桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

ナガミヒナゲシ(長実雛芥子)

2022年04月17日 20時52分53秒 | 



 新居と定めた先の玄関前でポツンと一輪だけ咲きました。春になるといろんなところで見かけるこの花。私はよく調べもせず、ポピーだと思いこんでいました。



 近くのアパートの通路です。こんな色鮮やかな花を見かけたので、人影がないのを確かめ、数歩、いや、十数歩足を踏み入れて盗撮。

 
 
 

 赤・白・黃・ピンク・オレンジと五色もありました。なんという名の花であろうかと思いながら、スマートフォンのカメラに収めたあとは、素知らぬ顔を装って道路に戻り、撮った画像をグーグルレンズで検索すると、なんとポピーと出ました。では、私がポピーだと思いこんでいたのは何か、とこれもグーグルレンズで検索すると、ナガミヒナゲシ。
 はて? 「ヒナゲシ」というからには確かにポピーの仲間で、私の思いこみも決して的はずれではなかったようですが、ナガミヒナゲシの「ナガミ」とはどういう字を当てるのだろう。首を傾げても、外にいるときなので、どういう字を当てるのかわかりません。
 パソコンとしての機能をスマートフォンに求めると、いつも「A」のキーにタッチしたつもりなのに、隣の「S」にタッチしていてイライラするだけなので、検索できる機能を手元に持ちながら、かかってきた電話に応対することととっさのカメラ機能のほかはあまり使わないことにしています。

※帰ったあと、植物図鑑を紐解いて、「ナガミ」は「長実」だとわかりましたが、私の植物図鑑にはなぜそのような名がついているのか、記載がありません。

 ほんまもののポピーを間近に眺めたのは恐らく初めてではないかと思いながら、これまで私が勝手にポピーだと思いこんでいた花を見かける季節がくると自然に思い出す、アグネス・チャンのことを思いました。

 私が初めて社会に出たのは出版社でした。当時は十七大雑誌を擁する、というのがその出版社の謳い文句で、成人男性向けの週刊誌から文芸誌、女性誌、幼稚園児対象の雑誌まで、週刊月刊を合わせ、
十七もの雑誌を発行する会社でした。
 それとアグネス・チャンがどう結びつくのかというと、ちょうど五十年も前、アグネス・チャンが日本でデビューすることになって、十七大雑誌の大部分の表紙が一斉に彼女の顔で飾られることになって、仰天したことがある、という思い出を思い出すのです。
 それぞれの雑誌の発売日がくると、それぞれの雑誌の庶務係が自分たちの雑誌を社内に配って歩きます。外に出ることの多い職場だったので、外出先から戻ると、その日発行された雑誌が自分の机の上に置かれているのを目にします。最初に目にしたのがどの手の雑誌であったのか、すでに記憶はありませんが、アグネス・チャンの笑顔が私の机の上にデンと置かれているのを見て、そのときは「へぇ」と思い、数日後は別の雑誌が置かれていて、「おやおや」と思い、さらにまた……となると、……です。
 その彼女のデビュー曲でもあり、代表曲でもあるのが「ひなげしの花」です。

 昔のことを思い出して、ちょっぴり感傷的になったあと、そのアグネス・チャンともひなげしの花とも関係なく、ふと馬橋まで歩いてみようという気になりました。何をしようというハッキリとした目的があったわけではありません。

 

 道すがら見かけた廃屋。居酒屋とスナック(上)、下は真ん中の布団屋を挟む両側とも?。



 この日、私が歩いていた道は十年以上も前、二度か三度か歩いたことがありますが、むろん風景などは記憶にありません。ただ、道路沿いに店などはなかった道にチラホラと店があるようになって、馬橋の駅も近そうだと感じられたとき、緩い斜面にこんもりとした杜があるのが視界に入ってきました。この杜が馬橋王子神社であり、さらにその奥には萬満寺がある、ということは、とっさのことで結びつきませんでした。
 この杜の中に入って行けそうな径はすぐ近くにはありませんでした。しばらく歩き、果たして方向は合っているのだろうかというあたりで、ようやく曲がることができると、殺風景な空き地の向こうに社殿が見えました。



 馬橋王子神社です。祭神は幸江序命、市杵島姫命、猿田彦命。最初の幸江序命は「さちえわけのみこと」と読むようですが、登場する史料のたぐいはなく、祀っているのも全国にあまたある神社の中でも、この神社だけのようです。

