桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

田おこしと代かき

2011年04月29日 22時49分35秒 | 風物詩

 上部消化器の内視鏡検査を受けました。いわゆる胃カメラです。
 検査入院を勧められていながら、なかなか腰を上げなかったくせに、何日か前から出るようになったおくび(ゲップ)が気になったので、以前入院したことのある新松戸の病院に行きました。
 血液検査をしてもらったら
、胃潰瘍が再発している疑いがある、といわれて内視鏡検査を受けることになったのです。
 結果は見立てどおりでした。ただ、再発して間もなかったようで、投薬で治せるだろうという診断で終わりました。

 内視鏡を嚥むのは四度目です。同じ病院なのに、前三回とは少しばかり勝手が違っていました。
 検査に備えて前夜九時過ぎから水以外摂取してはいけないのは同じです。検査室に入って喉の麻酔薬を飲み、左半身を下にして横になるのも同じです。
 身体を横たえると右腕にブスコパンという注射を打たれました。前三回にはなかったことです。
「なんとかかんとかをを注射しまーす」とナースにいわれ、チクリとやられましたが、その刹那は何をいわれ、なんの注射だったのかわかりません。検査が終わったあとの説明で、検査をしやすくするために胃の働きを弱める「抗コリン剤」だったと知らされました。

 検査室内が明るかったのも前とは違っていました。
 内視鏡検査に慣れた、などということは自慢にはなりませんが、慣れたはずなのに、今回がもっとも苦しいように感じられたし、気のせいか時間が長いようにも思えました。
 そしてこれも気のせいかどうか、喉の麻酔が弱いようにも思えました。
 検査が終わるまではとくに感じなかったのですが、終わったあと、以前は麻酔が残っていて、口が強張ってしばらくは物もいえなかったのに、今回はそんなこともありませんでした。苦しかったのはそういうこともあったのかもしれません。

 検査を終えたあと、診察を受けました。顔は憶えていませんが、入院していたとき、回診にきたことのある女医でした。
 一年半前に入院したとき、私の主治医になり、その後の通院で私にリンパの障害があることを見つけてくれた医師は別の病院に移ったようでした。

 前も服んでいたガストロームという胃の粘膜を保護し、壊れた組織を修復する薬とタケプロンという胃酸の分泌を抑える薬を服んで、様子を見た上、再度内視鏡を嚥むことになりそうです。しばらくは湯島と新松戸の病院を掛け持ちで通わなければなりません。

 多分……再発しているな、と感じていたので、それがはっきりして、気分的にはすっきりしました。目の前をぼんやりと覆っていた霞がとれたような気になっています。



 富士川べりの親水広場では太極拳の集まりがありました。
 


 葉の出るのが遅い無患子(ムクロジ)にもようやく芽吹きが見られるようになりました。



 藤の花が咲き始めているのも目にしました。



 衣替えの季節です。
 冬の布団と夏用のタオルケットを干そうと思っているのですが、陽射しのある日は風が強く、風のない日は陽射しが弱い、という日々がつづいています。

 一昨日は夏を思わせるような雲が出たので、羽毛布団を干したあと、富士川べりを散歩しておりましたら、にわかにかき曇って雷鳴が轟きました。散歩を中断し、慌てて家に戻ったのですが、間に合いませんでした。
 幸いにしてパラパラときたと思ったらすぐに上がったので、事なきを得ましたが……。

  

 富士川沿いの田圃では田起こしと代かきが始まりました。今年は田植えを見てみたい。



 我が庭ではタイムの花が満開になりました。

「とんだりはねたり」さんという方から、矢部駿河守の墓に関してコメントをいただきました。
 私と同じように深川・浄心寺へ墓を捜しに行かれたようですが、見つけられなかったようです。もしかしたら矢部さんの墓は浄心寺にはないのではないかという疑いも兆しますが……。
「とんだりはねたり」さんが矢部さんを罪に落とした鳥居耀蔵の墓についても書いておられたので、思い出したことがあります。鳥居の墓は東京・駒込の吉祥寺というお寺にあります。
 ここにお参りに行かねばと思いながら、すっかり忘れていた、ということを思い出したのです。
 鳥居の墓参りではありません。柴田錬三郎さんのお墓があるのです。

 私は柴錬さんとは一度お会いしただけですが、ちょっとした因縁がありました。いつか墓参に行こうと思いながら忘れていました。リンパの診察で通っている病院からならさほど遠くないので、来月の通院の帰りに足を延ばしてみようと思います。

