桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

猫のうさ伎と紫陽花の群落

2011年03月30日 18時54分50秒 | 地域猫

 今日、二十五日ぶりにうさ伎(うさぎ)に出会えました。

 


 うさ伎は私が腰を下ろしたところを、私の脛のあたりに身体をこすりつけながらグルグルと回るのが好きなようです。
 今日はなんとしても顔を撮ってやろうと思ったので、しばらく立ったままでおりました。私が腰を下ろさないので、恨めしそうな表情をしているように見えます。

 撮ってきた写真を改めて見てみると……口の周りに雀斑(そばかす)のような模様があるし、顔や身体に比すれば耳が大きい。「うさ伎」と名をつけたのは間違っていませんでした。

 次に小春がいるはずの香取神社へ足を向けましたが、いませんでした。今日はほかに目指すところがあったので、長居はせず、定例の場所(拝殿の欄干下)におやつを置いて、立ち去ることにしました。



 いないと思った小春が別のところにいました。

 香取神社前から国道6号線に出る細い径を歩いていたら、背後で「ニャー」という鳴き声がした、と思う間もなく私の足許にまつわりつきました。どこにいたのかわかりませんが、後ろ姿だけで私だとわかったのです。
「へえ、偉いもんだなぁ」と声をかけたら、「そんなことはどうでもいい」とばかり、おやつを催促して「ニャーニャー」と相変わらずうるさいやつです。
 鞄からおやつを入れたタッパーウェアを取り出すと、蓋を外すのも待ち切れずに鼻を突っ込んでくるのもこやつだけ。うさ伎も湯屋の近くの飼い猫殿も、私がおやつを置き終わるのを静かに待っているというのに……。

 うさ伎と小春の縄張りは隣同士ですが、二匹とも同じ日に出会えた、というのは初めてではないかと思います。大概はうさ伎がいないことのほうが多いので……。

 うさ伎に出会う前、ドッグランに兄弟コリーがいるのを見ました。最後に見たときからほとんど四か月が経っています。
 遠くから見つけて、「いたいた」とうれしく思い、足早に歩いたのですが、途中で視界の遮られるところがあります。そこを抜けると……アリャリャいなくなっている。
 ドッグランの出入口がある道路に回ると、50メートルほど先を去って行くのが見えました。私が見つけたときはちょうど帰るところだったのでしょう。

 追いかけて行って話しかけるほどのこともないので、去って行くのを見送りました。

 兄弟を連れているご婦人が病気でもしているのではないか、と心配していたことをブログに書いたら、ドッグランで元気そうな姿を見かけた、というコメントをくださった方があり、長い間見かけなかったのは、たまたまタイミングが合わなかっただけなのだと得心しましたが、実際に自分の目で元気そうな様子を見て安心しました。
 それだけでいいのです。

 小春ががっついていて気づかれないうちにそばを離れ、国道6号線に出ました。七分ほど歩くと名都借(なづかり)交差点。
 その直前に前ヶ崎城址公園前から国道6号に抜けてくる道があります。かつて(といっても戦国期)名都借谷津と呼ばれた谷の跡で、南柏駅~流山免許センター~南流山駅を結ぶミニバスが走り、そこそこに交通量も多い道路です。その道路端に「東部あじさい苑」と名づけられた紫陽花の群落があると知ったので、季節的には早過ぎるけれども、下見に向かったのです。

 


 短い坂を下ると、右手に流山市東部公民館。その前に紫陽花の群落がありました。
 二月二十三日のブログに書いた、あじさい通りとは繋がっていませんが、すぐ近くです。「本州団地元気会」という木札が建てられているところを見ると、どうやら同じメンバーによって手入れがなされているようです。

 


 幅10メートルほどの斜面いっぱいに紫陽花の樹がありました。

 あじさい通りが長さ250メートルほどあるのに対して、こちらは100メートルほどと短い。しかし、斜面の幅は倍近くあるので、本数的には遜色がないのではないか。どちらが見応えがあるでしょう。ひと月前にあじさい通りで見たときに較べて、若葉も随分大きくなりました。
 あじさい通りは流山市の観光マップに載っていますが、東部あじさい苑は載っていません。あじさい通りには、もう一か所見所がありますよ、という案内はないので、折角近くまできているのに、見逃す人がいたら残念です。
 我が庵からは二十分ほどと距離がありますが、季節がきたら、できるだけ歩いてみようと思います。
 
 ひところよりかなり暖かくなりました。ことに今日などはセーターを着ていると、汗を浮かべるほどでした。しかし、私の血の巡りは相変わらず改善されず、肩と首の周り、手の指先だけは冷たいままなので、散策時にはまだスヌードと手袋は欠かせません。

↓あじさい通りと東部あじさい苑のマップです。
http://chizuz.com/map/map87028.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カタクリ(片栗)を見に行く

2011年03月29日 16時04分48秒 | 

 昨日、所要で柏へ行く予定でしたが、先方の都合で日延べ……。
 その予定が決まったのは先々週の金曜日だったので、昨日あたりならちょうど頃合い、と考えていたものがありました。
 カタクリ(片栗)の花です。
 カタクリの咲く里があるのは、東武線の逆井(さかさい)という駅の近くです。柏から三つ目なので、所要を終えたあとに見に行こうと思っていたのです。その所要はなくなってしまいましたが、このところ日中は暖かいので、昼過ぎ早々に庵を出て見に行くことにしました。

 


 逆井駅で降りて東口に出ました。階段を下ると柱に「カタクリ群生地」の標示。方角が示してあるだけなので、無事辿り着けるのかと危惧しながら、ともかく歩き出しました。



 駅から少し歩くと、電車の線路も単線、のどかな田舎という風情です。



 どっちへ
行けばいいのか? と迷いそうなところには必ず標識がありました。おかげで駅から歩いて十分足らず。迷うことなく辿り着くことができました。



 ただ、残念なことに時期が早過ぎたようです。

 


 下の画像では土手の一番上に二、三輪咲いているのですが、小さな花なので、遠眼鏡でも持っていないと見えません。写るかどうかわかりませんでしたが、とりあえずズームで撮影しておいて、パソコンに取り込んで拡大すると……確かに咲いていましたが、このブログに添付すべく、拡大してしまうと、どこに花があるのか、なぁ~んにもわからなくなってしまいました。

 たまたま毎日カタクリを見ながら散歩をしているという老爺が居合わせました。
 その老爺のたまわく ― 例年なら見ごろは四月初旬で、いまごろだったらもう少し咲いているはず、とのこと。
 今年は先日の地震で中止となりましたが、四月四日にはカタクリ祭りも予定されていました。しかし、いまの状態を見ると、見ごろは二週間後ぐらいだろうということでした。猛暑の夏と極寒の冬のせいで、花の体内時計も狂わされてしまったのでしょう。
 かつては関東一の自生地と評されたようで、柏市の市の花の一つにもなっていますが、花がないこともあり、なんとなくうら寂しいイメージでした。


 
 カタクリの花を愛でながらしばし時間を過ごす、という予定は狂わされてしまいました。花の写真がないのも寂しいので、柏市観光協会のホームページにある画像を拝借しました。

 このあとはどうすべェか、と地図を取り出して目を落としました。
 増尾城址公園へ行ったとき(ブログは去年の十二月二十日)、途中にあった法林寺で江戸時代に藤心(ふじごころ)陣屋で使われていた苦抜きの門を見ました。その陣屋跡が遺されているらしかったのですが、ちょっと距離があったので、その日は見に行くのを断念したのでした。
 が、このカタクリの群生地からなら、歩いて十五分ほどなので、行ってみることにしました。途中に卍印があって、宗壽寺とあるので、どんなお寺なのかわからねど、そこにも寄りながら……。



 地図には名のなき川。
 スミレ(菫)や蓮華の花はなく、咲いていたのは菜の花だけでしたが、♪春の小川、です。画像右手が下流。
 風はまだ冷たかったけれど、この流れに沿って、しばし田園地帯を歩きました。



 カタクリの群生地から十二~三分歩くと、宗壽寺が見えてきたので、寄ってはみたものの、真言宗豊山派の寺院で、安養山という山号であるとわかっただけ。資料が得られず、どういう寺院なのか、今日のところは一切不明です。
 
 地図には、南東の方角に慈本寺というお寺が載っていました。一旦藤心陣屋跡から遠ざかることになりますが、寄ってみることにしました。このあたりは田園地帯で家も尠ないので、お寺は多くありません。

 恐らく昔の畦道を拡幅して舗装した道路ばかりなのでしょう。川に沿った広大な土地で、田圃や畑は大体四角くつくってあるはずなのに、なぜ道はクネクネと曲がらねばならぬのか。不思議です。
 太陽を見上げて南東の方角を計り、斜め上方を眺めつつ、寺院らしい甍を見つけようと歩いたのですが、歩いても歩いてもそれらしき甍が視界に入ってきません。

 方角もわからずにこのまま歩きつづけたのでは、藤心陣屋がわからなくなるどころか、帰り道すらわからなくなると思ったので、捜すのは諦めて途中で引き返すことにしました。
 といって、まったく土地勘のない場所です。先に見た宗壽寺の伽藍を見つけ、歩いてきた小川に辿り着かなくてはなりません。

 そうしてある角をグルリと曲がったとき、「曹洞禅宗慈本寺」という看板が目に入りました。
「おお」と私は思わず声を上げていました。どういう宗派の寺かもわからず、ただ地図に卍の印があるので訪ねようと発心しただけ。しかも見つけることができずに退散しようとした矢先に出会ったのです。それが我が宗派のお寺であったとは……。
 これは道元禅師のお導きでなくて、一体なんであろうかと、いささかオーバーなほど感動したのでありました。



 
本堂前の石盤に記されたところによれば、開創は文明十二年(1840年)、開基は源通茂、開山は大清全真大和尚。
 開基の源通茂という人物はインターネットで検索してみましたが、不明です。
 大清全真大和尚は印旛郡東祥寺(現・印西市)から招かれて入寺したのが五十一歳のとき、とあるので、まったく無関係な話ではありますが、大和尚の生年は私が愛飲している伊右衛門(サントリー)の福寿園が創業した寛政二年(1790年)ということになります。
 慈本寺在住二十二年ののち、七十三歳のとき、再び印旛に戻り、慶昌寺、高岩寺、慈眼寺、廣済寺(いずれも印西市)などを開創。八十九歳で遷化。

 ご縁ができたので、いずれ東祥寺には参詣しなければならないと思いましたが、車を持たぬ私が行こうとすると、北総鉄道とやらで印旛日本医大という駅まで行き、そこから三十分以上歩かなくてはなりません。印旛日本医大という駅へ行くこと自体、二度の乗り換えを強いられるので、待ち時間を含めると五十分近くかかります。行く機会をつくれるかどうか……。
 


 例によって歴住の墓所を捜して参拝しましたが、古いものはまったく判読できませんでした。

 慈本寺は偶然見つけたようなものだったので、境内を出ると、方角がまったくわからなくなってしまいました。
 とにかく小川を、と思って闇雲に歩いていたら、幸いなことにかなり遠方ではありましたが、先に寄った宗壽寺らしき伽藍を見つけることができました。宗壽寺と道路を挟んで八幡神社があり、そこを行き過ぎたところに「←藤心陣屋」の道しるべ。



 なんとか辿り着きましたが、石標と説明板があっただけだったので、正直なところ拍子抜けでありました。まあ、史跡巡りをしているとしばしばあることなので、拍子抜けをいつまでも引きずってなどいられません。

