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ノーベル賞受賞など

2016-10-04 11:57:09 | 生活・教育・文化・社会
■ノーベル賞受賞
 ノーベル賞の医学生理学賞を大隅氏が受賞しました。夕方から深夜そして今朝もテレビのインタビューへの対応で大変のようにお見受けしました。多くの人に喜びと誇らしい気持ちを与えてくれました。
 80年代頃から始めた基礎研究が評価されたとのことです。ノーベル賞は実用性に結び付かない段階の、その分野の基礎にある研究の礎になるものを讃えています。
 日本人は21世紀になって16年間で16人目とのことです。これまでの受賞者世代の多くが戦後の困難さを直接間接に受けた世代です。いわば清貧の暮らしのなかで未知なるものを探し出す、地味な研究に励んだ人たちです。

 大隅氏のインタビューの中でぼくが重要と思ったことは、「実用性を求めない」「誰もやらないことをやる」ということでした。基礎研究の世界は見えずに果てしないと思われることをコツコツやって姿を突き止める、発見するのです。今の社会一般で求められがちな競争環境で即時に結果を求められる価値観とはまるで違う世界です。
 ところで今後も大隅氏のような研究でノーベル賞を受賞する人が続くでしょうか。後10年~20年は可能かもしれませんが、その後は果たしてどうなのでしょう。
 
 大学の研究環境が厳しくなっています。90年代に大学の一般教育が必修でなくなりました。そんため研究者とくに教養といわれる学問分野の研究者が少なくなりました。研究者数を山に例えれば、裾野が小さくなったということです。
 それに国立大学が独立法人になり、財政等の自立性が求められ、研究者(大学教員)が少なくなりました。
 また、00年ぐらいから、文科省が独自な研究に対する助成金を出すようになりました。これは大学からの申請と文科省の審査というシステムで研究助成をするため、結果として研究が大学の自立性より時代の要請という誘導される側面がぬぐえません。
 最近問題になっている大学での防衛研究では、大学の研究が実利性が軍事に直結することになります。この予算は3000億円です。戦後タブーとしてきた「学問を軍事目的に使わない」ことを捨て去ることになるのです。背景としては大学への研究費はこの間1000億削減されことと無関係ではないでしょう。研究費不足を抱えている大学研究者にとって、目的はともかくとして研究を進めるための財政が必要という「背に腹はかえらられない」といった研究者もいることでしょう。

 首相がテレビ向けと思われる祝意の電話をしていました。NHKですべて放映する前提で読み上げていました。去年もそうだったな、と思い出したのでした。「世界一」と「最高責任者」が好きな首相にとって得意満面になるチャンスだったのでしょう。

■「とと姉ちゃん」
 ぼくは朝ドラはほとんど見ないのですが、今年はおおよそ見ました。『暮らしの手帖』は、戦後の近代化する日本の庶民の暮らしの質を変える本でした。小学生時代のぼくの記憶に鮮明ににありました。ただしわが家の暮らしは『暮らしの手帖』の知恵は直接は結び付きませんでした。しかし生活の慣習を手放し、質の転換をさせる勇気をもらったようでした。
 このドラマのテーマは、あらかじめわかっていたことですが、亡き父がわりに長女「家長」の立場を踏襲する生き方をするという家族主義でした。終盤になり姉妹2人が結婚し一緒に暮らす大家族になりました。
 時代としては、日本近代化の中で工業が主要産業となり、都市へ人口が集まりました。団地に住み、今日平均的家族像である核家族に進んでいったのでした。その庶民の暮らしの質をよくしようとする人たちに雑誌は受け入れられたのでした。その流れで、今日の一人家族が稀でないように変貌したのでした。
 ところがドラマでは血縁大家族で終わりました。
 毎回のドラマの終了タイトルに視聴者の家族写真を使っていたので家族の絆といったことがテーマなのは分かっていましたが、血縁多世帯の大家族を描きました。

 また家電の製品検査は消費者本位というコンセプトでしたが、商品を使う庶民の暮らしがなかったのが残念でした。そのため庶民の暮らしというよりは、その後の日本の技術力が高さを作り出したということと結び付けてみることになりました。
 ドラマの中に、現在日本の礼賛と家族主義の重視というようなメッセージがダブったのでした。政府が進めている3世帯世帯居住の家の新築への補助金、という庶民では現実的でない政策と関連させるのは考えすぎでしょうか。高齢者の社会的介護から家族介護重視に、といったことが連想されました。それは「憲法草案」の家族像でもあります。

 NHKの「ライフヒストリー」という祖先をたどって登場者が満足させる番組があります。この番組を見て自分のルーツに関心を持っている人が多いのではないでしょうか。それじたい他愛のないことですが、広くは家族主義、さらに国家主義に包摂されていく人もいることでしょう。
 さらに単発ながら古館伊知郎司会の苗字についての番組がありました。バラエティー化したものですが、珍しさで大いに触発された人も多いのではないでしょうか。苗字は江戸時代はどうだったのか、明治期の戸籍法ができたとき役場に届けた際どうだったのか、といった歴史的視点がありませんでした。日本人にとって苗字の意味を考えるというよりは、これもルーツをたどることにつながりそうです。なお、この番組の内容にかんする本は、子ども向けも含めて数冊あります。

■大和魂
 相撲の秋場所の千秋楽の放送終了直前にNHKにチャンネルを移したら、豪栄道の優勝に対して舞〇海が、大関昇進の際の口上の「大和魂」を持ち出し、それでカド番からよみがえったというような話をしていました。たしかに豪栄道の昇進伝える協会の使者を迎えたときの口上は、「大和魂」でした。「大和魂」という言葉が相撲界にも普及しているのでしょうか。
 舞〇海は、日〇会議で挨拶したり講演もしているようです。日〇会議の広告塔としての威力は大きいでしょう。

 そういえばU23サッカー監督のコンセプトが「大和魂」で驚いていたのですが、普通に使うようになっているのか、と考えさせられました。「大和魂」は、今日では精神主義で計り知れない力を発揮できるという不合理な世界を連想させます。
 しかし「〇〇中魂」と学校全体のキーワードになっているとも聞きました。魂は身体から慣れた深い精神性のことを言うのでしょうが、魂で共同化するとはぼくには分かりにくいのですが、心の斉一性を求めているように解釈してみました。生徒たちの多様性とは対極にあるようです。中学生は幼さと大人と同時に持っている年齢で、最も多様性が表出する年代がそれを封じられているのではないか、と心配になります。

 戦時中は「大和魂」という言葉で戦意高揚と兵士を戦争に駆り立てたキーワードでした。戦闘場面では命をいとわず突撃するというのも、この言葉の世界だったのでしょう。ぼくは耳にするだけでも抵抗があります。
 また、ぼくには「大和魂」結び付くのは、日の丸君が代です。ぼくはどの段階の学校行事にも、日の丸、君が代と無縁でした。また40年ぐらい前に見たサッカーの国際試合では、君が代の際起立の呼びかけはありませんでした。そのためところどころに起立をする人がいる、という状況と記憶しています。
 99年に国旗国歌法公布されてから、学校行事に必ず取り入れて、教員の起立を実質義務化するように推移しました。法制化の論議の際、義務化するものではないということでした。
 リオオリンピックの壮行会で、森氏は選手に向かって君が代を歌わない選手にたいして歌うようにいさめました。元首相が出てしまったのでしょうが、そこまで言う立場にないはずです。しかも選手が斉唱するという状況でなかった、とのことでした。
 そういえばNHKのオリンピックハイライト放送では、アナウンサーが「国威発揚」といっていました。これにびっくりしたら、解説委員がオリンピックの4つのねらいを上げて、その最初に「国威発揚」といっていました。ぼくは到底使わない言葉がNHKから流れてくるのに、時勢は急いで動いているのだろうかと頭をかしげます。〇井会長の意向が現場まで浸透している証しなのかもしれません。

 中田英寿が「君が代は試合前には歌えるものではない」という趣旨の発言したのは、そんなに昔ではありません。

*このコラムは5日に加筆修正しました。
*大学の研究費の額については別々な報道をメモしてえた数字です。別な報道で異なる数字が上がっています。これは切り口によって全体の枠組みの設定の仕方によって変わるものです。論旨を読み取ってもらう参考してもらえればと思います。文科省に申請して承認を得る研究を「競争的資金」という概念という説明もありました。国立大学は研究費だけではなく運営費も減額されています。国立大学の授業料の高額化もあります。それに政府からは文系学部を縮小という発言もあります。教育予算の占める割合の少なさはOECDでも際立っています。日本はどこに向かっているのでしょうか。(9日追記)