社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

近昭夫「科学史研究者による統計学史研究について」『統計学』(経済統計学会)第58号,1990年3月

2016-10-17 20:15:26 | 4-3.統計学史(英米派)
近昭夫「科学史研究者による統計学史研究について」『統計学』(経済統計学会)第58号,1990年3月

 著者は1988年7月から89年5月まで,アメリカのヴァージニア大学歴史学部に滞在した。そこでT.ポーターから,科学史研究の立場からアメリカを中心にした統計学史を研究しているグループの存在を教えられた,という。本稿はポーターの示唆を受け,筆者自身の調査も加え,そのグループの研究動向と特徴を紹介したものである。

1.メルツの著書について
 このグループの研究は,J.M.メルツ(John Theodore Merz)の著書 A History of European Thoughts in the Nineteenth Century, Vol.1-4, London.1904-12 がある。この書の科学史的思想の発展を論じたVol.2の第Ⅻ章は「自然に関する統計的視点」と題され,近代産業の発展とともに計算が社会的に重要な意味をもち,そのような社会的背景のもとに大数に関する科学(統計学)が成立した事情が説かれている。そこでは,ヨーン,ブロックなどの著書によりながら,ドイツ大学統計学派,イギリス政治算術学派への言及があり,ケトレーと彼に先行するフランス確率論,誤差論研究が,そしてケトレーの平均人をめぐる意思自由論争の概説がなされている。
 メルツは科学思想の発展のなかに統計学の生成,発展をとらえ,それが後の科学研究にどのような影響を与えたかをみようとした。メルツによれば,H.T.バックル(Henry Thomas Buckle)はケトレーの考えを取り入れ,自身の著 History of Civilization in England, Vol.1.1857 の基本的視点とした。くわえて,ケトレーの考え方が自然現象を統計的に観察する研究を促し,マクスウェルの熱力学を生み出したこと,ダーウィン,スペンサー以来の近代科学の発展がゴールトンの統計学を生み出し,ピアソンがそれを発展させた,と伝えている。

2.ジリスピー,ヒルツ,コーワン-1960年代-
 1960年代入るとC.C.ジリスピー(Charles C. Gillispie ),V.L.ヒルツ(Victor L. Hilts),R.L.S.コーワン(Ruth L. Schwartz Cowan )がメルツの観点を継承した。ポーター自身がその影響を受けた科学史の研究者ジリスピーは,The Edge of Objectivity, An Essay in the History of Scientific Ideas, New Jerzy, 1960 を著した。彼の著作のうち,後の研究者がよく参照するのは次の文献である。“Intellectual factors in the background of analysis by probabilities,” in Alstair C. Crombie, ed., Scientific Changes, New York, 1963 である。
 この論文で彼は,マクスウェルが確率論を応用して新しい理論を考え出すにいたるまでの確率論研究の歴史を概観している。ジリスピーは,コンドルセー,ラプラス,ベイズ以来の確率論研究から始め,それらがケトレーに影響を与え,ケトレーの『確率論に関する手紙』についてのハーシェルの論文をとおし,マクスウェルが大きな影響を受けたことに言及している。
 筆者はハーヴァード大学でクーンの影響を受けたヒルツに関して著作Statist and Statistician ; Three Studies in the History of Nineteenth Century English Statistical Thought,1981 の他,いくつかの論文を紹介している。前者ではケトレーの社会物理学,ゴールトンの人類学的研究と統計学,カール・ピアソンの数理統計学がとりあげられている。他の論文では,ケトレーからゴールトンの視点の転換,すなわち平均人をとおして平均という考え方を具体化したケトレーに対し,人間の能力における差に関心をよせ,統計的な偏差や変異に注目したゴールトンへの転換がどのようにして生じたのかを考察している。
 コーワンもゴールトン研究者のひとりである。彼女はゴールトンの遺伝学に関わる研究を検討し,そこからどのように統計方法が考案されるに至ったかを解明している。ドクター論文 Sir Francis Galton and the Study of Heredity in the Nineteenth Century, 1969では,この点を主題に,次のような主張をしている。第一の主張はゴールトンの学問的業績が時間的にも論理的にも,彼が社会改良計画という特定の運動に関わったことが基礎にあるということである。第二の主張は,ゴールトンの優生学への寄与が遺伝の意味をより分かりやすくしたとの指摘である。そこに統計的研究法を導入することで,遺伝を漠然とした生命力の継続として考えられていたものを,個体間の自然科学的関係に代えたというのである。

