・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

俗人の楽しみ:6 邪魔遊び

2019年11月30日 | つぶやきの壺焼

子供には何かの邪魔をしてみるという遊び方があります。

大人になって、邪魔遊びの癖の抜けない人もいます。

類は友を呼ぶのことわざどおり、同じ遊び癖の人にはすぐに仲間ができます。
そんな遊び仲間が、政党の名を借りて大掛かりな邪魔遊びを始めると、自分たちが政治に参画しているような集団錯覚に陥ります。

それらの錯覚集団には、ものごとを進める力はなくても、手慣れた邪魔遊びのタネには事欠きません。
政党の名がつけば、国会に議席を得て、遊びにしては十分過ぎる議員歳費と政党助成金を受け取りながら邪魔遊びを続けられます。

国会は奇妙なところで、議員が長期の登院拒否や審議拒否という邪魔遊びにふけっても罰則を受けません。
このような邪魔遊びが、その国を10年先20年先にどう衰退させていくのか、それは遊び呆けている当人たちのあたまには考えも及ばないことなのでしょう。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


俗人の楽しみ:5 迎賓

2019年11月29日 | つぶやきの壺焼

客人を招き入れることは楽しいものです。

招かれることの意義は、招かれた人にとって、また招かれなかった人にとっても、招く側の思いよりも強いものになります。

招き招かれることが、国交という大事にかかわりをもつと、招き方もまた重みを増してきます。
相手次第で、隣国のよしみなどと軽い気持ちが許されないこともあります。

相手国が、招かれたのではなく、望まれての訪問と解し、訪問の労に報いる大きな見返りや次の外交手段への強固な連結材料を持ち帰ろうとしていることもあります。

招待というたった数日の出来事が、相手国の遠大な覇権計画に乗って、にじり寄りに潤滑油の役割を果たすこともあります。

 

うかうかとした国賓扱いなどは、とんでもない愚挙でしかありません。
約束は破るためにあるという国に、紳士ぶって見せる必要は全くないので、口約束のうちにさっさとチャラ宣言をしておくことを望みます。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


俗人の楽しみ:4 暇つぶし

2019年11月28日 | つぶやきの壺焼

「お忙しいですか」という挨拶は、忙しく毎日を送っている人どうしのもので、ゆったり過ごしている人には向きません。

忙しくないと生きている気のしない人もいるでしょう。
そういう人が、「シュレッダーを見せてほしい」などと、大勢そろってよその事務所へ小学生の見学会のように押しかける、議員たちのヤボな楽しみごとを見かけたらなんと思うでしょうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


俗人の楽しみ:3 銭勘定

2019年11月27日 | つぶやきの壺焼

数が増えていくと、楽しみも増します。
何でも数値で表さないと気がすまない人もいます。
オリンピックの切符の申し込みがどれだけあったと、どうでもよい数値がわざわざ朝のニュースで放送されることもあります。

数値にはかならず誤差があります。
大きな数値になると誤差も増えます。

小さい数値を気にしながら、大きな数値には無頓着という人もいます。
政治にかかわる仕事の陰の功労者を総理が招いたパーティで、飲食代が高かった安かったと論じる人が、10兆円もの損失を過去に出したことには知らん顔という例もあります。

千円単位の飲食代のことを、日に3億円の費用の掛かる国会で、さももっともらしく論議する人は、ただ銭勘定の楽しみを味わっているとしか思えないのですが、いかがでしょうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


俗人の楽しみ:2 乗り物

2019年11月26日 | つぶやきの壺焼

乗り物には、乗る楽しみと見る楽しみがあります。
見るよりも乗ったほうが実感を得られるのですが、乗り方にも移動手段としてではなく、ノリノリと表現されるような気分高揚手段もあります。
後者の場合は、乗り物でなく空気に乗ることになるのですが、空気のとらえ方、場の選び方に品性が現れます。
乗り好きの人が、ところかまわず空気に乗ってしまうと、失態、失言のタネをまくことになります。
就任後半年も経たないうちに大臣の座を捨てなければならない人もたびたび現れます。
乗り好きではなく乗っている人を引きずり下すことを楽しむ人もいます。

政治活動にも乗りは必要ですが、ノリだけに意識をとらわれる人やグループがときどき現れるのは困ったものです。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


俗人の楽しみ:1 俗人とは

2019年11月25日 | つぶやきの壺焼

いまさらと思いながら、国語辞典を開いてみると、「俗人」に三つの解が書かれています。
①世俗の人、②風流を解しない人、③仏道を知らない人
一般に使われる意味はほとんど①でしょう。

