桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

最後の真夏日

2020年09月18日 21時40分23秒 | 日録

 昨夜から窓を開けたままで眠りました。
 日付が変わってから早朝六時過ぎまで、気温はずっと27度近く。一週間ぶりの熱帯夜になりました。そして昼過ぎには30度を超えて、一週間ぶりの真夏日 ― 。
 一旦涼しくなったあとで暑さが戻ってくると、それほど暑くなくても身体には堪えるものですが、ときおりビュービューと鳴るほど強い風が吹くので、暑いような、それほどでもないような……。
 今日十八日は観音菩薩の縁日でもあります。いつもなら慶林寺にお参りするのが私の一日の始まりですが、毎月十五日と今日十八日、そして二十七日の三日だけは東漸寺参詣を一日の始まりにしています。



 東漸寺の境内は梢の高い松や枝垂れ桜の緑が目には眩しいほどに青々としています。



 仁王門前まで歩いて、ふと足を止めました。

 

 参道に1センチほどの青い実が落ちていたのです。見上げた真上には樹高5メートルほどの樹があって、この樹が落としたとしか考えられませんが、いまのところは名前がわかりません。



 観音様詣でにきたのですが、まずは本堂の阿弥陀様にお賽銭をあげて参拝します。観音堂には賽銭箱がないからでもあります。

 


 観音堂に祀られているのは聖観音坐像。



 東漸寺参拝のあと、北小金駅前のスーパーで買い物を済ませて一度帰ります。一休みしたら慶林寺参拝に出かけるつもりでしたが、扇風機を廻したまま、ちょっとだけ休むつもりで身体を横たえたら、いつの間にかまどろんでいました。

 慶林寺参拝は夕方になってしまったので、山門、通用門(右横)とも閉ざされてしまっていました。



 東漸寺と違って、慶林寺の観音様の前には賽銭箱があります。



 こやつ ― 我が庭にはびこるヤブカラシ(藪枯らし)です。
 何日か前、テレビを視ていて、私が初めて名前を耳にした野草があり、それが食用にもなる、ということを識りました。すぐメモをしておけばよかったのですが、何十年も文筆業を生業としてきたので、一体何本あれば気が済むのですか、とほかの人なら呆れるだろうほどの万年筆、サインペン、ボールペンなどをペントレーにかき集めておきながら、メモ用紙は少し離れたところに置いてあるので、ちょっと立ち上がるということが億劫だし、面倒臭い。
 その代わり、草の名前を頭に叩き込んだつもりでいましたが、しばらくしたら、すっかり忘れていました。ダメでした。もう若くはないんだぞ。

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2020年09月09日 20時17分05秒 | 日録



 夕方、富士川河畔から東南の方角を眺めたときの雲です。
 なんとか三兄弟 ― 「
なんとか」のネーミングはこの三つの雲が形を崩す前に思いつき、まさにそうだと思ったのですが、なんとか、と納得したあとは度忘れして、いまになっても思い出せませんが ― 真ん中の雲は、おっ! と思ったときは、頭の部分がもっと丸くて大きくて……タイヤメーカーのミシュランマンのようだったのですが、トートバッグに入れたカメラを取り出すのに手間取っているうち、なんだかよくわからないものに……。



 東の空にはこんな雲。人間の横顔のようでもあり、ワイヤードテリヤのようでもあります。

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東漸寺骨董市

2020年06月27日 22時39分15秒 | 日録

 今日二十七日は私の月命日ならぬ月誕生日です。
 毎月の習わしで、日課の慶林寺参拝は午後に廻し、念持仏である阿弥陀様をお祀りしている東漸寺へ先にお参りに行くことにしています。祥月命日という言葉に照らし合わせれば、来月の月誕生日が祥月誕生日。

 我が地方は昨日今日と二日つづけて真夏日です。



 たまたま今日は第四土曜日に当たったので、東漸寺境内では骨董市が開かれていました。



 しかし、時刻は昼も近いというのに、見物客は疎ら。



 東漸寺にはなんの注意書きも出されていませんが、テレビで得た情報で、手水を使うのは避けたほうがいい、と……。確かにだれがさわったものかもわからず、水で拭う程度ではウイルスも落とせないと思うので、このところ口を雪ぐのはもちろん、触れるのも遠慮しています。

 

 本堂にお参りしてお賽銭をあげたあと、東漸寺開山の經譽愚底上人のお墓にもお参りします。



 画像中央に斜めになっている白いもの……煙草の吸殻です。
 歴住の墓所は一般の墓地の中にありますが、区切られた一角です。そんなところへわざわざやってきて煙草の吸殻を棄てて行く罰当たりがいます。



 本堂後ろにある林ではまだ鶯が囀っていました。



 午後、日課の慶林寺参拝。



 三日前、三つだけ咲いたボタンクサギ(牡丹臭木)はいっぺんに花盛りになっていました。そこへ大きなカラスアゲハ(烏揚羽)がヒラ~リ、と……。

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メリークリスマス

2019年12月24日 17時22分56秒 | 日録

 暗くなるのを待って、我が庵近くにある家のクリスマスイルミネーションをカメラに収めるべく出かけました。



 北小金駅前にもイルミネーション。



 私がいまの家の住人となってから、ちょうど十年目。この家ではその年にすでにイルミネーションが飾られていたように思いますが、年々エスカレートしているようです。



 行き止まりの路地の一番奥の家。道路からは見えにくいので、いつから始まったものか。今年初めて気がつきました。



 我が庵のメリークリスマス。

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入院疲れ

2012年07月06日 20時48分09秒 | 日録

 わずか二日間の入院でしたが、すっかり疲れ果てて帰ってきました。とりあえず大事はなかったというので、気も緩んだのかもしれません。
 退院してきた四日の我が地方の最高気温は、今年初めて記録する真夏日で30・4度。翌五日は28・3度と下がりましたが、湿度が高かったので前日より暑い感じでした。 

 病院から帰ってくると、郵便受けに市役所からの封書が入っていました。
 中味は介護予防のための基本チェックリストなるもので、「バスや電車で一人で外出していますか」とか「日用品の買い物をしていますか」など、いくつかのチェック項目の「はい」「いいえ」いずれかに○をつけて返送せよという内容でした。
 あと三週間経つと、私の誕生日。一定の年齢に達するので、送られてきたようです。 

 幸いにして現在の私は市役所が危惧するような状態ではないので、全部「はい」に○をつけましたが、厳密にいうと、中には「はい」か「いいえ」という二者択一で答えてしまってはマズイのではないかという項目もあります。
 たとえば、自分で電話番号を調べて電話をかけますか、という項目があります。
 あるいは、友達を訪ねたりしていますか、という項目もあります。
 このリストを作成した担当者は、以上のようなことが「人の助けを借りることなくできているかどうか」を知りたい、と思っているということはわかりますが、現状そのものを答えよ、というのであれば、私には自分で電話番号を調べ、かけることができるとは思うけれども、電話をかけるような用件がないので、実際にかけましたかという念押しの意味が含まれていると解釈すれば、答えは「いいえ」となります。友達がいれば訪ねるかもしれないけれど、実際は友達はいないので、これも「いいえ」となります。 

 世論調査も同じようなことで、調査する側は項目の中に、結果的に意に反する答えをしなくてはならぬ場合があるとは考えてもみないようですが、実際はあるのです。ただ、あっても大勢には影響がないと考えているのでしょうし、事実影響はないのです。
 もろもろそんなことを思ううちに、さらにグッタリしてしまって、疲れが増幅されてしまったみたいです。 

 入院に備えて冷蔵庫は整理しておいたので、お米やふりかけのたぐいを除くと、食べるものは何もありません。
 退院後しばらくは消化のよい食事をすること ― お粥やうどんがベスト ― といわれたのをよいことに、朝昼晩とお粥づくしです。永谷園の「松茸の味お吸い物」や「1杯でしじみ70個分のちから」があったので、それらで味を整えて食べました。
 退院当日の朝、五分粥を食べさせてもらった以外、入院中は点滴だけだったので、わずかの間に胃がすぼまったようで、毎食お粥一杯だけでも充分でした。

 今日になって気力も恢復してきたし、それにともなって食欲も増進してくるような気配です。

 となると、食べ物の補充もせねばならぬし、毎月恒例の薬師詣でに出かける八日も迫ってきているので、足慣らし身体慣らしもしておかねばならぬ。
 で……、いつもの散歩コースを、時計回りに三分の二だけ歩き、ついでに買い物も済ませることにしようと朝六時過ぎに庵を出ました。北小金駅前にあるスーパーのイオンは朝七時から店を開けるようになったのです。 

 庵を出るとすぐに住宅地が切れ、畑の中の径を歩きます。左前方に本土寺の森があり、そこへ向かって進んで行く形になります。森の切れるところで比高10メートルほどの台地が切れます。その台地が本土寺があり、我が庵もある平賀中台という高台です。
 急坂か急な石段を下ります。下り切ったところは住宅地ですが、かつては川が流れていたのだろうと思わせる地形です。町名が整理される前は平賀谷川という字だったことからもそのことがうかがえます。



 そのうちの一軒で飼われている谷之丞(たにのじょう)です。右下にいるのはつい最近見かけるようになった福郎(梟に似ているので命名)。
 私に慣れた猫殿は声の大小や鳴き方に違いはあるものの、私を認めれば、大概は鳴き声を上げて歓迎の意を表してくれます。何度も会って、私が危害を加えるような人間ではないとわかっているはずなのに、私が少し距離を置かないとおやつを食べないという猫殿もいます。