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慶林寺の花と猫五題

2011年04月22日 17時20分30秒 | 地域猫

 松戸市役所へ出向く用があった帰り、新松戸で降りたあと、庵までは歩いて帰ることにしました。
 途中下車したのは北小金のスーパーでは手に入らないもの(ガーリック入りマーガリン)が新松戸のスーパーなら置いてあるからなのです。



 新松戸駅から我が庵までは2キロ少々、三十分もかかりません。
 途中の呑み屋街には十匹近い猫殿が棲息している一画があります。この日、見かけたのは三匹。去年四月ごろから通っていないので、メンバーは入れ替わっているものと思われます。



 常磐線と武蔵野線を結ぶ武蔵野貨物線に沿って歩き、常真寺という日蓮宗の寺の横を北小金の高台に向かって上って行きます。



 上り切ったところにこんな猫殿が待ち構えていました。あまり通ることのない道でもあり、初めて見る猫殿ですが、私がおやつを持っていると見抜いたものか、私が立ち止まると歩み寄ってきました。



 しゃがみ込んでおやつを置いていたら、いつの間にか左の猫殿も現われました。
 次から次へと猫殿が現われるのはうれしくもあり、愉しくもありなのですが、呼び名をつけている暇がありません。



 慶林寺前に差しかかると、すでに北小金駅も間近です。慶林寺の住持様はまだお顔も見たことがありませんが、花が好きな方のようです。

 50メートルほどの参道には珍しい花もあり、これはその一つの紅花常盤万作(ベニバナトキワマンサク)。中国原産の常緑樹だそうです。挿し木で繁殖するそうなので、剪定の時期ににでも訪ねて、枝をいただこうかと考えています。



 もう一つは御衣黄(ギョイコウ)桜という、これも珍しい花です。開花初期の花色はもっと緑がかった色で、貴族が着る萌葱色の衣服に近いことから、その名がついたといわれています。

 どんな花を咲かせるものか、まだ葉を出したばかりなので想像もつきませんが、別名を「おたふく」とも呼ばれる渦紫陽花(ウズアジサイ)も植えられています。

 つづけて猫に会ったので、もしかしたらうさ伎(うさぎ)に会えるかもしれないと思い、北小金駅を通り抜けて遠回りすることにしました。



 北小金駅からおよそ600メートルほどの距離のアパート前に蓬(ヨモギ)の猫殿がいました。おやつを置いてふと気づくと、いつの間にか右の猫殿が姿を現わしていました。
 左の緑色の金網の向こうは奥行きが40メートルほどもある広い駐車場です。そこにはなんと五匹もの猫殿がいました。

 このアパートからうさ伎の棲息している梨畑までは350メートルぐらい。小春の棲息する香取神社までは400メートルぐらいです。



 会うのは何日ぶりになるのか、うさ伎もいました。



 こちらは五回に四回は会うようになった小春です。



 キウイの花の蕾。間もなく開花を迎え、ゴールデンウィークのころには咲き揃うそうです。

 今日は二十四節気のうち、穀雨です。我が地方では今朝の日の出は四時五十九分。六月なかばまで、日増しに日の出の時刻が早くなります。

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長禅寺三世堂御開帳

2011年04月19日 19時55分48秒 | 寺社散策

 入院するのを少し延期して取手へ行ってきました。



 昨十八日、取手の長禅寺では百観音大祭が開かれ、三世堂の内陣御開帳があったのです。
 内陣を拝観できるのは毎年一日限り。四月十八日だけなのです。



 長禅寺下の通称・大師通り。
 いつもは人通りすらまばらなのに、露店が出ていました。画像右下には石段があって、そこ
を上ると境内です。 



 本堂左前の清涼亭ではお茶の接待がありました。
 清涼亭という名は取手から近い牛久で生涯を過ごした画家の小川芋銭(1868年-1938年)がつけたといわれています。

 長禅寺は承平元年(931年)、平將門が勅願所として創建したと伝えられている臨済宗妙心寺派のお寺です。ただし、創建当初は現在の取手競輪場近くにあって、現在地に移ったのは江戸時代初め。
 内陣の御開帳がある三世堂が建立されたのは鎌倉時代に入ってからで、文暦元年(1234年)のことです。織部時平という人物が將門の守り本尊と伝えられる十一面観音像を安置するために「四間四面御堂」を建立しました。それが三世堂です。




 普段はひっそりとしている三世堂も、この日ばかりは幔幕が張り巡らされて、華やいで見えました。八重桜もちょうど見ごろを迎えていました。
 三世堂は外から見ると二層の建物に見えますが、内部は三層になっており、順路に沿ってお参りすると往路と復路が途中で交差することなく堂内を一巡できる「さざえ堂様式」で建てられているお堂です。