 ここに陣屋を置いたのは江戸時代初期の本多正重(1545年-1617年)という人。正利の四男で、兄に知略家として有名な本多正信がいます。
 正重は兄と違って家康にも遠慮なく物申す剛直な武士で、それがために家康からは好かれなかったといわれますが、槍の名手で、信長は海道一の勇士だと賞賛していたそうです。
 一万石の大名でしたが、正重の死後、八千石に……。しかし、家は連綿と明治の時代までつづきます。

 今朝、ようやく桔梗が芽を出したのを認めました。去年と一昨年、鉢植えで買ってきて庭に移し替えた五株のうち、それぞれ一株ずつです。
 寒い冬だったせいか、芽吹きは例年より数日遅いようです。画像添付に適した写真が撮れないほど小さいので、ご紹介するのはもう少し大きくなってから……。
 ただ、球根で
買ってきたもの、種で播いたものは、芽を出す兆候がまったく見られず、どうしてしまったのだろうかと、老い始めた胸を痛めています。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸川堤まで

2011年03月27日 20時55分20秒 | のんびり散策

 昨日、流山市の思井(おもい)というところに薬師堂があるのを地図上で見つけたので、何月の薬師詣でにするかは別として、様子だけ見ておこうと探索に出かけました。
 最寄り駅はつくばエクスプレスの流山セントラルパークですが、ここに到るまでには、南流山経由にせよ柏経由にせよ、二度も乗り換える必要があるので、歩いて行くことにしました。
 地図で最短距離を検索すると、坂川を幸田(こうで)橋で越えて行くのが一番近いようです。途中、あんず通りを横切ることになるので、急ぐ行程でもなし、杏(アンズ)の花を愛でてから、少し坂川沿いを歩いて、幸田橋の一つ下流に架かる大金平橋あたりまで行ってみようと思いました。



 庵を出てすぐ本土寺の参道を横切ります。仁王門前数十メートルは雪柳(ユキヤナギ)の植え込みでした。

 
 


 あんず通り。
 杏の並木が終わると、道は坂川に向かって下り坂になります。
 三日前のブログで最後に辛夷(コブシ)の花を撮った小金北中学校の
先・八木乃橋の手前から坂川左岸を歩き、大金平橋を渡って、今度は右岸を少しだけ引き返します。川沿いに東洋学園大学のキャンパスがあります。
 


 柳も随分緑が目立つようになってきました。



 住宅街の中に忽然と現われた宮園池。
 家に帰ったあとで調べると、もともとは坂川の氾濫に備えた調整池で、立ち入り禁止であったために、野鳥が飛来する池となりました。そのころは坂川の水質が劣悪だったようですが、水質改善が進むと、川のほうが栄養分が豊かなのでしょう。坂川にはたくさんのカルガモがいましたが、この池には一羽もいませんでした。

 碁盤の目に区切られた住宅街を過ぎると、道は高台に分け入って行きます。



 坂を上り詰めると、やや交通量の多い道に出ました。南流山まで地下で進んできたつくばエクスプレスがこのへんから地上に出て高架を走るようになります。

 


 薬師堂?
 私はこのお堂の背後から歩いてきました。「あった!」と思って前に廻り、中を覗くと、安置されていたのは薬師如来ではなく、右手に独狐(とっこ)を持った弘法大師の坐像です。掲げられた扁額には昭和五年という年号があり、風雨に晒されて非常に読みづらいのですが、「新四國江戸川第六十一番薬師院」とありました。
 地図会社が「院」と「堂」を取り違えたのだろうと思いました。が、もしかしたらもう一つ別の祠があるのかもしれない、と考えてなおも進むと、地図では薬師堂の先にある「中」という交差点に出てしまいました。やはり地図会社が取り違えたのでしょう。

 わざわざきたのに……と、本来ならガッカリするところですが、交差点のある場所は高台の端になっていて、前方の視界が開け、意外に近いところに平和台のイトーヨーカドーを望むことができたので、ガッカリすることはありませんでした。
 ここまで随分歩いてきていることはきているけれども、とても歩いて行けるところではないと思っていた流山市の中心部に、いとも簡単に着いてしまうことになるのです。
 イトーヨーカドーが近いということは江戸川も近いということです。江戸川堤まで行ってみようと思い直すと、むしろ元気が出てきました。



 近くに見えたとはいっても、中交差点からイトーヨーカドーまでは十三分かかりました。
 イトーヨーカドーを過ぎると、流山街道の向こうに小山が見えてきます。何度か訪れている赤城神社ですが、初めて裏手から上ることになりました。
 拝殿右奥。何を祀っているのかわかりませんが、超ミニサイズの狛犬がありました。左にスイカを入れたパスケースを置いてみました。



 こちらは本殿前の吽形の狛犬。
 ふーむ、これまで見たことのない面相です。阿形のほうは顔の部分が欠けて補修されていました。

 正面の急な石段を下るのを避けて、女坂を下ると、赤城神社の別当・光明院の境内に出ます。



 去年は工事中だった本堂が完成していました。左は葉裏に文字の書ける多羅葉(タラヨウ)の樹です。



 辛夷の花が満開でした。山門から道路に出て、もう一度赤城神社を訪ねます。

 


 赤城神社の無患子(ムクロジ)です。
 ちょうど一年前、埼玉県上尾の龍山院というお寺へ無患子を見に行き、帰りにこの神社に寄ったのでした。



 流山寺。
 我が宗派のお寺なので、歴住のお墓にお参りして行こうと墓所をくまなく歩きましたが、見つかりません。


 捜すのは諦めて立ち去ろうとしたら、本堂の真ん前にありました。



 流山寺と江戸川堤は指呼の間です。
 堤は今年も一面の菜の花です。ゴールデンウィークが過ぎたころ、種をもらいにきて、いま我が庭で春を咲き誇っている摘み菜と交互に播いてみようかと思います。



 帰りは電車に乗るつもりだったので、流山橋(388メートル)で江戸川を渡りました。自動車専用の橋の下流側に歩行者と自転車専用の橋が架かっています。
 去年の無患子紀行では逆方向から渡っていますが、明確な記憶がありません。つまり、とくに印象に残るようなこともとなく渡っているのです。
 しかし、今回は大違い。途中から高所恐怖症が出たのです。ことに昨日は風速6~8メートルという風の強い一日でした。
 風が強いので帽子が飛ばされそうになります。両手で押さえようとすると無防備な格好になるので、ますますいけない。

 道幅は3メートルぐらいか。
 遙か下を流れる川は見ないように歩くのですが、直下だけを見ていると、いつの間にか道の端っこに寄ってしまうのです。気づくたびにゾッとして、魂までどこかに持って行かれそうです。
 地震の後遺症が残っていたこともあって、もしここで地震がきたらどうしようと突然考えてしまう。
 莫迦! なんでこんなときに地震のことなんか思い出すのだッ! 足も竦みがちで、しゃがみ込みたくなるような心境でありました。
 引き返すか、と思わないでもなかったけれど、高所恐怖症の者にとって、高いところで後ろ向きに姿勢を変えるということには、想像を絶するような勇気が要るのです。

 まあ、とんだ茶番でありました。この写真は渡り終えたあと、やっと人心地ついて埼玉県(三郷市)側から取った画像です。



 三郷駅から武蔵野線に乗りました。

↓この日歩いたところ(あんず通りから三郷駅まで)。
http://chizuz.com/map/map86718.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無犬のドッグランと初猫

2011年03月26日 06時55分09秒 | 日録

 今冬は寒気がたびたびやってきて、暖かい日もあったことはあったのに、そんな日があったとは忘れてしまいました。
 今朝こそ夜明け前の気温は2度台でしたが、風が強く、体感温度は遙かに低い。昨日も一昨日も最低気温は氷点下。最低気温が氷点下を記録したのは三月中十二日にもなりました。
 松戸市民となって四年目ですが、三月に氷点下を記録した日は、去年も一昨年も二日ずつしかなかったのです。
 寒さがつづく一方で、去年の夏の暑さを思い返すと、地軸が傾きを増して、夏は太陽に近づき、冬は遠くなったのではないかと考えてしまいます。

 昨日は午後四時半という遅い時間から散策に出ました。朝から晴れていて、南または南東の風だというのに、なかなか気温が上がらない。
 で、身体のエンジンがなかなかかからなかったこともありますが、出かけるのを夕方にしようと思ったのは、ずっと兄弟コリーを見かけていないからです。
 彼らのことをブログに記した前日(去年の十二月九日)以来なので、いつの間にか三か月半が経とうとしています。
 寒くなってから朝の散歩を取りやめにしています。朝、散歩に出ていれば見かけているのかもしれぬが、と思い、いや待てよ、大型犬なのだから、朝の散歩だけでは物足らず、夕方も必須であるのに違いない、と考え直しました。
 現に私が富士川べりを散策するのは、夏から秋にかけては朝のうちで、その時間帯にしばしば見かけたことがあったし、最後に見て、連れていたご婦人とほんの一瞬だけ言葉を交わしたのは、散策を朝から午後へと切り替えた時期だったのです。

 雨の日でもない限り、私は少なくとも一日一度は庵の周辺を夢遊病者みたくほっつき歩いているのだから、三か月半もの間、まったく出会わないということはあり得ない。あるとすれば、きっと先方にやむを得ぬ事情があるからに違いない。兄弟を連れ歩いていたご婦人は決して若くはないのだから、もしかしたら病気でもしているのではないか。
 かように考えて夕方出発としたのです。
 遠くからでもいい。遙か遠くでも二頭のコリーを見誤るということはないのだから、歩いているのを見る、というだけで安心です。



 我が庵から歩いて十分ほどのところにあるドッグランは無犬無人でした。
 散策に出た目的をなくしてしまったような気分です。じゃ、帰るか、ともいかないので、しばし考えたあと、行念寺へ行くことにしました。



 道々のあちこちで鈴蘭水仙(スノーフレーク)が咲いているのを見ました。スノーフレークもいいな、と思いながら眺めています。
 ……もいいな、というのは、秋になったら植えようかという意味です。植えた以上、来春花開くまでは生きなくてはなりません。こうして自分を騙し騙し生き延びて行くのもいいかもしれないと、ぼんやりと考えています。

 庭にはまだ充分に空きがあります。今年の秋は水仙も植えるか、鈴蘭も植えるかと考えています。ただ、サカタのタネのネットショップにはスノードロップがないのと同様スノーフレークもありません。タキイ種苗も同前。



 行念寺は久しぶりだったので、ちょっとだけお邪魔をして、開山の經譽愚底(きょうよ・ぐてい)さんの供養塔に焼香しました。



 旧水戸街道を挟んで、行念寺と向かい合わせのマツモトキヨシ中新宿店。
 おお、そうじゃ、と気づいて寄り道。この三十一日で無効となるメンバーズカードのポイントがあったのです。
 スティック十本入りのカフェオレが¥198。十箱買ってもまだポイントの残りがある。1円たりとも払わないのは申し訳ない気がしたので、シャンプー(サクセス)を2パック買うことにしたら、やっと支払いが生じました。

 