 この猫殿たちと私の間には、この家の低い塀があります。おやつは私の手の届くところ ― 猫殿たちからは遠いところに置くしかありません。谷之丞は私と目が合うと身を乗り出します。
 しかし、出会ってからそろそろ半年になろうというのに、鳴き声を上げたことがありません。私が見ている前で、私の置いたおやつを食べたこともありません。家の周りを半周して、背後からこっそり近づくと、身を屈めておやつを食べているのを見ることができますが、じつにじつにこっそり近づかないと、気配を察して振り向き、おやつを食べるのをやめてしまいます。



 雨上がりの今朝の富士川上空です。
 今朝は六時ごろまで雨でした。雨が上がるとすぐ青空が垣間見えるようになりましたが、富士川を望むあたりまでは陽射しがあったのに、川岸に着くころには空は雲に覆われてしまいました。

 


 野薊と赤詰草。

 


 いまの時期はピンク色をした花が目立ちます。
 季節のうつろいに合わせて、普段はあまり歩かない道を歩いてみるものです。これまで見たことのない花に出会ったりします。上は牡丹臭木(ボタンクサギ)だとわかりましたが、下はまだ不明です。



 富士川土手で見つけた悪茄子(ワルナスビ)の花です。
 古来、「悪」という字には「強い」という意味がありました。ただし、そういうときの読みは「あく」。「わる」と読むときは単純に「悪」なのでしょう。
 この「悪」はアメリカ原産の外来種で、外来生物法により要注意外来生物に指定されています。除草剤も効かず、地下茎でグングン成長するそうで、一度生えると根絶させるのはむずかしいそうです。
 地下茎で勢力範囲を伸ばすところはドクダミと似ていますが、ドクダミがお茶などにして利用できるのに対して、悪茄子は百害あって一利なし。発見者であり、命名者である牧野富太郎博士も「悪草」といっています。



 無患子(ムクロジ)の花はすでに散って、小さな実を結び始めていました。



 帚木(ホウキギ)。
 秋になると真っ赤に紅葉します。



 香取神社横の道を画像の手前のほうに向かって歩いていたら、後ろで猫殿の鳴き声がしました。
 振り向くと、久しぶりに見かける濱吉(私の勝手な命名)でした。濱吉の家の前を通ったとき、どこかから見ていて、私を追いかけてきてくれたのです。
 右上に写っている石垣は香取神社。濱吉の家はこの神社の裏側にあります。
 猫の縄張りは500メートル四方と聞いたことがありますが、このあたりは縄張りが重複しています。

 最近は引きこもりになったようなので、なかなか出会うことはありませんが、かつて小春はここまで出張していました。左上の青いネットはうさ伎(うさぎ)の出没する梨園です。
 またフウという名の、ここから500メートルも離れた家の飼い猫が歩いているのを見たこともあります。



 合歓(ネム)の花が咲いていました。これもピンク色。



 病院からは退院後一週間程度は烈しい運動は控えること、アルコールやコーヒーは飲まぬこと、刺激の強い食べ物は避けること、消化のよいものを食べること……などという注意事項がありました。

 で、消化のよいレシピを捜していたら、山芋と海老のあっさり煮(右)があったので、つくってみました。
 とっておきの九谷の小鉢に盛りつけると、まるで料亭で出されるような……と自画自賛。

 画像左はとくに消化がよいわけではありませんが、血液中の鉄分が不足気味にならぬよう、ときどきつくって食べるひじき料理のうちの一つ、ツナとひじきのうま煮です。

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入院の朝から退院の朝まで

2012年07月05日 19時41分33秒 | 日録

 七月二日、大腸のポリープ切除手術を受けるために入院しました。
 約一か月前の五月三十日に受けた検査で見つかっていたポリープは二つ。悪性ではないという診断でしたが、入院が何日間になるかは切除後の出血の有無などによって決まる。それでも長くて四日 ― そう聞かされていたので、いちおう四日分の着替えやタオルなどとノートPCをトートバッグに詰めたら、バッグは二つになってしまいました。



 入院を控えた朝、今年二十輪目の桔梗殿が花を咲かせました。それまでずっと紫桔梗ばかりだったのに、初めて白色が咲きました。
 ずっとマンション住まいでしたが、狭いながらも庭を持ち、地植えできるようになって二年目の夏です。勢いのある枝が伸びたら、挿し芽に挑戦してみようと思います。

 前夜は夕食まで普通の食事をして、夜九時にアジャスト錠を200ミリリットルのピコスルファートナトリウム溶液で服んでおきました。両方とも排便を促す薬品です。

 朝、目覚めるとスクリットという粉末の腸管洗浄剤を2リットルの水に溶かします。
 これを朝八時から十時まで、二時間の間に服まなければなりません。海水を薄めたような味で、一口二口ならなんら抵抗はないのですが、ただ淡々と2リットル服む、というのは非常なる苦行です。

 2リットルのペットボトルにこしらえたスクリット液を500ミリリットルのボトルに詰め替え、「よ~し、これを四回!」と自分に言い聞かせて服み始めました。

 一か月前、検査のときにも同じことをしているのに、空にして取っておいたペットボトルの容量は1・8リットルだと勘違いしたので、2・2リットルもこしらえてしまいました。

 前回も今回も、検査が始まる時刻は午後二時と変わりませんが、今回は入院手続きをしなければならないので、午後一時に病院に行くことになっていました。


 腸管洗浄剤を服み始めてしばらくすると、トイレに駆け込まなくてはなりません。

 初めて服んだときは興味もあったので、何回トイレに行くことになるのだろうかと数えていましたが、用を済ませてトイレのドアを閉めた途端に再び催す、というようなこともあって、いつの間にか回数はわからなくなってしまいました。

 朝食を抜いて、ひたすら腸管洗浄剤を服みつづけます。トイレから出てきては服み、服んではトイレに駆け込みます。
 十時目前に2・2リットルを服み終えました。あとはトイレに行くのを繰り返すだけで、排便感がなくなるのを待ちます。
 腸の中がすっかり空っぽになったかな、と思えるころ、病院へ行くために腰を上げる時間が迫っていました。

 入院するのは胃潰瘍のアフターケアで通っている新松戸の病院です。電車だと一駅ですが、駅を出たあとは我が庵のほうへ戻る形になるので、いつも歩いて行きます。今回は荷物が重いので逡巡しましたが、結局歩くことにしました。



 朝、音声だけ聴いていたテレビのニュースでは、鎌倉・長谷寺の紫陽花(アジサイ)はまだ見ごろ、といっていたのに、本土寺の紫陽花は一足早く終焉を迎えたのか、土地勘のない車が右往左往して近所迷惑だった参道はほとんど人通りも絶え、駐車場も閉鎖されていました。

 午後時に入院受付を済ませ、すぐに内視鏡検査の受付も済ませ、服を着替えると、前処置室に入って点滴を受けます。蒸し暑い中を二つのトートバッグを担いでエッチラオッチラやってきたので、汗が止まりません。点滴の針を固定すべく腕にテープが貼られるのですが、噴き出す汗ですぐに剥がれてしまいます。

「こんなに汗をかく人は初めて見た」とナースにいわれてしまいました。

 ベッドに横たわって検査を受けながら、いつくるかいつくるか、と緊張しています。腸の襞を伸ばすために空気が送り込まれるのですが、前回の検査では、腹が爆裂するのではないか、と思うほどの圧迫感に嘖まれることが何度かあったのです。

 プクップクッとその予兆のようなものがきて、思わず身体を強張らせましたが、爆裂を感じさせるほどのものではありません。
 そのうち、「一番苦しいところは過ぎましたよ」「もうすぐ終わりますからね」という医師の掛け声があって、痛みもないうちに終了かと思ったら、そのころはまだ道なかばでした。
「これかな?」「あれッ、どこだっけ?」「そこじゃないですか」「あった、あった」という医師とナースと検査技師(?)の掛け合いの声が聞こえます。ちょうど私の頭の上にモニタがあるらしいのですが、私には見えません。

 ひと月前、生まれて初めての検査を終えたあと、大腸.COMというサイトがあるのを知りました。そこには、私にとってはあれだけ苦しかった検査が、経験豊かな専門医にかかれば少しくすぐったいと感じる程度だ、とありました。
 NHKの「梅ちゃん先生」を視るまでもなく、医師個々に技量の差、経験の差があるのは当たり前のことで、私の二回目の体験は爆裂感に見舞われることもなく終わりました。



 病室は東向き。
 向かい合わせに三つずつ並んだベッドのうち、私には窓側が当てがわれました。行き交う常磐線の電車が見えます。

 内視鏡検査室に入ると、持ち物はすべてロッカーに預けるので、どれほどの時間が経過しているのかわかりませんが、点滴の針を射されたまま、じっと順番を待ち、やがて処置室に入って、上記のような体験を経たあと、車椅子の人となって病室に入ったときは、病院にきてから三時間 ― 午後四時になっていました。



 前回、胃潰瘍で入院したとき、知人がくれた守護神ミカエルのフィギュアです。
 いつもはパソコン机の照明灯に吊り下げてあります。
「神仏は恃まぬ」主義の私ですが、それは「私」が恃まないということであって、他者が私の病気平癒を願ってくれたものなら、と素直に受け入れておけばいいのではないか、と思って持ってきました。