 境内には王子神社由来として次のような掲示がありました。

「馬橋の古刹萬満寺の守護神として創建。萬満寺は古くは大日寺と称し建長八年(1256年)に千葉氏一門の菩提寺として開山建立。当時、馬橋一帯は砂丘で水が乏しかったため諏訪明神を勧請し寺領の鎮守とした。十六世紀半ば熊野の若一王子を勧請し王子権現社とした。明治六年の神仏分離にて萬満寺と王子神社に分離される。終戦後は宗教法人王子神社となり、現在に至る」



 境内社の三峯神社。



 すでに枯れてしまっている御神木。一本に見えますが、エノキ(榎)とムク(椋)がピッタリと合わさっているのだそうです。
 掲示板によると、樹齢は三百年。かつては25メートルという高さを誇ったらしいとのこと。二本の樹がまるで仲睦まじい夫婦のように寄り添っているので、別名・夫婦木。



 いつごろのものかわかりませんが、昔の道標です。「右印西道・左小金道」と彫られているので、ここから近い旧水戸街道の分かれ道にあったものだと思われます。



 狛犬(?)だと思われますが、対にはなっていなくて、一基だけ。見たところ陶器製というのも珍しい。



  細い径を一本挟んで隣は萬満寺です。今日は参拝せずに帰ります。



 帰り途、我が庵近くの、その名のつけられた通りに差しかかると、アメリカフウの若葉が出始めていました。ケヤキ(欅)などはとうに芽吹いて、すでに青々としているのに、この樹はどうもおくてのようです。
 アメリカフウはその名のとおり、北アメリカ中南部から中央アメリカにかけてが原産地。別名・モミジバフウ。



 よく見れば、こんな低いところに多数の芽吹きがありました。毎年毎年、冬が近づくと枝が払われてしまうので、葉っぱの出しどころを求めて、体内をさまようのでしょう。 



 これは幹からではなく、ほとんど根っこからの発芽です。

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金蔵院へ行く

2022年04月16日 22時03分55秒 | のんびり散策

 新居に移って五か月が経過しました。
 旧庵にいたころとは環境が一変してしまったせいか、身体が衰えてきたせいか、散歩に出る、ということが尠なくなりました。
 前は最低十分は歩かないと日々の買い物ができませんでした。公共料金を払いに行ったりするコンビニもやはり十分は歩かないと店がありませんでした。毎朝参拝を欠かさなかった慶林寺は十五分ほどのところでした。必然的に最低でも一日三十分以上は歩くことになっていました。
 しかし、新居に移ってみると、日々の買い物をする旧ダイエーやコープが歩いて四分もかからないようなところにあります。コンビニは一番近いセブンイレブンだと三分ほどです。四~五分ほどのところには業務スーパーがあり、食品なども売っている薬局があります。慶林寺へ行くためには一駅だけですが電車に乗るか、歩けば三十分近くかかるので、毎日参拝に行けるお寺はなくなりました。

 ふと金蔵院というお寺のことを思い出しました。一度行ったきりですが、私にはちょっぴり甘酸っぱいような想い出のあるお寺です。そのことはブログに書いていますが、調べてみたら十二年も前のことでした。
 きっかけは忘れてしまいましたが、松戸七福神めぐりをしようと思い立って、その七福神めぐりをしようとすると、一番遠いのが金蔵院でした。遠い上に交通の便もよくないので、結果的に一番あとまわしになりました。
 居を新松戸に移したのだから、かなり近くなったのではないかと思って地図を広げて距離を測ってみると、歩けば二十分ほど。散歩がてら歩いて行ってみようと考えたわけです。



 我が庵から一番近い坂川の橋・関の橋までは十分ほど。橋を渡って右岸を歩きます。



 坂川分派水門。川から農業用水でも引くような水門ですが、画像を左右(左が上流)に流れているのは一本の川と見えますが、行政上は水門を境に左は坂川で、右は坂川放水路なのです。坂川本流は水門の向こうに流れて行きます。



 関の橋の一つ下流は金切橋。



 土手には到るところにヨモギ(蓬)がありました。



 二つ目は中道橋。



 三つ目稲荷大橋。「大橋」と名がついていますが、前の二橋と較べて、特別広かったり長いわけではありません。
 このあたりに立って注意深く眺めると、金蔵院の伽藍を見ることができるのですが、まだ位置関係を把握していなかったので、気づきませんでした。



