あや乃古典教室「茜さす紫の杜」

三鷹市&武蔵野市で、大学受験専用の古文・漢文塾を開講しました。古文教師の視点から、季節のいろいろを綴ります。

古文に見る狐⑥

2014-02-13 23:59:49 | 
木幡狐あらすじ)
以下のサイトから、拝領しております。
http://garandou002.gozaru.jp/sousi002-1.html
有難うございます。
ーーーーーーーーーーーーーーー
山城の国、木幡の里に、年を経て久しい狐がありました。
その狐は稲荷明神の御使者であり、
男子女子たくさんの子供が居ましたが
いずれも言葉では言い表せないほど知恵才覚、芸能に秀でており、
世に並びなしと聞くほどに、各々とりどりに栄えているのでした。

中でも「きしゆ御前」と云う名の年若い姫君は殊に優れて、
容顔美麗に美しく、春は花のもとにて日を暮らし、
秋は隈なき月影に心を澄まし、詩歌管弦によく通じていました。

彼女のことを伝え聞いた人々は、
いずれも心を懸けぬという事がありませんでした。
御乳母など、みな我も我もと縁づけようと沢山の文を送りましたが、
当の きしゆ御前は、
『うき世に長らえば、いかならん殿上人か、
関白殿下などの北の方(妻)とも云われたいものだ。
なみなみならん住居は思いも寄らず。
そうでなくば、電光朝露、夢幻の世の中に、心を留めて如何しようか。
いかなる深山の奥にも引き籠り、うき世を厭うて、
ひたすらに来世の安楽を願うていよう』と思っており、一向に反応を示しませんでした。

そうしながら暮らすうち、きしゆ御前は十六歳になっていました。
父母は、そのような娘の姿を御覧じて、
『たくさんの我が子の中でも、きしゆ御前はとりわけ優れている。
いかなる御方さまをも婿にとって、心落ち着けた様を見たいものだ』と思い、
さまざまに教え諭したりしていました。

さて、所変わって、三条大納言殿の御子、「三位の中将殿」という青年がありました。
まことに昔の光源氏、在原の中将にも勝るほどの美貌の持ち主です。
三月も下旬の頃、その中将殿が花園を訪れ、
散り行く花を眺めながら詩を詠んでいる姿を、
きしゆ御前は稲荷の山から見下ろしていました。

『美しの中将殿や。私が人間に生まれていたなら、
このような人と夫婦となるものを、どのような前世の報いあって獣の身と生まれたろうか』と、
きしゆ御前は思っていましたが、
『よしよし、ひとまず人間のかたちと化けて、一旦の契りをも結ぼうではないか』と思い付き、
乳母の「少納言」を呼んで言いました。

『聞いておくれ。私は思うところ在り、いざや都へ上らねばならぬ。
さりながら、この姿で上るならば人目に付くであろう。 十二単、袴を着せてたべ』
少納言はそれを聞くなり、
『いまほど都には、鷹犬などと申して家々ごとに多ければ、
道のりも御大事で御座います。その上、御父や命婦殿がお聞きになったならば、
私の仕業と仰る事は間違いありません。どうかお考え直しを』と止めましたが、
きしゆ御前は聞き入れず、

『どのように止めようとも、私には思う由ありて思い立った事ぞ。
どのように止めようとも、止められはせぬ』と言うと、
美しい人間の姫君の姿に化け、 少納言を連れて旅立ちました。

きしゆ御前を一目見た中将殿は、そのあまりの美貌に夢か現か、
これは楊貴妃か李夫人かとも思い、
本朝には小野小町という美女があるがそれにも勝るとも思い、
さっそく引き留めて少納言に、
何処から来て何処へ向かうのかと尋ねました。

女房に扮した少納言は、 『この方は、さる人の姫君にましますが、
継母に疎まれ父の不孝をこうぶり給い、これを極楽往生の機縁として、
どのような山寺にも引き籠る思いでやって参りましたが、
なにぶん初めての旅、道を踏み迷いました。
はばかり多いとは存じますが、
一夜の御宿を仰せつけられては下さいますまいか』と、
さもありありと語りました。