 

 左手には点滴の針がブスリ。右手には、病院では患者誤認防止のリストバンドと呼んでいますが、私にとっては囚人の「人別標」としか思えないようなものをはめられています。

 血圧は下が102、上は150を超えていました。ナースが「高過ぎますね」といって、もう一度測ってくれましたが、同じ値しか出ません。



 私の部屋とは反対側を向いているデイルームからの眺め。
 紅い車体の流鉄が走っています。

 病室は六人部屋で、私が入るまでは四人の患者がいるだけでした。様子をうかがっていると、四人ともかなりの高齢者で、いずれも寝たきりのようです。

 点滴スタンドを曳きながら歩かねばならぬので、自由自在に、とは行きませんが、自分の意思で行きたいところへ行けるのは私だけ……。

 腹痛があったり、出血があったりしなければ、明日退院と聞かされました。四日分もの着替えを持ってきているので、拍子抜けしたような感じです。

 そのせいでもないでしょうが、お腹に疼痛が出ました。耐えられない、という痛みではありませんが、奥深いところでチクーリチクーリと疼いています。

 それからしばらくして、点滴が空になって、血が逆流し始めたので、ナースコールのボタンを押しました。
 痛みのある場所は肋骨のすぐ下 ― 肝臓のある場所です。ナースは大腸とは関係がなさそうだといいながら、「起きていないで横になってください」と言い置いて部屋を出て行きました。

 横になった私はいつしか眠ってしまったようです。外は薄暗くなっていました。

 医師の声で目覚めました。すでにお腹の痛みは引いていました。触診してもらいましたが、痛みの原因がなんであったのか、もうわからなくなっていました。
 ただ、退院が一日延びました。




 退院の朝の食事は五分粥(左下)が出ました。
 中央はそぼろ卵とシラスとカットトマトの炒め物、右下はチョッパーで砕いた何種類かの野菜を混ぜ合わせたような調理で、酸っぱい味がしました。

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小事件

2011年08月05日 17時06分30秒 | 日録

 昨朝、ちょっとした事件がありました。
 五時半過ぎのことです。
 その物音で目覚めたのか、目覚めたばかりで、まだ意識がぼんやりしていたときにその物音を聞いたのか、いまとなってはハッキリしませんが、アパートの外階段を、何か重いものがドタドタと転がり落ちるような、異様な音を聞きました。
 なんだろうと思いながら布団に寝そべっていました。それきり音はせず、静まり返っていましたが、なんとなく気に懸かるものがありました。

 昨朝は空き瓶・空き缶をごみに出す日でしたが、先週出したばかりなので、出すものはありません。朝の散歩は日課にしていますが、目覚めてすぐ出かけるというようなことはありません。
 しかし、物音が気になって仕方がなかったので、起き上がって冷たい水を飲んだあと、コーヒーを飲んでから、音の正体を確かめるために、散歩に出ることにしました。
 道路に出ようとすると、同じアパートに棲むKさん(老嬢)が階段の脇にいて、落ち著かない様子でウロウロしていました。Kさんがときおり見上げているほうを見ると、階段の中ほどに、頭から血を垂らし、右手も血まみれにしたSさん(やはり老嬢)がうずくまっていたのです。
 Sさんは七十代後半、一階に棲んでいる私の真上の部屋の住人です。

 地面を見ると、多量の血が流れていました。多分頭から落ちたあと、独力で部屋に戻ろうとしていたのでしょう。
 私は急いで階段を上り、抱きかかえようとしましたが、目の前にSさんの顔を見て、そこに大量の血がベッタリとついているのを見たときには、思わず臆してしまいました。

 縁があって日本赤十字社の講習を受けたことがあり、AEDの使い方や三角巾の使い方を学んでいましたが、とっさの場合はただただ動転するばかり、とくに血を見たりすると、なんの役にも立たぬ、ということがわかりました。
 大体狭く急な階段で人間を抱きかかえようとすると共倒れになりかねません。しばし考えた上、下から彼女の臀部を突き上げるようにして、なんとか部屋に戻し、119番しました。
 普段の散歩では携帯電話など持って出ませんが、この日は何か報せるものがあったのか、持っていたのです。

 救急車がやってくるまで十数分。
 三人の係官が乗ってきて、Sさんの部屋に入って行きましたが、Sさんの両足と両脇を二人がかりで抱いて出てくるまで、随分長い時間が経過したように思います。



 Sさんには一人だけだが身内がいて、Sさんが自分で連絡するといっている、と先に出てきた係官が教えてくれました。

 やがて
怪我人は救急車に収容されたので、とりあえず私たちがすることはなくなりました。血が出ているので、重傷のように見えますが、心配されるのは怪我より頭を打っているらしいということです。
 何日かしたらKさんにでも連絡があって、私にも知らされるということになるのでしょう。

 救急車を見送ったあと、散歩に出ることにしました。



 我が庵から歩いて三分ほどのアパート前にいる黒猫殿です。
 ずっと前(日記を読み返してみると、およそ半年前)、一度だけ餌を与えたことがあります。いつもの散歩コースとは逆方向にある径なので、滅多に通ることがありませんでしたが、一昨日、久しぶりに通って見かけました。そして、そういえばここに猫殿がおりましたな、と思い出しました。

 昨朝も通ったら、寝そべっていた身体を起こして立ち上がりました。
 初日は餌を置いても、動こうとはしませんでした。私が帰りかけると、ようやく食べてくれましたが、私が振り向くと、食べるのをやめて私のほうを見ていました。
 昨日は私が見ている前で食べるようになりましたが、なにゆえに縁なきそなたが我に餌を与え賜うのか、と不思議そうな表情を私に向けることは変わりません。



 奇妙な白粉花(オシロイバナ)。
 一つの株なのに、黄色の花と赤色の花を咲かせています。そしてところどころに黄色と赤の混じった花。



 昨日の富士川上空。夏らしい雲の下に雨雲がありましたが、雨は降りませんでした。



 遠くから見たときは人間かと思い、あまりにもたくさんの数の人間がいるので、ちょっとギョッとしましたが、近づくのにつれて案山子(かかし)だ、とわかって……。
 茶髪をしていて結構リアルですが、雀や鴉に効き目があるのでしょうか。何枚もある田んぼの中で、案山子を立てているのはこの田んぼだけです。

 このあたり(流山市前ヶ崎)の放射線量はどんなものでしょうか。
 近辺の数値から推測すると、収穫しても出荷できないということは、いまのところはなさそうですが、我孫子市長、柏市長と周辺では舌禍が目立っています。



 こちらは毎度おなじみの小春です。相変わらず旺盛な食欲。



 四十日ぶりに見かけたうさ伎(うさぎ)です。
 例によって腰を下ろした私の周囲を何度も回ったあと、餌を食べ始めましたが、途中で放り出して、かなり真剣な表情をして身構えた、と思ったら……。



 10メートルほど離れたところにこんなのが現われました。首輪をつけていました。
 散歩途中の飼い主が周りに人がいないと思って、瞬時リードを外したのかと思いきや、いつまでも姿を現わす気配はありません。
 私のほう、というより、うさ伎のほうに向かってくるような気配であったので、うさ伎への手出しは無用、とばかり男気を奮い立てた私が立ち上がったからか、この犬殿はそれ以上近づこうとはせず、かといって立ち去ろうともしません。



 常磐線のガードをくぐり、平賀川を渡ると流山市から松戸市に入ります。
 平賀川に架かる橋を渡ってすぐの駐車場。十五匹の猫を飼っている老嬢の元を離れて、ただ独り、旅のわらじを履いたミーです。そのくせ旅には出ずに、すぐ隣の駐車場で暮らしています。



 こちらは老嬢が飼っている十五匹のうちの二匹-マユ(左・♂)とヒロ(♀)の兄妹そろい踏み。
 ヒロは母親に成り立て……おっぱいを出さなければならないので、非常に食欲旺盛です。私はヒロには多めに餌を置いてやるのですが、いつもあっという間に食べてしまってマユのぶんを横取りします。
 横取りされてもマユは怒るようなことはありません。よき性格をしています。十五匹の中では私と一番の仲良しで、私を見ると必ず一声鳴いて近づいてきて、尻尾を真っ直ぐに立てて身体をすり寄せてくれます。

 昨夜、ウトウトとしかかったとき、上の部屋で物音がしました。老嬢が帰ってきたのかと思いましたが、老嬢にしては足音が少し荒々しい。朝がきたら、と思っていたら、今日は物音一つしません。
 Kさんによると、身内というのは弟さん、ということなので、姉に頼まれて荷物をとりにきていたのかも……。

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異常なし、異常あり?

