位置づけといった狭い見方ではない、地球を俯瞰する視点を見いだすことが出来るかもしれません。

 

そして天文図という画像ともいうべき対象は、中国という大国を飛び越えて新疆ウイグルまで、意外と頻繁に活用された交易ルートがあったかもしれない思いを抱かせてくれます。

 

キトラ古墳は7世紀末から8世紀初めに作られたと言われているようです。古墳としては終末期の終末に近い時期でしょうか。

 

それより少し前の7世紀後半に作られた「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」は斉明天皇(おそらく天皇の呼称はまだだったと思いますが、とりあえず)が被葬者として確定していると言われています。最近の発見では、八角墳土台が32mくらいとされていたのが、実は<古墳の周囲が約50メートルにわたって土で強固に固められていたことが村教委の発掘調査で分かった。同古墳は尾根上に石を敷き詰めるなどして造られている。墓を造る際、石の荷重に耐えて斜面の崩落も防ぐように大規模工事を施したとみられる。>ということで、かなり大規模な陵だったということです。

 

たしかに古代というより大規模石造り構造物を構築した点では、斉明天皇の前にも後にもなかったのではないかと思うのです。それだけすごい企画力、行動力、実践力のある天皇だったのでしょうか。斉明天皇が皇極天皇と呼ばれていたとき、その摂政的立場にあった入鹿を目の前で、息子の中大兄皇子らによって殺戮されたとき、恐れおののいたというのは、かりにこういった事変があったとしても、どうも怪しい話しではないかと思うのです。その天皇が、弟の孝徳天皇の亡き後、再び天皇になったとき豹変したかのように、大胆な事業の連発をするというのも合点がいきません(それは実権を握っていた中大兄皇子が行ったとまではいえないように思うのです)。

 

だいたい百済が唐・新羅連合軍に敗れた後、九州まで大編隊を引き連れて先頭に立って行く姿は、巨大な牽牛子塚古墳の被葬者らしいと映るのは、日本書紀を額面通りに読んでいるからでしょうか。

 

いずれにしても古墳の被葬者の比定は、専門家の判断によるものを尊重しつつも、いろいろな想像が働くもので、最近、話題になった小山田古墳も斉明天皇の夫、舒明天皇か、いや蘇我蝦夷か、いやいや別の有力者など諸説あるようで、今後も、わが国における考古学的な発見にとどまらず、朝鮮半島はもちろん東アジアは当然として、ヨーロッパ大陸までも視野に入れた考察もありうる時代になったように思うのは、少し穿った見方かもしれませんが、少なくとも中東当たりまでは視野に入ってもいいのではと思っているとき、池澤さんの小説がどのような切り口で大きな架け橋を渡してくれるのか、期待したいです。

 

一時間ばかりブログ書きをしてしまいました。今日はこれでおしまいです。