東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

不動坂(田端)

2012年08月31日 | 坂道

不動坂上 不動坂上 不動坂中腹 根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 前回の与楽寺坂上の先は、このあたりの上野台地の最高点で、田端台ともよばれる。田端高台通りがほぼ南北に通っているが、上野台地といっても東西方向にはかなり幅狭である。

この通りを横断しちょっと歩くと、一、二枚目の写真のような階段坂の坂上である。三枚目は中腹から坂上を撮ったものである。ほぼまっすぐに東へと下っている。

坂上側は踊り場が何カ所かあって緩やかであるが、途中から下側は、急な階段である。坂下を左折すると、田端駅の南口で、山手線と京浜東北線がさらに下側を走っている(散策マップ参照)。

石川によれば、坂上に不動尊の石像があったことから不動坂とよばれ、もとは東の方の田端新町へ下る長い坂であったが、線路ができたため分断され、坂上側で一部が石段坂となって残った。もとの与楽寺の寺領はいまの田端駅を含む広大な地域で、坂上にあった不動尊も同寺の仏像の一つであったという。その石像は田端不動に移されている(岡崎)。

四枚目の根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856))の部分図の中央に見える與楽寺(与楽寺)北側には、東に音無川へと続く道があるが、この道がかつての不動坂とも考えられる。しかし、この絵図はかなりデフォルメされているため確証を持てない。

不動坂中腹 不動坂中腹 不動坂上 一枚目の写真は、坂途中から坂下側を撮ったもので、フェンスの下側に田端駅ホームの屋根が見える。二枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。三枚目は坂下から坂上側を撮ったもので、坂下側の階段はかなり急であることがわかる。

鉄道ができる前の明治実測地図(明治十一年)を見ると、この坂道と思われる道筋があるが、坂下に音無川が流れ、そのあたりが新堀村で、田んぼが広がっていたのであろう。

以上のように、この階段坂は、上野台地から東側の低地へと下る坂であったが、線路ができたため、上側のみが残ったものであることがよくわかる。これは、この近くの地蔵坂御殿坂などもそうであった。上野台地の東側斜面はどこも、おそらくかなり削られて往時の風景からそうとうに変わっているものと想われる。

この坂は、横関、石川、岡崎、山野、「東京23区の坂道」のいずれにもに紹介されている。

同名の坂が六本木にある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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与楽寺坂

2012年08月30日 | 坂道

富士神社 富士神社前 江戸名所図会 富士浅間社 動坂下 前回の稲荷坂上の突き当たりを右折し、富士神社に向かう。ちょっと歩くと、右手に見えてくるが、この日は縁日であったようで、露店や屋台などが出て賑やかである。一枚目の写真は階段を上ったところにある本殿の前、二枚目は神社前である。

三枚目は江戸名所図会にある富士浅間社(この富士神社)の挿絵であるが、小高い丘の上にある。参道からでた前の道が動坂へと続く道で、手前の広い道は日光街道(現・本郷通り)であろう。高さ約15m、長さ約50mの小丘(古墳)の上に建つという。

神社から引き返し、先ほどの道を東へ向かうと、やがて動坂の坂上の交差点に至る。この途中、ポツポツ来たので、携帯傘をだす。

坂を下り、不忍通りを横断してから、坂上側を撮ったのが四枚目である。この坂を下ると、本郷台地とお別れとなる。動坂は、この近くの狸坂や前回の稲荷坂などと違って、江戸切絵図にのっており、その坂名と位置が江戸時代から明かなところである。

与楽寺坂下 与楽寺坂下 与楽寺坂下 与楽寺坂下 動坂下の交差点を北へ田端方向に向かい、途中、適当に右折すると、小路が延びて、民家がびっしりと立ち並んでいる。昭和の風景とも云うべきところである。曲がりを繰り返していると、かなり狭い小路があったりして迷路に入り込んだようになる。都市のラビリンスに迷い込んだ錯覚に陥ってしまうが、これはよくあることで、知らない街に行くと、こうしたことをわざとやってさまよい歩き、そのうち少し不安になったりする。このときもそういう状態になりかけたと思ったら、突然、ちょっと広めの通りにでた。