2011年04月06日 13時14分15秒 | 日録

 桜の開花とともに樹々の芽吹きの季節がやってきました。我が庭の樹々も命を繋いでくれているかどうか、戦々恐々の思いで毎朝を迎えています。

 というのも、千葉北西部の今冬の寒さは、私としても初体験だったほどの厳しさだったからです。
 私が旧庵から持ってきて庭に移し替えた樹は、
古い順に細葉榕(ガジュマル)、枸橘(カラタチ)、柘榴(ザクロ)、櫨(ハゼ)、シークヮーサー(五本)、シェフレラ、柚子、山椒、小手毬(コデマリ)、無患子(ムクロジ)と、十本あります。
 落葉樹であれば、冬は葉を落とすのが当たり前ですが、冬だから葉を落としたのではなく、凍死してしまったのではないかと心配するほどの寒さでありました。



 小手毬はいち早く蕾をつけて、異常がなかったことを証明してくれました。

 


 数日前、山椒(上)と櫨(下)、それに柘榴に新しい芽が出ているのを認めました。



 無患子も芽だろうか、それとも何か別の(よからぬ)ものか、と訝っていた先端が薄緑色に変化してきて、どうやら芽であると思えるようになりました。

 ところが、常緑樹であるシークヮーサーは五本とも葉こそ落としていませんが、冬以降、一様になんとなく葉の色がくすんだようになって、強い緑色に戻る様子が見受けられないのです。
 一つでも二つでも新しい芽を確認できれば安心できるのですが、今日までのところ、芽を出している様子はありません。葉は落としていないので、枯死しているとは思えませんが……。

 もっとも心配なのは細葉榕(ガジュマル)です。
 私の許にきてから二十年と、いま手許にある樹の中では一番付き合いが古いだけに、愛着も一入(ひとしお)のものがあります。
 これも常緑樹なのに、今年の冬は寒さが半端ではないぞ、と感じ始めたころから、葉の端っこに茶変するところが出始め、それが伝染病に罹ったように、見る見るうちに拡がって、雪が降るころには完全に枯れて、すべての葉が落ちてしまいました。
 南方の樹ですから、寒さに強いとはいえませんが、これまでの冬は耐えてきたのです。

 ただ、我が庭ができて、移し替えるまでは鉢植えで、ちゃんと生き延びてきたのです。
 もしかしたら、冬の寒さが原因ではなく、土が合わなかった、ということなのかもしれない。素人が我流でやっている上に、素人の勝手な判断ですから、間違っているかもしれませんが……。
 生命力の強い樹で、剪定した枝を挿し木にすると、すぐ根づきます。重態に陥るとわかっていれば、空いている植木鉢に挿し木をしておいたのに……と後悔の臍を噛んでいるところですが、いまとなってはあとの祭りです。

 細葉榕は沖縄ではキジムナーという妖怪が宿る樹だと信じられています。
 人間と敵対するようなことはない妖怪ですが、住みかである樹を伐ったりすると、家畜を全滅させたり、窒息死させたりすることもあるそうです。
 鉢植えにしておいたのを庭に植え替えようとしていたときにこの話を知ったので、窒息させられては敵わないと、ひときわ心を込めて植え替えたのでありましたが……。
 枝を伐ってみれば枯死したかどうかわかるかもしれない、と思うのですが、鉢植えだったときは好む好まざるにかかわらず、伸び過ぎた枝を伐らなければなりませんでした。折角大地に移し替えるのだから、伸びるままに任せようと植え替えたのです。

 初夏まで待って、新しい芽が出なければ諦めなければならない、ということになるでしょう。
 決して故意に枯らせたわけではないけれど、大事な樹を枯らせてしまった私は万死に値するというので、キジムナーが遠征軍を率いてやってくるかもしれません。

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無犬のドッグランと初猫

2011年03月26日 06時55分09秒 | 日録

 今冬は寒気がたびたびやってきて、暖かい日もあったことはあったのに、そんな日があったとは忘れてしまいました。
 今朝こそ夜明け前の気温は2度台でしたが、風が強く、体感温度は遙かに低い。昨日も一昨日も最低気温は氷点下。最低気温が氷点下を記録したのは三月中十二日にもなりました。
 松戸市民となって四年目ですが、三月に氷点下を記録した日は、去年も一昨年も二日ずつしかなかったのです。
 寒さがつづく一方で、去年の夏の暑さを思い返すと、地軸が傾きを増して、夏は太陽に近づき、冬は遠くなったのではないかと考えてしまいます。

 昨日は午後四時半という遅い時間から散策に出ました。朝から晴れていて、南または南東の風だというのに、なかなか気温が上がらない。
 で、身体のエンジンがなかなかかからなかったこともありますが、出かけるのを夕方にしようと思ったのは、ずっと兄弟コリーを見かけていないからです。
 彼らのことをブログに記した前日(去年の十二月九日)以来なので、いつの間にか三か月半が経とうとしています。
 寒くなってから朝の散歩を取りやめにしています。朝、散歩に出ていれば見かけているのかもしれぬが、と思い、いや待てよ、大型犬なのだから、朝の散歩だけでは物足らず、夕方も必須であるのに違いない、と考え直しました。
 現に私が富士川べりを散策するのは、夏から秋にかけては朝のうちで、その時間帯にしばしば見かけたことがあったし、最後に見て、連れていたご婦人とほんの一瞬だけ言葉を交わしたのは、散策を朝から午後へと切り替えた時期だったのです。

 雨の日でもない限り、私は少なくとも一日一度は庵の周辺を夢遊病者みたくほっつき歩いているのだから、三か月半もの間、まったく出会わないということはあり得ない。あるとすれば、きっと先方にやむを得ぬ事情があるからに違いない。兄弟を連れ歩いていたご婦人は決して若くはないのだから、もしかしたら病気でもしているのではないか。
 かように考えて夕方出発としたのです。
 遠くからでもいい。遙か遠くでも二頭のコリーを見誤るということはないのだから、歩いているのを見る、というだけで安心です。



 我が庵から歩いて十分ほどのところにあるドッグランは無犬無人でした。
 散策に出た目的をなくしてしまったような気分です。じゃ、帰るか、ともいかないので、しばし考えたあと、行念寺へ行くことにしました。



 道々のあちこちで鈴蘭水仙(スノーフレーク)が咲いているのを見ました。スノーフレークもいいな、と思いながら眺めています。
 ……もいいな、というのは、秋になったら植えようかという意味です。植えた以上、来春花開くまでは生きなくてはなりません。こうして自分を騙し騙し生き延びて行くのもいいかもしれないと、ぼんやりと考えています。

 庭にはまだ充分に空きがあります。今年の秋は水仙も植えるか、鈴蘭も植えるかと考えています。ただ、サカタのタネのネットショップにはスノードロップがないのと同様スノーフレークもありません。タキイ種苗も同前。



 行念寺は久しぶりだったので、ちょっとだけお邪魔をして、開山の經譽愚底(きょうよ・ぐてい)さんの供養塔に焼香しました。



 旧水戸街道を挟んで、行念寺と向かい合わせのマツモトキヨシ中新宿店。
 おお、そうじゃ、と気づいて寄り道。この三十一日で無効となるメンバーズカードのポイントがあったのです。
 スティック十本入りのカフェオレが¥198。十箱買ってもまだポイントの残りがある。1円たりとも払わないのは申し訳ない気がしたので、シャンプー(サクセス)を2パック買うことにしたら、やっと支払いが生じました。

 


 夕陽に照り映える富士浅間神社の杜と拝殿。訪れるのは三回目です。初めてきたとき、白っぽい美形の仔猫殿を見かけていたのですが、前回も今回もいませんでした。

 代わりに、薄暗くなってから帰ったとき、我が庵に到る道をゆっくり横切って行く猫殿を見かけました。白と薄い茶の毛並みだったので、いつからか姿を消してしまったオイチかとも思いましたが、どうも初めて見る猫殿のようです。
 舌を鳴らして呼びかけつつ、鞄からドライフードを入れたタッパーウェアを出して、カシャカシャと音がするように振ると、民家の物陰に隠れて私を窺っていました。
 物陰はいっそう暗いので、どんな表情をしているのかはわかりません。飼い猫か野良かも判然としませんが、転居後半年にして初めて見るのですから、飼い猫ではないようです。

 場所は我が庭先から20メートルもないところです。下水溝の蓋の上に餌を置いて、5メートルほど離れたところから見守ることにしました。私が離れると、物陰から出てきて、ちょこんと坐りました。猫なのですから当たり前ですが、遠くからでも猫背が見えます。私は本来の猫背を見せてくれる、こういう格好が一番愛おしいと思います。
 私が見ていたからか、坐ったままです。今度は私が物陰に隠れることにしました。すると、やっと出てきて食べ始めました。近くにきてくれないので、カメラに収められなかったのが心残りです。

 周辺には我が庭をトイレにしている、憎たらしい飼い猫がいます。飼い猫と野良の縄張りがどのように保たれているものか、私にはわかりませんが、縄張り争いでその飼い猫と軋轢が生ずるのであれば、私はその飼い猫を撃退するほうに全面的に協力するつもりです。



 我が庵近くで見かけた白木蓮です。



 近くには辛夷(コブシ)がない代わり、白木蓮はたくさんあります。それにしても本来の木蓮がないなあと思っていたら、根木内歴史公園の外れにありました。

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大地震余波

2011年03月25日 10時49分50秒 | 日録

 昨日のブログで取り上げた金乗院のほかに、我が庵近くには無住のお寺がもう一か寺あります。寶蔵院です。墓石に被害がなかったかどうか気に懸かるので、二日連続で墓石の被害調査に赴きました。



 富士川に下りると、左岸(松戸市側)の道にはパイロンが置かれ、途中から通せんぼされていました。
 もしや、と思って右岸(流山市側)に廻ってみたら、通せんぼされたところは小規模ながら地滑りがあったようです。多分先日の地震が原因でしょう。

 


 寶蔵院でも燈籠が倒壊していました。笠の部分は仰向けにひっくり返って、縁(ふち)が欠けています。
 無住のお寺なので、修復はおろか、片づけの手も入っていないみたいでした。
 散乱したままであることが気に懸かりましたが、勝手に触れるものではないとも考えたし、第一独力で持ち上げることができそうなのは一番上の宝珠ぐらいのものですから、残念ながら見過ごしにするしかありません。

