東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

御薬園坂~釣堀坂(1)

2011年06月30日 | 坂道

御薬園坂上 御薬園坂上 御薬園坂上 御薬園坂中腹 前回の奴坂上を右折しちょっと南へ歩き、右へ少々カーブすると御薬園坂(標柱は、「薬園坂」となっている。)の坂上である。二股になっているが、右側である。左側は、後で訪ねる絶江坂の方に至る道である。

標柱の立っている坂上はほぼ平坦であるが、坂下に向けて進むと、まもなくかなりの勾配となる。ほぼまっすぐに下っているが、途中で右側にやや曲がる。坂下で緩やかになってから明治通りに出る。

尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)を見ると、仙台坂上から東南に進んで来て右に若干折れ曲がった道に、御ヤクエンサカ、とある。坂下の先は、古川にかかる四ノ橋で、右側(西)が土屋采女正の下屋敷である。近江屋板も同様であるが、仙台坂上から奴坂上を通ってまっすぐに延びており、坂名はないが、坂マーク△がある。ということで、ここは、江戸から続く坂である。

釣堀坂上 釣堀坂上 釣堀坂上 釣堀坂中腹 御薬園坂をちょっと下ると、右手に細い坂道が見えてくる。写真のように、南麻布三丁目9の住所表示プレートが右にあるところ。ここが釣堀坂の坂上である。この道に入ると、かなり狭い坂道が中程度の勾配で西へまっすぐに下っている。

古びて苔むした石垣や植え込みの緑が両わきからせまるようになって細い下り坂が続き、どこか異界へと導かれるような錯覚をするほどである。先ほどまでの道筋とはひと味違った昔ふうの雰囲気があって、緊張するとともにわくわくした感じになる。途中からどうしたわけかちょっと幅広となる。階段がつくられているからだが、なぜ階段になっているかわからないほど緩やかな勾配のところにできている。階段はすぐに終わり、それから下側はスロープになっている。不思議な短い階段である。

短い坂ですぐに坂下に至るが、ここに至る前から向こう側に階段が眼についてくる。いやおうなしにここは坂下の低地であることを実感する。ちょうどすり鉢の底のような感じ。この坂下から見上げるような階段である。右手に紫陽花が咲いている風景もよい。この階段を上り、そこからこの坂を眺めるのもまた風景が違って見え一興である。

こういった雰囲気の坂は貴重であると思いながら周囲をながめたが、そのわけがわかったような気がした。樹木が多いせいもあるが、現代を感じさせるような建造物や建物が見えにくいからであると思う(よく見れば見えるのであるが)。散歩コースに是非入れたい隠れた名坂である。

釣堀坂中腹から坂上 釣堀坂下 釣堀坂下から坂上 釣堀坂下から坂上 標柱はないが、前回の奴坂下のさらに下側にある釣堀(衆楽園)との関係が気になる。

横関は、この坂を「戦前は坂下に一竿園、衆楽園等の釣堀があった」と紹介している。現在の衆楽園が横関のいう衆楽園と同じと考えると、この坂下にはかつて別の釣り堀があって、こちら側からも衆楽園の方へ行けたのかもしれない。

尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)には、御薬園坂の西側が土屋采女正の下屋敷で、この道筋はない。近江屋板も同じ。

明治大正地図にはまだないが、戦前の昭和地図にこの道筋が見える。その間にできたのであるから、そんなに古い坂ではない。しかし、その坂の風情から、江戸から続くけれど変貌しつくした坂よりも古く見えてしまう。この関係は小日向の鷺坂と似ている。 

釣堀坂の反対側階段 反対側階段から見た釣堀坂 釣堀坂下から坂上 釣堀坂中腹から坂上 岡崎は、麻布台地の端の、南面する傾斜地で、海水がこの辺まで入り込んでいたことが推定できるとし、昭和13年の調査で、地表から30-40cm下に貝層があり、ハマグリ、アサリ、アカガイ、アカニシなどが発見されたという。

そこで、久しぶりに、中沢新一「アースダイバー」を見ると、興味深いことがわかった。

縄文海進期には、古川の方から海が北へ細く枝のように延びていたようである。ちょうど御薬園坂の西側であるが、この坂下を通って衆楽園、奴坂下へと続き、さらにそこから、仙台坂上の西に位置する天真寺の近くまで延びている。南端には元村町貝塚がある。その昔は、古川の方から細い谷がかなり長くできていたのであろう。そこには沢が流れていたかもしれない。奴坂阿衡坂は、この谷によってできたと思われる。二つの坂は谷を横切るため、坂下ですり鉢のようになっている。

中沢は、奴坂下の衆楽園で釣り体験をしたようで、釣堀のあたりのことを次のように書いている。

奴坂下釣堀 「そこはまさに高台の崖下にあたる地形であった。見上げると高台の上には豪華なマンション、そこから急斜面が下がっていて、崖下に手頃な大きさの池がある。もともとそこには湧水が涌いていたそうだが、井戸を掘って地下水をくみ出し、たっぷりの水量にして、釣り堀ができた。
 あたりはどんどんすました建物に建て替わっていっているのに、この釣り堀のある一角だけが、急に時間の歩みを遅くして(昔どおりということだけれど)、ぼくたちにあたりの地形をゆっくりと眺めやる余裕をあたえてくれている。」
(この後も中沢節が続くが、続きは同書でどうぞ。)

残念なことに中沢はこの釣堀坂を紹介していない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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奴坂

2011年06月29日 | 坂道

奴坂下 奴坂下 奴坂下側 奴坂下側 前回の阿衡坂下は、また、奴坂の坂下でもある。阿衡坂下をそのまま東へ直進すると、奴坂の上りとなる。坂下側では緩やかだが、左に緩やかにカーブするあたりから次第に勾配がきつくなる。カーブしてからすぐに坂上に至る短い坂である。坂上を右折しちょっと歩くと御薬園坂の坂上である。

坂上左手に小さな公園(本村公園)がある。近くの自動販売機で買ったペットボトルでのどを潤しながらここで一休み。

何年か前に今回と同じく新坂の方から来てこの坂を上り、短い小坂ながらなかなか風情のある坂で好きになった覚えがある。そのときの印象と今回の坂下の風景がちょっと違っているようである。もっと庶民的な感じがしたような気がする。住宅が新しくなったためのようである。やはり東京は変貌がはげしい。ここに限ったことではないが、いまさらながら感心する。坂巡りをはじめて数年しか経っていないのに、もう変化があらわれている。