 稲荷大橋のたもとで坂川放水路を離れます。
 旧庵近くには野菜の無人販売所がたくさんありましたが、お米を売っているところはほとんどありませんでした。幟の下に置かれた看板には、コシヒカリ5キロ1800円(? 日焼けして読み辛い)とあって、一つ100円が相場であった野菜類と較べれば高価なせいか、さすがに無人販売はしていないようで、買い求めるには奥に見える家を訪ねなければならないようです。



 周囲をキョロキョロ見回しながら歩いていると、金蔵院の案内板がありました。金蔵院はここから700~800メートル。十二年前はどのあたりを歩いて金蔵院へ行ったのか、風景の記憶はまったくありません。



 まさか明智光秀公ゆかりの会社でもあるまいが、「みつひでけんせつ」と読むのでしょうか。この看板はハッキリと憶えています。



 参道の六地蔵。

 

 そういえばボタン(牡丹)の季節です。金蔵院は真言宗豊山派の寺院です。総本山・長谷寺はボタンのお寺として著名です。

 

 飯綱不動尊を本尊として祀るとは珍しい。



 折から西日を浴びて、イチョウの樹が光り輝いているように見えました。先端は伐採されてしまっていますが、幹の太さを見れば、かなりの高木であったと思われます。



 くるときはずっと坂川放水路の右岸を歩いてきましたが、帰りは稲荷大橋を渡って左岸を歩きます。



 橋から見えた杜が神社でもありそうな雰囲気に感じられたので、背後から前に回ってみると、九郎右衛門新田稲荷神社でした。

 

 神社の野良猫殿。カメラに収められませんでしたが、もう一匹茶色っぽいのがいました。
 旧庵にいたころには野良猫殿の棲息地まで数分で行くことができましたが、この稲荷神社までくるとなると、二十分近くもかかるので、おいそれとくることはできません。脚の衰えも如実になっています。



 行きに眺めた水門から坂川本流は狭い流れに変わっています。しかし、本流だという矜持を示すためかどうか、橋の名は坂川橋。



 近くの公園まで戻ってくると、こんなのがあったので、エッチラオッチラと数度上り下りを繰り返してみました。



 隣にはこんなのもありましたが、エッチラオッチラのほうは見ただけでなんであるのかわかるのに、こちらはなにをするためのものかわかりません。懸垂をするための器具にしては低過ぎます。

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2022年四月の薬師詣で・戸田市~さいたま市南区

2022年04月08日 22時52分38秒 | 薬師詣で

 四月の薬師詣では埼玉県の戸田市からさいたま市南区にかけて歩きました。先々月から三か月つづけて埼玉県を歩くことになりましたが、何かを企図したわけではありません。

 私が薬師詣でに出かける時刻は概ね昼近くです。もともと乗客が尠ない時間帯である上に、コロナ禍となってからは電車はガラガラの状態がつづいていました。しかし今月は四月という、一年でもっとも人の動きが多い季節だからか、空いた座席がなくて立つ乗客がいるほどでした。
 新型コロナの感染者は増えたり減ったりしながら、趨勢としてはまた増えているらしいのに、前は空席があったとしても、隣も空いていなければ坐らなかった人が多かったのに、違う人種が出てきたのか、もし罹ったとしても、重症化するリスクは低いと高をくくっているのか、詰めて坐る人が多くなりました。
 私は左右の座席が空いているときしか坐りません。そうして注意を払っているのに、「や、空席がある」とばかりに坐ってくる輩がいます。立とうかと思いながら、大概は乗車時間がそれほど長くないこともあり、嫌がらせをしたように思われるかもしれない(思われても構わないし、そういう愚鈍な輩は感じもしないのですが)と思って、そのまま坐りつづけていますが……。

 この日も南浦和で武蔵野線から京浜東北線に乗り換えたら、ロングシートの座席が一番端から三人分空いていたので、坐りました。すると、次の蕨で乗ってきた輩が私のすぐ隣に坐りました。私が降りるのはその次だったので、立つことなくそのまま坐っていましたが……。



 西川口駅で降りましたが、川口市内は素通りするだけで、最初に訪ねるのは戸田市の正覚院です。



 西川口陸橋通りを歩いて行きます。結構交通量の多い道路です。

 