 


 歴住の墓石と八十八体ある弘法大師像(画像下)には大禍がなかったようです。丈が低いのが幸いしたのでしょうか。



 寶蔵院の境内にも辛夷(コブシ)の樹がありました。

 東漸寺で福島県から避難してきた人を受け入れていると知ったので、私でも何かできることはないだろうかと行ってみました。
 その情報を入手したのは、地震から十三日も経過した昨日の昼前でした。東漸寺にはちょくちょくお参りしているのに、なぜかこの間は行くことがありませんでした。まだ地域コミュニティに充分溶け込んでいるとはいえないので、情報の入手も遅いのです。



 門前に出ていた貼り紙。
 左端に手書きで、「三月二十二日現在、物資は充分に足りているので、お心だけちょうだいします」と書かれてありました。
 私が持って行けるものなどたかが知れていますが、地域情報に疎かったことが禍して、いまのところは何もできなくなりました。



 絶好球がきたのに、一瞬の躊躇を覚えて、見逃し三振……そんな気分で帰ってきたら、我が庭に菫(スミレ)があるのに気づきました。

 山路きて 何やらゆかし すみれ草 芭蕉

 私の部屋には背を向けて咲いているのと、雨つづきで庭に下りることがなかったので、気がつきませんでした。
 去年夏、引っ越してきてすぐ庭の草刈りをしました。もっとたくさんあったのに、菫とは知らず、引っこ抜いてしまっているかもしれません。それでもまだ花を咲かせていないものが数株あります。



 ぐずついた天気がつづきました。昨日は
夕方近くになってようやく陽射しが出ましたが、冷気は緩む気配を見せません。そんな寒い中でルッコラの花が咲きました。
                  


 一方、摘み菜(ツマミナ・実態はおそらく蕪)の花はひと足早く春爛漫です。



 昨秋、曼珠沙華の開花が遅れたのは夏が暑かったせいだ、とのたまわった近所の事情通のオヤジが「雪柳」だといった樹です。我が庭にあるのですが、道路端なので枝が道路にはみ出しています。
 いまになって思えば、雪柳があの特徴的な枝をヒョロヒョロと伸ばしたら、歩くのに邪魔だったのかもしれません。事情通の家はこの道を突き当たったところにあって、ごみを出すのにも、どこへ行くにもこの道を通らなければならないのです。
 よくよく見ると、剪定された跡があるので、私がいまの家の主となる前に、事情通が伐ったのでしょう。

 特徴的な枝が見られなかったので、「雪柳」とのたまわったときには、私はかなり強い気持ちで「?」と思い、春になったらわかるさ、と独り言を呟いたのでしたが、春がきて花の咲いたところを見ると、私の期待に反して、雪柳でしかないようです。
 考えてみれば、事情通は何年、いや何十年となく、伸びた枝に悩まされながらこの花を見てきたのです。

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ようやくパンが入荷

2011年03月22日 21時29分27秒 | 日録

 先日の地震の二、三日後からスーパーの売場からパンが消えました。
 パンがないと、体調不順であまり食欲の湧かぬ我が身にとっては、死活問題、とまでは行かなくても、かなり致命的でありました。
 以後、二日か三日おきに足を運びましたが、パンはおろか、お米もパスタ類もカップ麺も、ホットケーキの素に到るまで、およそ腹の足しになりそうな商品の棚は空っぽでした。

 食後の服薬が欠かせないので、腹が減っていようがいまいが、薬を服むために何か食べておかなくてはなりません。
 幸いお米は地震前に買ってあったので、食べるものが何もない、という状態ではありませんでしたが、何か食べておかなければ、と思っても、とくに朝は御飯、という気にならないのです。
 食パンさえあれば、ベーコンエッグズをつくって、下敷きにレタスかサラダ菜を布いたサンドイッチにし、インスタントではあってもスープを飲めば、曲がりなりにもバランスのとれた食事と相成りますが、目覚めたあと、薬じゃ薬じゃと思い、その前に何か食べておかねば、と思っても、そういえばお米しかなかったかと思うと、もともと湧かない食欲がまったく湧かなくなってしまいます。

 苦肉の策で、フルーツ缶詰とゼラチンを買ってきてフルーツゼリーやコーヒーゼリーをつくり、食事代わりに食べていました。
 主食にフルーツゼリー、デザートにコーヒーゼリーを食べて薬を服むわけです。魚は好きですから食べていましたが、焼き魚をおかずにフルーツゼリーというのは、いくら変人気味の私でも食べられない。おやつ代わり(時間的に)に、魚を食べたり、野菜サラダをとる、という妙な食生活を送ってきました。

 思い返せば、確か売場からパンが消えた日であったと思います。
 跡形もなく消えているとは知らず、のんびりと散策をし、帰りにパンやその他の買い物をして行こうと思いながら、スーパー近くまできたとき、パンパンにふくらんだレジ袋を両手に提げて、歩くのも覚束ないような老人とすれ違いました。さらに夫婦とその娘と思われる三人連れがこれも両手にパンパンのレジ袋を提げているのに出会いました。

 そのときはとくに何も考えずに見送りましたが、見送ってスーパーに入った私が見たのは、何一つ商品のないパンコーナーでした。食パンはもちろん、菓子パンも調理パンも、総菜コーナーで売られているサンドイッチも、およそパンと呼べるものはすべて見事に空っぽ……。

 その夜か翌朝ぐらいからか、買いだめというのがニュースで報じられるようになりました。
 大災害が起きると、いつも日本も棄てたものではないと思えるような、心温まるニュースに接しますが、それだけにこの手のような輩がいると、氷の刃で胸を刺されるような気持ちになります。まして火事場泥棒のようなヤツバラは論外です。

 昨日今日と雨です。
 避難生活を送っておられる方々に思いを馳せれば、多少のことは我慢せねばならぬとは思いますが、雨の前が暖かかっただけに、氷雨のように感じられます。しかも、今日は雨のち曇という天気予報が外れて、暗くなってからも雨は熄みません。つれて奇形を持つ私の右足はナイフかなんかで傷つけたあとのように痛む。

 わずか二日間とはいえ、家に閉じこもったままでいると気鬱が進行するようだし、パンは手に入れられないとしても、おかずにする野菜や魚がなくなっていたので、気は進まないながらも、傘を片手に買い物に出ました。



 と……、
 パスコの食パンが山盛りに入荷していました。



 しかし、「世界のヤマザキ」のほうは食パンだけ空っぽ。流通と原料入手に難があるので、とお詫びが出ていましたが……。

 一週間前に種子を播いた紅花に芽が出ました。寒いので庭には下りず、窓越しに眺めています。

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大地震とPCモニタ

2011年03月18日 11時52分12秒 | 日録

 ブログを更新していなかったので、ご心配いただくメールやメッセージを頂戴しました。ありがとうございます。
 体調を崩していたわけではありません。体調は決して良好とはいえませんが、そのことでブログ更新を滞らせていたのではないのです。

 十一日の大地震 ― 。
 日が経てば経つほど沈痛な思いが深くなって行きます。
 付き合いをつづけているのは一人もいませんが、私の大学時代の同級生は仙台市とその周辺の出身者が一番多く、ほか大部分も東北出身者でした。
 大学生だったころから四十年も経ったいまでも、生まれ故郷に住んでいるかどうかもわからないのに、死者・行方不明者の数が日増しにふえて行くのを知ると、居ても立ってもいられない気持ちに駆られ、私と同年齢、もしくは(浪人して入学した者もいたので)一つ二つ上という年齢だけを頼りに、死者の名簿を目で追っています。
 同じ学科の大半は女子学生だったので、苗字では探せないからです。かといって旧姓(結婚していればですが)は思い浮かぶけれども、名前まで憶えているのは何人もおりません。

 いまのところ、思い当たる名前と年齢が一致した人物はありません。しかし、見落としているかもしれぬと思うと、何日も前の新聞を再び読み返したりしています。
 それにしても夥しい数の死者……。当日、津波が家や車を浚って行くのをテレビで視ながら、避難できなかった人がこんなに多かったとは思いもよりませんでした。

 地震がきたのは、塩茸をつくろうと椎茸とエリンギを千切りにしているときでした。
 我がアパートは地盤が弱いのか建て付けが悪いのか、大型トラックが通ると、ギシギシと音を立てて揺れます。最初はそのテの揺れだろうと思いました。しかし、そのテの揺れなら、一秒か二秒で収束します。
 大型トラックが隊列を為して、次から次へとやってくるようでした。
 恐怖というより不気味でした。あとで、とっさに怖いと思うものより、そういう不気味さのほうが怖いものだったと知らされました。

 茸を湯通しするために点けていたガスの火を消し、台所を出てダイニングルームに回り込み、食器棚を押さえました。押さえたり支えたりすべきものはいろいろありましたが、とっさには何をしたらいいのかわからず、食器棚を押さえたのです。

 何十分も揺れていたように思われました。
 収まったように思えたので、居間に行くと、姿見が倒れ、柱に掛けていた掛け時計がぶっ飛んで、床に叩きつけられていました。
 姿見はチェストの角にぶつかったはずなのに、幸いなことに割れませんでした。掛け時計は縁が欠けましたが、動きつづけていました。見渡したところ、ほかに被害はないようです。