奴坂上 奴坂上 奴坂上 奴坂上 坂上に来てなんか足りないと思ったら、標柱が立っていない。下の3,4枚目の写真は、昨年(2010)1月に撮ったものであるが、このときは坂下から見て坂上右角にちゃんと立っていた。かなり老朽化していたようなので新しいものに取り替えるのだろうか。標柱には次の説明があった。

「やっこざか 竹ヶ谷の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやつこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の三説がある。」

横関は、三説のうち、薬王坂のなまり説をとなえているが、正確には、この坂名を京都から借りてきた説。京都市の北部、左京区の鞍馬から静原へ行く途中の坂に薬王坂というのがあり、やっこう坂といったが、いつの間にか、やっこ坂となまって、奴坂とも書くようになった。そばにあった薬王堂が坂名の起因である。江戸麻布の御薬園坂は御薬園のそばの坂であった。薬園には薬師がつきもので、この麻布薬園には栄草寺とよぶ薬師堂があったが、ここへ西の方から上ってくる小さな急坂が奴坂である。ただし、京都のように薬王坂→やっこう坂→やっこ(奴)坂と転訛したものではなく、薬師堂前の坂なので京都の鞍馬の奴坂と薬王坂を連想してそのまま奴坂の名を借りた、ということらしい。

『御府内備考』の本村町の書上に次のようにある。

「西の方にこれ有り登り十二間幅三間里俗奴坂と唱候古来この所に竹ケ谷ツと申す場所これ有候この谷の小坂ゆえ谷ツ小坂に御座候文字書違え奴と当時の者認め候」

竹ヶ谷(たけがやつ)の小坂→谷ツ小坂→奴坂の転訛説は『御府内備考』からきているようであるが、『麻布区史』の編者はこの説を疑問視しているとのこと(石川)。

奴が付近に多く住んでいた説は、なにから来ているか不明。

奴坂上 仙台坂上から奴坂上へ向かう通り 奴坂上標柱(2010年1月) 奴坂上標柱(2010年1月) 近江屋板江戸切絵図に、前回の記事のように、坂名はないが、坂マーク△が見える。坂の両わきに、丁とあり、その南側に称念寺、北側に遍照寺がある。戦前の昭和地図には奴坂とちゃんとのっている。

上記のように1年半ほど前の冬に、この坂に来ている。このとき、がま池の方からやってきて仙台坂を下ろうとしたが、奴坂が近いことに気がつき、ついなつかしくなって、ここに寄り道をしたのであった。そういう気分にさせる坂である。

二枚目の写真はその途中の通りである。この通りは、直進すると、やがて右手に、本村公園、奴坂上が見え、御薬園坂を下り明治通りに至る。 ここは、いわゆる高台にあるにもかかわらず、昔風の商売屋の建物などが並んでいて庶民的で下町風になっている。がま池の方から来たのでなおさらそういう感じを受けたのかもしれない。規模は小さいが高輪の二本榎通と似た雰囲気がした。通りの建物を冬の弱い西日が照らしている。冬の夕暮れ前午後四時ころであった。 

奴坂下 奴坂下釣堀 奴坂下釣堀 奴坂下釣堀(2010年1月) ところで、奴坂下を左折(阿衡坂下を右折)すると、左の写真のように、細い下り坂がまっすぐに南へ延びている。ここを下っていくと、突き当たりが、意外なことに釣堀である。衆楽園というらしい。何人かの人たちが釣り糸を垂れていた。

この細い坂は下りに向かって右が小学校で、左が住宅で昔ながらの雰囲気がある。奴坂下のかつての風情がこちらの方に残っている感じである。地図を見ると、釣堀の東側が称念寺のようである。

右の写真は、上記の1年半ほど前に来たときに撮ったもので、営業終了後のため釣り人がいなく、ちょっとさみしい雰囲気が漂っている。白い猫がぽつんと座っている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)

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阿衡坂

2011年06月27日 | 坂道

阿衡坂・奴坂周辺地図 新坂上 新坂上右折した通り 新坂上の交差点を右折し、東へ進む。二枚目の写真にみえる交差点の右(東北角)にフィンランド大使館があり、その向かいがパキスタン大使館。交差点を反対に左折し西へ進めば、新富士見坂近くのT字路、直進すると南部坂上を直進した信号のある交差点に至る。

横関や岡崎などの新坂上の説明に、麻布プリンスホテルというのがでてくるが、現在、そんなホテルはなく、調べたら、交差点角のフィンランド大使館のあるところにかつてあったようである。六本木にあったフィンランド公使館と土地を交換し、そこに六本木プリンスホテルができ、この交差点角に大使館ができたらしい。昭和31年の23区地図では富士ホテルとなっているが、それが後の麻布プリンスホテルであろう。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、交差点を左折した通りの北側が松平主水屋敷の裏側で、右折した通りの南側に本村町の町家がある(いまの本村小学校のあたり)。近江屋板も同様であるが、松平主水屋敷の裏通りに、「此辺白金御殿ト云」とある。

阿衡坂上 阿衡坂上 阿衡坂上 平坦な道が続き、右手に本村小学校が見えてくるが、ここをすぎると、下り坂となる。ここが阿衡坂である。中程度の勾配の短い坂ですぐに鞍部となり、そのまま進むと奴坂の上りとなる。阿衡坂の由来について横関が次のように説明している。

文政五年(1822)、金丸彦五郎図工、須原屋茂兵衛蔵版『分間江戸大絵図』の、麻布白金御殿跡の辺に、「アカウサカ」という坂の名が見える。これは、奴坂につづいて西の方へ上る坂で、遍正寺と称念寺のあいだの道筋である。この坂道の北側には、「亀井大隅守」の下屋敷があり、南側には小屋敷が一廓になってたくさん並んでいる。この辺は、昔の白金御殿の一部であって、かつての保科肥後守の下屋敷があったところである。