3.優生学,確率論の研究-1970年代-
 ゴールトン,ピアソンについての優生学の研究は,1970年代にも続けられた。これらの研究では,統計理論の内容,理論的展開より統計学と優生学,社会的政治的背景との関わりに主要な関心がよせられた。筆者はその代表として,B.センメル (Bernard Semmel),L.ファレル (Lyndsay Farrell ) の研究を紹介している。センメルはカール・ピアソンが大英帝国の対外進出を背景にした人種主義的イデオロギーの持ち主であったことを明らかにしている。ファレルは,ゴールトンにより優生学が成立し,ロンドン大学に優生学の講座が設けられるにいたった経緯を解説している他,優生学が社会ダーウィニズムと結びつき,イギリス,アメリカで大きな社会的,政治的影響を与えたことに対する多数の文献がサーヴェイされ,紹介されている。
 筆者はさらに1970年代以降の研究で,I.ハッキング(Ian Hacking),L.ダストン(Lorraine Daston)のそれに注目している。ハッキングは,その著 The Emergence of Probability, A Philosophical Study of Early Ideas about Probability, Induction and Statistical Inference, Cambridge Univ. Press,1975 で確率という考え方がどのようにして成立したかを,15世紀以前にさかのぼって考察している。その際,ハッキングは確率という概念の成立を帰納的推論や統計的推測などとの関わりで哲学的あるいは理論史的に考察するだけでなく,当時の社会における科学や経済,神学などの発展を考慮して説明しようとしている。ダストンが確率論史の研究を開始したのは,ハッキングの影響によるところが大きいという。彼女の基本的着想によれば,確率論は理性的であることが敬われた時代に,確率論はそれまでの確実な知識のもとでの理性的判断に代わって,不確実な知識しかない状況下で合理的な解答を与える「合理的な計算」であるとみなされた,ということのようである。

4.ビーレフェルド・グループ-1980年代-
ここではポーターの論文と著作,The Calculus of Liberalism ; The development of Statistical Thinking in the Social and Natural Science of the Nineteenth Century ,1981と The Rise of Statistical Thinking 1820-1900 ,1986 がまず紹介されている。後者では,1820年以降,統計学的思考,統計学がどのような社会的歴史的あるいは学問的状況のなかで生成,発展したのか,それが当時の社会に,またその後の学問的研究にどのような影響を与えたのかを,政治算術,ケトレー,バックル,マクスウェル,ボルツマン,ゴールトン,ピアソンなどの研究を中心に考察している。同じ年に,シカゴ大学のスティグラー(Stephan N. Stigler)は,The History of Uncertainty before 1900, The Belknap Press of Harvard Univ. Press,1986を公刊した。この書でスティグラーは,ポーターが統計的思考の生成,発展の社会的基盤を重視したのに対し,統計理論の発展のプロセスを解明することに努めた。
 1982年からビーレフェルド大学(西ドイツ)で,「確率革命」についての研究が始まった。このプロジェクトの企画,組織にはゲッチンゲン大学のクリューガー(Lorenz Kruger)とハイデルベルガー(Michael Heidelberger)などがあたったが,ハッキングの力によるとこころが大きかったという。その成果が『確率革命(The Probabilistic Revolution, Vol.1, Ideas in History,Vol.2, Ideas in Science, The MIT Press)』(1987年)の2巻本であった。第1巻には確率論,統計学の理論的展開に関する諸論文が,第2巻にはそれらの心理学,社会学,経済学,物理学などへの応用に関する諸論文が収められている。

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