 夕方、余震も間遠になったようであったし、買い物の必要があったので、外に出ました。
 富士川べりに降りると、常磐線を東京方面に向かって歩いている人影が見えました。眼鏡をかけていなかったので、人が歩いている、とわかるぐらいで、服の色まではわかりません。てっきり線路を点検をしているのだと思いました。
 ところが、近づいて行くと、線路点検にしては歩く人たちの数が多過ぎる。それに作業服姿ではないことがわかってきました。



 跨線橋に上ってカメラを構えました。上方が柏方面。電車は北小金の駅から1キロほど柏寄りで停まってしまったみたいです。
 小さな男の子を抱いて歩いている父親がいました。すぐ後ろを勤め人ふうの男性がベビーバギーを持って歩いていました。
 行きずりの関係のように見えました。日本もまだ棄てたものではないと、ちょっとした感動に涙がこぼれそうになりました。

 



 いつもは人のいない北小金駅のコンコースがかなり混雑の様相を呈していました。



 前ヶ崎の香取神社では燈籠が倒壊していました。

 翌日、もっと重大な被害があったことに気づきました。
 な~んと、落下していた掛け時計は(多分)パソコンのモニタに当たって液晶画面を破壊したあと、床に落ちていたのです。
 当たったのは右隅だったので、その日のうちは気づきませんでした。その夜、短時間であったと思いますがパソコンを点けており、支障はなかったのです。

 気づいたのは翌朝です。
 いつまで経ってもパソコンが立ち上がらない。
 電源が入っていなかったのかと思えば、電源ランプは点灯しているし、モータも回って、パソコンは立ち上がっています。地震のショックで接続ケーブルが緩んだのかと思って、すべて外して繋ぎ直しましたが、画面は明るくなりません。
 よくよく見ると、モニタに小さな罅(ひび)割れが入っていました。ここにぶつかったものは何か……と考えても、ペン立てが倒れていたのを除けば、何もない。すなわち掛け時計しかないのです。
 画面が見えないので、パソコンの強制シャットダウンを何度か。ダメだと諦めても諦め切れず、夜も何度かチャレンジ……。諦めるしかなくなりました。

 そのモニタを買ったのは数年も前のことなので、値段がいくらであったか憶えがありませんが、少なくとも数千円で買えるものではないだろうと考えると、心は沈んでしまいました。
 壊れかけていたのに、いまだに棄てずにいたノートパソコンを引っ張り出しました。いざとなればこれで凌ぐほかないが、こちらも液晶の具合が悪く、ときどき思い出したように明るくなってくれるだけなのです。

 モニタを買ったのと同じころ、中古のネットMDを買った店が北千住にあったのを思い出したのは地震から二日目、日曜日の夜でした。翌朝、電話を入れたら、15インチのモニタなら一台だけ在庫があるという。価格は五千円以下でした。
 その値段なら買えなくもないが、仕事捜しは諦めて、代わりにつましい生活を送るのだ、と決意を新たにしたばかりです。我ながら、じつに情けないことながら、五千円の出費は沈痛です。

 家にいることが多くなると考えると、パソコンが宝の持ち腐れになってしまうのは耐えがたい。かといって、五千円……。
 鈍い頭を巡らせたところでなんの解決策も生まれませんが、究極の決断を迫られているような気になると、夜も眠りが浅い。
 ウトウトしかけたところに、ビェーッビェーッビェーッと携帯電話の緊急地震速報が鳴って目が覚めます。
 震源が千葉県東方沖だったり茨城県沖だったりすると、鳴ると同時に揺れがきますから、何かするという時間もありません。

 エェーイ、あとのことはなるようになれと、モニタを買ってしまう決意を固めた月曜日、常磐緩行線は計画停電で松戸以北は運休。翌火曜日も運休。
 運休だと思っていた火曜日の午後、買い物に出たら、前日は閉まっていた駅のシャッターが上げられて、電車は動き出しているようではありましたが、一時間に一本程度、とのことだったので、私にとっては緊喫の課題ではあっても、不要不急のお出かけは自粛。

 昨日、莫迦みたいな風が吹くのと、電車は動いているようでも本数が尠ないということだったので、出かけるのをためらっていましたが、一週間近くもパソコンを見ていないという寂しさに耐え切れず、やっと買いに行ってきました。

 こうしてようやく復活しましたが、身体のほうはどうも情緒不安定気味で、いつまでも身体が揺れているようなのです。地震酔いという症状であるようです。

 いまのところ、私の存じ寄りの中では、知人の母上(福島県)が亡くなられたと知りました。
 それと去年二月、九十九里浜矢指ヶ浦で出会った白の野良猫殿。浜は津波に襲われたようなので、多分……。

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多忙な一日

2011年03月05日 21時52分19秒 | 日録

 一昨日はひと月に一度の通院日。朝八時に湯島の病院に着けるよう、六時台の電車に乗りました。
 いつもなら普段着の上にコートを羽織って行くのですが、昨日はスーツを着て、ネクタイを締めて……靴もフォーマルな革靴。
 なんとなれば、診察を終えたあと、面接があったのです。それも、二件つづけて……。
 履歴書は何通送ったか、すでに憶えがありません。
 大概は「残念ながら……」という書面を受け取るか、「折角ご応募いただきましたが……」という電話をもらうことでケリがつくので、最初のころこそワクワクしながら返辞を待っていましたが、途中からは惰性で履歴書を送りつづけていたようなものです。
 ……なので、面接! という電話がくるとビックリしてしまいます。それも二件も! 同じ日に!……。
 物理的ではなく、精神的に多忙な一日になりました。

 面接は二時に東京・西新宿で一件。四時に松戸の馬橋で一件。
 馬橋のほうは一時、あるいは三時というのが先方の指定でした。
 新宿から馬橋までは電車の乗り継ぎがすんなり行ったとしても、一時間かかります。間に合う道理がないので、都合が悪いと断わろう(断われるような境遇でも身分でもないのですが)と思ったら、「何時ならくることができますか」といわれ、とっさに「四時なら」と答えました。しばらくの間を置いて、「いいでしょう」ということになったのです。

 前日、急いで二通の職務経歴書を書き、無精髭を剃りました。
 前に面接に出向いたのは一月なかばでした。髭はそのときに落として以来、伸ばしたままでした。通院も重なってしまったので、遅くとも六時には起きられるように眠らなくてはなりません。前夜は結構慌ただしい夜になりました。

 さて、当日 ― 。
 少し寝不足だったので、朝は食欲が湧かず、インスタントのポタージュスープだけ。家を出るときの気温は0・3度。前日の同じ時刻と較べると、4度も低い。首にはスヌードを装着し、その上にマフラーも巻き、そろそろしまうころかと考えていた厚手のコートを着ました。
 この日は終日北寄りの風でした。家から最寄りの北小金駅へは南に向かって歩くので、風の冷たさはそれほど感じません。しかし、湯島から病院に向かうときは春日通りを西に向かって歩くので、ほっぺたを休む間もなく叩かれつづけているような効き目があります。
 この日の目的が通院だけだったら、耳まで隠せる帽子を被ってきたのですが、スーツにニットの帽子もおかしいよなぁ、と出がけに思案して、被らなかったのです。

 八時に着いて採血。九時から検査結果の説明と診察。十時前後に二十八日分の薬をもらって予定終了と、いつもどおり時間は淡々と過ぎて行きます。血液検査の結果は一向に改善の兆しを見せません。かといって、悪くなっているわけでもないので、また二十八日後に通院です。

 面接までポッカリと時間が空きました。暖かければどこか歩いてみようと思っていたのですが、玄関を出てみたら、陽は燦々と降り注いでいるのに、相変わらず冷たそうな北風です。待合室に戻ってしばらく本でも読むことにしました。
 本、といっても待合室には雑誌しかないので、有意義な時間潰しにはなりません。十二時を少し過ぎたころに腰を上げ、本郷三丁目のモスバーガーで昼飯を済ませて新宿に向かいました。



 かつては根城同然にしていた新宿駅の西口です。何年ぶりにきたのか、とっさには思い出せませんが、見た記憶のない紡錘形のビルがありました-あとで調べたら東京モード学園でした。
 目白に棲んでいたころは、勤め人でもないのに池袋-渋谷間の定期券を持っていて、原稿書きに倦んだり疲れたりすると、新宿や池袋へ行って、書店を覗いたりコーヒーを飲んだりしたものでした。とはいえ、いつも地下街を通ってビルからビルへ移動していたので、外へ出て景色を眺めたことはあまりありません。
 外を歩くとしたら、夜だけ。新しいビルが建っていたとしても、記憶にないのは当然です。
 それでも慣れ親しんだ街だけに、何年もの空白があっても違和感はありません。人の流れというものを考慮せず、自分が歩きたい方向へ歩くのだ、見たいものがあれば突然止まるのだという、すっとこどっこいやおたんこなすが多いのも、いかにも新宿らしい。
 愛すべき街です。  

 最初の面接を終えて地下鉄の新宿駅へ急ぎ、丸ノ内線の電車に乗ったのは二時半過ぎ。国会議事堂前で常磐線直通の千代田線に乗り換えるのですが、馬橋には多少なりとも余裕を持って着けるという時刻でした。
 ヤレヤレ……と思いながら北千住あたりまできたころだったでしょうか。車掌のアナウンスが流れて、柏駅で人身事故があって、常磐線は運転を見合わせている、というのです。
 改めて聞き耳を立てると、ただ人身事故というだけで詳細はわかりませんが、事故があったのは快速のプラットホームのようです。
 私が乗っていたのは緩行線なので、影響なし、と思いました。げんに電車が北千住を出たあとの車内アナウンスでも、「この電車は常磐線直通の我孫子行」といったのです。