ここは、地図を見ると、谷中のよみせ通りから続く道であるので、旧藍染川(谷田川)の上流である。 ここから、北に向かい、二三回曲がると、一枚目の写真のように、与楽寺の手前に出る。遠くに与楽寺坂が見え、坂上は上野台地であるが、このあたりはまだ平坦である。左手一帯は再開発中なのか工事中で、このため、雑然としているが見通しがよくなっている。

ところで、前回の吉本隆明の記事を書いていたときに気がついたが、隆明が自宅を出てはじめて住んだ谷中よみせ通り近くの三和荘から昭和三十一年(1956)10月に引っ越しした先が、この近くであった。北区田端三六五番地(現・田端1-11-20)有楽荘である。六畳一間の新築のアパートであった。このアパートの土地は与楽寺の所有であったという。ここに昭和三十三年(1958)10月まで住み、前年12月28日に長女・多子(漫画家 ハルノ宵子)が生まれている。

与楽寺の門前を右に見て北へ進み、坂下のあたりで撮ったのが二枚目である。三枚目はちょっと上ってから坂上側を撮ったもので、四枚目はそのあたりで振り返って坂下を撮ったものである。このあたりはまだ緩やかである。この坂は、藍染川の流域の低地から北へ上野台地に上る坂である(散策マップ参照)。

与楽寺坂下 与楽寺坂中腹 与楽寺坂中腹 与楽寺坂中腹 さらにちょっと上って坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、その先で右に緩やかに曲がっているが、そこから坂上側を撮ったのが二枚目である。三枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。四枚目はさらに上ってから坂上側を撮ったもので、ちょっと曲がっていて、このあたりがもっとも勾配があるが、それでも中程度といったところである。

右手に背の高い直立のコンクリート塀が続いているため、坂道が狭く感じられるが、これがこの坂の特徴にもなっている。

北区教育委員会による坂の標識が坂下に立っているが、上二枚目の写真の右端に写っていように、上部に横書きで坂名が表示され、その下に小さめの四角形状の板に説明書きがあるユニークな形状である。その説明は次のとおり。

『与楽寺坂
 坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
 芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。
 平成5年3月
                      東京都北区教育委員会』

与楽寺坂中腹 与楽寺坂中腹 与楽寺坂上 根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 一枚目の写真は、坂上側から坂下側を撮ったもので、二枚目は坂上側を撮ったものである。この先がちょうど四差路になっていて、三枚目はそこから坂下側を撮ったものである。

四枚目の根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856))の部分図を見ると、中央に與楽寺(与楽寺)が見えるが、かなり広く、道灌山のそばにあり、その周囲を川が流れている。下側が藍染川で、上側が音無川である。中央下端に動坂が見える。かなりデフォルメされているようで、この坂に相当する道がすぐにわからない。動坂から上に進んで、藍染川を渡った先の與楽寺の周りの道と思われる。上記の標識の説明にある『東京府村誌』の「与楽寺の北西にあり、南に下る」にしたがえば、與楽寺の下側の緩くカーブを描いているあたりであろうか。

明治実測地図(明治十一年)を見ると、この坂道と思われる道筋があるが、與楽寺が記されておらず、いまひとつ確かではない。

この坂は、横関にはないが、石川、岡崎、山野、「東京23区の坂道」に紹介されている。

与楽寺坂上 与楽寺坂上 与楽寺坂上 与楽寺坂上 一枚目の写真は、坂上側の四差路から坂上を撮ったもので、ここからちょっと左に曲がっている。ここを左折し、直進すると、芥川龍之介旧宅跡で、その手前を左折すると、上の坂である。二枚目はその四差路のちょっと上から坂下側を撮ったものである。

三枚目は四差路のちょっと上から坂上を撮ったもので、このあたりはかなり緩やかである。四枚目は坂上付近から坂下側を撮ったものである。

この坂は、坂下から上ると、上記の四差路付近が坂上と思ってしまうが、四枚目のあたりまでをいうのであろう。この坂上は、上野台地で、そのすぐ先(東側)はもう崖で、崖下に山手線が走っている。坂上を右折すると、台地の縁を東南へと延びる道が西日暮里駅近くまで続いている。