 夕陽に照り映える富士浅間神社の杜と拝殿。訪れるのは三回目です。初めてきたとき、白っぽい美形の仔猫殿を見かけていたのですが、前回も今回もいませんでした。

 代わりに、薄暗くなってから帰ったとき、我が庵に到る道をゆっくり横切って行く猫殿を見かけました。白と薄い茶の毛並みだったので、いつからか姿を消してしまったオイチかとも思いましたが、どうも初めて見る猫殿のようです。
 舌を鳴らして呼びかけつつ、鞄からドライフードを入れたタッパーウェアを出して、カシャカシャと音がするように振ると、民家の物陰に隠れて私を窺っていました。
 物陰はいっそう暗いので、どんな表情をしているのかはわかりません。飼い猫か野良かも判然としませんが、転居後半年にして初めて見るのですから、飼い猫ではないようです。

 場所は我が庭先から20メートルもないところです。下水溝の蓋の上に餌を置いて、5メートルほど離れたところから見守ることにしました。私が離れると、物陰から出てきて、ちょこんと坐りました。猫なのですから当たり前ですが、遠くからでも猫背が見えます。私は本来の猫背を見せてくれる、こういう格好が一番愛おしいと思います。
 私が見ていたからか、坐ったままです。今度は私が物陰に隠れることにしました。すると、やっと出てきて食べ始めました。近くにきてくれないので、カメラに収められなかったのが心残りです。

 周辺には我が庭をトイレにしている、憎たらしい飼い猫がいます。飼い猫と野良の縄張りがどのように保たれているものか、私にはわかりませんが、縄張り争いでその飼い猫と軋轢が生ずるのであれば、私はその飼い猫を撃退するほうに全面的に協力するつもりです。



 我が庵近くで見かけた白木蓮です。



 近くには辛夷(コブシ)がない代わり、白木蓮はたくさんあります。それにしても本来の木蓮がないなあと思っていたら、根木内歴史公園の外れにありました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大地震余波

2011年03月25日 10時49分50秒 | 日録

 昨日のブログで取り上げた金乗院のほかに、我が庵近くには無住のお寺がもう一か寺あります。寶蔵院です。墓石に被害がなかったかどうか気に懸かるので、二日連続で墓石の被害調査に赴きました。



 富士川に下りると、左岸(松戸市側)の道にはパイロンが置かれ、途中から通せんぼされていました。
 もしや、と思って右岸(流山市側)に廻ってみたら、通せんぼされたところは小規模ながら地滑りがあったようです。多分先日の地震が原因でしょう。

 


 寶蔵院でも燈籠が倒壊していました。笠の部分は仰向けにひっくり返って、縁(ふち)が欠けています。
 無住のお寺なので、修復はおろか、片づけの手も入っていないみたいでした。
 散乱したままであることが気に懸かりましたが、勝手に触れるものではないとも考えたし、第一独力で持ち上げることができそうなのは一番上の宝珠ぐらいのものですから、残念ながら見過ごしにするしかありません。

 


 歴住の墓石と八十八体ある弘法大師像(画像下)には大禍がなかったようです。丈が低いのが幸いしたのでしょうか。



 寶蔵院の境内にも辛夷(コブシ)の樹がありました。

 東漸寺で福島県から避難してきた人を受け入れていると知ったので、私でも何かできることはないだろうかと行ってみました。
 その情報を入手したのは、地震から十三日も経過した昨日の昼前でした。東漸寺にはちょくちょくお参りしているのに、なぜかこの間は行くことがありませんでした。まだ地域コミュニティに充分溶け込んでいるとはいえないので、情報の入手も遅いのです。



 門前に出ていた貼り紙。
 左端に手書きで、「三月二十二日現在、物資は充分に足りているので、お心だけちょうだいします」と書かれてありました。
 私が持って行けるものなどたかが知れていますが、地域情報に疎かったことが禍して、いまのところは何もできなくなりました。



 絶好球がきたのに、一瞬の躊躇を覚えて、見逃し三振……そんな気分で帰ってきたら、我が庭に菫(スミレ)があるのに気づきました。

 山路きて 何やらゆかし すみれ草 芭蕉

 私の部屋には背を向けて咲いているのと、雨つづきで庭に下りることがなかったので、気がつきませんでした。
 去年夏、引っ越してきてすぐ庭の草刈りをしました。もっとたくさんあったのに、菫とは知らず、引っこ抜いてしまっているかもしれません。それでもまだ花を咲かせていないものが数株あります。



 ぐずついた天気がつづきました。昨日は
夕方近くになってようやく陽射しが出ましたが、冷気は緩む気配を見せません。そんな寒い中でルッコラの花が咲きました。
                  


 一方、摘み菜(ツマミナ・実態はおそらく蕪)の花はひと足早く春爛漫です。



 昨秋、曼珠沙華の開花が遅れたのは夏が暑かったせいだ、とのたまわった近所の事情通のオヤジが「雪柳」だといった樹です。我が庭にあるのですが、道路端なので枝が道路にはみ出しています。
 いまになって思えば、雪柳があの特徴的な枝をヒョロヒョロと伸ばしたら、歩くのに邪魔だったのかもしれません。事情通の家はこの道を突き当たったところにあって、ごみを出すのにも、どこへ行くにもこの道を通らなければならないのです。
 よくよく見ると、剪定された跡があるので、私がいまの家の主となる前に、事情通が伐ったのでしょう。

 特徴的な枝が見られなかったので、「雪柳」とのたまわったときには、私はかなり強い気持ちで「?」と思い、春になったらわかるさ、と独り言を呟いたのでしたが、春がきて花の咲いたところを見ると、私の期待に反して、雪柳でしかないようです。
 考えてみれば、事情通は何年、いや何十年となく、伸びた枝に悩まされながらこの花を見てきたのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コブシ(辛夷)の花を見ながら

2011年03月24日 06時48分23秒 | 

 地震後、なんとなく気持ちが塞ぎ気味だったのと雨もつづいたので、散策に出たのはたった一日だけでした。
 十一日の大地震のあとも余震がつづいています。家がミシミシと軋むほどの地震が立てつづけにくる日もあります。
 これだけ余震がつづくと、大地震では無事だったお墓も少しずつずれる、ということもあるのではないか。ふと気に懸かったのは金乗院の墓所でした。このお寺は無住なのです。
 
とはいっても、管理をしているお寺があるのですから、誰かが様子を確かめに行っているはずです。仮に誰も面倒を見る者がおらず、もし倒れていたとしても、重い墓石を私の独力でなんとかしようと思っても、いかんともしがたい。しかし、何もできないとしても気に懸かるので、久しぶりの散策方々見に行ってこようと思い立ちました。

 散策を自粛(?)している間にコブシ(辛夷)の開花期を過ぎていました。我が庵近くには白木蓮はあっても、辛夷は見かけないので、しかとはわかりませんが……。
 ついでに辛夷の花を捜して歩くことにしました。

 最初に寄ったのはムクロジ(無患子)のある家です。金乗院へ行くのに、ここに寄り道するのは遠回りですが、冬の間に、無患子の横に辛夷の樹があるのを見つけていました。



 咲いていました。



 咲いているのは左の高木から一本だけ、まるで枝垂れ桜のように垂れ下がっている枝です。右の幹は無患子。
 辛夷は高さ20メートルにもなる高木ですが、それだけ高い樹にはなかなかお目にかかりません。



 無患子の家から金乗院へ向かう途中で見かけた辛夷。庭木なので背も低く、幹も細い。



 椿は落花盛んです。



 これはハナモモ(花桃)。



 金乗院の歴住の墓石は無事でありました。余震つづきですが、倒れそうな様子もない。檀家の墓も、見たところ倒れたものはないようです。

 次は岩本石見守正倫が石見様として祀られている天形星神社を目指します。



 金乗院~天形星神社の中間あたりの辛夷。昨日は雨が上がったあとなのに、朝から雲が多く、陽射しは出たかと思うとすぐに隠れる。
 ここに到ったころには完全に曇って、風も冷たくなってきました。空が薄暗くなったので、辛夷の花も映えません。毎年、桜の開花が近くなると、こういう鬱陶しい気候です。だからこそ人々はよけい桜に浮かれるのでしょう。

 


 天形星神社。こちらでは燈籠がほぼ皆滅状態でした。
 三対六基あるうちの五基が倒壊です。倒壊をまぬがれた一基も基礎と竿がずれていました。
 ほかには被害はないようです。燈籠は頭でっかちなので脆いのでしょう。



 参道の敷石が割れています。倒れた燈籠は片隅に寄せられたあとで、多分倒れたときには敷石を直撃したものと思われます。



 これは岩本大明神祠前の燈籠。



 県道柏流山線沿いにあった無人の野菜販売所。
 我が庵近くの無人野菜販売所では最低価格は¥100です。入り数は少ないのかもしれませんが、¥50という単位は見たことがないのに、ここではオール¥50。



 JAとうかつ流山事務所近くで初めて見た花。
 サンシュユ(山茱萸)かダンコウバイ(壇香梅)か。両方とも家に帰ったあと、樹木図鑑を開いて知った花の名ですが、図鑑には樹の全体像が載っていないのでわかりづらい。



 帰りも少し遠回りして、流山七福神の一つ・布袋尊が祀られている春山寺に寄りました。我が宗旨・曹洞宗のお寺ですが、前にきたとき、歴住の墓所にお参りしていなかったので……。



 燈籠の宝珠(一番上の部分)が飛ばされていました。



 墓所は大禍なし。供花のある二基の墓石のうち、右が開山の墓石。読めるのは「開山」という文字だけで、あとは風化してまったく読めません。左の高いのは歴住塔。



 坂川の右岸には台地があります。
 その台地を越えて行く道は、季節が夏であれば、どこか山奥の避暑地にでも向かって行くような趣きです。いつもは画像の奥から手前に向かって歩いてきます。今日は逆コースで帰ります。



 流山市第3コミュニティホームの辛夷。
 コミュニティホームとは市民のための集会場のことです。松戸市では市民センターと呼んでいます。会議室、調理室などがあります。

 途中にあったローソンでチョコレートとミネラルウォーターを買おうと思ったら、棚は空っぽでありました。



 坂川を渡って流山市から松戸市に入りました。小金北中学校の校庭にあった辛夷です。このころからポツポツと雨が落ちてきました。

→この日歩いたところ(富士川~小金北中学校)
http://chizuz.com/map/map86550.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ようやくパンが入荷

2011年03月22日 21時29分27秒 | 日録

 先日の地震の二、三日後からスーパーの売場からパンが消えました。
 パンがないと、体調不順であまり食欲の湧かぬ我が身にとっては、死活問題、とまでは行かなくても、かなり致命的でありました。
 以後、二日か三日おきに足を運びましたが、パンはおろか、お米もパスタ類もカップ麺も、ホットケーキの素に到るまで、およそ腹の足しになりそうな商品の棚は空っぽでした。

 食後の服薬が欠かせないので、腹が減っていようがいまいが、薬を服むために何か食べておかなくてはなりません。
 幸いお米は地震前に買ってあったので、食べるものが何もない、という状態ではありませんでしたが、何か食べておかなければ、と思っても、とくに朝は御飯、という気にならないのです。
 食パンさえあれば、ベーコンエッグズをつくって、下敷きにレタスかサラダ菜を布いたサンドイッチにし、インスタントではあってもスープを飲めば、曲がりなりにもバランスのとれた食事と相成りますが、目覚めたあと、薬じゃ薬じゃと思い、その前に何か食べておかねば、と思っても、そういえばお米しかなかったかと思うと、もともと湧かない食欲がまったく湧かなくなってしまいます。

