日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2018-06-12 22:57:31 | 大分中央ウィークリー

創世記25章21節である。「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」という。「妻に子供ができなかったので、」という。今日でもよくある話である。妻をめとるということは、現代でも、先ずは子孫を残すことが第一の目的ある、といえば、必ずしもそうでないというしっかりとした反論が返ってきそうである。 

しかしこのアブラハムの古代はもとより現代もまた後継者を残すのが大事な目的の一つであるのは同じである。子を産めないと分るときは、夫婦も一族全体も深刻な悩みになる。今日はいろいろ医学的に原因が突き止められ、子が生まれるように可能な限り原因を突き止めるが、しかし現代をも含めて、このイサクの時代にも、祈るという方策を欠かすことができない。神が可能な限りの改善をもたらすからである。 

22節である。「ところが胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、『これでは、わたしはどうなるのでしょう。』と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。」といいます。不妊の女であったはずのリベカが身ごもった。主なる神が、イサクの熱心な祈りに応えられて受胎した。乙女マリアの時の言葉がここにも関係があります。「神にできないことは何一つない」(ルカ1・37)と。 

身ごもったら身ごもったで、普通胎内の子供が母体に大きな刺激を与えるほど動くのは、胎内にいる子供にとっては当然のことで、成長のしるしでもあるといわねばならない。この時のように双子は大きな動きを感じ取るのは、人に普通。しかし大事なのは神の御心である。夫のイサクは後継者が必要であり、熱心な祈りをささげた。しかしリベカは胎内の普通のことながら、


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