江戸名所図会 与楽寺 左は、江戸名所図会にある田端八幡宮の挿絵であるが、下側に與楽寺が描かれている。山と森林と田畑が描かれ、その合間に寺と神社が見える。与楽寺は、次のように説明されている。

「田畑村にあり。真言宗にして、本尊地蔵菩薩は仏工春日の作。開山は行基大士なり。」

『江戸名所図会』の註に、この寺は道灌山のすそにあるとあるが、道灌山とは、いまの西日暮里駅近くからさらにこの近くまでの上野台地を云ったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)

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稲荷坂(駒込)

2012年08月23日 | 坂道

稲荷坂下 稲荷坂下 稲荷坂下 稲荷坂下 前回の神明坂下を東へ進み、次の信号を右折すると、稲荷坂の坂下である。一枚目の写真は右折してすぐ進行方向(南)を撮り、二枚目はその先をちょっと右に曲がってから撮ったもので、このあたりはまだ平坦である。

二枚目の先をちょっと左に曲がると、ようやく前方に稲荷坂が見えてくる。三枚目はそのあたりから坂を撮ったもので、四枚目はさらに進んで坂上側を撮ったものである。緩やかに上っている。

不忍通りから入ったからそう感じるのか、静かな雰囲気のするところで、住宅街のちょっと大きな通りにできた坂と云った感じである。

この坂は、神明坂下の根津谷の北端近くから本郷台地の東端部分へ上る坂である。

稲荷坂下 稲荷坂下 稲荷坂中腹 稲荷坂中腹 さらに進んで坂下から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、その先からふり返って坂下側を撮ったのが二枚目である。

三枚目は上りかかったところから坂上を撮ったもので、この直前でちょっと左に曲がってから中程度の勾配でほぼまっすぐに南へ上っている。四枚目はそのちょっと先から坂下側を撮ったものである。

三枚目の中央左の公園そばに小さく赤いポストが写っているが、その左わきに坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「稲荷坂(いなりざか)
 稲荷信仰は農業神であるウガノミタマノカミに対する信仰で「稲なり」の転訛といわれる。狐は古来、田の神の使いと考えられたので狐尊信の風が稲なり信仰と結合して、特に江戸時代になると盛んになった。
 これが、農村のみにとどまらず都市にも普及して商業繁栄を招来する神、そして家屋敷の守り神(地守神)となって武家屋敷内をも含めて小規模な稲荷社を祀る風習を生むようになる。これを「屋敷稲荷」といった。
 こうした風習から来る生活感情と付近の稲荷社とのかかわりの中で拱らばれた坂名として特色があるが、ここの場合は坂上にある江戸初期から続く駒込村開拓名主・高木家の「宗十郎稲荷」に起因する。」

現代地図を見ると、坂上の先に駒込名主屋敷跡があるので、ここにあった稲荷に由来すると云うことらしい。

稲荷坂中腹 稲荷坂中腹 稲荷坂中腹 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 一、三枚目の写真は、坂上左側(東)にある神明公園わきの交差点下から撮ったもので、このあたりがこの坂でもっとも勾配がある。二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、富士神社前と動坂上の四差路とを結ぶ道筋があるが、ここが、現在の坂上の突き当たりの左右に延びる道と思われる。そうだとすると、そのほぼ中間の、百姓地とあるところのわきの道からわかれた図の上へ左へ緩やかにカーブしている道が稲荷坂と考えられる。

ところが、明治実測地図(明治十一年)、明治地図(明治四十年)、戦前の昭和地図(昭和十六年)を見ると、いずれも違った道筋が示されており、現在の坂と対応するような道筋がない。かつての稲荷坂の一部が現在の坂のどこかに残っているだけかもしれず、あるいは、まったく新しい坂で坂名だけを受け継いだのかもしれない。このためか、横関、石川にはないが、岡崎、山野、「東京23区の坂道」に紹介されている。

