寛永寺坂で今回の上野台地の東端にある坂巡りは終了した。
坂上からどこへ行こうと考えたが、とりあえず、千代田線の地下鉄駅を目指し、西側の不忍通りの方に向かう。言問通りの北側の住宅地の中の小路を通ってであるが、そのうち谷中の寺院の多い所に至る。いつのまにかちょっと見覚えのある所にいることに気がつく。
広い通りを進み、門前の案内標識を見ると、大沼枕山の墓のある瑞輪寺であった(現代地図)。たしかかなり前、この門前まできたが、見つかりそうもなく、諦めて帰ったことがあったので、ちょっと記憶に残っていた。
寺の内に入って事務所で墓の場所を尋ねると、若いお坊さんが親切にも案内をしてくれた。こういった墓地で目的の墓を探すのはきわめて難しく、ここも塋域がかなり広いので、大変ありがたかった。
大まかな位置は、門前から横に細長い墓地に入って左手にかなり進んでから左の奥である。下の写真のように、墓石の形がちょっと変わっているので、比較的見つけやすいかもしれないが、なんの情報もないとやはり難しい。
大沼枕山は、上記の標識の説明にもあるように江戸最後の漢詩人といわれ、永井荷風の「下谷叢話」に詳しい。
荷風は、五歳の頃、弟の貞二郎が生まれたので、下谷の祖母の家にあずけられた。下谷には外祖父である鷲津毅堂が明治四年の春に居を定めていた。毅堂のことからはじめて、尾張国丹羽郡丹羽村の鷲津氏の家の系図や文献などを調べている中で、鷲津家と大沼枕山との関係を知るに至っている。
「わたくしは鷲津氏の家系を討究して、偶然大沼竹渓父子が鷲津氏の族人であることを知り、大に興味を覚え、先その墳墓をさぐり更に大沼氏の遺族を尋ねてこれを訪問した。
わたくしはわが外祖父鷲津毅堂のことを述るに先立って、しばらく大沼竹渓のことを語るであろう。竹渓は晩年下谷御徒町に住した。その子枕山は仲御徒町に詩社を開き、鷲津毅堂もまたその近隣に帷を下して生徒を教えた。わたくしがこの草稿を下谷叢話と名づけた所以である。」(下谷叢話 第一)
荷風は尾張名所図会を引用し、寛政年間に七丹羽郡にいた鷲津幽林という博学多材の学者を記している。この幽林の長男典が枕山の父で、家を継がず江戸に出て、幕府御広敷添番衆(おひろしきそえばんしゅう)大沼又吉の養子となった。典は竹渓と号して化政の頃江戸の詩壇に名を知られた詩人であった。鷲津家は幽林の三男混(松隠)が継いだ。
枕山は、文政元年(1818)三月十九日生まれ、父竹渓五十七歳の時の子で、幼名が捨吉、他に兄弟はなく、十歳のときに竹渓が亡くなったが、大沼家は、竹渓の実弟次郎右衛門基祐(幽林の末子)が継いだ。
荷風は、長男に生まれた竹渓が何故に鷲津家を継がずに他姓を冒したのか、遂に知る道がない、とするとともに、捨吉は何故父の家をつがなかったのか、これもわたしの知らんと欲して知ることを得ざる大事件である、と記している。これらについて、かなり調べたようだが、遂にわからなかった。
捨吉は、叔父次郎右衛門と折合がよくなかったので、わずかな金子をふところにして家を出て道中辛苦して尾張に往ったことを枕山の娘から聞いたが、その年月が詳らかでない。いずれにしても天保六年(1835)、十八歳の秋に、尾張国丹羽郡丹羽村の叔父鷲津松隠の家にいた。その頃、松隠は隠居し、その嫡子徳太郎(益斎)が家学を継ぎ、有隣舎と名けた家塾で門生を教えていた。
この頃、この家塾で森魯直(春濤)が学んでいた。年十七。ある日、有隣舎の塾生が益斎の蔵書を庭に曝し、春濤にその張番をさせたが、春濤は、番をしながらしきりに詩を苦吟していたので、にわか雨が降ってきたのに気がつかなかった。折から枕山も苦吟しながら外をあちこち歩いている中溝へ墜ち泥まみれになって帰ってきた。塾生らは苦吟のため一人は曝書を雨にぬらし、一人は衣服を泥にしたと言って笑ったという。この逸話は二人が詩を好むこと色食よりも甚しきを証する佳話として永く諸生の間に伝えられたと荷風は記している(下谷叢話 第四)。
この話から、捨吉は、尾張国丹羽村の叔父松隠、従兄弟益斎の親子に迎え入れられ、期間は不明だが、その門で学ぶことができたように想われる。
その天保六年の歳、秋に、捨吉(枕山)は有隣舎を去って東帰の途に上り、江戸に還ってきた。
菊池五山は、かつて枕山の父竹渓と親しかったが、枕山が江戸に還ってきてはじめて五山を訪れたとき、枕山の敝衣(へいい/やぶれた衣服)をまとっているのを見て乞食ではないかと思い戯れにその詩才の如何を試み驚いて席を設けたという。これは有名な逸話らしいが、この事を荷風は疑っている(下谷叢話 第四)。
枕山は、晩年の明治二十三年春、仲御徒町の三枚橋の旧宅から下谷花園町十五番地暗闇阪(清水坂)に転居し、その新居に明治二十四年(1891)十月一日、七十四才で没した。
大沼家の歴代の墓は三田薬王寺にあるが、枕山の墓が谷中の瑞輪寺にあることについて荷風は薬王寺を訪れたときの住職との会話を次のように記している。
『「これが皆大沼家の墓です。久しく無縁になっていますが、わたしの代になってから倒れているのもこの通り皆建直したのです。枕山先生のお墓はここにはありません。どういう訳でわきの寺へ持って行かれたのでしょう。菩提所が別々になっていると御参りをなさる方も定めてご不便でしょう。」
住職はわたしが枕山の子孫ででもあるかのように問掛けるので、わたしは人から聞伝えたはなしをそのままに、「枕山先生の葬式は万事門下の人たちが取仕切ってやったのだという話です。谷中の瑞輪寺へ葬ったのはお寺が近かったからだというはなしです。」』(下谷叢話 第二)
大沼家のその後は、鷲津家の益斎の弟に又三郎というものがいたが、この又三郎が次郎右衛門基祐の家を継ぎ下田奉行手附となったという。
三枚目の尾張屋清七板江戸切絵図の東都下谷絵図(文久二年(1862))を見ると、加藤出羽守邸の門前に「大沼又四郎」という家がある。近江屋板を見ると、この家が「大沼又三郎」になっている。枕山の旧宅があった三枚橋に近い。
参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
「江戸詩人選集 第十巻」(岩波書店)