 苦肉の策で、フルーツ缶詰とゼラチンを買ってきてフルーツゼリーやコーヒーゼリーをつくり、食事代わりに食べていました。
 主食にフルーツゼリー、デザートにコーヒーゼリーを食べて薬を服むわけです。魚は好きですから食べていましたが、焼き魚をおかずにフルーツゼリーというのは、いくら変人気味の私でも食べられない。おやつ代わり(時間的に)に、魚を食べたり、野菜サラダをとる、という妙な食生活を送ってきました。

 思い返せば、確か売場からパンが消えた日であったと思います。
 跡形もなく消えているとは知らず、のんびりと散策をし、帰りにパンやその他の買い物をして行こうと思いながら、スーパー近くまできたとき、パンパンにふくらんだレジ袋を両手に提げて、歩くのも覚束ないような老人とすれ違いました。さらに夫婦とその娘と思われる三人連れがこれも両手にパンパンのレジ袋を提げているのに出会いました。

 そのときはとくに何も考えずに見送りましたが、見送ってスーパーに入った私が見たのは、何一つ商品のないパンコーナーでした。食パンはもちろん、菓子パンも調理パンも、総菜コーナーで売られているサンドイッチも、およそパンと呼べるものはすべて見事に空っぽ……。

 その夜か翌朝ぐらいからか、買いだめというのがニュースで報じられるようになりました。
 大災害が起きると、いつも日本も棄てたものではないと思えるような、心温まるニュースに接しますが、それだけにこの手のような輩がいると、氷の刃で胸を刺されるような気持ちになります。まして火事場泥棒のようなヤツバラは論外です。

 昨日今日と雨です。
 避難生活を送っておられる方々に思いを馳せれば、多少のことは我慢せねばならぬとは思いますが、雨の前が暖かかっただけに、氷雨のように感じられます。しかも、今日は雨のち曇という天気予報が外れて、暗くなってからも雨は熄みません。つれて奇形を持つ私の右足はナイフかなんかで傷つけたあとのように痛む。

 わずか二日間とはいえ、家に閉じこもったままでいると気鬱が進行するようだし、パンは手に入れられないとしても、おかずにする野菜や魚がなくなっていたので、気は進まないながらも、傘を片手に買い物に出ました。



 と……、
 パスコの食パンが山盛りに入荷していました。



 しかし、「世界のヤマザキ」のほうは食パンだけ空っぽ。流通と原料入手に難があるので、とお詫びが出ていましたが……。

 一週間前に種子を播いた紅花に芽が出ました。寒いので庭には下りず、窓越しに眺めています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深川寺巡り(2)

2011年03月21日 20時13分38秒 | 寺社散策

 先日の地震で柱から飛ばされた掛け時計でモニタが破壊され、パソコンが使えなかったために、〈つづく〉としておいた深川のお寺を巡った日から十日以上も経ってしまいました。
 十日も経つと、すっかり間が抜けてしまいますが、画像だけ配置して保存しておいた下書きを、日の目を見せぬままに削除してしまうのも惜しいように思えるし、今日は彼岸の中日でもあるので、間抜けを承知で更新しました。

 さて、前回の最後にした阿茶局のお墓がある雲光院から淨心寺までは歩いて五~六分の距離です。
 阿茶局のお墓はヒョロリとして背が高いので、地震で崩れてはいないか、と心配するコメントをいただきました。アイヨ、と請け合って見に行ける近さではないので、確かめられないのが残念ですが、代わりに我が庵近くの清瀧院の墓所に行ってみました。

 墓石の中には倒壊したり、ずれたりしているものがありましたが、歴代住職の墓石は、古いものだと三~四百年も経っているのに、被害を受けた様子はありませんでした。



 卵塔という僧侶の墓独特の、いわば頭でっかちの形をしていますから、見た感じは長方形が多い一般の墓石より不安定な気がします。しかし、倒れないのです。つくづく昔の墓(技術)は偉いものだと思いを新たにしました。



 さて、〈つづき〉は浄土宗の良信院からです。創建されたのは日本橋ですが、振袖火事として知られる明暦の大火(1657年)後に現在地へ移転。



 龍光院も浄土宗の寺院。創建の地は馬喰町。天和二年(1682年)、現在地に移転。深川七福神の一つ毘沙門天があります。




 今回の深川探訪のお目当てである淨心寺にきました。ここには江戸時代末期の勘定奉行・矢部駿河守定謙(さだのり・1789年-1842年)の墓があるのです。
 二年前にきて捜し当てることができず、近々再訪しようと思いながら、いつの間にか二年も経ってしまっていたという次第です。

 墓域は決して広いとはいえませんが、通路が非常に狭いので、おびただしい数の墓石が林立しています。
 矢部さんを川路聖謨(かわじとしあきら)、岩瀬忠震(いわせただなり)とともに幕末の三俊と称えた、明治から昭和にかけての新聞人・川崎紫山(1864年-1943年)は、墓石の並んでいるさまを「累々たる大碑小碑、碁の如く羅列したるが中に、二個の花崗石、石径の一端に立てり」と書き、寺僧の案内がなければ見つからなかったといっています。
 花崗石といっても、没後百七十年も経っているのですから、黒ずんでいるかもしれませんが、法名は晴雲山院殿秋月日高定謙大居士とわかっているので、念入りに見て回ったつもりでしたが、結局この日も矢部さんの墓を見つけることはできませんでした。
 今度くるときは前もってお寺に電話を入れることにします。



 代わりに旧洲崎遊郭の供養塔を見つけました。
「元洲崎遊郭無縁精霊之墓」「洲崎廓追善墓」と彫られた二基の墓石があります。説明板のたぐいがないので、どのような歴史があるものかわかりませんが、縁故がいるのかどうか、樒(シキミ)が供えられていました。

 洲崎遊郭は明治二十一年から昭和三十三年まで、深川洲崎弁天町(現・江東区東陽)にあった遊郭です。
 根津にあった遊郭近くに大学南校医科(現在の東京大学医学部)が設置されることになり、学問の府近くに遊郭とはこれいかに、という理由から、当時は海だったところを埋め立て、根津遊郭をそっくり移転させてできたのが洲崎遊郭です。
 永井荷風は「断腸亭日乗」に「洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し」と記していますが、最盛期は三百軒近くの店があり、二千人以上の従業婦がいたようです。

 淨心寺から洲崎遊郭跡までは歩いて二十五分ほどです。古い建物も遺っているようなので、行ってみたい気はありましたが、足を延ばしてしまうと、お寺巡りを切り上げねばならぬので、日を改めて行くことにします。



 淨心寺の西参道前にある円珠院です。
 かつては淨心寺の塔頭でした。深川七福神の一つ・大黒天が祀られています。開基は永井讃岐守直允(なおちか)という旗本の妻女(後室)です。
 いまのところ、この女性の名も生年も不明ですが、享保十五年(1730年)十二月二十日に没し、この寺に葬られたということだけがわかっています。浜松町近くにある円珠寺という寺の開基でもあるらしいので、よほど信心が篤く、お金持ちでもあったようです。
 永井讃岐守直允という人物についてはまた県立西部図書館へ行って、「寛政重修諸家譜」で調べてみなくてはなりません。



 松林院。もとは霊巖寺の塔頭。



 松林院と背中合わせの勢至院(浄土宗)。ここは寺域いっぱいに本堂と庫裡が建てられています。道が細いので、こんなアングルしかカメラに収めることができません。

 
 


 淨心寺の西参道前を東西に走る細い道。短い距離の間に向かい合わせで六か寺も並んでいます。いずれも日蓮宗の寺院です。その道の南側。淨心寺に近い東から善應院、本立院、玉泉院。
 善應院は詳細不明。本立院には間宮林蔵の墓があるらしいのですが、入りにくそうだったのでパスしました。玉泉院は明暦年間(1655年-57年)の創建とわかっただけ。

 
 


 今度は北側。東から一乗院、唱行院、圓隆院。
 由来がわかるのは唱行院だけで、元禄八年(1659年)、京橋に創建。江戸時代末期に当地へ移転とぞ。

 以上六か寺の中で、わずかながらも空間があるのは唱行院だけでした。あとは敷地目いっぱいに伽藍が建てられていて、眺めて歩くだけで肩が凝るような思いがしてしまいます。

 


 圓隆院と唱行院の間の道を霊巖寺に向かって北に歩くと、右に圓通寺、左に法性寺があります。ともに浄土宗のお寺ですが、詳細は不明。



 雄松院。寛永四年(1627年)、霊巖寺の開山堂として創建。紀文と並ぶ豪商・奈良屋茂左衛門の過去帳があるそうです。

 一、二、見残した寺院がありますが、そろそろ家路を辿ることにします。門前仲町の駅へ向かう道すがら、締めくくりに富岡八幡宮と永代寺を巡れば、今回の寺社巡りは終了です。

 最初に歩いた清澄通りは通らず、路地を歩くことにしました。とうに昼は過ぎて、折角握り飯持参できていたのに、歩き食いをするわけにも行かず(実際はするのですが、人通りがあれば慮ります)、かといって腰を下ろせるような場所もありません。
 それほど人通りがあるわけではないけれど、さすがに松戸や流山の田園地帯とは違って、人通りがない、というところはありません。
 パタッと人影が絶えたと思ったら、首都高深川線の高架下でした。ここでようやくパクリ。



 かつては富岡八幡宮を囲んでいた八幡堀跡につくられた遊歩道と旧弾正橋。
 明治十一年、京橋付近を流れていた楓川(もみじがわ・現在は首都高都心環状線)に架けられた橋です。鉄橋では日本最古のものといわれ、国の重要文化財に指定されています。
 大正二年、新しく弾正橋が架橋されたため、「元弾正橋」と改称され、同十二年には廃橋となりましたが、その由緒を惜しまれて現在地に移設、八幡橋と呼ばれています。いまでも現役です。



 八幡堀跡を通ったので、先に富岡八幡宮に寄りました。
 社伝によると
、創建は寛永元年(1624年)。長盛という僧侶が京から八幡の神像をもって江戸にきたところ、当時、海岸は永代島という小島を中心に埋立て工事中で、その埋立地にあった祠に八幡神像を奉安して、のち(寛永四年)に立派な社殿を建立したと伝えられています。



 八幡宮境内の横綱力士碑。縦3・5メートル、厚さ1メートル、重さは20トンという白御影石製。
 裏面に初代横綱・明石志賀之助から第六十九代横綱・白鵬翔までの四股名が刻まれています。もみあげの三代朝潮太郎以降は別の碑。横綱以外で名が刻まれているのは雷電為右ェ門だけ。



 最後の最後に永代寺にやってきました。



 本堂の左手。
 まだ工事中のようですが、護摩札という掲示があり、宝籤売場のような窓口がズラリとあるところを見ると、新しい寺務所でしょうか。黒っぽいところに金色の線が二本、と見えますが、一つ一つは梵字なのです。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震酔い

2011年03月20日 19時34分54秒 | つぶやき

 昨夕、茨城県北部を震源とする大きな地震がありました。十一日の地震ほどではなかったものの、食器棚がカタカタガタガタ……ガチッガシャッ……と鳴り始めたので、飛んで行って押さえにかかりました。
 十一日の地震以来、地震でもないのに身体が揺れているようだったのが、ようやく治まりかけたかなと思うころだったのに、また復活です。
 こういう幻覚のような厄介なヤツの正体は、インターネットを視ると、「地震酔い」という症状で、対処方法も紹介されていますが、対処方法を試みたところであまり効果はなく、今日現在、私はいまだに揺れています。