稲荷坂上 稲荷坂上 稲荷坂上 稲荷坂上 一枚目の写真は、公園わきの交差点のちょっと上から坂下を、二枚目はそのあたりから坂上を撮ったものである。三枚目は公園上から坂下を、四枚目はそのあたりから坂上を撮ったものである。四枚目の突き当たりの裏側あたりに名主屋敷跡があり、右折すると富士神社方面で、左折すると動坂方面である。

同名の坂は、都内に多数あり、たとえば、港区赤坂、六本木一丁目(我善坊谷坂の別名)、豊島区高田など。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「東京23区市街図」(東京地図出版)

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神明坂(駒込)

2012年08月21日 | 坂道

今回は、といっても先月の梅雨明け前だが、駒込の神明坂から、稲荷坂、動坂を経由して田端の与楽寺坂方面まで歩いた。

神明坂上 神明坂上 神明坂上 神明坂上 午後山手線駒込駅下車。

南口から本郷通りの歩道に出て左折し南へ歩く。ちょっとすると、右手に六義園の入り口が見えてくる。そのまましばらく歩くと、不忍通りとの交差点に至るが、ここを左折する。次の信号の所でちょっと右に曲がっているが、その先が神明坂の坂上で、坂下が見えてくる。

一枚目の写真は、信号を超えてふり返って坂上側を撮ったもので、二枚目は坂下側を撮ったものである。このあたりはまだ緩やかである。

この坂は、不忍通りにあり、本郷通りとの交差点(上富士前)から東へ延びる途中にある。

三枚目はちょっと進んで坂下側を撮ったもので、四枚目はさらに進んで交差点から坂上側を撮ったものである。このあたりからちょっと急になっている。

神明坂中腹 神明坂中腹 神明坂中腹 神明坂中腹 一、三枚目の写真のように、中腹の信号(二、四枚目の写真)のあたりからちょっと勾配がついてまっすぐに下っている。

坂上は本郷台地の東端(の一部)に位置し、西から東へ向けて下っている。坂下のずっと先で右にやや曲がって東南方向へ進み、動坂下に至り、根津谷へつながっている。動坂下は藍染川の上流であった。

不忍通りには、西からこの坂に至るまで坂がたくさんあり、目白通りから出発して、清戸坂を下り、その坂下の護国寺前を通って、富士見坂に上り、その先、白鷺坂を下り、さらに、猫又坂を上り、そのずっと先に、この坂がある。猫又坂からこの坂までが本郷台地で、不忍通りはこの間で台地を東西に横切っている。

明治地図(明治四十年)を見ると、まだこの坂のある通りはないが、戦前の昭和地図(昭和十六年)にあるので、この間にできた比較的新しい坂である(道路の開設は大正11年(1922))。このためか、横関、石川にはないが、岡崎、山野、「東京23区の坂道」に紹介されている。

神明坂下 神明坂下 神明坂下 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 一~三枚目の写真は、坂下から坂上側を撮ったもので、中腹の信号のところから比較的短い距離で急に下っていることがわかる。坂下は、根津谷の北端近辺と思われる。

坂中腹の民家の壁にはりつけてあった旧町名案内(上三枚目の写真に小さく写っている)によれば、このあたりの昭和四十一年までの旧町名は、旧駒込神明町で、駒込の総鎮守天祖神社の旧称神明社のあることから名付けられたという。坂名も、これに由来するのであろう。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図であるが、右から吉祥寺、富士神社が見え、その左側が現在の上富士前の交差点付近であるが、この坂に相当する道筋はない。ほぼ中央上側に神明宮があり、これが天祖神社(神明社)で、その上に動坂が見える。近江屋板でもほぼ同様である。

同名の坂が港区三田にある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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吉本隆明「坂の上、坂の下」