 ところが、次の綾瀬に着くまでに、電車は松戸止まり、と乗客の都合も聞かずに勝手に決めた輩がいました。人身事故とは関係がないはずの緩行線の電車が「危険防止無線(?)」を受信したので、快速電車と同じように松戸以北の運転を見合わせている、というのがその理由です。
 馬橋には三時半過ぎに着くはずでした。
 参ったなぁと思いながら、綾瀬で降りて面接先に連絡を入れました。折悪しく担当者は四時半に会社を出なければならない用がある。追って連絡するので、日を改めて、ということになりました。 

 代わりに猫日和の一日となりました。
 長い時間外出していたわりには歩いていなかったので、家に帰るまでに、北小金駅周辺をグルリと散歩したのです。



 ときおり行く湯屋の近くで。
 一番手前、うなじのあたりが黒いのがいつも私に挨拶をしてくれる猫殿、一緒にいるのが前回初めて出てきておやつを食べてくれた猫殿です。
 左の黒は今回初めて出てきた猫。私がおやつを置いてやろうとすると、すぐ後ろの車の下に隠れて、「シャーッ」と威嚇する声を立てるので、「おまえだけにはやるもんか」と思いましたが、おやつはすでに地面にこぼれていました。
 会う猫殿すべてに歓迎の挨拶してもらおうとは考えていないので、威嚇されようが知らんぷりされようがいいのです。ただし、考えを改めない限り、私がおやつを置くのは右の二匹だけです。



 ふと見ると、どこからかもう一匹現われました。
 いままで見たことのない猫殿ですが、首輪をしていました。前の三匹も明らかに飼い猫ですが、首輪はしていません。「何をしているんですかな?」という感じで、おやつを食べている猫たちと私をとっかえひっかえ見ながら現われました。

 いつもとは逆方向から香取神社に向かうと、数十メートル先から茶色いものがポンポンと道路を跳ねてくるのが見えました。小春です。
 うさ伎は10メートルとちょっと離れていると、なかなか私には気づきません。よって猫は目がよくないと思っていましたが、小春は数十メートル先から私がきたとわかるあたり、どうやらそうでもないようです。それとも個猫?差があるのでしょうか。



 私の足許にまつわりつく小春。
 すっかり仲良しになりました。これでうさ伎がいてくれたら、同じ日に全員に会う、という初めてのことが起きたのですが、そうは問屋が卸さないようです。

 日延となった面接のほうですが、翌日(すなわち昨日)、電話があるかと思いましたが、ありませんでした。

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醫王寺後日譚とその他もろもろ

2010年11月03日 20時18分32秒 | 日録

 やっと辨榮(べんねい)聖者のお墓を訪ねることができました、とホッとして帰ってきた日曜夜、さてブログを更新しますか、と「醫王寺」やら「辨榮」をキーワードにインターネットで検索を始めると、アリャリャ? と思うことがありました。

 辨榮さんのお墓がある醫王寺を開いたのは、東漸寺の開基でもある經譽愚底(きょうよ・ぐてい)という浄土宗の僧侶なのですが、その人の墓所も醫王寺にあったことを発見したのです。
 醫王寺を訪ねたのは辨榮さんのお墓参りが目的ではあったのですが、愚底上人のお墓があると知っていれば、ついでながらもお参りしていたはずです。また忘れ物をしたような心地です。



 昨日、サティで買い物をしたあと、こんなものがぶら下がっているのを見つけました。イオンということはジャスコも、ということでしょう。
 ジャスコの母体の一つは三重県四日市が発祥の地の岡田屋です。中京圏の血が入っているのに、ドラゴンズの応援はしないというのですね。
 そういうことなら、これから先ずっと……ということだと、私が買い物のできるスーパーは北小金にはほかに一店だけということになり、よく使うものなのに、サティにはあってそのスーパーにはないというものがあるので、生活に支障もきたしますから、少なくとも日本シリーズの間はサティでは買い物をしない! と決めました。

 北小金駅のプラットホームから改札口へ上がる階段は抱き合わせになった二つだけです。松戸寄りは上下ともエスカレーターですから、なんの問題もありませんが、柏寄りは階段で、当然上り下りの標識があります。見ていると八割方の人は下り階段を上って行きます。
 同じように目測ですが、乗降客の数が比較にならぬほど多い松戸駅では一割程度のルール無視派がいます。柏駅になると三割ぐらい。私が利用する時間帯によるかもしれません。
 もう少し若かったころは、こういう光景を見ると無性に肚が立ち(肚を立てたところで、なんにもならぬのですが)、こういうヤツラが大部分という日本の国を憂えたりしましたが、いまは肚を立てることもなく、相変わらずだワイと呆れるわけでもなく、じゃあなんなのだ? とつらつら考えてみると、悲しい-という気持ちに近いのです。

 北小金駅-日中はそれほど人の乗り降りのない駅ですが、利用するのは地元のヤツラが大半なので、階段近くの車両に集中して乗っています。ドアが開くと、何をそんなに急ぐのかと思うほど先を争って階段を上って行きます。八割方が自動車でいうなら、反対車線を逆走です。
 こういうヤツラは車を運転するときも反対車線を走るのかというと、決してそういうことはない。そんなことをしたら死ぬか、死なぬまでも交通違反だと知っているからです。人対人なら反対車線を歩いても死ぬこともなければ、罰金をとられることもない。
 血相変えたヤツラがドドッと上がってくるので、降りようとしていた人は我が意に反して反対車線を選ばざるを得ません。

 ある人にこういう話をしたら、そんな細かい、どうでもいいようなことにこだわりを持つ私がおかしい、ということをいわれましたが、おかしかろうが、妙竹林だろうが、悲しいものは悲しいのです。

 北小金駅南口から徒歩十分のところに松戸市立図書館の小金分館があります。蔵書はさほどないので、引っ越してきた直後に覗いてから、行っていなかったのですが、散策の途中にまたブラリと寄ってみたら、小さい図書館なのにCDの貸し出しがあり、桂枝雀の「落語大全」があるのを見つけました。
 ふと聴いてみようかという気になって借りてきました。上方落語なので、「枝雀」という名前と「すびばせんねぇ」というギャグを識っているだけで、寄席はもちろんテレビやラジオでも親しく接した記憶はありません。

 二代目桂枝雀。昭和十四年、神戸・灘の生まれ。家計が苦しく、定時制高校に通って二十歳で神戸大学に入学。翌年三代目桂米朝に入門。平成十一年四月、心不全で死去。五十九歳。

 得意とした「ちしゃ医者」や「饅頭こわい」を聴きながら、何度も笑わされました。しかし、笑いながら悲しくなりました。天寿をまっとうしたのならいいけれども、鬱病に悩み、自殺を図ったのが原因で、意識不明のまま心不全を起こして亡くなった人だからです。
 五十九歳という年齢は噺家としてはいかにも早い死です。

 死とCD、という関係からルチア・ポップ、ジャクリーヌ・デュ・プレとジャニス・ジョプリンを連想しました。ルチア・ポップは以前のブログで取り上げました。

 ジャクリーヌ・デュ・プレ。
 イギリスのチェリスト。1987年、四十二歳という若さで死去。死因は多発性硬化症。私は「Les Introuvables de Jacqueline du Pré」というCD6枚組のボックスセットを持っています。収録曲はバッハ、シューマン、サン=サーンスなど。
 私はクラシック音楽を聴くのも趣味のうちですが、バッハはほとんど聴かないのに、彼女が演奏する無伴奏チェロ組曲だけは聴くのです。

 そしてジャニス・ジョプリン。
 初めてジャニスの歌を聴いたのは私が大学三年生(留年して学部には進めずにいたので、正しくいえば、大学三年目です)のときでした。とんでもない歌手が出てきたものだと舌を巻いたことを憶えています。
 そして、名前を識ってから、わずか一年後に迎える死。
 音楽がかなりの比重を占めていた私の青春時代を、まっしぐらに駆け抜けて行った人になりました。

 それから四十年。
 私の所蔵はLPからCDに変わりましたが、ほんのときたまモソモソと引っ張り出しては聴くことがありました。ときたま、といっても、五年か十年に一度ぐらい……。
 ところが、去年の終わりごろか、今年になってからか、何かの拍子にジャニスが歌う曲のメロディがポッと頭に浮かぶようになり、最初は誰が歌う歌だったのか見当もつかず、やがて、「そうじゃ、ジャニスじゃ」と思い当たって、CDを入れた段ボール箱を引っかき回し、五枚持っているのを次々とプレーヤーに押し込んで、早送りで見つけたのが「コズミック・ブルーズ」という曲でした。

 曲調がマイナーからメジャーに変わるところ、私はなぜに感極まるのか、涙ぐんでしまいます。
 ジャニスには「フェアウェル・ソング」という白鳥の歌を思わせるナンバーがありますが、私はいつごろからか「コズミック・ブルーズ」こそがこの世への別れの歌だったのではないかと思うようになりました。