 昨夜は仰向けになって寝ているときに、何度か背中が揺れるように感じました。また、地震がきやがったと思って枕許の電灯を点け、見える範囲を見回しましたが、身体で感じたほどの揺れだったのに、天井から下げてある蛍光灯もスイッチ紐も揺れていない。
 日中、パソコンの前に坐っているときも、ときどき揺れるのを感じます。またか、と周りを見廻すのですが、コトリと音を立てるものもなければ、柱や鴨居にぶら下げてあって、揺れていいはずのものが揺れている様子もありません。

 私が被ったダメージといえばPCモニタだけだったのに、精神的ショックが大きかったのでしょうか。十一日の地震で食器棚を押さえていたときに感じた、なんともいえない気持ちの悪さからも脱し切ることができません。

 グラグラと揺れる中で、あ~、なんか、気持ち悪ッ! と感じながら思い出していたのは、昭和五十三年六月十二日のことでした。
 この日の午後五時十四分、宮城県沖地震が起きました。

 その日のその時間、私は仙台の中心街にある九階建てのビルの最上階にいて、ある経済人にインタビューをしていました。
 地震が起きる直前、女性秘書が遠慮がちに入ってきて、インタビュー中の人物にメモを差し出しました。地震が起きた時間から逆算すると、五時五分ごろであったと思います。
 人物は「ちょっと失礼します」と私に断わり、秘書を促して部屋を出ました。聞こえませんが、ドアの外で話をしているようでした。
 やがて戻ってきた人物は「大変申し訳ありませんが、三十分、いや、二十分だけ中座させてください」といい、「○○さん(私です)にコーヒーを……」と秘書に命じて部屋を出て行きました。

 私はその時間を利して、用を足しておこうと立ち上がりました。
 部屋から廊下に出ようとした瞬間、強い眩暈に襲われました。同時に、なんとも形容できない気持ちの悪さを覚えました。
 廊下には何もなく、照明は天井に埋め込み式なので、揺れるものはありません。地震がきたとは思わないので、コリャ、なんじゃらほいと思い、わけはわからぬが、気づかぬうちにとんでもない病気に罹って、それが発症したのではないか、と思いました。

 ふと気づくと、女性秘書が両手で頭を抱えて、しゃがみ込んでいるのが見えました。私に持ってきたのであろうコーヒーカップを載せたお盆とカップが廊下に転がっていました。いろんなところのドアが開き、てんでに人が飛び出してくるころには、病気に罹ったのではなく、大きな地震がきたのだと理解していましたが……。

 インタビューは中断されたまま、十五分おきぐらいに秘書がきて、インタビューは日を改めてもらいたいこと、鉄道が停まってしまっているようなので、今夜は(私は)東京には帰れそうもないこと……なのでホテルの手配をしたが、被害を受けたホテルも多く、弊社の寮に部屋を用意したということ……等々。

 まだ東北新幹線のない時代でした。私は最終の特急「ひばり」で東京に帰る予定でおりましたが、東北本線は寸断されて不通。復旧したのは翌日午後でした。

 地震に見舞われると、このときの光景を思い出すことがあり、なんともいえず気持ちの悪かったことも思い出しますが、実際に気持ちが悪くなったわけではありません。

 ところが、十一日の地震当日はとっさに食器棚を押さえながら、実際より遙かに長く揺れるのを感じたとき、三十年も前のことがまじまじと甦ってきて、「あ~、あのときと同じだ」という気持ちの悪さを感じたのです。

 当日はしばしば強い余震があり、震源を別にする地震もありました。いずれもパソコンを前に坐っているときか、布団に横になっているときだったので、気持ちが悪くなるということはありませんでした。
 もちろん地震の発生ごとに、私が坐っていたか、横になっていたか、何をしていたかを記録しているわけではないので、このあとのことから、多分立ってはいなかったのだろうという想像です。船酔いでも横になれば軽減されるのですから……。

 そして昨日の地震―。
 とっさに食器棚を押さえに行ったので、当然立っています。そうしたら、またやってきたのです。なんとも表現できぬ気持ちの悪さです。
 地震が去ってしまえば、なんということもありません。しかし、治まりかけていた地震酔いが復活しました。

 地震酔いに限らず、現在の体調が原因で調子の悪くなる日があるのなら、その状態がずっとつづけばいい、というとおかしいけれど、つづかないので、次の通院のときには、そういう症状が起きた、ということを医師に告げるのを忘れてしまうのです。
 で、病院から帰ってきて、「ああ、このことを訴えておくべきであった」と思い出す。

 寝不足気味であることも原因の一つかもしれません。身体が揺れたような気がして目覚めることもあり、本当の地震で目覚めることもありますが、ごく普通の目覚めを迎えた日でも、昼間はとくに何も感じないのに、夕暮れが迫ってくると、寝不足だったということがわかってきます。

 ふと気がつくと、かなり背中を丸めてパソコンに向かっています。たま~に坐禅をするときは、道元禅師がおっしゃった、ただ坐れ、という教えに背いて、背筋を伸ばそうとして坐るのですが、しばし坐ったあと、以上終わり! と独り言を呟いてパソコンの前に戻ると、いつの間にか背中が丸くなっている。

 真冬の間、部屋の中に2メートルほども射し込んでいた陽射しが、太陽の位置が高くなったために、二階のベランダに遮られて、いつの間にか射し込まなくなりました。
 気温は高くなりましたが、我が庵はかえって寒く感じられるようになっています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アケビ(通草)

2011年03月19日 17時57分14秒 | 風物詩

 少し寒気が緩みました。地震被災地の方々には多少なりとも明るさが戻るかな、と愚考しております。

 我が地方は一昨日昨日と夜明け前はまた氷点下。今朝はちょっぴり暖かかったのに誘われたのか、アケビ(通草)が芽吹きました。
 去年十月、柏市岩井の將門神社を訪ねた帰り、手賀沼畔にある「道の駅しょうなん」で買って味見をしたあと、種を播いておいたものです。

 庭ができたのをいいことに、買ってきた種子や球根だけでなく、散策途中で拾った隠れ蓑、栗、柿、銀杏、椎等々、さらに食べてみたら種があった柚子、伊予柑、林檎等々……闇雲に庭に播いています。
 アイスキャンデーのバーをもらってきて、種を埋めたところにそれぞれ名前を記した標識を建てましたが、標識はわずか半年ばかりの風雨に晒されただけで判読不能になってしまいました。
 いまのところ、アケビ以外に芽吹いた様子はありませんが、これでは芽を出してくれたところで、かなり成長して葉を出してくれるまで何がなんだかわかりません。

 アケビは漢字で表記すれば通草。草ではないのに、生まれ立てはまだもやしみたいです。

 これは摘み菜(ツマミナ)の花。
 国語辞典を見ると、摘み菜とは蕪や大根を間引いた葉っぱのこと、と載っていますが、私が購入した種子の袋には「アブラナ科の葉菜」と書かれています。

 書店で野菜の図鑑を立ち読みして、「摘み菜」という種類の植物はないことを知りました。そして、蕪も大根も同じアブラナ科であることを知りました。ただ、仲間であっても、蕪の花(黄色)と大根の花(白色)は似ても似つかぬものです。
 花の色からすると、蕪なのでしょうか。いずれにしてもアブラナ科なので、菜の花とよく似ています。もしかしたら土中には蕪が育っているのかも。花が終わったら抜いてみようと思います。

 最初はおひたしにでもしようかと思って播いたのですが、根が物臭なものですから、葉が出てからは放りっぱなしにしておいたので、雨が降れば泥はねを被って、念入りに洗わなければ食べられぬ有様です。
 うーむ、面倒じゃな……と尻込みしているうちに、真ん中から茎がすくすく伸びて、一番の成長株は高さが60センチにもなってしまいました。

 咲き始めのルッコラの花です。去年十月末、庭にいろんなハーブの種を播きました。パセリ、セージ、ローズマリー、タイム、レモンバーム、カモミール、オレガノ、チャイブ……等々。
 同じ時期に播いた桔梗は途中まで育ったものの、この冬の寒さで全滅してしまいましたが、ハーブ類は辛うじて生き残っている中で、このルッコラだけが異常に成長しました。こちらも、物臭のために、いまでは高さが40センチ。

 昼が近づくころ、異様に暖かくなったので、散策に出ました。
 しばらく廣壽寺へ行っていなかったので、廣壽寺へ行って……。それから清瀧院の枝垂れ桜の芽吹きの具合を見てから、名都借(なづかり)地区の香取神社を回ってこようと庵を出ました。

 

 最初に前ヶ崎の香取神社に寄ると、小春がいました。こやつと私との関係はいまや「餌」だけで成り立っています。ニャーニャーと私の足許にまつわりついて、うるさいほどの餌の催促。足許をチョコマカと歩き廻るので、何度か踏みつぶしそうになりました。
 餌を置くと、いつもどおりがっついています。
 地震で参道側に倒壊した燈籠は片づけられていましたが、修復は先のようです。

 

 廣壽寺でも燈籠が倒れていました。

 

 樹齢四百年以上と伝わる清瀧院の枝垂れ桜はあまり芽吹きが見られません。去年、北小金にある東漸寺の枝垂れ桜はここより一週間も早く開花したそうです。今年も遅れをとりそうです。

 

 名都借の香取神社は二度目。去年八月以来です。

 

 鳥居脇にこんなものがあったとは、前は気づきませんでした。
 右の石はなんとなく手水鉢のようなので、これも地震のせいで倒壊したものか、しかしこんなところに手水鉢とは?……と首を傾げたら、説明板が建てられていて力石とありました。地震で倒壊したのではありませんでした。

 昔々、村の若衆たちがこの石を持ち上げて力自慢を競ったのだそうです。左下は四十二貫(157キロ)、上の小さいものでも三十三貫(124キロ)の重さがあると書かれてありました。下の二つはもともと名都借村にあったものですが、上は隣の前ヶ崎村(先に訪ねた香取神社のある集落)にあったものです。担いで帰れたら譲るといわれた名都借の力自慢が悠然と持ち帰って三つになったというお話。

 天気予報では、暖かいのも彼岸の中日まで。今日明日明後日と三日の間に、食べ物、衣料品、石油類……少しでも多く被災地に届けられますように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大地震とPCモニタ

2011年03月18日 11時52分12秒 | 日録

 ブログを更新していなかったので、ご心配いただくメールやメッセージを頂戴しました。ありがとうございます。
 体調を崩していたわけではありません。体調は決して良好とはいえませんが、そのことでブログ更新を滞らせていたのではないのです。

 十一日の大地震 ― 。
 日が経てば経つほど沈痛な思いが深くなって行きます。
 付き合いをつづけているのは一人もいませんが、私の大学時代の同級生は仙台市とその周辺の出身者が一番多く、ほか大部分も東北出身者でした。
 大学生だったころから四十年も経ったいまでも、生まれ故郷に住んでいるかどうかもわからないのに、死者・行方不明者の数が日増しにふえて行くのを知ると、居ても立ってもいられない気持ちに駆られ、私と同年齢、もしくは(浪人して入学した者もいたので)一つ二つ上という年齢だけを頼りに、死者の名簿を目で追っています。
 同じ学科の大半は女子学生だったので、苗字では探せないからです。かといって旧姓(結婚していればですが)は思い浮かぶけれども、名前まで憶えているのは何人もおりません。

 いまのところ、思い当たる名前と年齢が一致した人物はありません。しかし、見落としているかもしれぬと思うと、何日も前の新聞を再び読み返したりしています。
 それにしても夥しい数の死者……。当日、津波が家や車を浚って行くのをテレビで視ながら、避難できなかった人がこんなに多かったとは思いもよりませんでした。