2012年08月08日 | 吉本隆明

『冬はじめの午後五時は、もう薄ら闇につつまれていた。西の空かわずかに残りのひかりをあげている。男は坂の上から傾斜に沿ってひろがる街筋を眺めるのが好きだと言って遠い眼をすると、わたしを物影に追いやるような手つきをして、谷中商店街を見下ろす急な階段の上で佇ちどまった。こんな表情になったら、男を放っておくより仕方がない。わたしは階段の二段目のところに腰を下ろして、煙草をとりだした。商店街の背景には駒込台の木立や家並みがシルエットの黒になって、薄明るいだけの空の下にもり上っている。学生時代はじめて家を出る男の言うままに、この坂上に佇ったとき、思わず「此処だ」と口のなかで声を呑んで、彼と顔を見合わせたときのことを思い出す。男はこの商店街の外れを右に曲ったところに下宿を決めた。男はそのときの思いにふけるかのようだった。』

谷中銀座 谷中銀座 吉本隆明が三月に亡くなってから、さかんに追悼特集が組まれたり、追悼号が出たりしているが、その中の『文藝別冊 さようなら吉本隆明』(河出書房新社)に載っていた「吉本隆明 未刊行小説」には少々驚いた。いずれもかなり短い三つの短篇であるが、小説を書いていたということにびっくりしたのである。

上記は、その一つ「坂の上、坂の下」の冒頭部分である(といっても、きわめて短いから、これだけで全体の1/4程度にもなる)。他の二つは、「ヘンミ・スーパーの挿話」「順をぢの第三台場」。

その後に載っていた樋口良澄の「解題 物語を書く吉本隆明」によれば、これらの短篇は「週刊新潮」の企画広告として掲載されたもので、このため、目次にも掲載されなかった。上記は1999年1月14日号に載った。「スーパー」の一部は、なにか別のもので読んだような記憶があるが、なにか思い出せない。

一枚目の写真は、前回の七面坂上を左折しちょっと歩き坂上の手前から見た谷中銀座、二枚目は坂上から見た谷中銀座である。

谷中銀座(夕やけだんだん) 谷中銀座 一枚目は階段下で、この階段が「夕やけだんだん」である。二枚目は、階段下の谷中銀座である。日暮里駅からは、御殿坂を上りそのまままっすぐに西へ向かうと、この階段の上にでる。

この坂上に来たとき、思わず「ここだ」と声を呑んだという「男」と「わたし」が吉本自身で、その体験が投影されている。

『昭和二十九年(1954)十二月、隆明は上千葉の家を出た。工場のある青砥=京成青土駅と住まいのある上千葉=京成お花茶屋駅は電車で一駅だ。が、いまの隆明は、母校・東京工業大学へ「長期出張」で通う身だ。山手線に乗り換えるためには、工場と反対、上野、日暮里方向に向けて京成線に乗る。そんなある日、日暮里に下り立ち、「この辺りにきめた」のだろう。』

石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)からの引用である。以下も、同著を参考にした。

吉本一家は、昭和十六年(1941)十二月頃、新佃島から葛飾区上千葉四一八(現・葛飾区お花茶屋2-15-8)の営団住宅を勇(隆明の長兄)名義で購入し、引っ越していた。

上記のように、昭和29年(1954)12月、吉本は上千葉の家を出たが、そのころ、日暮里駅で下車し、御殿坂を上り、谷中の坂上にはじめてやってきたことが上記の短篇の背景となっている。隆明三十歳のときである。

七面坂上 昭和31年(1956)の東京23区地図をみると、階段(夕やけだんだん)はまだなく、日暮里駅から西へ進むと、そのまま七面坂を下る道となっているので、坂上とは、七面坂の坂上と思われるが、物語では階段の上となっている。

この家を出るときのことを妹の橋紀子は『兄隆明の思い出』の「ファンファーレ」で次のように書いている。

『家には、父と私と隆明の三人がいた、早春の午後のことだった。
「いやー、そのー、あのー、」と隆明が、今でも照れ隠しの時にする、頭をボリボリと掻く動作をしながら、父と私のいる部屋に入ってきた。
 隆明は、"ちゃぶだい"の前に正座し、父に向かって言った。「親父さん、俺、やっと世の中に出ていく自信が出来ました。永い間お世話になり、有難うございました」と、深々と一礼したのだ。
 父は「ああ、そうか」と、一言、お腹の底から搾りだした様な、そして呻く様な声で応え、老いて小さく萎んだ目蓋を、さらにしばたいていた。父は泣いていたのだ。父は素早い動作で、キセルに刻み煙草を詰めると、傍らの火鉢に、長いあいだ顔を埋めていた。それを機に、隆明は、静かにその場を離れたのであった。』