阿衡とは、天子の輔佐たる摂政または宰相の異称であるが、ここでは、徳川将軍の輔佐役という意味で、保科肥後守正之(まさゆき)がその阿衡である。正之は、二代将軍秀忠の三男であったが、将軍の子としての取り扱いはされなかった。母は神尾氏でお静の方といわれ、秀忠の最愛のひとりであったという。このため、正室浅井氏お江(崇源院)の嫉妬がはげしく、七歳のとき、高遠藩保科肥後守正光の養子として高遠城主となった。

保科肥後守正之は、二代将軍秀忠の実子で、三代家光につかえ、家光に信頼されて四代家綱を傅育補佐し、四代家綱の摂政の仕事をつとめた。保科肥後守を継いだ六男正容(まさかた)は、五代綱吉に信頼されて、五代綱吉、六代家宣、七代家継につかえた。保科肥後守は、父子ともに侍従となり、将軍そば近くにあって、誠に立派な阿衡であった。

阿衡坂上 阿衡坂下 阿衡坂下 以上のことから、横関は、「アカウサカ」は、保科肥後守の下屋敷わきの坂なので、阿衡坂と呼んだと推察している。

上記のように、この坂名のいわれは、他とちょっと違っている。屋敷そばの坂だからその屋敷名がついたという単純なことではなく、阿衡として評判の高かった保科肥後守の下屋敷のそばの坂ということから、正之・正容の名声と阿衡の意味とが結びついてはじめて理解のできる解釈である。

この坂は、石川はリストに入れず、岡崎は横関の上記の説明をのせている。山野も横関説を採っているが、坂の位置を新坂上を右折した平坦な道(上右の写真)としている。いずれにしても、この坂の由来に関しては横関説しかないようである。また、戦前の昭和地図に奴坂はあるが、この坂名はない。

近江屋板江戸切絵図を見ると、奴坂のところに東へ上る坂マーク△があり、その坂下から西へ上る坂マーク△があるが、この坂が横関がいう阿衡坂と思われる。横関にこの坂の写真(昭和40年代ころか)がのっているが、右の写真とほぼ同じ位置のかつての風景が写っている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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光林寺~新坂

2011年06月24日 | 坂道

青木坂を下り、坂下の四差路を直進し、明治通りの歩道を左折する。天現寺によろうとしたが、いくら歩いても見えない。さっきの歩道を右折しなければならなかったことに気がつくが遅い。またの機会に。

新坂付近 街角案内地図 光林寺山門 光林寺境内 ヒュースケンの墓 歩道を東へ歩くとやがて左手に光林寺が見えてくる(左の写真の地図参照)。臨済宗妙心寺派、延宝六年(1678)創建という。

幕末に米国公使ハリスの通訳兼書記官で攘夷派の浪士に斬殺されたオランダ人ヒュースケンの墓がある。境内の右手奥であるが、歩道わきに簡単な案内地図がある。そのとなりの「史跡 ヒュースケンの墓」の説明パネルによると、ハリスの片腕となって日米修好通商条約の調印に奔走し、また、日本と諸外国との条約締結にも尽力した。

万延元年(1860)12月、ヒュースケンは日本とプロシア(プロイセン)との修好条約の協議斡旋のために、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、5日午後9時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋(古川赤羽橋の一つ上流側)付近で浪士に襲われて死亡した。カトリック教徒のため土葬が必要であったが、当時御府内では土葬が禁じられていたため、江戸府外であった光林寺に葬られたとのこと。

ヒュースケンは、南部坂の記事にあった日本とプロイセンの修好通商条約の締結に関わった人物らしい。また、以前の記事の岩瀬忠震なども交渉のときの相手方であったろうから互いによく知っていたと思われる。

荷風散人は、このあたりにも散歩で訪れている。

「断腸亭日乗」昭和12年(1937)2月21日に次のようにある。

「二月廿一日日曜日 快晴の空雲翳なし。午後笄町長谷寺の墓地を歩む。門内は本堂建直しの最中なり。古き渋塗の門に普陀山の額あり。大正三四年のころ写真うつしに来りし時見しところに異ならず。旧観喜ぶべし。墓地には往年の如く松杉欝然、昼猶暗く、鴉のなく声深山に在るが如き思あらしむ。偶然花井お梅の墓あるを見たれば落葉焚く寺男にたのみて香花を供ふ。花井家の墓石は三基ありて卒塔婆多く立ちたり。展墓の人絶えざるものと見えたり。広尾の天現寺前に出るに道路取ひろげとなり、曾て見たりし水車も筧も皆なくなりぬ。光林寺の門に入り堂後の丘阜に米国人ヒュースケンの墓を帚ふ。一昨年アルコツク公使の著書をよみてより又近年刺客の横行するを見て、余はヒ氏の不幸を思合せ、先頃より其霊を吊ひたしと思ひゐたるなり。此日春の夕日おだやかに古墳を照し、梅花の満開するを見る。惆悵去るに忍びざるの思あり。電車にて銀座に至り不二あいす店に夕餉を食す。たまたま沢田氏の来るに会ふ。風邪の気味なれば食後直に家にかへる。」

長谷寺(ちょうこくじ)は、永平寺東京別院で、旧笄町、現西麻布二丁目にある。ここまで出かけた帰りに天現寺前に出たが、道路(現在の明治通りと思われる)が広がっており、水車も筧(とい)もなくなっていた。光林寺の門に入り、ヒュースケンの墓を掃苔した。「近年刺客の横行するを見て」とは、前年の2・26事件やその前の相沢事件などを指しているのだろうか、ずいぶんと同情的である。

新坂下 標柱 新坂下 標柱 新坂下 新坂途中から坂下側 新坂途中から坂上側 光林寺を出て、歩道を左折し、2本目を左折する。ここが新坂の坂下である。右角に標柱が立っている。

明治通りの歩道に面する坂下からフィンランド大使館のある坂上まで北へと延々と延びる長い坂で、道幅は細い方である。古川沿いの谷筋と麻布台地とをつなぐ道で、勾配など変化に富んでおり、よい散歩のできる坂道と思う。ただし、明治通りから車がときたま上ってくる。

歩道からすぐの坂下はほとんど傾斜がなく緩やかであるが、ちょっと進んで右に少々折れ曲がったあたりから傾斜が始まる。まっすぐに上って、上の方で、左にやや折れ曲がる。

坂下側を見ると、明治通りの上に首都高速が通っており、その向こうが白金である。何年か前にこのあたりに来たとき、こちら側の坂巡りを終えてから白金の三光坂方面に行ったことを思いだした。