 喜沢橋で緑川を渡ります。いつごろのものか、橋の石柱には「鬼沢橋」と彫られています。「鬼」という字を嫌って別の字を当てるという例はよくあります。ここもそうなのでしょう。
 川というより排水路みたいですが、この先、菖蒲川に合流し、さらに荒川に流れて行くので、一級河川です。この川を渡ると戸田市で、歩いてきた西川口陸橋通りは喜沢通りと名を変えます。



 薬師詣での対象ではありませんが、正覚院に着きました。
 真言宗智山派の寺院で、文明二年(1470年)の創建。本尊は不動明王です。
 それほど手間取ったという実感はありませんでしたが、西川口駅で電車を降りてから、スイカにチャージをしたり、駅入口の写真を撮るのにロータリーを巡ったりしていたので、正覚院に到着するまでに二十六分も要してしまいました。事前のシミュレーションでは十九分でした。歩き始めたばかりだというのに、早くも七分もの遅れが出ています。



 正覚院から八分で薬師寺(別名・下戸田薬師堂)に着きました。武蔵東向寅薬師の第六番、今日最初の薬師詣でです。御開帳こそありませんでしたが、回向柱は五色の布で飾られ、御開帳があったか、あるいはこれからあるのか、という雰囲気です。
 地図には薬師寺とありますが、実際は集会所のような建物と地域の墓地があるだけでした。「新編武蔵風土記稿」には、直前に参拝してきた「正覚院持」と記されていますが、それ以外由緒などを記したものがありません。



 最初の薬師詣でを終えて、公団前というバス停から国際興業バスに乗ります。
 次に訪れる慈眼寺までは歩けない距離ではありませんでしたが、一昔前に較べると、脚には如実に衰えが出始めているし、ちょうどバスの便があった(といっても、一時間に二本しかないのですが)ので、無理はせずバスの厄介になりましょうと決めたのです。しかし、時刻は事前のシミュレーションからさらに大きく遅れていて、乗るつもりだったバスはとっくに走り去ってしまっていました。
 バス停に着いて時刻表を眺めると、そのバスは三分前に行ったばかりでした。次のバスがくるのは三十分後です。アリャリャ~と頭を抱え、どうしようかと周りを見回していたら、なんとこちらに向かってくるバスが見え、近づいてくるのに連れて行ったばかりのはずのバスが遅れていたとわかりました。薬師詣でを始めた早々、お薬師さんからのご褒美をいただきました。



 バスに揺られること十五分、終点の下笹目で降りました。

 

 下笹目のバス停から慈眼寺までは五分。武蔵東向寅薬師第十番札所。ここも「寺」となっていますが、あるのは薬師堂だけです。真言宗智山派の寺院ですが、「新編武蔵風土記稿」には「東光山と號す、薬師を本尊とす」と記されている以外、創建年代などに触れた記述がありません。



 少しだけ扉が開けられていて堂内を拝観することができました。厨子がみえますが、残念ながら扉は閉ざされていて御開帳はありません。



 昼下がりの住宅街を歩いています。コロナ禍にしては電車の乗客は多かったのに、街には人の姿がありません。画像右手中空に高々と聳えているのは首都高池袋線です。

 

 首都高と東京外環道が交差する美女木インターを抜けて行きます。このあたりを歩くのは初めてですが、まだ車に乗っていたころはカーラジオで聞く交通情報で、笹目橋とか美女木インターという名をいつも耳にしていたので、馴染みのある土地であるかのような錯覚が起きます。
 このインターを通り抜けて行かなくてはならないとわかったとき、高速の下を通る道路も交差になっていて、横断歩道などはなく、歩道橋を渡らなければならないのであろうと、高所恐怖症持ちの私は畏れていましたが、階段は広く緩やかで、橋のほうも広々としていた上に、遮音壁があって外界の見えない構造だったので、高所恐怖症が出る幕はありませんでした。



 ただ四月初旬にしては舌を巻くような陽射しの強さでした。
 慈眼寺から美女木薬師堂まではそれほど離れてはいないのですが、私が歩いて行く道は細い道が多かったので、スマートフォンの地図必須でした。それなのに、強い陽射しが災いして画面はまったく視えないのです。



 慈眼寺から十五分。美女木薬師堂に着きました。武蔵東向寅薬師の第九番札所です。
 途中で日陰を捜して何度も立ち止まり、スマートフォンの地図を盗み視るように視て辿り着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「薬師堂 村民ノ持」とあるだけで、創建年代、由来などはまったくわからないようです。ここも御堂と地域の墓地があっただけ。