世俗とは何かをはっきりさせなければ①もスカッとしないのでまた別のページから「世俗」を探します。
①世間のならわし、②世の中、世間、③世間の人、世の中の俗人
ここでどの項にも出てくる「世間」を引いてみます。
①この世の中、②感覚に感ずる外界、あたり一面、③自分以外の世の人々、④くらし、身代、⑤有情のものが相集まって生活する境界
言葉とは不思議なもので、つきつめることにこだわると、意味をまとめるつもりが逆に広がり散らばってしまいます。
適当なところで感覚でつかまえるしかなく、それができない人には意味不明がつきまとってしまいます。
国会の論議に、何のためにしているのか、本人さえも意味を問題にしてないのではないかというものが多いのも、つきつめの習癖がそうさせるのでしょうか。
それも俗人の楽しみと言えそうですが、あの場所は楽しみを味わうところではないので、毎日俗人気分で3億円かけて楽しむのはほどほどにしてもらわなければなりません。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:31 ないものづくり

2019年11月24日 | つぶやきの壺焼

創造には努力がいりますが、妄想に努力はいりません。
ないものをあると思ってしまえば、妄想はたちまちできあがり、その是非を話題にすることもできます。

たとえば女系天皇、そういう位は地球上のどこにもありません。
天皇は日本独自のもので、二千数百年の歴史のどこを探してもそれは見つかりません。
全くないもの、概念すらあり得ないものを、似たような言葉を混ぜ合わせてむりやり作り、話題にするような公序に反することは、許されるものではありません。
もっともらしいごまかし話をしながら、関心の浅い人にいきなり存在の賛否を問えば、わけのわからない人はなんとなく賛成と言ってしまうでしょう。
世論の名を借りてその数を示し、こんなにも賛成者がいたと宣伝拡散させるのは、日本の国体を崩していこうと企む人たちです。
そういう人たちが、妄想を利用したこの手を巧みに使い続ければ、国のありかたはぐずぐずと徐々に崩れていきます。

日本人の、ある年代の人に広く沁み渡ってしまった、ないものづくりの妄想癖が、子どもたち孫たちに引き継がれないためには、教育の力によるしかありません。
観桜パーティーの料理がいくらなどという、バカバカしくて酒場の話にもならないような論議を、さもまじめそうな顔をしてやってみせるサル芝居よりも、外国のためではない、日本人のための教育をどうしていかなければならないのか、そのほうがはるかにだいじだと思うのですが、いかがでしょうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:30 心志混同

2019年11月23日 | つぶやきの壺焼

何となくそんなつもりになるのと、はっきり立てたこころざしとでは、招かれる結果がまったく違います。

そのときどきに思っていること、胸に抱く想いは、二つの字をつなげて思想と書くことはできても、それは思想とは言えません。
ふと思うことや、居合わせた場の空気によって湧き上がった思いは、いくら情熱が込められていても、思想にはなりえません。

「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という憲法第十九条は、思想とも言えず良心にはほど遠い勝手気ままな心情を保証しているものではないでしょう。

もし、N町に集まる人たちが、思想も良心もなく、ただ情動に駆られてワイワイやっているとしたら、その人たちが考えている思想の自由は、大きな誤りだと言わなければなりません。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:29 不幸願望

2019年11月22日 | つぶやきの壺焼

将来に希望を持てないという空気感は、人々を無気力にし、無気力がまた空気を悪くするという渦をつくります。
TV放送も、催しものも、仕掛けられたそのときだけの騒ぎ合いで心をとらえようとするものが多く、それでは余韻も思い出も残りません。

酸素の分量が減ってきているのではないかと思うような、何か薄い社会の空気感に、大きな影響を与えているのは、マスメディアの経営者たちの心の向きでしょう。
彼らには、自分の預かった会社が、自分の国の社会を動かすだいじな機関であるという認識がなさそうなのです。
自分の国ということさえ忘れているのかもしれません。
自分の国を忘れていれば、自分たちが報じたことを、世界の国、世界の人がどう見ているかも気にとめることをしません。
親の悪口を書きならべる子ども作文のような、不幸願望記事が目立つのです。
そんなことを並べておけば同情が集まるとでも思っているのではないでしょうが。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:28 瞬見不読

2019年11月21日 | つぶやきの壺焼

新聞雑誌、本の帯封、TVのCMには、パッと見て信じやすい見出し、短文、図表が使われます。
本の場合には、何度か読み返されることもありますが、新聞の場合には、特別の理由がなければ同じ記事はまず何度も読まれないでしょう。

見出しは、その一文字で意味が逆転することもあり、見出しの書き方で解釈が誘導されることもあります。
パッと見させて深くは読ませない、それが人々の趣向に合っていれば効果が強まります。

長い間なるべくものを考えないように仕向けられてくれば、パッと見ではわからない法文を読み解く気力もなくなっていて、ごく読みやすく書かれた憲法でさえ、国会でも内容の論議に手をつけられていない模様です。
憲法審査会という会議はあっても、今年度に入ってたった7回しか開かれておらず、そのうち5回は、1回ずつの中身が参考人出頭要求、会長や幹事の辞任選任、国会閉会中どうするか、そんなことで終わっています。

70年前に大急ぎで作られたキリバリ憲法を、いまだに後生大事に手をつけず、読み解きは頭の弱まった学者任せ、ことがあれば部分ごとの判断を最高裁にお願いする、それでお茶を濁してすまそうと、議員さん方はみな逃げ腰です。