決して若くはみえない婦人が自転車に乗ってすいすいとこの坂を上っていく。若者でも苦労するはずなのに、すごい、何者か、と思い、よく見ると、アシスト付きであった。妙に納得し、感心する。坂のある町では便利なものかもしれない。

新坂途中から坂下側 新坂途中から坂上側 新坂途中から坂下側 新坂途中から坂上側 上の写真のように坂の標柱には次の説明がある。

「しんざか 新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは、明治二○年代と推定される。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、光林寺の東側に麻布台地へと上る坂道があり、坂上を直進すると南部屋敷に至り、途中、左折すると青木坂へと続く道に出る。ところが、近江屋板を見ると、光林寺わきから上る道筋は、何回か直角に折れ曲がってから北へと南部屋敷まで延びている。

江戸末期の道筋が近江屋板のとおりとすると、標柱のように、後の明治になってから開かれた坂といっても矛盾しないが、坂上側は現在と一致しているような気がする。一方、尾張屋板のとおりであると、江戸末期にはすでにこの坂があったということになりそうである。

明治大正地図を見ると、現在の道筋があるが、坂の中頃に二つの小さなクランク状の折れ曲がりがある。現在、そのような折れ曲がりはない。戦前の昭和地図を見ると、この道筋に新坂とのっている。

ところが、山野は、元禄十二年(1699)に開かれた坂とする。岡崎は、上記の標柱を引用し、明治20年代に開かれた坂としている。山野説がどこから来ているのかと、「東京23区の坂道」を見ると、以前の標柱の説明は、「できた当時は、新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く元禄十二年(一六九九)である。しんさかとも発音する。」(設置平成7年1月)であった。岡崎が見たのは、もっと古い(昭和40年代頃か)はずだから、標柱の説明は、かなり前から現在まで元禄説と明治説の二つに分かれ入り乱れているようである。どちらに軍配を上げるべきか、いまのところ資料が少なくてわからない。とりあえず、尾張屋板と近江屋板を詳細に比較することで少しわかるかもしれない。なお、横関は、この新坂を詳しくは紹介せず、石川はリストにも入れていない。

新坂上側 新坂上側 新坂上 新坂上 途中から緩やかになって、それから坂上までかなりの距離がある。このため、緩やかになったところが坂上と思ったが、そうではなく交差点近くが坂上で、そこにも標柱が立っている。

坂上の交差点から直進すると南部坂上を直進した信号のある交差点へ、左折すると新富士見坂上近くのT字路へ至る。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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森内将棋名人位に復位(2011)

2011年06月23日 | 将棋

森内俊之九段が羽生善治名人に挑戦中の第69期将棋名人戦7番勝負の第7局で勝ち、通算4勝3敗となり、名人位に返り咲いた。

今期の名人戦は、挑戦者がはじめ三連勝し、すぐに復位を決めると思われたが、名人がそれから巻き返し三連勝し、名人位の行方は、最終局に持ち越されていた。

第七局目は振り駒で先手後手が決められるが、振り駒の結果、森内九段が先手で、横歩取りとなった。私的には、森内が封じた51手目が印象に残った。2時間に及ぶ大長考であったからである。5三桂左成。これと8二歩の二択とテレビでは解説していたが、感想戦で8二歩はまずい変化があると森内が云ったとのこと。封じ手は、その後の4五銀を期待したものらしく、その後の変化を読んで大長考となったのか。森内75手目の4四角が好手だったらしい。

この二人の対戦成績は先手の勝率がよいとのことで、先手となった森内九段が有利かと思ったが、そのとおりとなった。

今期の名人戦の勝敗と戦型は次のとおり。

1 先手森内○(横歩取り)
2 後手森内○(急戦矢倉)
3 先手森内○(ゴキゲン中飛車)
4 先手羽生○(相矢倉)
5 後手羽生○(横歩取り)
6 先手羽生○(相矢倉)
7 先手森内○(横歩取り)

先手の5勝2敗であり、上記の定説のとおりとなった。戦型では、先手が森内のとき、横歩取りで2勝1敗、対ゴキゲン中飛車で1勝。先手が羽生のとき、矢倉で2勝1敗。という結果から、森内は後手のときの矢倉対策、羽生は後手のときの横歩取り対策に課題を残した(へぼ将棋ファンの感想)。

二人の名人戦7番勝負における対戦成績は次のとおり。

54 1996 羽生善治 4-1 森内俊之(羽生防衛)
61 2003 羽生善治 4-0 森内俊之(羽生奪取)
62 2004 森内俊之 4-2 羽生善治(森内奪取)
63 2005 森内俊之 4-3 羽生善治(森内防衛)
66 2008 羽生善治 4-2 森内俊之(羽生奪取)
69 2011 森内俊之 4-3 羽生善治(森内奪取)

名人戦7番勝負で二人はこれまで6回対戦しており、3勝3敗の五分。二人の間での名人位の奪取、防衛は、奪取4回、防衛2回で、奪取、すなわち、挑戦者勝ちの回数が多い。

森内は、第65期名人戦で名人位を防衛し、通算5期獲得ということで、18世名人の称号を得ている。羽生は、次の年の名人戦で名人位を奪取し、19世名人の称号を得ている。

他棋戦では羽生が圧倒的な成績を残しているが、名人戦に限っていえば、羽生と森内は五分五分の対戦成績である。森内の順位戦・名人戦での活躍が目立つ。

クリックすると拡大します 左は、「将棋世界」付録の2000年棋士名鑑にある森内のプロフィールである。11年前のもので、森内はまだ無冠であった。当時のタイトル保持者は、佐藤康光名人、藤井猛竜王、谷川浩司棋聖、羽生善治四冠(王位・王座・王将・棋王)。三十代になってから名人などのタイトルをとった。

ところで、題名は忘れたが、以前、将棋に関する本を読んだら、森内は、将棋は先手有利という信念を持っているらしく、また、将来もし先手必勝の定跡ができたらつまらなくなると思うが、それに対して、羽生は、そのときはルールを変えて打ち歩詰めありにすればよい、などと云ったとか。