 美女木薬師堂をあとに、十分ほど歩いたあたりで戸田市からさいたま市に入ります。南区です。



 美女木薬師堂から八分で今日最後の目的地・東光寺に着きました。天台宗の寺院。
 先の美女木薬師堂と同じ武蔵東向寅薬師の第九番札所。なにゆえに第九番が二つあるのか、いまのところは納得できる史料に出会えていません。
「新編武蔵風土記稿」には、本尊はお釈迦様で、本堂のほかに薬師堂が「あった」というような記述がありますが、薬師巡りの札所になっていることもあり、院号が薬師如来をお祀りしていることを示す薬王院であることもあるので、賽銭箱はありませんでしたが、この御堂に薬師如来がおわすのだろうと鈴緒を揺らしてお参りを終えました。無住のお寺でした。



 御堂横に六地蔵と歴住の卵塔がありました。

 東光寺の参拝を終えて、今日のお勤めは終了です。武蔵浦和駅へ行く便がある、内谷というバス停に向かいましたが、バス停のあるあたりが見渡せるところに出ると、それらしきバスが走り去って行くのが見えました。



 時刻表を見ると、先の系統より便数は多いようですが、次のバスがくるまでに十分以上ありました。道端に「←一乗院」という標識が見えたので、時間を見図りながら行ってみることにします。



 山門の手前にあった地蔵堂。屋根の形が薬師堂を思わせます。



 なかなか壮麗な山門でした。



 一乗院本堂。真言宗智山派の寺院です。創建年代等は不詳ですが、天正年間(1593年-96年)までは荒川付近にあったものの、堤防敷設の際に現在の地に移転したと伝えられています。

 一乗院はすぐ近くだったので、参詣を終えてもバスがくるまでには時間があまっていました。
 ここでふと邪心が起きました。一つ先のバス停まで歩こうと思ったのです。先に利用した公団前から下笹目までのバスで、折角お薬師さんの恩恵を授かったというのに、この邪心が薬師詣での功徳を台無しにしてしまいました。
 逆方向へ行くバス停を目にして、そろそろバス停があるのだろう思ったとき、交差点に出くわしました。バスはここを右折して行くのではないかと薄々感じたのですが、直進しました。依然として陽射しが強く、スマートフォンが役に立たなかったことも災いしました。進んでみると、気持ち道幅が狭くなり、バスは通らないなと感じる雰囲気でした。案の定、進んでも対向するバスとは出会うことなく、バス停もなく、結局武蔵浦和の駅まで歩く羽目になったのでした。



「自転車逆走注意」という注意書きを目にして、ふと思うことがありました。
 埼玉県内を管轄する警察は埼玉県警で、さいたま市と川口市や戸田市は警察署が異なるだけで、同じ埼玉県警のはずですが、このような注意書きは川口と戸田では見なかったように思います。そういえば、二月の薬師詣ででさいたま市内を歩いたとき、この手の注意を目にして歩いていると、気のせいだったかもしれないのですが、自転車は左側通行を守っていたような気がします。
 しかるに、千葉県内では啓発活動にお目にかかったことはないし、PC(パトロールカー)の横をすれ違って行く自転車(すなわち通行区分違反です)があっても、PCは注意を喚起しようともしません。二人乗り、傘差し運転とPCが出くわす場面に遭遇したことはありませんが、そいうときでも千葉県のPCは素知らぬ顔で通り過ぎるのではないでしょうか。
 通行区分を守らないことが本当に「危険」かどうかは知りませんが、警察庁が決めたことに反することですから、交通違反ではあります。ただ自動車と較べて、取締の甘さは雲泥の差。自動車事故に較べれば危険度は低いからかもしれませんが、自転車にぶつけられて死亡! という事例がないわけではありません。死亡事故にはならなくても、被害者が老齢の人だったりすると、余生はほとんど奪われてしまうのに等しい。連れて賠償金も億という桁になります。
 普通の人にはとても払える金額ではないし、ぶつけられた人はいくらもらっても取り返しのつくものではありません。一時期自転車を買おうかと考えたことがありましたが、距離感を掴むことが段々覚束なくなってきたということを知らされて、諦めました。私が自転車で人を傷つける心配はありませんが、傷つけられる恐れはなくなりません。



 そんなことを考えながら、棒のようになった脚で武蔵浦和駅に辿り着きました。陽射しはまだまだ強い。

この日、歩いたところ(一部区間はバス利用)。

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