 You Tubeに、亡くなる年に歌ったヴァージョンがありました。

 この歌声を聴きながら、曲調がマイナーからメジャーに変わるところで、私は再び涙ぐんでしまいます。

 昨日は午後から雲が出ましたが、今日は朝から快晴。
 雨で濡れた落ち葉も乾いているかもしれぬ。いよいよ廣徳寺の作務に出向くべきか、と玄関前にこしらえてある「探査装置」をひっくり返してみますと、中はまだ湿っていました。
 探査装置などというと大袈裟ですが、玄関前に生えている茗荷(ミョウガ)が枯れ始めたので、茎を抜いて積み、小規模ながら廣徳寺の落ち葉置き場と同じようなものをこしらえたのです。これを見れば、廣徳寺に出向かなくても、落ち葉がごみ袋に詰められる状態まで乾いているかどうかがわかるというわけです。

 洗濯は昨日のうちに済ませたので、今日は布団を干し、その間に散策に出ました。タオルと石鹸とシャンプーをトートバッグに入れて……。
 去年のブログを読み返していたら、去年の十一月二日に初めて石蕗(ツワブキ)の花を見ていました。そこで、タオルと石鹸とシャンプーを使う前に、廣壽寺へ石蕗(ツワブキ)を見に行ってみようと思い立ったのです。



 富士川沿いの背高泡立草(セイタカアワダチソウ)の群落。
 初めて所帯を持った二十六歳の秋、この黄色い花がなんの花であるとも知らず、近くの公園から刈り取ってきました。花瓶(といっても、インスタントコーヒーの空き瓶でありました)に飾ってドライフラワーになりそうかな、と素人考えで眺めていたところ、花が枯れて乾くころには部屋の中が大変なことになりました。

 この富士川でも雨の降ったあと、なぎ倒された葦の上に缶コーヒーの空き缶などが乗っているのを目にするのも悲しい。



 廣壽寺の石蕗(ツワブキ)です。
 今年は曼珠沙華も金木犀も、開花が一週間ほど遅れていました。石蕗も同様のようです。真ん中にちょっとだけ黄色い顔を見せた花が写っているのですが、まだ項垂れた状態です。



 北小金駅と図書館分館の間にこんなものがあります。小金バスランドという銭湯です。トートバッグにタオルと石鹸とシャンプーを入れたのはここに寄るため。
 狭いながらも露天風呂もあります。家の風呂では絶対に味わえぬ伸び伸び感。極楽です。

 新松戸から引っ越したあと、スーパー銭湯へ行く気を喪失しました。前は新八柱での乗り換え一回でしたが、今度は二回乗り換えることになったので、面倒臭くなってしまったのです。代わりにこの銭湯が近くなりました。



 銭湯の帰り、花屋さんでハーブの苗を買って、早速庭に移し替えました。
 左からブッシュバジル、オーデコロンミント、ペパーミント、クールミント、レモンバーム、コリアンダー。各鉢とも¥98均一でした。
 チャイブも買いましたが、太陽の光が好きではない種類のハーブなので、別の場所に……。後ろの細いものは前からある韮(ニラ)です。

 


 こちらも前から植えてあるローズマリーとバジル。下はクリーピングタイム。



 苗床に種を播いた、上からレモンバーム(二列)、桔梗(二列)、カモミール、ローズマリー。下の二つは生育が思わしくありません。

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講習会受講疲れ

2010年10月03日 15時54分30秒 | 日録

 先月の二十九日から千葉県シルバー人材センター連合会という団体が主催するシニアワークプログラムが始まりました。宝籤では下一桁しか当たったことのない私が競争率3・3倍! という難関を突破して射止めた講座です。新しい仕事に臨むための基礎知識をいろいろ教えてくれます。

 講習会は先月の二十九日から今月の十四日まで、十日間にわたってあるのですが、二十九、三十、そして今月一日と、わずか三日間受講しただけで疲れてしまいました。
 各日午前十時から午後四時まで、昼休みを除く五時間の講義があって、三人がけの机を前に坐って講師の話に耳を傾けるのです。ずっと同じ姿勢を強いていたためか、身体の節々も痛い。
 身体が衰えるのを少しでも先延ばしにせむと、一日一万歩を目安に歩くことを心がけていますが、ただ歩いているだけでは駄目なのだなぁと思い、ヨガでも始めますか、と自分に呟いたりしています。
 二日目、三日目になると少し慣れたみたいですが、初日は家に帰ったあと、夕飯を食べるのもかったるいぐらいグッタリしてしまいました。それもそのはず、講師と何時間も睨めっこするのは、多分大学生のとき以来でしょうから、四十数年ぶり……。

 初日、講義が始まるのに先立って、受講者の自己紹介タイムが設けられました。
 苗字の五十音順に席がつくられています。
 私の苗字はア行なので、席も前のほう、自己紹介の順番も早めに回ってきます。別に笑いを取ろうという気はありませんが、つむじ曲がりなので、人と同じようなことは言いたくないという性格です。しかし、自己紹介をさせられるというのはその場で知らされたことだったので、下準備もへったくれもありません。
「では、アイウエオ順に……」と指名され、あっという間に自分の順番がきて、何一つ面白いことをいえぬままに終わってしまいました。

 面白い自己紹介だったというと語弊がありますが、真ん中あたりで立ち上がった一人がおもむろに、仕事を辞めて何か月か経つと、どんどん気持ちが沈んで行き、このままでは精神的に追い詰められてしまうと思ったときに、この講習があると知って応募をした、というようなことを告白しました。

 私は「ほほう、なるほど。気持ちはよくわかる」と思って聞きましたが、この人の発言で座の雰囲気がほぐれたのでしょう。「私も、私も」という人が出てきました。中にはかなり深刻な告白をしてしまう人もおりました。一人一人の配偶者や家族の有無はわかりませんが、全員が平穏な年金生活を営んでいるのではない、ということだけは確かです。

 講習の受講者は四十名。年齢が六十歳から六十五歳まで、と限定されているので、同窓会に似ています。しかし、休憩時間がきて、用足しに行く人や飲み物を買いに行く人を見ていると、同じ年代といっても、歳の取り方はまさに十人十色、千差万別だなぁと思います。背筋がピンシャンして、肌も若々しく見える人もいれば、もう棺桶に片足を突っ込んでいるのではないか、と思える人もいます。



 受講中は写真を撮ることができないので、これは一日の講習が終わった直後の写真です。

 二日土曜日、講習は休み。天気もよかったのに、受講疲れでグッタリしてしまって、散策に出る気にはなりませんでした。今朝は少し気力が戻ったので、久しぶりに早朝の散歩に出ました。



 富士川親水広場では太極拳の集まりがありました。



 近くにはドッグランがあります。何度も通ったことがありますが、犬がいるのを見たのは初めてです。
 二頭ともいまどきはあまり見かけないコリー犬です。両方とも♂で、支柱におしっこをかけながら歩き回っているだけで、全然ランはしておりません。



 本八幡・コルトンプラザの「手仕事の庭」で名前を覚えたばかりの黄蜀葵(トロロアオイ)。常磐線脇にある市民農園で。

 


 常磐線の線路に沿って坂を上って行くと、香取神社がありました。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)。江戸時代初期の石造物があるという説明板が建ててありますが、創建はいつなのか不明です。
 画像下は神社境内にいた猫殿。まだ仔猫のようです。



 無患子(ムクロジ)の樹のある農家の前を通りました。この樹は観音寺の樹と較べると、実の落ちるのが早いようです。道路にはまるで誰かが敷き詰めたようにビッシリと実が落っこちていました。

 この家の入口近くに作業小屋のような建物がありました。無患子の写真を撮ったあと、ふと視線を下げたら、その小屋の前に置かれた椅子に腰かけて、煙草を吹かしているオヤジがいました。
 目が合ってしまったので、挨拶をして訊ねてみました。この家の主でした。
 やはり自然に生えたのではなく、先代が植えたということでした。高くなり過ぎたので、一度伐ったことがあるといっていました。
 むろん、在の人です。ここは千葉県の流山市ですが、話を聞いていると、語尾がどんどん上がって行く茨城の言葉に似ています。



 いつも眺める富士川近くの民家の桔梗殿です。



 これは我が庵の桔梗殿。代替わりしながら、何年も手許に置いていますが、十月になっても咲いている、というのは記憶にありません。それどころか、まだ蕾すらあります。
 右下は今朝の散策途中で拾った柿です。 



 本土寺参道の曼珠沙華は満開期を過ぎつつあります。しかし、我が庭の曼珠沙華はこれからです。まだ花を開いていない茎もたくさん顔を出しています。

 インターネットで注文しておいた桔梗とハーブの種が届きました。
 早速苗床をつくって種を播きました。まだ芽も出ていないのに、移植するときに備えて庭を掘り返しています。来年の春はささやかながらも桔梗畑とハーブ畑が出来上がっているでしょうか。
 朝夕はめっきり涼しくなってしまったというのに、夕方になるといまだに蚊が出ます。ピシャリピシャリとやりながら畑地づくり。

※昨日、ドラゴンズの優勝が決まりました。ファンとしては悦ぶべきなのですが、今年は本命と思われたジャイアンツが勝手にずっこけたという印象があって、なんとなく感激も薄いのです。ヤクルトにボロ負けに負けたのに、それで優勝かよ、というのも感激を薄くした原因かもしれません。
 一方、ラグビーのほうはトヨタ自動車が開幕4連勝。こちらはもろ手を挙げて万歳をしています。もう一つの応援アイテム・メイジは先週、今週とお休み。

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