 地震がきたのは、塩茸をつくろうと椎茸とエリンギを千切りにしているときでした。
 我がアパートは地盤が弱いのか建て付けが悪いのか、大型トラックが通ると、ギシギシと音を立てて揺れます。最初はそのテの揺れだろうと思いました。しかし、そのテの揺れなら、一秒か二秒で収束します。
 大型トラックが隊列を為して、次から次へとやってくるようでした。
 恐怖というより不気味でした。あとで、とっさに怖いと思うものより、そういう不気味さのほうが怖いものだったと知らされました。

 茸を湯通しするために点けていたガスの火を消し、台所を出てダイニングルームに回り込み、食器棚を押さえました。押さえたり支えたりすべきものはいろいろありましたが、とっさには何をしたらいいのかわからず、食器棚を押さえたのです。

 何十分も揺れていたように思われました。
 収まったように思えたので、居間に行くと、姿見が倒れ、柱に掛けていた掛け時計がぶっ飛んで、床に叩きつけられていました。
 姿見はチェストの角にぶつかったはずなのに、幸いなことに割れませんでした。掛け時計は縁が欠けましたが、動きつづけていました。見渡したところ、ほかに被害はないようです。

 夕方、余震も間遠になったようであったし、買い物の必要があったので、外に出ました。
 富士川べりに降りると、常磐線を東京方面に向かって歩いている人影が見えました。眼鏡をかけていなかったので、人が歩いている、とわかるぐらいで、服の色まではわかりません。てっきり線路を点検をしているのだと思いました。
 ところが、近づいて行くと、線路点検にしては歩く人たちの数が多過ぎる。それに作業服姿ではないことがわかってきました。



 跨線橋に上ってカメラを構えました。上方が柏方面。電車は北小金の駅から1キロほど柏寄りで停まってしまったみたいです。
 小さな男の子を抱いて歩いている父親がいました。すぐ後ろを勤め人ふうの男性がベビーバギーを持って歩いていました。
 行きずりの関係のように見えました。日本もまだ棄てたものではないと、ちょっとした感動に涙がこぼれそうになりました。

 



 いつもは人のいない北小金駅のコンコースがかなり混雑の様相を呈していました。



 前ヶ崎の香取神社では燈籠が倒壊していました。

 翌日、もっと重大な被害があったことに気づきました。
 な~んと、落下していた掛け時計は(多分)パソコンのモニタに当たって液晶画面を破壊したあと、床に落ちていたのです。
 当たったのは右隅だったので、その日のうちは気づきませんでした。その夜、短時間であったと思いますがパソコンを点けており、支障はなかったのです。

 気づいたのは翌朝です。
 いつまで経ってもパソコンが立ち上がらない。
 電源が入っていなかったのかと思えば、電源ランプは点灯しているし、モータも回って、パソコンは立ち上がっています。地震のショックで接続ケーブルが緩んだのかと思って、すべて外して繋ぎ直しましたが、画面は明るくなりません。
 よくよく見ると、モニタに小さな罅(ひび)割れが入っていました。ここにぶつかったものは何か……と考えても、ペン立てが倒れていたのを除けば、何もない。すなわち掛け時計しかないのです。
 画面が見えないので、パソコンの強制シャットダウンを何度か。ダメだと諦めても諦め切れず、夜も何度かチャレンジ……。諦めるしかなくなりました。

 そのモニタを買ったのは数年も前のことなので、値段がいくらであったか憶えがありませんが、少なくとも数千円で買えるものではないだろうと考えると、心は沈んでしまいました。
 壊れかけていたのに、いまだに棄てずにいたノートパソコンを引っ張り出しました。いざとなればこれで凌ぐほかないが、こちらも液晶の具合が悪く、ときどき思い出したように明るくなってくれるだけなのです。

 モニタを買ったのと同じころ、中古のネットMDを買った店が北千住にあったのを思い出したのは地震から二日目、日曜日の夜でした。翌朝、電話を入れたら、15インチのモニタなら一台だけ在庫があるという。価格は五千円以下でした。
 その値段なら買えなくもないが、仕事捜しは諦めて、代わりにつましい生活を送るのだ、と決意を新たにしたばかりです。我ながら、じつに情けないことながら、五千円の出費は沈痛です。

 家にいることが多くなると考えると、パソコンが宝の持ち腐れになってしまうのは耐えがたい。かといって、五千円……。
 鈍い頭を巡らせたところでなんの解決策も生まれませんが、究極の決断を迫られているような気になると、夜も眠りが浅い。
 ウトウトしかけたところに、ビェーッビェーッビェーッと携帯電話の緊急地震速報が鳴って目が覚めます。
 震源が千葉県東方沖だったり茨城県沖だったりすると、鳴ると同時に揺れがきますから、何かするという時間もありません。

 エェーイ、あとのことはなるようになれと、モニタを買ってしまう決意を固めた月曜日、常磐緩行線は計画停電で松戸以北は運休。翌火曜日も運休。
 運休だと思っていた火曜日の午後、買い物に出たら、前日は閉まっていた駅のシャッターが上げられて、電車は動き出しているようではありましたが、一時間に一本程度、とのことだったので、私にとっては緊喫の課題ではあっても、不要不急のお出かけは自粛。

 昨日、莫迦みたいな風が吹くのと、電車は動いているようでも本数が尠ないということだったので、出かけるのをためらっていましたが、一週間近くもパソコンを見ていないという寂しさに耐え切れず、やっと買いに行ってきました。

 こうしてようやく復活しましたが、身体のほうはどうも情緒不安定気味で、いつまでも身体が揺れているようなのです。地震酔いという症状であるようです。

 いまのところ、私の存じ寄りの中では、知人の母上(福島県)が亡くなられたと知りました。
 それと去年二月、九十九里浜矢指ヶ浦で出会った白の野良猫殿。浜は津波に襲われたようなので、多分……。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深川寺巡り(1)

2011年03月10日 19時10分29秒 | 寺社散策

 一昨日、薬師詣でをして帰ってきたら、聞き憶えのない会社名で留守電が入っていました。
 明日面接、といっているので、ストックしてある求人票を見たら、確かに履歴書を送っていましたが、もう三週間近く前のことでした。備考欄をよくよく見ると、書類選考期間は二週間と書いてありました。
 手許には数え切れないほど(と、までいうのはオーバーですが)のハローワークの求人票があるので、どんな会社に、いつ履歴書を送ったのか、な~んてまるっきり憶えていません。
 大体若いころの職探しと違って、骨をうずめる、などと考えているわけもないので、執心が薄い。

 不思議なものです。
 やる気満々だった求職活動初期のころは、履歴書を送れど送れど、歯牙にもかけられぬ、という空振り三振ばかり。
 あまりのことに、職探しは諦めて、雀の涙ほどの年金と、ひょっとしたら依頼があるかもしれぬシルバー人材センターからの臨時の仕事に一縷の望みを託して生きて行くべく、生活を事業仕分けして、厳しく見直そうと思い始めた矢先に、「乞うご来社」という連絡が立てつづけに入るようになったのです。

 ところが、私の気分はすでに隠居モードに入ってしまったあとで、すわ、と思えど、モードは簡単には切り替わらない。
 仕事が見つかるのに越したことはないのですが、気に懸かるのは前回の面接でも訊かれた健康のことでした。
「ちょっと悪い」と答えれば、「どこが?」と突っ込まれるだろうから、自分では明るい顔をつくったつもりで、「万事良好」と答えるのですが、前向きな嘘ではあっても、嘘が度重なると少し後ろめたい気分になってきます。そういう心のせめぎ合いは一応押し殺すことにして、まだラッシュアワーの余韻の残る電車に乗って面接先へと向かいました。

 面接先は茅場町だったので、終わったあとは深川を歩くことに決めていました。

 一昨年の四月、深川を歩いたことがありますが、首尾上々とはいかなかったので、再度訪ねるつもりでした。それが、仕事が忙しかったり、病気をしたりで、いつの間にか二年も経ってしまいました。

 


 久しぶりに渡る永代橋と我が母なる隅田川です。隅田川を見ると、つい東京に帰りたい、と思ってしまいます。

 


 永代橋東詰でもう桜が咲いている! と思ったら大寒桜でした。



 深川寺巡りの最初は法乗院閻魔堂です。清澄通りと葛西橋通りの交差点にあります。真言宗豊山派の寺院。
 寛永六年(1629年)、富吉町(現在の江東区永代一丁目と佐賀一丁目あたり)に創建されたのが始まり。

 閻魔像そのものは戦災で焼けて、現在の像は平成元年に再建されたもの。高さは3・5メートルもあって、ハイテク閻魔と呼ばれているそうな。
 どこがハイテクかというと、お賽銭を入れると、照明が灯り、スポットライトが回って、四十種類あるというありがたいお言葉が流れてくるのだそうです。賽銭箱は願いの筋により、入れる場所が違っていて、二十近くもあるらしい。
 どーれ、と思ったのですが、 残念ながら御開帳は一日と十六日でした。



 閻魔堂の北隣には浄土宗の心行寺。
 元和二年(1616年)、八丁堀に創建。寛永十年(1633年)に現在地に移転。岩国藩主で、錦帯橋を架けた人として名高い吉川広嘉の正室・養源院が開基。深川七福神の一つ・福禄寿が祀られています。



 江戸深川資料館入口までしばらく清澄通りを北上します。
 閻魔堂から二本目の路地を入ったところにあったお寺です。画像は本堂ではなく、檀徒用の会館ですが、これがお寺かと思えば、かなりアヴァンギャルドです。我が宗派・曹洞宗の増林寺。



 清澄通りにはこんなレトロな建物も遺っています。この建物の後ろは清澄庭園。庭園に沿って200メートルほど、ほとんどは建て替えられていますが、こういう様式を守った建物がつづいています。



 深川江戸資料館手前に、常夜燈に縄暖簾という粋な造作が見えました。巾着とか風呂敷を売る小間物屋ふう土産物店かと思ったら、答えは公衆トイレ。

 


 浄土宗霊巖寺。関東十八檀林の一つ。松平定信廟があることで著名な寺院です。
 寛永元年(1624年)、霊巖雄譽上人が隅田川河口を埋め立てて(霊岸島)築いたのが草創です。明暦の大火(1657年)後、現在地へ移転。このあたりの地名を白河というのは松平定信が白河藩主であったからです。



 霊巖寺の地蔵菩薩。像の高さは2・73メートル。江戸六地蔵の一つとして享保二年(1717年)ごろに建立されました。このあと訪れる永代寺にも六地蔵の一つがありましたが、消滅してしまったため、現在都内に遺されているのは五体です。



 霊巖寺前にある正覺院の本堂。
 寛永六年(1629年)、霊巖寺開山の霊巖上人が霊巖寺の塔頭寺院として開山。明暦の大火後、霊巖寺とともに当地へ移転しました。寺域が狭いので、カメラを引くことができません。



 かつては霊巖寺の参道であったのであろう道を挟んで、正覺院と向かい合わせに長専院出世不動。右手に長専院の本堂がありますが、関東大震災までは別々のお寺だったそうです。