このへんのはなしになると、神の領域で、ただ畏れ入るしかなく、へぼ将棋ファンとしては、そういうことを論じる時代になったのかと感心するほかない。中原・米長・加藤が活躍していたころには、先手有利云々というはなしは聞いたことがなかったような気がするからである。ただ、昨年度のプロ棋士の公式戦通算で後手がわずかに勝ち越した(これまでは先手の勝ち越しが続いていた)そうなので、先手必勝は、まだまだ先のことであろうか。

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青木坂

2011年06月20日 | 坂道

青木坂下 青木坂下 青木坂下 青木坂下 標柱 新富士見坂下を左折し、南へ進むと、すぐに四差路に至るが、ここが青木坂の坂下である。左角に標柱が立っている。ここで左折すると、東へほぼまっすぐに比較的急に上っている。狭い道で下りの一方通行。となりの新富士見坂と同じように麻布台地の古川流域を望む西南端で台地と谷を東西に結ぶ坂である。

ここに来てまた驚いた。坂右側(南)が工事中で、無粋な白い工事用パネルが建っている。このため以前来たときの印象からずいぶん変わり、妙に明るくて安っぽくなっている。はじめて来たとき、もっと落ち着いた感じの坂で、坂上はもっと暗い感じであった記憶がある。以前の坂は、たとえば、山野にある写真や「東京23区の坂道」で見ることができるが、むかし風の好ましい雰囲気を醸し出しており、坂上は樹木で鬱蒼としていた。

この坂に限らず、坂というのは、単なるスロープではなく、その両わきの状態にきわめて影響を受け、建物、壁、塀、樹木などによりかなり変わることを改めて感じる。それらとスロープとが渾然一体となって独自の雰囲気をつくり、一つの風景をつくり出している。工事が終わったらどのような雰囲気の坂になるのだろうか。

青木坂下 青木坂中腹から坂下 青木坂上から坂下 青木坂上から坂下 標柱には、上右の写真のように次の説明がある。

「あおきざか 江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれた。」

尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)を見ると、四差路の東北側へ進むと、青木甲斐守の下屋敷があるが、坂名も坂マークもない。反対の西南側へ行くと古川のそばに天現寺がある。この四差路が現在と同じ青木坂下と思われる。坂上の青木屋敷は、南部坂上を右折し南へ進んだ突き当たりである。近江屋板には、坂名はないが、坂マーク△があり、坂上は青木美濃守の下屋敷となっている。ここもまた、坂の近くにある屋敷名が坂名の由来である。

戦前の昭和地図には、ちゃんと青木坂とあり、このあたりの旧町名は富士見町であった。別名が富士見坂であるが、横関は、早くから富士の見えない坂になっていたとし、となりの新富士見坂からはまだよく富士が見えると書いている。

青木坂上 青木坂上 標柱 青木坂上 青木坂上 この坂上は麻布台地の西南の角にあるが、石川によれば、一帯の台稜は麻布御殿跡地といわれ、『江戸砂子』に、「元禄のころ麻布御殿といふあり、今は武家屋敷なり。此地眺望他にすぐれたり。故に富士見御殿とも申せしなり」とあるという。

坂の南側にはフランス大使館があるが、昭和8年1月に現在地に広尾から新築移転してきた(石川)。右の写真の坂上右側に大使館の塀が見える。坂上を左折すると新富士見坂上の方で、直進すると新坂の方に至る。
続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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明治神宮花菖蒲2011

2011年06月19日 | 写真

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新富士見坂

2011年06月17日 | 坂道

新富士見坂周辺街角案内地図 南部坂上右折 無名坂 南部坂上右折 無名坂 新富士見坂上 標柱 木下坂下の有栖川宮記念公園前の交差点を右折し、再度、南部坂を上る。前回来たとき、広尾駅から来てこの交差点を右折し下の谷道を通ったので、今回は、上の山道から新富士見坂に行こうと思ったのである。左の写真の街角案内地図の右上に南部坂が見えるが、その坂上のさきを右折し南へ歩く。

右折してからの道は、まっすぐでかなり緩やかな下り坂になっている。2,3枚目の写真は南側を撮ったものである。右側(西)はドイツ大使館の敷地である。帰宅後、岡崎を見ていたら、この無名坂が南部坂のところに次のように紹介されていた。

「坂上に、南に下る小路がある。ゆるやかな無名坂である。坂の西側の西ドイツ大使館の古い土塀は剥げ落ち、塀の上から道を覆う樹の茂みのつくる蔭に、むかしの面影を偲ぶことができる。」

現在は、右折後すぐの道は2枚目の写真のように広く、3枚目の写真のように途中から狭くなるが、それでも小路といった感じはしない。この三四十年で変わったのであろう。

新富士見坂上 新富士見坂上 新富士見坂上 新富士見坂 上折曲部 上記の無名坂をまっすぐに歩いて行くと、右折する角に新富士見坂の標柱が立っている。ここが坂上である。

この坂は、ここで右折すると、まっすぐに西へ延びている。両わきには大きな家が並んで、静かな住宅街である。坂上側はほぼ平坦であるが、次第に急な下りになる。そこで、左へほぼ直角に折れ曲がり(上折曲部)、南へと中程度の勾配で下ってから、こんどは右へほぼ直角に折れ曲がり(下折曲部)、西へと緩やかに下り、すぐに、公園の方から南へと延びてくる谷道に出る。ここが坂下で、ここにも標柱が立っている。

上左の地図からもわかるように、この坂は上下二つのほぼ直角に曲がる折曲部が特徴的で、長さは、坂上から上折曲部までがもっとも長く、下折曲部から坂下までがもっとも短い。

新富士見坂 上折曲部から坂上 新富士見坂 上折曲部から坂下 新富士見坂 上折曲部から坂下 新富士見坂 下屈曲部から坂上 標柱には次の説明がある。

「しんふじみざか 江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治大正ごろに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、南部屋敷の南部坂を挟んで反対側に酒井壹岐守の屋敷と松平主水の屋敷があり、その間を東南へと延びる道がある。この道が上記の無名坂と思われるが、その突き当たりが青木甲斐守の屋敷で、ここが青木坂の坂上であろう。この青木坂の坂上に達する手前(北側)に、四差路が見えるが、ここは、新富士見坂上よりもさらに北の現在T字路(やや変則的な)となっているところかもしれない。

明治地図を見ると、現在と同じようなT字路はあるが、新富士見坂はない。戦前の昭和地図には、同じT字路があり、新富士見坂の道筋ができている。標柱の説明のように、明治から大正にかけてつくられたのであろう。

新富士見坂 下屈曲部から坂上 新富士見坂 下折曲部から坂下 新富士見坂 下折曲部 新富士見坂下 坂上から新富士見坂に入ると、道が西へと延びるので、ここからかつては富士山が見えたのであろうか。横関には、坂の途中の曲り角では富士山がよく見える、とあるが、その曲り角は上折曲部と思われる。

となりの青木坂が富士見坂とも呼ばれたのに対し、こちらでも富士山がよく見えたのでそれに「新」を付けて坂名としたということらしい。
(続く)

 参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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木下坂

2011年06月16日 | 坂道

木下坂上 木下坂上 木下坂上 木下坂上 南部坂上に有栖川宮記念公園の出入口がある。ここから公園にふたたび入る。木下坂に向かうには、坂上を直進し次の信号を左折すればよいが、公園の中を通る方がかなりショートカットになる。

公園の上側を通り、都立中央図書館の前を通り過ぎて道路に出ると、突き当たりが木下坂の坂上である。1,2枚目の写真は突き当たりを右折してからちょっと進み振り返って、坂上を撮ったものである。左手が図書館・公園である。

坂上近くで少し右に曲がってから公園に沿ってまっすぐに下っている。勾配は比較的緩やかな方であるが、坂下側で左にちょっと曲がるまでかなりの距離があり、長い坂である。以前、来たとき、坂下から上り、うんざりするほど長かったことを覚えている。しかし、公園の緑がそんな気分をいやしてくれるし、いまの季節には下の写真のように歩道わきに紫陽花が咲いているのもよい。

木下坂上 木下坂中腹 木下坂中腹 木下坂中腹 坂下側に坂の標柱が立っているが、次の説明がある。

「きのしたざか 北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、南部家の屋敷と木下備中守の屋敷との間に南北に延びる道があり、坂名も坂マークもないが、ここが木下坂であろう。近江屋板には、坂名はないが、坂マーク△があり、屋敷名は木下肥後守となっている。ここも坂のそばの屋敷名が坂名の由来である。

南部坂と同じく『御府内備考』の廣尾町の書上に次のようにある。

「一坂 登凡拾間餘巾三間餘 右当町より北之方南部信濃守様御中屋敷裏道ニ有之里俗木下坂と唱候尤木下宮内少輔様御屋敷有之候ニ付右之通相唱候哉ニ奉存候尤御持之儀茂前書同様ニ而町内組合無御座候」

坂は長さ十間(18m)、幅が三間(5.5m)で、南部坂よりも短く狭く、現在よりもかなり短い。江戸切絵図をみると、木下家の屋敷は坂下側にあるようなので、現在の中腹から坂下側をそう呼んだのかもしれない。坂の保守管理は南部坂と同じく武家方持ちであった。

木下坂下 木下坂下 木下坂下 木下坂下 戦前の昭和地図を見ると、現在とほぼ同じ道筋が公園わきに沿って延びており、木下坂とある。

江戸切絵図では、この坂下が廣尾町の町屋になっているが、上記の『御府内備考』の書上によれば、ここは、古来、阿左布村の内で小名樋籠(ひろう)といったが、正徳三年(1713)町奉行支配地となった頃より廣尾町と文字が改められたという。

ところで、現在、広尾駅のすぐ西側に聖心女子大学があり、このあたりは、渋谷区広尾であるが、古くは渋谷村の内で、広尾原と呼ばれる鷹場であった。元広尾町(大学の南側)から麻布広尾町にかけてあった広野を広尾原といい、別名ツクシが原。明月・虫聞き・草摘みの名所として江戸市民に親しまれた。また、麻布七不思議の「たぬきばやし」を聞く場所としても有名であった(竹内誠編「東京の地名由来辞典」東京堂出版)。

木下坂下 標柱 木下坂下 標柱 木下坂下 江戸名所図会(三)広尾原 江戸名所図会に、土筆(ツクシ)が原が次のように紹介されている。

「渋谷川の南の原をしか名づく。またこの辺を豊沢の里と呼べり。上中下にわかれて渋谷の地に属せり。」土筆(ツクシ)が原は筑紫ヶ原とも書くとのこと。

同書には、右の写真のように、広尾原の挿絵がのっている。ススキの原を老人と子供らが歩いているが、のどかな感じである。前回の記事のドイツ人画家による江戸の風景画は、写実的で、あくまで見たとおりに描いているように見えるが、長谷川雪旦が描いたこちらの方はのんびりした感じが伝わってくる描き方である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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有栖川宮記念公園~南部坂(2)

2011年06月15日 | 坂道

南部坂下標柱 南部坂下 南部坂下 南部坂下 有栖川宮記念公園を出て左手にちょっと歩くと、すぐそこが南部坂の坂下で、坂の標柱が立っている。そこから左を見ると、標柱の向こうに坂が公園の塀に沿ってまっすぐに延びている。

信号を渡ってから左折し坂上に向かうが、坂下側は緩やかでほとんど勾配はない。途中、左側に南部坂幼稚園があるあたりから勾配がはじまり、そのさきのドイツ大使館のあたりから勾配がきつくなる。

坂下と坂上に新しい標柱が立っており、次の説明がある。

「なんぶざか 有栖川宮記念公園の場所が、赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)」

尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)を見ると、南部家屋敷の南の道に坂名も坂マークもないが、近江屋板には、△ナンブ坂とある。坂名は坂のそばにあった屋敷名に由来するパターンである。

『御府内備考』の廣尾町の書上に次のようにある。 「一坂 登凡三拾間餘巾五間半餘 右当町より東之方南部信濃守様御中屋敷前ニ有之里俗南部坂と唱申候尤武家方持ニ而町内組合持ニ而者無御座候」

長さ三十間(55m)、幅が五間半(10m)とあるが、現在とほぼ同じように思える。坂の保守管理は武家方持ちであった。

南部坂下 南部坂下 南部坂下 南部坂下 南部坂は、忠臣蔵の物語に「南部坂雪の別れ」などとしてよく登場する(たとえば、真山青果「元禄忠臣蔵」岩波文庫)。しかし、それは、標柱のように、この麻布の南部坂ではなく、赤坂の南部坂である(以前の記事参照)。わざわざかっこ書きで注をつけているのは、赤坂の南部坂としばしば混同されたからであろう。横関は次のように説明している。

正保元年(1644)の江戸絵図では、赤坂の南部坂上に「南部山城守下ヤシキ」とあり(いまの赤坂氷川公園、氷川小学校の辺(当時))、また、いまの有栖川宮記念公園のあるところに、「浅野内匠頭下屋敷」とある。それから約三十年後の寛文十三年(1673)二月の寛文図では、赤坂の南部坂の頂上、南部山城守の下屋敷のあったところが「アサノ采女」となり、麻布の浅野内匠頭の下屋敷のところは、「南部大ゼン」に変わっている。正保図と寛文図を比べると、南部邸と浅野邸が入れ替わっているのである(横関に両図がのっている)。

赤穂浪士の吉良邸の討ち入りは元禄15年(1702)であり、そのときはすでに麻布に浅野内匠頭の屋敷はなく、また、内匠頭長矩未亡人(瑶泉院)は赤坂の南部坂近くの実家である浅野土佐守長澄の中屋敷(いまの氷川神社の境内)に身を寄せていたから、大石内蔵助が討ち入り前の雪の降る日に瑶泉院に最後の別れに参上したのが史実であるとしても、そのときの南部坂は麻布であるはずはなく、赤坂である、ということである。

いずれの坂も盛岡城主の南部家屋敷そばの坂であったため同じ坂名となったが、上記のように、この坂よりも赤坂の南部坂の方が古い。

南部坂ドイツ大使館壁 南部坂ドイツ大使館壁 南部坂ドイツ大使館壁 南部坂中腹 この坂は左手の有栖川宮記念公園の樹々がよく目立ち、坂を上ると、右手のドイツ大使館とその歩道に沿った壁が印象的である。

その壁に貼りつけてあった案内(左の写真)によると、ことし(2011)は、日本とプロイセン(1866年からは北ドイツ連邦、1871年からはドイツ帝国)との間で修好通商条約が締結されてから150年で、それを記念する行事が行われているらしい(詳しくは「日独交流150周年」参照)。

1860年(万延元年)、オイレンブルク伯爵(左の写真の下左の人物)の率いるプロイセンの東方アジア使節団がドイツの諸国を代表して日本を訪れ、条約が1861年1月24日に調印された。そのとき使節団の一員として来日したドイツ人画家が描いた江戸の風景画が風景画集「オイレンブルク遠征図録」として残っているらしく、今回、記念行事の一環として、その150年前の江戸の風景画を説明文とともに大使館の壁に坂下から順に22枚貼りつけて紹介している。2,3枚目の写真はそれを撮ったものである。いわば、江戸の風景の坂道展覧会である。なかなか面白いアイデアと思った。

南部坂上 南部坂上 南部坂上 南部坂上 壁の絵をながめて、写真を順に撮り、ふと気がつくと、坂上であった。坂上を進むと右側に標柱が立っている。

このあたりは、何年か前に訪れているが、この坂は今回がはじめてである。赤坂の南部坂の記事を書いたとき、南麻布の坂巡りはしたがこの坂には来ていないことに気がつき、それ以来気になっていた坂であった。ようやく訪ねることができたが、坂道展覧会とあいまって印象に残る坂巡りとなった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)

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有栖川宮記念公園~南部坂(1)

2011年06月14日 | 坂道

今回は、南麻布の坂を巡った。麻布台地の南端、西端から古川へと下る坂である。このあたりはお寺と大使館の多いところである。坂巡りをして実感した。

有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 午後広尾駅下車。

駅前の外苑西通りを横断し、東へ向かい、そのさきの交差点から有栖川宮記念公園に入る。入るとすぐ、大きな池があり、わきに紫陽花が咲いている。この季節の花である。

右手に進むと上りとなり、池が眼下に見えてくる。崖から水が流れ落ちるところがあり、滝となっている。このあたりにも紫陽花が咲いていた。西側へと回って中に入ると、樹木で鬱蒼としている。西側にも水が流れ落ちているところがあり、それが渓流のようになって流れ、せせらぎができている。カモが二羽流れの小石の上にいるが、あまりにもじっとしているので、模型かなと思ってしまうほどである。しばらくみていると、すこし動いた。一周し先ほどの大きな池につくと、子供たちが亀を捕まえようと頑張っているが、なかなかうまくいかない。

有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 この公園は、麻布台地の西端に位置し、南西へと下る傾斜した面にある。その昔は、台地から傾斜面にかけてこんもりとした森ができていたのであろうか。そんなことを想像してしまう。

上側に都立中央図書館があるが、この上部の台地が広く、池のある谷部が狭くなっている。このため、全体として三角状の敷地となっており、三角形の一辺に相当する南側に南部坂が位置し、もう一辺に相当する西北側に木下坂が位置し、両坂は、公園の出入口前の交差点で合する。南部坂と木下坂は公園の傾斜にしたがって上下する坂である。

麻布台地の南端と東端の山麓には古川が流れているが、この公園側の西端には、かつて笄川(こうがいがわ)が流れていた。正確には、広尾駅近くの外苑西通りのあたりである。別名、天現寺川、龍川、親川、広尾川。水源は、青山大膳亮の邸内の蛇ヶ池(南青山二丁目の青山墓地)で、現在の外苑西通りの西側に沿う笄町渓谷を南へと流れ、天現寺橋で古川(上流では渋谷川)に注いでいた。現在の外苑西通りと明治通りとの交差点近くである。

現代地図を見ると、外苑西通りに沿って西麻布に笄公園や笄小学校というのがあるので、笄町の旧地名が残っている。また、外苑西通りと六本木通りとの西麻布交差点から六本木通りを西へ上る坂を笄坂という。

有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 有栖川宮記念公園 尾張屋板江戸切絵図(東都麻布之絵図)を見ると、この公園には、南部美濃守の下屋敷があった。それが、明治29年(1896)に有栖川宮家、のち高松宮家の御用地となったが、昭和9年(1934)東京都に寄附され、この公園ができたとのこと。

明治維新のとき東征大総督に任ぜられた有栖川宮熾仁親王は西郷隆盛などを参謀にして江戸に入った。それをさかのぼること6年ほど前、公武合体と称して孝明天皇の妹の和宮は婚約していたにもかかわらず14代将軍家茂と政略結婚させられたことは有名な話であるが、その婚約者が有栖川宮熾仁であった。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」(之潮)
小西四郎「日本の歴史19 開国と攘夷」(中公文庫)
井上清「日本の歴史20 明治維新」(中公文庫)