ついてしまった瞬見不読の習癖は、偽の領収書のような紙切れを読むぐらいのことしかできなくしているのでしょうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:27 小事好み

2019年11月20日 | つぶやきの壺焼

小さなこともおろそかにしない、それはだいじなことです。
小事にこだわり過ぎれば、大局を見失う、多くの人はそれもわかっています。

わかっちゃいるけど・・・・・・という唄が、むかし流行ったことがあります。
小事にこだわるつもりがなくても、すぐに小事には目が行き、つい手をのばします。
なぜなのか、小事のほうが手を出しやすく片づけやすいからです。
何かごそごそしていれば、励んでいるようにも見えます。

小事に尾ひれをつけていけば、小事の本質に触れることなく話を広げることもできます。
大事から目をそらすため、話題から遠ざけて人々の関心を薄めるために、小事のカスのようなことをせせり回してみせるという手段も、小事のリレーのように用いられます。

さくらを見る会も、小事リレーのタネにされ、いったん中止の形になりました。
しかし、来年同じころには、中止しなければならない大事があることを、忘れないようにしてもらわなければなりません。
わざわざ書く必要もなく、誰もが承知のことですが、それは、彼の独裁者の国賓招待という行事です。
強行の結果に予想される災厄を想像すれば、これは何としても取りやめてもらわなければなりません。
消費税は元に戻せますが、人類の敵のような人を国賓にという愚行に走れば、もう取り返しがつきません。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:26 駄々こね好み

2019年11月19日 | つぶやきの壺焼

駄々をこねる子が可愛がられるのは、しばらくしてから見せる笑顔で、いっそう可愛さが増す楽しみがあるからでしょう。
駄々こねを繰り返して育った子は、成人後も駄々をこねます。
そういう人が集まれば、リーダーには駄々こねの巧みな人が選ばれます。

駄々こね好みが昂じると、海の向こうの駄々こねにも可愛さを感じるようになり、外交は友好が基本などと寝ぼけ気分でだらだらと手を打たずに済まそうとします。
相手がどういう国なのか、見極めようともしなくなります。
そんなことで平和が保たれると思っているのでしょうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:25 鎮静政治

2019年11月18日 | つぶやきの壺焼

日本人は静かであることを好みます。
静の文字は人名にも用いられます。

人々の心に何かと波風を立てないよう、為政者は気を配ります。
人間の心はさまざまですから、一方で混乱を起こすことしか考えない人や集団もあり、一筋症の病状をかかえながら、というよりも看板のように押し立てて騒ぎ回ります。

静かに穏やかにも度を過ぎれば、だいじなことを知らせない鎮静政治が、よい政治とされるようになります。
隣国との境界付近の島が実質的に支配されても、あるいはまさに被支配寸前の危機状態になっても、その実態をひろく国民に知らせようとする気配も素振りも見せず、粛々とというようなもっともらしい形容のもとに、政治にかかわる者がみな腕組みか懐手を決め込みます。

鎮静ひとすじの政治が、半世紀後には子や孫たちに塗炭の苦しみを味あわせる結果を招くことには、意を向けようとしません。
平和は静かであること、祈ることのみでそれが成就されると思い込ませる鎮静政治に、笑みを漏らしている海の向こうの人には、気づかないふりが最適の付き合い方なのだと、N町の人々は思っているのでしょうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:24 一筋症

2019年11月17日 | つぶやきの壺焼

一筋の光明には、心をとらえる何かがあります。

一つのことを信じ込めば、何かを成し遂げる力にもなります。

しかしながら、一筋であることという、心の持ち方だけにこだわると、軽ければ依怙地、重ければ一筋症とも呼べそうな病の様相を呈するようにもなります。
そうなれば、こだわりの対象が何であるのか、意を向けた相手が国であればどういう国であるのか、情勢が変わってはいないのか、そんなことには頓着なく、ただ一筋を追い求めることに終始します。

N町には、日X議員連盟という一筋症の患者群がたむろしています。
K関にも、Xスクールという一筋症の患者組織があります。
O町の一筋症患者たちが組織する日X経済協会は、F町に事務所を構えています。

首都の中心部には、一筋症が蔓延しているようです。
一筋症は、視野狭窄という眼病の一種かもしれません。
何か特効薬はないものでしょうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


おかしな日本人:23 地位差別

2019年11月16日 | つぶやきの壺焼

海の向こうに連れ去られた、あるいは招かれて行き監禁されてしまった人を取り戻すことは、容易ではありません。
相手がさまざまであるにしても、数十日程度の期間で還されることもあれば、何十年も所在不明のままということもあります。

国内でも、交通事故を起こして人命を奪ってしまった人の扱い方にしても、どこか違いがありはしないかと思われる節があります。

それぞれの事情のうちには、当事者の地位の違いもありそうなのですが、日ごろ何かといえば差別の疑いを言い立てる人からも、この種のことで地位の差別をとがめる声は伝えられてきません。
なぜなのでしょうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村