感動的な情景が思い浮かぶようである。吉本隆明にしても三十歳にしてやっと世の中に出ていく自信ができたと云ったこともそうだが、なりよりもそういわせた父の存在が大きく感じられる。

吉本隆明は、自身を少年から青年になりかかる頃を顧みて、『べつのことではかなり鋭敏な感受性と理解力とをもちながら、生活については、「貧乏人の箱入息子」といった程度の理解力しかもたなかった少年』(「過去についての自註」)などと卑下しているが、親父さんは、その箱入息子がいよいよ独立のときになって、寂しくてそれに黙って耐えている。それはつらいことに違いないが、明治生まれの父にとって別離はそうしてやり過ごすしかなかった。

隆明は、「この商店街の外れを右に曲ったところに下宿を決めた」が、そこは、谷中銀座通りから右折し、よみせ通りを北へちょっと進んで左折した小路の途中にあった。駒込坂下町一六三番地(現・文京区千駄木3-45-14)の三和荘である。小説では下宿となっているが、四畳半の部屋が上下で十六室ある単身者用のアパートであった。

よみせ通り よみせ通り近く 前回の富士見坂下を右折し、北へちょっと歩き左折し、小路を通り抜けると、よみせ通りの延命地蔵尊の前にでる。ここを左折し、南へ向かう。一枚目の写真はその途中で撮ったものである。

途中、右折すると、三和荘であるが、残念ながら、このときすでになく、こぢんまりとした戸建て住宅に変わっていた。そのあたりで近所の人に尋ねたら、三和荘はここにあったとわきを示した。数年前はじめてこの辺りを訪れたとき、かなり古くなった三和荘を見ているが、すっかり変わっている。写真を撮ったような記憶もあるが、残っていないので、記憶違いかもしれない。石関の著書には、その古くなった三和荘の写真が載っている。記憶が薄れているが、わたしが訪れたのは、この石関の著書(2005年12月発行)を参考にしたのであろう。

三和荘のあった小路を通り抜け、不忍通りに出て、千代田線千駄木駅に向かったが、その通りに出る前に振り返って撮ったのが二枚目の写真である。

隆明は、ここに住みはじめた次の年、昭和30年(1955)6月東洋インキ製造株式会社を退職し失職している。これについて次のようなことを書いている。

『ある時期から、ここでも、労働組合の仕事を負い、あたうかぎりの準備ののち壊滅的な徹底闘争を企てたが敗北におわり、たらい廻しのように職場をめぐりあるき、ついに本社企画課勤務を命ずという辞令によって捕捉されるに至って、不当労働行為であると主張して転勤を肯んぜず、つめ腹を自らの手できって、退職した。』(「過去についての自註」)

また、そのころの谷中のあたりを次のように書いている。

『わたしはまだ独りでこの界隈のアパートに住んでいたとき、どうしようもない孤独感にさらされると、よく銭湯へゆき、見知らぬ群衆のすぐとなりで湯にひたり、いわば生理的にこの孤独感を中和した。この界隈の商店の人々は、二、三度、買い物をして顔をおぼえただけで、朝でかけるときや、夕刻かえるとき眼が合うと挨拶をしかけてきた。それは時としてわずらわしい感じを抱かせたが、銭湯のようにその挨拶を浴びて、慰安を感じたこともあったのは確かである。』(「都市はなぜ都市であるか」)

このアパートは、隆明が自宅を出てはじめて一人で暮らしはじめ、以降、この界隈に住み続けることになる点で、特筆すべきところであるが、それだけではない。自身が人生最大と云う事件が起きたのもここに住んでいたときである。

以下は「吉本隆明全著作集 7 作家論」(勁草書房)の「鮎川信夫」からの引用である。

『わたしは当時、回復するあてのない失職と、ややおくれてやってきた難しい三角関係とで、ほとんど進退きわまっていた。
 職を探しにでかけて、気が滅入ってくると、その頃青山にあったかれの家へ立ち寄った。そのままとりとめのない話をしては、夜分まで入りびたったりしていた。』
『この時期、わたしの人性上の問題について、もっとも泥まみれの体験をあたえ、じぶんがどんなに卑小な人間にすぎないか、あるいは人間はいかに卑小な人間であるかを徹底的に思いしらせ、わたしのナルチシズムの核を決定的に粉粋したのは、失職後の生活上の危機と、難しい恋愛の問題との重なりあった体験であった。そうして、この体験においてわたしの人性上にもっとも痛い批判を与えたのは、記憶によれば、一方は鮎川信夫や奥野健男であり、一方は遠山啓氏であった。わたしは、ひとかどの理念上の大衆運動をやったうえで、職をおわれたとおもって無意識のうちにいい気になっていたが、現実のほうは、ただわたしをひとりの失職して途方にくれた無数の人間の一人としてしか遇しはしなかった。これはしごく当然であるが、当時の幼稚なわたしには衝撃であった。また、いっぽうでわたしは女の問題で足掻き苦しみながら、じぶんの精神を裸にされたただの人間にすぎなかった。』

戦後まもないころ隆明は、千代田稔という日本人名をもった朝鮮人の編集者を通じて荒井文雄と知り合い、二人で「時禱」というガリ版の詩誌をはじめた(昭和21年(1946)11月~22年3月頃)。

難しい三角関係とはその友人の妻との恋愛である。上記の石関が吉本和子に問い合わせた返信などによれば、その友人は、昭和24年(1949)6月に和子と結婚し、詩のみならず絵画にも通じていたことから、住んでいた文京区向ヶ丘弥生町のアパートは、ある時期、隆明を含めた若い芸術家のたまり場であったという。昭和31年(1956)初め頃から隆明と和子との個人的なつき合いが始まり、和子は同年6月頃家を出て、入谷でひとり暮らしを始めた。

そして、和子は同年7月頃三和荘で隆明と同棲を始めた。その間のことは、川端要壽「墜ちよ!さらば -吉本隆明と私-」(檸檬社)に詳しい。著者は隆明の東京府立化学工業学校(府立化工)の同級生である。その直接的なきっかけは、同著によれば、次のようなことであった。

『ある日、突然彼はウチのの衣類一切からふとん一式まで、自分の家に持ち運んでしまったんだ。ウチのはいくところもなく、俺のところへ転がりこんできたわけだ。そう、彼から離婚届の用紙が送られてきたのは、それから三ヵ月ほど経ってからだったかな。そして、彼はその用紙を受け取りにきた際、俺にこう言ったんだ。七年間のうちには、君たちの恋愛の結末がつくよ、ってね』

その頃の二人の生活について隆明は「わたしが料理をつくるとき」で次のように書いている。

『わたしにとって、その料理(おかず)を作ると、ある固有な感情をよびさまされるものを二、三記してみる。
(一) ネギ弁当
 (イ) カツ節をかく。カツ節は上等なのを、昔ながらの削り箱をつかってかく。
 (ロ) ネギをできるだけ薄く輪切りにする。
 (ハ) あまり深くない皿に、炊きたての御飯を盛り、(ロ)のネギを任意の量だけ、その上にふり撒き、またその上から(イ)のカツ節をかけ、グルタミン酸ソーダ類と、醤油で、少し味つけをして喰べる。
 (略)
(一)のネギ辨は、職なく、金なく、着のみ着のまま妻君と同棲しはじめた頃、アパートの四畳半のタタミに、ビニールの風呂敷をひろげて食卓とし、よく作って喰べた。美味しく、ひっそりとして、その頃は愉しかった。』

この短篇物語にある次の部分は、この頃が背景となっている。

『二つの女性の影が通り過ぎる。ひとりの女性には不倫を仕掛けて下宿の部屋で共棲しながら、この商店街を往き来した。まるで修羅街であるかのように男の脳裏には暗く映った。お茶やの小母さんだけが、まるで新婚の幸福な若いカップルをいたわるような優しさと親身で対応してくれて、男の苦しみや迷いを和らげてくれた。』

ネギ辨を食べてひっそりと愉しかったが、一方で、職がなく生活の危機が迫ってくる。商店街が修羅街のように暗く映った。その苦しみや迷いの感情を和らげてくれたのは、お茶やの小母さんだけであった。

現実的には、隆明は、同棲を始めた次の月(昭和31年(1956)8月1日)から、大学時代の恩師である遠山啓の紹介で、長井・江崎特許事務所に勤め始める。その後、アパートの契約切れ前の同年10月頃、三和荘を出て北区田端へ引っ越しをしている。そして、和子の離婚が同年11月2日に成立し、次の年5月31日に入籍している。三和荘を出る直前から田端へ引っ越した頃、ようやく、いろんな問題の解決が見え始めてきた。

吉本隆明にとって、谷中の坂の上は、思わず「ここだ」とこころの中で叫んだところだが、その坂の下での生活は苦難の連続であった。坂上に来た時期は、失職の問題も三角関係もすでにあったか、あるいは、遠くない将来に予見されるときであったことを考えると、なにかそういった困難な境遇に自ら意志を持って飛び込んでいくかのように見えてくる。そうすることが初めから決まっていたことであるかのように。

坂の上で自らの運命を感知したともいえるが、その感性は、変移し易い恣意的なものではなく、もっと根源的で本質的なものであった。たとえば、初期の幻想恋愛詩「エリアンの手記と詩」でイザベル・オト先生に次のようなことを云わせている。

『エリアンおまえは痛ましい性だ おまえは誰よりも鋭敏に、哀しさの底から美を抽き出してくる そしておまえはそれを現実におし拡げるのではなく地上から離して、果てしなく昇華してしまうのだ それは痛ましいことなのだよ おまえは屹度(きっと)人の世から死ぬ程の苦しみを強いられる 誰でもが人の世の現実はその様なものだときめている、その醜さ、馴れ合い、それから利害に結ばれた絆--そんなものがおまえには陥し穴のように作用する 何故陥されるのかも知らない間に陥ちて傷つくだろう おまえはきっと更めて人の世を疑い直す そうして如何にもならなくなった時、又死を考えはしないかと寂しくおもうのだ』

哀しさの底から抽き出される美を地上から離して、果てしなく昇華してしまうという純粋さ、それゆえ、人の世から死ぬ程の苦しみを強いられるという予感、そんな感性が基底にあることは間違いなく、もっといえば、それがすべてのはじまりである。

話がいきなり変わるが、後年、吉本和子は、自らの句集「寒冷前線」のあとがき(平成十年七月)で次のちょっと驚くことを書いている。

『結婚して間もなく夫から「もし、あなたが表現者を志しているのだったら、別れたほうがいいと思う」と云われた。理由は、一つ家に二人の表現者がいては、家庭が上手く行く筈がないという事であった。吃驚したけれど夫は既に、二冊の本を自費出版していたし、ちょっと辛どい恋の後でもあったので、友人とも相談し「ま、子育ても表現のうちか」と納得することにした。』

これまで発表されてきたものをつなぎ合わせると、その経過がわかってくる。しかし、それでもよくわからないことがあるが、これなどもその一つである。

この短篇には、森鴎外『青年』の主人公の下宿先のモデルにちがいない家が「谷中螢坂の片方が崖になった細く右に曲って商店街に出る道のつき当りに」あったとある。この家は隆明が散歩の途中に見つけたのであろうが、その「右に曲って」は、「左に曲って」であると、この細い坂を下ってきて左に曲がってからまっすぐに下る実際の道筋とあう。

参考文献
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)
「資料・米沢時代の吉本隆明について-その八
 兄隆明の思い出」(編集発行 齋藤清一)
吉本隆明「詩的乾坤」(国文社)
「吉本隆明全著作集 15 初期作品集」(勁草書房)
「吉本隆明全著作集 7 作家論」(勁草書房)
「吉本隆明全著作集 1 定本詩集」(勁草書房)
川端要壽「墜ちよ!さらば -吉本隆明と私-」(檸檬社)
吉本和子「寒冷前線」(深夜叢書社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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