社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

横本宏「蜷川統計学における集団論」『研究所報No.2』(蜷川統計学研究所)1984年

2016-10-03 21:13:41 | 1.蜷川統計学
横本宏「蜷川統計学における集団論」『研究所報No.2』(蜷川統計学研究所)1984年

本稿は蜷川虎三の A Study of the Nature of the Social Mass の翻訳を掲載した蜷川統計学研究所の『研究所報』の解説で,蜷川統計学の体系を,とくに集団論に絞って論じたものである。その内容は「存在たる集団」としての社会集団,「意識的に構成された集団」の解説から始まって,蜷川統計学における集団概念の構成,蜷川集団論と統計対象論争の説明にいたる。「存在たる集団」としての社会集団,「意識的に構成された集団」の解説に関しては,学説的位置づけにポイントがある。

「集団」は単なる個体の集まりではない。それには特別の限定が必要である。そこでリューメリンがもちだされる。リューメリンは,「集団」はある一つの共通の特徴をもつ集団,集合的集団であるとする。この規定は常識的なそれであるが,蜷川によればこの規定だけでは集団と統計ないし統計方法との関係は明らかにならない。
蜷川は統計学での集団の問題の建て方には2通りあると言う。一つは,マイヤー的集団である。マイヤーは集団を悉皆集団観察によって数え上げられる集団を想定した。ここでの集団の特徴は,集団の大きさが不明で,集団の方向性が多岐であることである。しかもその集団は,社会現象に関するものに限定されている。マイヤーにおける集団は単なる集団ではなく,社会集団であり,多様に社会化された集団である。その社会集団は,人間集団,人間の行為および事件の集団現象,その集団結果に分かれる。マイヤーの集団は,社会集団という特別の規定を受けた集団である。

もう一つの集団は,集団性を一つの特定の方向でのみもつ集団である。そこでは,その特性の強度のみが問題となる。集団の恒常性,安定性をもとめるために問題となるのが集団の大きさであり,その基準として引き合いにだされるのが大数法則である。
蜷川はこのような集団概念が旧来の統計学でいかに形成されてきたかを考察し,統計的集団,統計的集団現象,統計数,統計系列,集合対象などの概念をツウバーに語らせている。筆者によれば,蜷川がツウバーのこれらの一連の概念に関心を寄せたのは,そこに不充分ながら,「存在たる集団」としての社会集団,「意識的に構成された集団」の区別があったからである。蜷川が確認したかったのは,後者が一定の目的のために構成された集団であり,その一定の目的のための集団の安定性を確率論でもとめる際に,その集団がどのように規定された集団でなければならないかを明らかにすることであり,ツウバーを取り上げたのはそうした考察のための素材としたかったからである。蜷川はこの延長で所謂ミーゼスのコレクティフ概念にたどり着く。

 筆者は蜷川統計学の集団概念の構成の解説に,下記の足利末男の概念図を援用している。この体系の基礎にあるのは,集団論である。その概念図は,下記のようである。集団は「存在たる集団」と「意識的に構成された集団」からなる。「存在たる集団」には,「社会的集団」と「自然的集団」とが含まれる。前者をとくに大量(マイヤー)と呼ぶ。「存在たる集団」は,統計調査をともなう。ここから統計の信頼性,正確性の問題が出てくる。「意識的に構成された集団」には,数理的解析が予定されるが,もとめられる数値が統計値か測定値かで,「統計値集団」と「測定値集団」とに分かれる。「統計値集団」には統計値集団の性質上,数理的解析に耐ええない統計値集団もあり,それは「非解析的統計集団」として位置づけられる。数理的解析が適用可能とみなされるのが「解析的集団」(ツウバー)であるが,この「解析的統計集団」は,それがミーゼスの規定した諸条件を備えているかどうかによって,「単なる解析的集団」(備えていない場合)と「純解析的集団」(備えている場合)とに分類される。

 以上が蜷川集団論の基本構成であるが,問題の指摘がないわけではない。内海庫一郎はそれを弁証法なき統計学と,また足利末男はそれを二元論的統計学として批判的克服を提唱した。統計学の対象をめぐる論争も展開された。田中章義は,この論争の包括的紹介と論争点の整理を,論争の経過,論争の客観的意義,論争の成果に分けて紹介,検討した(田中章義「統計対象にかんする諸家の見解について-統計学の性格規定と関連して-」)。この論争の直接の契機は,内海庫一郎の問題提起であった(『科学方法論の一般的規定からみた社会統計方法論の基本的諸問題』)。その内容は,統計の対象は必ずしも「集団」でなければならないというわけではなく,「個体」でもよいのではないかというものであった。したがって統計対象=大量は「その存在が社会的に規定された集団」というべきではなく,社会的存在がその一面において集団なる性質をもつ,というべきである。統計対象は,社会的存在の数量的側面というべき規定だけで十分,である。

 この見解に対しては,吉田忠,上杉正一郎,大橋隆憲,三潴信邦,竹内啓が集団説の立場から反論している。しかし,木村太郎は内海説を支持した。その内容にここでは深入りできないので,関連論文を掲げる。
・葛西孝平「内海庫一郎著『科学方法論の一般的規定からみた社会統計方法論の基本的諸問題』の紹介と批評」『統計学』第11号,1963年
・上杉正一郎「集団論について」『統計学』第12号,1964年
・上杉正一郎「統計および統計調査」『統計学』第14号,1965年
・大橋隆憲・野村良樹『統計学総論 上』有信堂,1963年
・竹内啓「統計学の規定をめぐる若干の問題点について」(1)(2)『経済学論集』第30巻第2号,1964年
・木村太郎「統計と社会的集団」『統計学』第12号,1964年

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