 深川江戸資料館。初めて入ったときからすでに十三年。前回きたときも通過、今回も通過。



 深川江戸資料館前にある深川飯の深川宿。
 ちょうど昼時でありましたが、深川を歩くのに備えて握り飯を用意していました。前にきたときは昼飯前でありましたが、まだ昼時ではなかった。
 結局、私とは縁がないのか、いまに到るも深川飯を口にしていません。
 江戸前の漁師が考案した味と御上とはそぐわないような気もしますが、深川飯は農水省が「郷土料理100選」に選定しています。
 もう一つ……。素人の私がつくるものとは大違い、なのは当然でありましょうが、要は浅蜊(アサリ)の味噌汁のぶっかけ飯です。その丼に漬物、吸い物、甘味をプラスしただけで、2000円近い値段というのは、観光地価格だからでしょうか。食べもしない者が文句をつける筋合いではないが……。



 深川江戸資料館近くの歩道にはさまざまな絵タイルが埋め込まれていました。なにゆえに桔梗の花なのかはわかりませんが、うれしかったのでカメラに……。



 済生院雙樹寺。浄土宗の寺院。詳細は未詳です。

 


 攝心院(上)と潮江院(下)。道を挟んで向き合っています。ともに浄土宗の寺院ですが、画像上の潮江院が元は霊巖寺の塔頭であったということ以外、こちらも詳細は未詳。



 前回の深川訪問で目的の一つと定めながら、歩いているうちに遠ざかってしまったので、寄ることがなかった雲光院です。

 雲光院とは徳川家康の側室であった阿茶局こと須和(1555年-1637年)の法名です。
 二十五歳のとき、家康の側室となりました。子をなさなかったのにもかかわらず、家康の信頼が篤く、戦場にも出向いているほどです。大坂冬の陣では本多忠純とともに和議の交渉に当たり、豊臣秀頼母子から誓紙をとるという活躍をしています。
 家康の没後、側室は全員落飾しましたが、阿茶だけは家康の遺命があって、髪を下ろすことが許されなかったそうです。
 秀忠の娘・和子が入内するときは母親代わりとして上洛。後水尾天皇から従一位の位を賜り、神尾一位、あるいは一位の尼と呼ばれるようになりました。神尾とは家康の側室となる前、神尾孫兵衛(死別)と結婚していたことがあるからです。



 阿茶局の墓です。
 墓石の古さだけでなく、独特の形をしているので、すぐ見つけることができました。
 春日局より二十四歳も年上ですが、死んだのは六年早いだけです。お参りしながら、ふと二人の仲はどうだったのだろうかと思いました。

 このあと、深川訪問の第一の目的である矢部駿河守定謙の墓(淨心寺)を訪ねます。〈つづく〉

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2011年三月の薬師詣で・葛飾区

2011年03月08日 21時53分09秒 | 薬師詣で

 八か月間に及んだハローワーク通いも今日が最後になりました。
 今日八日は薬師如来の縁日でもあります。朝イチでハローワークへ行くことになっていたので、ハローワークのある松戸駅の先、千住とか日暮里あたりにお薬師さんのおられるところはないか、とインターネットをさまよっていたところ、松戸の一つ先・金町に多田薬師と呼ばれる仏様を祀るお寺があるのを知りました。



 金町駅で降りて北口に出ました。



 駅から徒歩十分。このあたりのはずだが、と思ったところで、イヤに賑やかな声がすると思ったら、幼稚園がありました。お寺があることはありましたが、併設の幼稚園のほうが断然広く、併設されているのはお寺のほう、という感じです。
 



 墓所の前にズラリと並べられたママチャリ。



 縁日なのに、薬師如来が安置されているはずの本堂は扉が閉じられたままでした。
 写真はわざと避けて写しましたが、周辺には先のママチャリの持ち主たちがたむろしていました。
 時間は朝十時。園児たちが帰るのを迎えにきたのにしては早過ぎます。何をしているんだろうという興味なぞないが、寺の関係者でもいないか、と思って眺めていても、ともかく女ばかりで男の姿がない。

 門前に一年の行事が貼り出してあったので眺めてみると、薬師如来の「や」の字もありませんでした。縁日だからといって特別なことはしないのかどうか、ママチャリ軍団に訊ねてみても仕方がなかろうと、御堂の中におわすであろうお薬師さんに手を合わせて、依然として疑問は解けぬままに引き揚げることにしました。
 

 多田薬師とは通称で、寺号は東江寺です。私が巡る地域ではあまりお目にかからない天台宗のお寺です。
 創建は天正十一年(1583年)で、創建以来、現在の墨田区東駒形にありましたが、大正十二年の関東大震災で被災したあと、帝都復興計画により、昭和三年に現在の葛飾区東金町に移ってきました。
 本尊の薬師如来像が平安時代中期の武将・多田(源)満仲(912年-97年)の念持仏であったことから、多田薬師と呼ばれてきたのです。満仲は大江山の酒呑童子を退治したので有名な源頼光のお父さんです。



 東江寺から徒歩十分足らずのところに南蔵院があります。
 貞和四年(1345年)、在原業平が建てた業平塚(現在の業平橋)のかたわらに創られたのが始まりです。寛永年間(1624年-43年)、本所中之郷(墨田区吾妻橋)に移転。このお寺も関東大震災で罹災し、昭和四年にこの地に移転しています。




 山門を潜ると、本堂までまっすぐ伸びる石畳の参道。この参道が業平橋で、左右に延びる白御影の砂利が隅田川に見立ててあります。

 このお寺も南蔵院という院号より、縛られ地蔵のほうが有名です。
 そのいわれは「大岡政談」にあります。
 八代将軍吉宗の治世の享保年間。ある夏の暑い日のこと、日本橋のさる呉服問屋の手代が、荷車に反物を積んで南蔵院の前にさしかかりました。ここらで一服と境内の公孫樹の木陰で休むうち、ついウトウトと眠り込んでしまいました。目覚めたときには、反物が車ごとなくなっていたのです。
 訴えを承けた南町奉行所では名奉行の誉れ高い大岡越前守がじきじき取り調べに当たり、「寺の門前に立ちながら、泥棒の所業を黙って見ているとは門前の地蔵も同罪なり。ただちに縄打って召し捕って参れ」と配下に命じます。

 縄でグルグル巻きにされた地蔵は江戸市中引き回しの上、奉行所に引き立てられることになりました。
 野次馬連中はどんな名裁きが始まるかと奉行所に雪崩れ込みました。越前守は頃合いを計ると、門を閉めさせ、野次馬たちに「お白州へ乱入するとは不届至極。その罰として反物一反の科料を申し付ける」と鶴の一声。

 奉行所にはその日のうちに反物の山ができました。その反物の山の中に盗品があって、江戸じゅうを荒らし回っていた大盗賊団が一網打尽になった、というお話です。

 越前守は地蔵の霊験に感謝し、御堂を建立して盛大に供養したということです。

 以来「縛られ地蔵」として人々の信仰を集めるようになり、願い事をするときは縄で地蔵を縛り、願いが叶えば解く、という風習が生まれたのだそうです。

 ただし、「大岡政談」は中国・北宋時代の文官・包拯(パオチョン)の逸話と似た話が多く、史料的価値なし、というのが通説です。
 第一、寺に関することは寺社奉行の管轄で、町奉行が踏み込むことなどできません。いわんや仏像を縛って市中引き回しにすることをや、です。

 



 いまも縄でグルグル巻きにされている縛られ地蔵。
 願をかける人は画像下の願かけ縄(¥100)をいただいて、思い切りふん縛るのです。力が強ければ強いほど願いも叶う……とは、どこにも書いてありません。

 この地蔵尊を見たら帰るつもりでしたが、スタートが早かったので、十時半にもなっていませんでした。わずか700メートルと近いので、都立水元公園を覗いてみることにしました。
 



 水元公園の入口です。
 浅草の住民だった2001年の夏、何を見てこの公園のことを知り、何を見ようとしてきたのか、とんと記憶にはありませんが、当時、一緒に暮らしていた相方とこの公園にきたことがあります。
 記憶が曖昧なのは十年も昔だからというだけではなく、その日が問答無用の暑さだったせいもあります。私も相方も真夏に生まれているのに汗っかきで、公園に着いたときはすでに汗みずくでした。



 建物を目にしたりすると、断片的ながらも思い出すことがあります。正面入口にあった売店。あまりの暑さに耐え切れず、到着早々ここで缶ビールを買って呑んだことを思い出しました。



 園内にあるレストラン・涼亭。
 ここでも確かビール……。ビールのことは思い出しても、一体何を見にきたのだったか。依然として思い出せません。



 小合溜(こあいだめ)に架かる水元大橋。小合溜とは古利根川の一部が残されたもの。対岸は埼玉県三郷市です。



 の木(ハンノキ)。この公園のシンボルで、園内には千三百本も植えられているそうです。
 



 水元さくら堤。
 徳川吉宗が江戸川の外堤防として築かせたのが前身。桜が植えられ、桜土手として江戸庶民に親しまれていたようです。
 昭和二十二年九月のカスリーン台風で堤防は決壊。桜も枯れて、往時の面影が失われかけていましたが、昭和四十七年から桜の植樹が始められ、現在の姿に……。



 金町駅へ戻る道すがら偶然通りかかった金蓮院です。
 真言宗豊山派の寺院で、永正年間(1504年-20年)の創建。工事中で、山門から入ることはできなかったので、横合いからお邪魔しました。
 



 境内に聳えるラカンマキ(羅漢槇)。
 樹高は10メートル余、根周り3メートル、樹齢は四百~四百五十年といわれています。ラカンマキは高くても樹高5~6メートルという樹なので、10メートルを超えるのは非常に珍しいとされています。

→この日の参考マップです

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

啓蟄

2011年03月06日 18時55分30秒 | のんびり散策

 冬がきてから立ち枯れていた竜胆(リンドウ)に芽が出ました。
 乱視の私が眼鏡を外しても緑色の芽ははっきりと見えるのに、我がカメラに収めると、何が映っているのかわからなくなり、さらにブログに取り込むとまったくわからなくなるので、画像は割愛します。

 スノードロップは四輪目が咲きました。地植えにしてしまったので、下を向いたまま顔を見せてくれません。じつに健気で奥ゆかしい花です。

 昨日も今日もいい天気だったので、布団を干しました。
 夜はさすがに冷え込んできますが、お風呂に入って身体を温め、冷えないうちに布団にもぐり込むと、布団はほんのりと暖かさを保っていて、気持ちがいい。
 顎のあたりまで引き寄せると、お日様の匂いがします。
 暑くなればなおのこと、少しでも暖かくなると、こういう楽しみはなくなります。冬は寒さが身体にこたえるので好きではないけれど、陽に当てた布団のぬくもりは寒いときならでは、の極楽です。

 ところが、昼間は暖かくなっても、夜明け前の気温は我が地方ではまだ氷点下です。
 朝日は七時前に出るというのに、昨朝も今朝も十時を過ぎないと暖かいと感じる気温にはなりません。ことに私は体調が以前とは違うので、十時ごろまではできるだけ動かぬようにしています。

 昼になるとようやく暖かくなって、外を歩くか、という気になります。久しぶりに富士川沿いを散歩することにしました。



 庵を出たら沈丁花(ジンチョウゲ)の甘い香りが漂っていました。



 こちらはそろそろ桜と選手交代です。花の少なかった季節に咲いていてくれてありがとう。

 とくにどこを目指す、というアイデアも浮かばなかったので、万歩計が五千歩を示すところ(そこまで行って帰ってくると、一万歩になる)まで行ってみようと歩き出しました。



 今日昼の富士川上空です。夕方には曇ってしまったので、少し雲があります。



 枯れ草色一色だった土手には若草が萌え出て、うっすらとした緑色に変わってきました。
 ただし、川べりは風が冷たい。
 富士川と坂川との合流点に架かる御體橋(おたいばし)で坂川を渡ると、流山市です。しかし、この時点では庵を出てからまだ二十分足らず。二千歩しか歩いていません。