中将殿は嬉しく思って、自らの御館へふたりを案内すると、様々にもてなしました。
就寝の頃になると、中将殿は きしゆ御前の枕元に寄り添い、
さまざまの言の葉を尽くして情愛を示しました。
もとより企てた事であったので、きしゆ御前は心中は嬉しき事限りなしと云えども、
いと恥ずかしげな風を装って、たなびく気色もなく居りました。

やがて夜も更ける頃になれば、ふたりは互いに御心ざし浅からず、
偕老の契りと思い、その睦まじさは夜明けの名残惜しささえ嘆くほどでありました。

晴れて中将殿の北の方となった きしゆ御前でしたが、
仲睦まじく戯れ暮らす内、中将殿の子を身ごもり、これもまた美しい若君を産みました。

そして月日は流れ、若君が三歳になった頃、
御内の人々は、若君のご機嫌がよきようにと、
色々と御もてなし、御遊び物などを献上しました。

ある時、中将殿の乳母、中務のもとよりとて、
世に類なき逸物という美しい「犬」が献上されるという、
狐にとっては非常に由々しき事態が起こりました。

少納言は、犬が御館へやって来た旨を聞くなり身の毛もよだつ思いで、
きしゆ御前の元へ急ぎ馳せ参じ、 不思議の御大事と涙にむせぶばかりでした。
それを聞き、きしゆ御前は
『此処を去るより他はない。
中将殿、若君への名残はいかがしたら良いのか』と涙を流して言いました。

ややあって、
『たとえ千年万年をふるとも、名残の尽くる事あらじ。
隙をうかがい立ち去りて、これを菩提の種として世を厭うことは容易いが、
中将殿はさぞかし嘆き給う事であろう。
若君の名残、かえすがえすも悲しけれども、
どのようにしても此処にはおれぬ故』と言い、また涙にむせび嘆き悲しみました。

さるほどに、中将殿が外出した隙を見て、
きしゆ御前と少納言は御館を抜け出しました。
そして、別れても またも逢ふ瀬のあるならば 涙の淵に身をば沈めじ
と詩を詠み、都を出たのでした。

きしゆ御前は稲荷の明神に旅の安全を祈念し、
故郷の古塚に無事辿り着きました。
三年も行方知れずになっていた娘が帰って来た事を聞くと父母は駆け出でて、
『この三年ほど姿が見当たらず、いかならん狩人に行きあい矢に当たったか、
また鷹犬に食われてしもうたのではないかと様々に嘆き暮らしていたが、
これは夢か現かや』と、嬉し涙を流して無事を喜び、
一門眷属を集めて酒盛りをしたのでした。

喜びに湧く中、きしゆ御前は ただ若君と中将殿の事ばかりを恋しく思い、
うき世に心も留まらずにいました。
そして木幡の塚を出て、嵯峨野の方へ分け入り庵室を結び、
みどりの髪を剃り落とし尼僧となって、
来世こそは必ず、中将殿と一つ蓮の台に生まれんと願いました。

一方、外出から戻った中将殿は、きしゆ御前と少納言が姿を消した事を知ると、
若君ともども、深く嘆き悲しみました。

その後、ここかしこより『北の方をお迎えになって下さい』との声が上がりましたが、
中将殿は新しい妻を娶ることをせず、ただ、きしゆ御前との別れを歎くばかりでした。

かように月日は流れ、若君はとりどりに繁昌し、
末繁昌と世に聞こえるまでになりました。
きしゆ御前は、かの庵室で都を恋しく思いながら暮らしていましたが、
若君を遠くから見守りながら、栄える様子をとても嬉しく思っていました。

そして、いよいよ峯(みね)に上り、 花を折り谷の水をむすんで、
少納言とともに、 弥陀の名号を唱える日々を送ったのでありました。

かかる畜類だにも後生菩提の道を願ふならひなり。
いはんや人間として、などか此道を歎かざらんや。
かやうにやさしき事なれば、 書き伝へ申すなり、書き伝へ申すなり。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。