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善福寺川緑地アジサイ2011

2011年06月13日 | 写真

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善福寺川シラサギ2011(6月)

2011年06月12日 | 写真

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金剛寺坂~旧大門町~礫川公園

2011年06月09日 | 散策

付近の案内地図 新坂下 新坂下 金剛寺坂下 前回の記事の谷道から水道通りの小日向派出所の角を左折する。

これから先は、ほとんど通ったことのある道筋を巡ることになる。左の写真の街角案内地図にあるように、新坂下、金剛寺坂、旧鶯谷(春日二丁目13,15)、金剛寺坂上を右折した小路(同19,20)、荷風生家跡(同20,23)、旧大門町(同24,25)、安藤坂などである。

水道通りを東へ進み、次を左折すると、新坂(今井坂)の坂下である。前回来たときは、工事中であったが、写真のように工事が終わりきれいになっている。坂下からちょっと上の右側に説明板が立っている。坂下を通り過ぎて、鶯谷へと至る道を左折しようとしたが、通り過ぎて次を左折してしまい、金剛寺坂の坂下に入る。丸の内線の上を過ぎて、次を右折すると、荷風生家跡の方であるが、そうせず、坂をまっすぐに上る。坂の途中、なにかが落ちていたのであろうか、鳩や雀がしきりについばんでいる。

金剛寺坂中腹 鶯谷の無名の階段坂 金剛寺坂上右折した道 荷風生家跡 坂上を左折し、鶯谷の無名の階段坂に向かう。このあたりは、最近来たばかりなので、通いなれた道といった感じである。せっかくこの階段坂まで来たので、往復する。ここは、鶯谷といったが、上野駅の近くの下谷の鶯谷とは違う。どちらも鶯の鳴き声がよかったのであろう。

階段坂上から引き返し、金剛寺坂上にもどり、左折し、次を右折する。この通りは、春日通りの南でほぼ平行に延びる道で、荷風生家跡の近くである。荷風は、麻布市兵衛町の偏奇館に移る前の大正八年(1919)9月29日、生家近くに売地があるということで、このあたりに来ているが、その売地は、この通りにあったと思われる。そのとなりは石橋思案の家であった。

突き当たりを右折し、ちょっと歩くと、次第に下り坂となって、荷風生家跡にでる。この坂下に赤子橋があった。このあたりもすっかり通いなれた道である。

川口アパート前 旧大門町への小路 旧大門町 旧大門町 荷風生家跡の坂下を左折し、左に荷風生家跡の説明板を見ながら東へ進むと、すぐに、川口アパート前のクランク状の折れ曲がり道である。いつ見てもみごとに折れ曲がっている。尾張屋板江戸切絵図を見ると、この折れ曲がりが安藤飛騨守の屋敷の北側にあるが、そこから北に延びる道が見える。この道は現在、残っていないのだろうと思いながら見ると、ちゃんと小路があった。これまで気がつかなかったということである。

折れ曲がりから通り抜けて振り返って小路を撮ったのが二枚目の写真である。その通り抜けた裏道に、旧大門町の旧町名案内が立っているが、それによると、伝通院前白壁町(白壁造りの家があった)と、陸尺町(伝通院の役夫が住んだ)があり、ともに小石川村の内で、慶長七年(1602)伝通院寺領町屋となった。明治二年(1869)、両町を併せて、伝通院の大門に近いので大門町と称したとのこと。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、通り抜けたところ一帯が陸尺町(ろくしゃくちょう)で、右の写真のように、安藤坂を横切ってさらに東へ道が延びているが、そちら側を白壁町といったらしい。

上記の旧町名案内に、「西隣の旧金富町と結ぶ赤子橋通りがあった」という説明がある。明治地図を見ると、荷風生家跡(上記のように赤子橋があった)から西側の金剛寺坂のまわりまでが金富町であったので、折れ曲がりと金剛寺坂中腹とを結ぶ東西に延びる通り(金剛寺坂に向けて緩やかに下る坂道)を赤子橋通りといったらしい。

西岸寺日限不動尊 常泉院 常泉院わきの煉瓦塀 牛天神裏 旧大門町を東へ進むと、安藤坂で、これを横断してさらに旧大門町を進み、突き当たりを左折しまっすぐに歩くと、春日通りにでる。ここを右折し、次を右折しちょっと歩くと、右手に西岸寺日限不動尊が見える。

荷風「断腸亭日乗」昭和19年(1944)9月21日に次のようにある(全文は以前の記事参照)。

「九月廿一日。秋陰漫歩によし。小石川牛天神附近の地理を知る必要あり三時頃家を出でゝ赴き見たり。砲兵工廠の構内むかしとは全くちがひたれば従つて其裏手なる仲町の様子も今は全く旧観を存せず。西岸寺日限の不動に賽し電車通に出で大門町の陋巷を過ぎ金冨町を歩む。・・・」

荷風は、この不動尊から電車通り(春日通り)に出て安藤坂の西側の大門町、金富町へと歩いた。

西岸寺を右に見て、南へ歩くと、右側に常泉院があり、そこの角を右折すると、みごとな煉瓦塀が続いている。この塀に沿って歩き、突き当たりを左折し進むと、牛天神裏に出る。右の写真の右側が牛坂上である。

富坂上 富坂上 富坂上 礫川公園 牛天神から引き返し、春日通りの歩道に出て、右折すると、そこは富坂上であるが、下りはまだ見えない。

一、二枚目の写真のように、通りの向こう側に東京ドームわきのジェットコースターが見える。坂下側に向かって進み、坂上側で左に折れてからはこの光景を見ることはできない。

坂上側で右に入り、戦没者慰霊苑から礫川公園の上側に出る。ここから公園を見渡すことができるが、右手にハンカチの木が見える。

ハンカチの木 ハンカチの木 ハンカチの木 階段を下り、木の近くに行ってみるが、ハンカチの木とされるもととなった白い花びらは、部分的に見える程度である。遠くから見てはわからない。最盛期にはもっとたくさんできるのであろうか。

ここから後楽園駅へ。

携帯歩数計による総距離は14.8km。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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