 のんびりと釣り糸を垂れている人と、のんびりと泳ぐカルガモの群れを交互に見ながら、しばし思案ののち、去年暮に訪ねた天形星(てんぎょうせい)神社まで行くことにしました。
 御體橋から二十五分の行程です。ここでようやく五千歩に達しました。

 


 天形星神社の拝殿と拝殿手前にある岩本大明神(右)の祠。

 岩本大明神とは江戸時代の旗本・岩本石見守正倫(まさみち)のことです。正倫の姉・富子が十一代将軍・家斉の母ですから、将軍の叔父ということになります。
 しかし、そういう縁故で出世して、挙げ句、神様として祀られるようになった、というのではありません。軍馬を育てる牧の監督官として指揮をとりながら、この地方の農民たちにとっては善政を敷いたので、農民たちから神と崇められるようになったのです。



 天形星神社前には黒猫殿がいました。前に訪ねたときにも会っています。

 最初、テキは知らんぷりをしていました。私のほうでも被毛も同じ、いる場所も同じですから、前に見た黒猫殿に違いないとは思いながらも、一度見ているだけですから、絶対に同じ猫殿だ、と断言する自信はありません。
 寝そべっている植え込みに近づき、鞄から餌の入ったタッパーウェアを取り出して、カタカタと音をさせると、知らんぷりだったのが一転、ニャーと鳴いて近づいてきました。
 家に帰ってから調べると、前にきたのは去年の十二月四日。三か月前です。よくぞ憶えていてくれました。

 餌を食べるのに一心不乱で、こちらを見向きもしない黒猫殿のために、餌の山をもう一山つくっておいて、天形星神社をあとにすると、かなり急な下り坂があり、すぐ急な上り坂があります。上り詰めたところに墓石が見えました。



 アレ、こんなところにお寺があったかしらん、と訝りつつ足を踏み入れてみたら、近くにあるはずの金乗院(こんじょういん)の墓所でした。お寺は少し離れたところにあって、去年八月に訪ねていました。

 墓所は高台の上にあります。風雨を遮るものが何もないためか、墓石はことのほか風化が烈しいようで、刻まれた文字はほとんど読みとることができません。後ろに回ると、一つだけ「明和二年(1765年)寂 松ヶ崎村云々」と読み取れる卵塔がありました。僧侶の墓ですが、法名は読めません。



 金乗院。真言宗豊山派のお寺。無住です。

 金乗院のある高台を下って行くと、野々下水辺公園脇に出ました。
 坂川の始まるところです。坂川沿いに下って行けば、じきに富士川の合流点に出て、くるときに渡った御體橋を過ぎて、富士川沿いに道を辿ると、やがて我が庵……という段取りですが、セカセカ歩いていると汗をかくほどの暖かさだったので、脇道にそれて見知らぬ道をグニャグニャ、と。
 川に向かって高台を下っているので、川から離れると、また上り坂です。



 わりと交通量の多い道路の向こう側、地図のようなものが見えたので、近づいてみると、「芝崎小鳥の森」とありました。



 流山市が管理していて、十種類ぐらいの鳥が観察できるようですが、この日は何もいないようでした。管理しているといっても、所有者から土地を借りて公園にしているらしいので、いわゆる市立公園とは趣が異なるようです。
 そのせいかどうか、径らしきものがあることはありますが、落ち葉に埋め尽くされていて、径の消えかかっているところもありました。



 正面入口から入りましたが、「→南側入口」という標示に従って歩いて行くと、急な下り階段の先にはこんな入口。この先は畑の中を通る径になっていて、標識は何もないので、知らない人は入ってこれません。



 球春到来。前ヶ崎の野球グラウンドでは少年たちの試合がありました。

↓この日の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map85491.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多忙な一日

2011年03月05日 21時52分19秒 | 日録

 一昨日はひと月に一度の通院日。朝八時に湯島の病院に着けるよう、六時台の電車に乗りました。
 いつもなら普段着の上にコートを羽織って行くのですが、昨日はスーツを着て、ネクタイを締めて……靴もフォーマルな革靴。
 なんとなれば、診察を終えたあと、面接があったのです。それも、二件つづけて……。
 履歴書は何通送ったか、すでに憶えがありません。
 大概は「残念ながら……」という書面を受け取るか、「折角ご応募いただきましたが……」という電話をもらうことでケリがつくので、最初のころこそワクワクしながら返辞を待っていましたが、途中からは惰性で履歴書を送りつづけていたようなものです。
 ……なので、面接! という電話がくるとビックリしてしまいます。それも二件も! 同じ日に!……。
 物理的ではなく、精神的に多忙な一日になりました。

 面接は二時に東京・西新宿で一件。四時に松戸の馬橋で一件。
 馬橋のほうは一時、あるいは三時というのが先方の指定でした。
 新宿から馬橋までは電車の乗り継ぎがすんなり行ったとしても、一時間かかります。間に合う道理がないので、都合が悪いと断わろう(断われるような境遇でも身分でもないのですが)と思ったら、「何時ならくることができますか」といわれ、とっさに「四時なら」と答えました。しばらくの間を置いて、「いいでしょう」ということになったのです。

 前日、急いで二通の職務経歴書を書き、無精髭を剃りました。
 前に面接に出向いたのは一月なかばでした。髭はそのときに落として以来、伸ばしたままでした。通院も重なってしまったので、遅くとも六時には起きられるように眠らなくてはなりません。前夜は結構慌ただしい夜になりました。

 さて、当日 ― 。
 少し寝不足だったので、朝は食欲が湧かず、インスタントのポタージュスープだけ。家を出るときの気温は0・3度。前日の同じ時刻と較べると、4度も低い。首にはスヌードを装着し、その上にマフラーも巻き、そろそろしまうころかと考えていた厚手のコートを着ました。
 この日は終日北寄りの風でした。家から最寄りの北小金駅へは南に向かって歩くので、風の冷たさはそれほど感じません。しかし、湯島から病院に向かうときは春日通りを西に向かって歩くので、ほっぺたを休む間もなく叩かれつづけているような効き目があります。
 この日の目的が通院だけだったら、耳まで隠せる帽子を被ってきたのですが、スーツにニットの帽子もおかしいよなぁ、と出がけに思案して、被らなかったのです。

 八時に着いて採血。九時から検査結果の説明と診察。十時前後に二十八日分の薬をもらって予定終了と、いつもどおり時間は淡々と過ぎて行きます。血液検査の結果は一向に改善の兆しを見せません。かといって、悪くなっているわけでもないので、また二十八日後に通院です。

 面接までポッカリと時間が空きました。暖かければどこか歩いてみようと思っていたのですが、玄関を出てみたら、陽は燦々と降り注いでいるのに、相変わらず冷たそうな北風です。待合室に戻ってしばらく本でも読むことにしました。
 本、といっても待合室には雑誌しかないので、有意義な時間潰しにはなりません。十二時を少し過ぎたころに腰を上げ、本郷三丁目のモスバーガーで昼飯を済ませて新宿に向かいました。



 かつては根城同然にしていた新宿駅の西口です。何年ぶりにきたのか、とっさには思い出せませんが、見た記憶のない紡錘形のビルがありました-あとで調べたら東京モード学園でした。
 目白に棲んでいたころは、勤め人でもないのに池袋-渋谷間の定期券を持っていて、原稿書きに倦んだり疲れたりすると、新宿や池袋へ行って、書店を覗いたりコーヒーを飲んだりしたものでした。とはいえ、いつも地下街を通ってビルからビルへ移動していたので、外へ出て景色を眺めたことはあまりありません。
 外を歩くとしたら、夜だけ。新しいビルが建っていたとしても、記憶にないのは当然です。
 それでも慣れ親しんだ街だけに、何年もの空白があっても違和感はありません。人の流れというものを考慮せず、自分が歩きたい方向へ歩くのだ、見たいものがあれば突然止まるのだという、すっとこどっこいやおたんこなすが多いのも、いかにも新宿らしい。
 愛すべき街です。  

 最初の面接を終えて地下鉄の新宿駅へ急ぎ、丸ノ内線の電車に乗ったのは二時半過ぎ。国会議事堂前で常磐線直通の千代田線に乗り換えるのですが、馬橋には多少なりとも余裕を持って着けるという時刻でした。
 ヤレヤレ……と思いながら北千住あたりまできたころだったでしょうか。車掌のアナウンスが流れて、柏駅で人身事故があって、常磐線は運転を見合わせている、というのです。
 改めて聞き耳を立てると、ただ人身事故というだけで詳細はわかりませんが、事故があったのは快速のプラットホームのようです。
 私が乗っていたのは緩行線なので、影響なし、と思いました。げんに電車が北千住を出たあとの車内アナウンスでも、「この電車は常磐線直通の我孫子行」といったのです。

 ところが、次の綾瀬に着くまでに、電車は松戸止まり、と乗客の都合も聞かずに勝手に決めた輩がいました。人身事故とは関係がないはずの緩行線の電車が「危険防止無線(?)」を受信したので、快速電車と同じように松戸以北の運転を見合わせている、というのがその理由です。
 馬橋には三時半過ぎに着くはずでした。
 参ったなぁと思いながら、綾瀬で降りて面接先に連絡を入れました。折悪しく担当者は四時半に会社を出なければならない用がある。追って連絡するので、日を改めて、ということになりました。 

 代わりに猫日和の一日となりました。
 長い時間外出していたわりには歩いていなかったので、家に帰るまでに、北小金駅周辺をグルリと散歩したのです。



 ときおり行く湯屋の近くで。
 一番手前、うなじのあたりが黒いのがいつも私に挨拶をしてくれる猫殿、一緒にいるのが前回初めて出てきておやつを食べてくれた猫殿です。
 左の黒は今回初めて出てきた猫。私がおやつを置いてやろうとすると、すぐ後ろの車の下に隠れて、「シャーッ」と威嚇する声を立てるので、「おまえだけにはやるもんか」と思いましたが、おやつはすでに地面にこぼれていました。
 会う猫殿すべてに歓迎の挨拶してもらおうとは考えていないので、威嚇されようが知らんぷりされようがいいのです。ただし、考えを改めない限り、私がおやつを置くのは右の二匹だけです。



 ふと見ると、どこからかもう一匹現われました。
 いままで見たことのない猫殿ですが、首輪をしていました。前の三匹も明らかに飼い猫ですが、首輪はしていません。「何をしているんですかな?」という感じで、おやつを食べている猫たちと私をとっかえひっかえ見ながら現われました。

 いつもとは逆方向から香取神社に向かうと、数十メートル先から茶色いものがポンポンと道路を跳ねてくるのが見えました。小春です。
 うさ伎は10メートルとちょっと離れていると、なかなか私には気づきません。よって猫は目がよくないと思っていましたが、小春は数十メートル先から私がきたとわかるあたり、どうやらそうでもないようです。それとも個猫?差があるのでしょうか。



 私の足許にまつわりつく小春。
 すっかり仲良しになりました。これでうさ伎がいてくれたら、同じ日に全員に会う、という初めてのことが起きたのですが、そうは問屋が卸さないようです。

 日延となった面接のほうですが、翌日(すなわち昨日)、電話があるかと思いましたが、ありませんでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする