本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

安土城放火・織田信雄冤罪を晴らす!(続き)

2010年03月21日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 バンクーバーオリンピックで活躍した織田信成選手の先祖・織田信雄に着せられた安土城放火犯の冤罪を晴らすことにしました。冤罪の元を作ったイエズス会宣教師フロイスの記述は前回ご紹介したとおりです。
 ★ 本能寺の変:安土城放火・織田信雄冤罪を晴らす!

 念のため以下に再掲いたします。
 「附近にいた信長の一子がいかなる理由によるか明らかでなく、智力の足らざるためであろうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、ついで市にもまた火をつけることを命じた」

 それでは、この文章の信憑性を確認しておきましょう。
 安土城の発掘調査が1989年から始まっています。その調査で明らかになったひとつの事実があります。それは天主は燃えているが、城下町は燃えていない、ということです。これは明らかにフロイスの記述と矛盾しており、記述の信憑性に疑問があります。
 そして大事なことはフロイスが報告書を書く基本的なスタンスの問題です。フロイスはキリスト教布教という一念を基準として報告書を書いているということです。このことはフロイスの著述を実際に読んでみればたちどころに分ります。キリスト教に寛容な人物は褒め上げ、そうでない人物には大変厳しい人物評を書いています。
 明智光秀は仏教を尊んだため散々な書き方がされています。
 では、織田信雄はどうかというと、やはり「味方ではない」という書き方です。一方、信長の三男・信孝はキリスト教徒になるのではないかと言われるほどでしたので、信雄とは好対照の好意的な書き方になっています。

 フロイスの報告書は本能寺の変から4ヶ月の間に書かれています。この時期は織田家の家督相続や実権掌握をめぐって信雄と信孝が競い合っていました。こういった背景の中で書かれた文章ですので、イエズス会やキリスト教徒の意向が強く反映されたとみるべきでしょう。応援する方に有利に、その反対方には不利に書くという極めて「フロイス的」記述と考えられるのです。信雄はこうした背景から放火犯にでっち上げられた可能性が高いといえます。

 これで、フロイスの記述を根拠とした信雄放火犯の冤罪は晴れたと考えます。
 そして、何よりも安土城放火犯として相応しい別の人物がいるということが、信雄の冤罪を完全に晴らしてくれるでしょう。
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みの方はそれが誰なのか、また何故そうなのかをもちろんご存知です。お読みでない方のために簡単に説明しておきますが、疑問があれば是非拙著をお読みください。
 安土城天主の放火犯は徳川家康です。
 家康は本能寺の変の直後は織田家と敵対し、甲斐・信濃の織田領を攻めていました。織田家と敵対している家康にとって安土城は「敵の本拠」でした。敵の本拠を破壊することは家康にとって余りに当然の戦術だったのです。
 もう少し詳しいことを解説した以下のページもありますのでご覧ください。
 ★ 家康の神君伊賀越えの秘密を暴く
 ★ 穴山梅雪は一揆に殺されていません!
 ★ 安土城放火犯は徳川家康です!

 安土城放火犯は迷宮入りの歴史の謎とされてきました。しかし、謎でもなんでもないのです。歴史の事実をきちんと確認すれば犯人は自ずから明らかだったのです。
 それでも、私の上記の主張に納得できない方もいらっしゃると思います。何しろ四百年以上に渡って全く違うことが事実かの如くに広められてきたからです。徳川家が政権を握った江戸時代だけでなく、現代でも広められ続けているのです。私にはこういった事実の方が何故だろうかと疑問に思わざるを得ません。歴史が意図的に作られているように思えるのです。
 四百年もたってしまった現代の常識で考えるのではなく、四百年前の当時の常識が何だったのかを知らねばなりません。そうでなければ歴史の事実は見えてこないと思います。

コメント (15)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 本能寺の変:安土城放火・織... | トップ | 本能寺の変:情報はこうして... »
最新の画像もっと見る

15 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
変直後の家康 (aki)
2013-01-06 16:34:48
はじめてコメントさせていただきます。
素朴な疑問なのですが、
>家康は本能寺の変の直後は織田家と敵対し、甲斐・信濃の織田領を攻めていました。織田家と敵対している家康にとって安土城は「敵の本拠」でした。
と、書かれていますが、近年研究の進んでいる「天正壬午の乱」に関する著書・論文を読んでいますと、一次史料上本能寺の変後の家康は明らかに織田家と連携して動いています。この点はいかがお考えなのでしょうか?
返信する
本当ですか? (明智憲三郎)
2013-01-07 21:55:42
 「家康が織田家と連携して動いた」と書いている研究資料をご教示ください。そのようなものがあるとは全く知りませんので。
 「天正壬午の乱」という命名は極めて新しいもののようです。私も関心をもって調べています。平山優氏の同名の本(2011年3月学研)を読んでも、拙著『本能寺の変 四二年目の真実』に書いた事実認識は変わらないどころか、ますます確信を深めています。
 その本には次のように書かれています。
 「徳川方の曾根・岡部が甲斐の武士に知行安堵状を出したことを知った河尻秀隆は、家康の甲斐横領の意図は確実と判断し、六月十四日に家康家臣本多信俊を岩窪館で暗殺したのである」
 ご存知のように河尻秀隆は甲斐を治めていた織田家の武将。本多信俊は家康に同行して「神君伊賀越え」をして三河に帰り着き、その後、家康の命令で甲斐へ派遣された武将。六月十四日は本能寺の変の12日後です。
 この後、河尻秀隆は本多信俊殺害に怒った一揆に殺されますが、一揆の正体は家康と連携した武田家(穴山家)旧臣と考えられます。この後、武田家旧臣を抱え込んだ家康が甲斐を席巻します。織田家が甲斐で家康と連携して活動した史実は確認できていません。
 「家康が織田家と連携した」という史実が全く確認できませんので、よろしくお願いいたします。
返信する
典拠について (aki)
2013-01-08 19:13:56
出先のため該当の書籍の厳密な記述を確認できないのですが、平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで 』(戎光祥出版、2011.5)や黒田基樹『小田原合戦と北条氏』(吉川弘文館、2012.12)によるものです。
河尻秀隆の誤解で本多が殺害される。河尻死後に甲斐の一部について穴山衆とともに一揆を鎮圧するが、織田領国であるため本格的な甲斐・信濃制圧は織田家の指示を待ってから行った。北条氏との対陣中には織田家からの家康に加勢派遣が伝えられている。
といった記述がされていたと記憶していますが、内容・頁について、週末にまた書き込みたいと思います。
返信する
ご指摘の論拠が理解できました (明智憲三郎)
2013-01-09 09:42:39
 平山優著「天正壬午の乱」をあらためて最後まで目を通してみて、ご指摘の論拠が理解できました。
 六月十八日に河尻秀隆が一揆に殺されて織田勢力が甲斐信濃から消滅した後、甲斐信濃は徳川・北条による簒奪合戦の状況となり、六月二十七日の清州会議で織田家は家康の簒奪を追認する決定をしています。
 九月五日に三河刈谷の水野忠重が甲斐の徳川軍に合流しており、平山優氏はこれを清州会議の決定を受けての織田家の家康支援策と書いています。
 この経緯での織田家との連携は私の認識と齟齬はありません。本能寺の変直後の初動で織田勢力が甲斐信濃から消滅したこと、さらに光秀が滅びたこと、織田家から甲斐信濃簒奪の承認を得たことによって、家康の織田家敵対の理由も消滅しているからです。
 状況に応じて最善の策を選択して生き残りを図る戦国武将の政治の世界です。
 なお、平山優氏は水野忠重援軍を織田信雄の家臣としての行動と判断していますが、私には若干の疑問が残ります。それは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いたように、水野忠重が本能寺の変の際に二条御所から脱出してきた「あの水野忠重」だからです。
返信する
家康の動向 (aki)
2013-01-14 13:49:40
平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで 』の本文や年表で、時系列で家康の動きを見ますと
3日 酒井忠次より三河に家康帰国次第の西国出陣予定の沙汰がある。
4日 家康ら、岡崎に帰城。
5日 家康、陣触の下知。
6日 家康、岡部正綱に穴山領下山での築城を命じる。
7日 家康、本田信俊を河尻秀隆のもとに派遣。
9日 家康、西国出陣を延期。
10日 家康、12日出陣を通達。
11日 岡部正綱・曽根昌世、甲斐衆原多門に知行安堵。徳川勢の出陣14日に延期。
12日 小笠原貞慶、家康の支援で信濃帰国の準備が整う。
13日 徳川勢、岡崎集結。
14日 家康、美濃衆に三法師を供奉し上洛することを伝える。河尻秀隆、本田信俊を暗殺。徳川勢、鳴海に着陣。
15日 北条氏、甲斐郡内の調略を開始。
    家康、本田信俊暗殺・明智光秀敗死の知らせを受ける。伊那国衆下條氏、家康の支援で帰城。
17日 徳川勢、津島に陣替。
18日 甲斐で一揆発生。河尻秀隆殺害。森長可、信濃海津城を退去。
19日 秀吉より家康に帰国要請。家康、鳴海に引き返す。森長可、美濃に帰国。
21日頃 家康、依田信蕃に甲斐衆の調略を依頼。信蕃、武田旧臣と共に信濃小諸に帰城。家康、岡崎に帰陣。滝川一益、小諸城に到着。
22日 家康、一揆を鎮圧した穴山衆を賞す。
24日 上杉勢、信濃長沼に着陣。
25日 北条氏、諏訪衆を調略。
26日 徳川勢、浜松へ移動。
27日 清洲会議。家康、酒井忠次の信濃派遣を決定。
28日 徳川勢、甲斐に侵攻し、北条方についた一揆を撃破。家康、恵林寺の修復・勝頼の菩提寺建立を布告。
7月2日 家康、甲斐に向けて出陣。掛川着陣。

家康が織田氏に敵対していたとすると、尾張の津島まで進軍過程で、織田方と戦闘に及んだ形跡がないことがまず不審です。
次に、安土城が燃えたのは15日とされますが、その頃徳川勢は鳴海にいて安土まで直線距離で100km近くあります。安土放火は不可能ではないでしょうか?
また、徳川勢の甲斐・信濃への侵攻は清洲会議以後のことで、それ以前は調略に留まっています。火事場泥棒的な行動ですが、反織田の一揆を扇動したわけでもなく、明確に織田氏への敵対とまでいえるものか疑問です。家康の支援を受けていた依田信蕃が、帰国中の滝川一益に協力している事実もありますし。
以上のような疑問から、変直後に家康が織田家と敵対したとする明確な根拠が見えてきません。
返信する
徳川軍は東軍と西軍の二面作戦 (明智憲三郎)
2013-01-14 18:39:15
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』の164頁から188頁の説明で以下の点はご理解いただけると思います。下記より丁寧に書いてありますので是非ご参照ください。
 徳川軍は東軍と西軍の二面作戦を遂行しており、松平家忠は西軍の部将ですから西軍の行動だけが『家唯日記』には書かれています。西軍の行動を見て甲斐侵攻が清州会議以降と判断するのは妥当ではありません。「13日徳川勢岡崎集結」という記述からして誤解を催す記述であり、家忠日記によれば「西陣に東陣からの援軍が到着」です。
 また「反織田の一揆を扇動したわけでもない」という判断は6日7日11日の徳川方の行動や14日に河尻が信俊を暗殺した行為を見ると、そう言い切れないと思います。むしろ、河尻は徳川方の策謀を察知したからこそ信俊を暗殺するという非常手段をとったと考えられます。
 安土城放火についても拙著をお読みください。その可能性について書いております。
 信蕃が滝川一益に協力したのは六月二十七日のことであり、前回にも書きましたが、光秀の死を知った時点(十五日)で家康の織田家敵対の姿勢は転換せざるを得なかったので論点から外れています。岡崎帰着後から15日までの東陣の初動を問題としてください。
 津島まで織田方と戦闘がなかったのは、その時点では敵対する織田勢力がその地域に存在していなかったにすぎないと考えます。
返信する
反織田姿勢転換の時期 (aki)
2013-01-14 19:34:20
 ご高著を書店で購入できなかったため(前はあったのですが)、ご返信についての所見は後日としたいと思います。
 ただ、依田信蕃が滝川一益に協力したことは6/21の小諸到着を示したつもりでした。光秀敗死に加えて清洲会議によって最終的に反織田姿勢を転換したとのお考えかと読み取りましたので、方針転換前のことと判断して問題にしました。
 つまり、お考えでは清洲会議ではなく、15日の光秀敗死情報を知った段階で、家康は反織田姿勢を転換し、配下の勢力に反織田姿勢を中止するよう伝達したという理解でよろしいでしょうか?
返信する
武将は必死に生き残りを考えたと思います (明智憲三郎)
2013-01-14 22:26:01
 光秀との盟約によって甲斐の織田家に敵対していたとすれば、盟約相手の光秀が滅亡すれば路線転換するのが必然ではないでしょうか?生き残るための最善を尽くしていたわけですから、状況を読んで俊敏に判断したはずです。
 なお、「敵対」を「全面戦争」と単純に見るべきでないでしょう。彼我の戦力や現実的な状況を見ながら最適な戦略・戦術をめぐらすのが当時の武将(しかも巧みに最終勝利者となった家康)の当然の姿勢と思います。光秀謀反失敗のリスクも織り込んで動くに決まっています。現代の企業経営者も同様に考えるでしょうが、戦国武将は一族の生死がかかっていたわけなので、現代の企業経営者が及びもつかないシビアな考え方をしていたと思います。
 こういった戦略・戦術について、現代人の我々は彼らをしのぐ洞察はできないと私は考えています。ある歴史学者は「あの時点で信長がそんなことを考えるわけがない!」と言い切っていますが、随分と信長にも歴史にも不遜な態度だと思います。現代人には誰一人として、信長に先んじて比叡山焼き討ちも譜代の筆頭家老佐久間信盛の高野山追放も考え付かないでしょう。
返信する
教えてください (明智憲三郎)
2013-01-15 09:40:57
 aki様が書かれた1月14日に書かれた動向記事の中に「14日 家康、美濃衆に三法師を供奉し上洛することを伝える」とありますが、これの出典史料は何でしょうか。清州会議で秀吉が担ぎ出す前に家康が三法師を担いだという定説はないと思いますし、奇妙な感がしますので。
 また、「鳴海にいて安土まで直線距離で100km近くあります」は本当でしょうか。日本地図で再確認していただければと思います。
返信する
三法師供奉史料ほか (aki)
2013-01-15 20:33:39
 ご指摘の歴史学者が誰か分かりませんが、当時の人間の心情を断定的に表現するのは、研究者としてナンセンスだと思います。が、現代人が彼らをしのぐ云々は同意しかねます。当事者でない限り考えつくかどうかは判断できません。「信長に先んじて~も考え付かないでしょう。」とのお言葉は、ご指摘の歴史学者の発言と同次元ではないでしょうか?ちなみに私は、(家康の動向を検討するために)家康がいつ反織田姿勢を転換したと明智さんが考えているのかを確認したかっただけで、家康の姿勢転換の可能性を議論しようとするつもりは皆無です。家康の行動を反織田と捉えられるのかどうかを検討するために、その検討対象を15日までなのか27日までなのか絞りたかっただけです。
 ちょっと分からないのですが、本能寺の変直後の家康の西進行動は織田への敵対であっても全面戦争を意味しないということでしょうか?
 家康の三法師擁立云々の典拠は、件の年表には書かれていませんので、調べてみました。おそらく『大日本史料』第11編之1の6月14日条の6月14日家康書状写(佐藤六左衛門宛)(600頁記載)かと思われます。
 「京都之仕合無是非次第候、乍去若君様御座候間、致供奉令上洛、彼逆心明智可討果覚悟にて、今日十四日至鳴海出馬候」と書かれています。三法師を供奉しての上洛と明智攻撃のための鳴海出陣が明記されています。調べてみるまで全く知らない一次史料でしたが、明智さんのお考えと真っ向からぶつかる内容かと思います。明智攻めの意志については前後にも徳川方発給の史料が収録されていますので、あわせてご確認ください。
 距離についてですが、100km近くは地図サイトからの目測でしたので、ルート検索で計測しました。鳴海から安土城まで最短距離と思われる421号線経由で90kmあります。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

通説・俗説・虚説を斬る!」カテゴリの最新記事