 入口を入ると、正面奥に平將門の守り本尊・十一面観音が安置されています。
 



 一層目には坂東三十三か所観音札所、二層目には秩父三十四か所観音札所、三層目には西国三十三か所の各本尊の、それぞれの写しが安置されています。合計百体の観音像を安置することから、百観音堂とも呼ばれています。
 坂東三十三か所第二十三番正福寺(と書かれていますが、茨城県笠間市にある観世音寺の誤り)の千手観音。



 二層目の秩父三十四観音。
 



 三層から望む山門と大師堂(左)。一般の人がこの景色を堪能できるのも四月十八日だけ。



 三世堂の風鐸(ふうたく)です。普通型。
 中央に望む屋根は本堂、右は霊山堂。



 私は観音信仰は持っていないので、足早に巡りましたが、立ち止まっている人がいると、通り抜けるのに苦労するような狭さです。
 信仰心の篤い老若男女、善男善女が引きも切らず……といいたいところですが、「若」は皆無、「男」もほぼ皆無。




 ほぼ直角に近いような階段を上り下りしなければなりません。
 なかなかの苦行でありました。

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東福寺残桜

2011年04月15日 18時44分40秒 | 

 半袖シャツを出すか ― と思うほどの陽気がつづいています。
 毎年、桜が咲く季節には、必ず花冷えという寒い日があるものですが、今年はなかったような……。実際はあったとしても、あったことなんぞ忘れてしまいそうなほどのいい天気がつづいています。

 一昨日、新坂川の桜を観ていたとき、そういえば去年の晩春は東福寺の桜を観に行ったんだな、と思い出していました。
 流山市鰭ヶ崎(ひれがさき)にある東福寺まで、前の住まいからなら歩いて二十五分ぐらい。今度は少し遠くなって三十五分。
 暖かいというより暑いほどの陽気に誘われて、ブラ~リブラリと行ってきました。



 距離が遠くなっただけでなく、入口も変わりました。前は仁王門になっている山門をくぐって入るのが一番近道でしたが、今度は裏手から庫裡のほうに出るのが近くなりました。
 これまで庫裡は覗いてみたこともなかったので、「当山の沿革」を刻んだ石盤があるのに、初めて気づきました。



 山門(画像右の青いシートがかけられているところ)は修理中でした。



 風鐸(ふうたく)を撮影、と思ったのですが、東福寺には風鐸がありませんでした。



 代わりに釣り燈籠を……。

 


 庫裡につづく中門。真ん中の龍の彫り物を挟んで、こちら側と向こう側に左甚五郎作と伝えられる鴨の彫り物があります。



 境内から250メートルほど離れた奥の院にある歴住の墓所を訪ねました。
 無惨!
 五輪塔ばかりでしたが、地震の被害を免れたのは中央の一基だけのようです。右の二基は崩れてはいないものの傾いています。
 いくら大地震だったとはいえ、すでに一か月以上が経とうというのに、まったく手つかずというのはちょっと寂しい。



 桜の花が終わりかけると、もうこんな季節です。

 あっと思う間もなく暑い夏がきて、また寒い冬がくる。そうして、あと何年残されているのかわからないが、私に残された数年もあっと思う間もなく終わるのであろう。それまでに為すべきことはありやなしや……もちろん、あるのではありますが、為しおおせるかどうか。
 そう思いながら、鯉幟を見上げておりました。

 ちょっとセンチメンタルな気分になって歩き始めましたが、やがて気分はいっぺんに霽れました。
 つづけて二か所で、三匹ずつ六匹もの猫を見たのです。

 最初は一棟のアパートの通路奥。
 ゴマフアザラシのような被毛の猫を見たと思ったら、それは母猫であったのか、まったく同じ被毛の仔猫が二匹ヨチヨチと出てきました。
 鞄からミオを入れたタッパーウェアを取り出して振ってみたのですが、こちらを見るだけで、やってこようとはしません。蓋を開けても、遠過ぎて匂いが到達しないようです。

 うーむ残念也、と諦めたら、そこから50メートルも離れていない駐車場で二匹の猫を見ました。こちらは黒白と白の成猫でしたが、やがて車の下に隠れてしまいました。
 金網の柵があって、私のいた道路からは少し距離がありました。タッパーウェアを振ってみましたが、残念ながら気づかぬらしくて出てこない。
 鞄にしまったあと、ふと見ると、じっと私を見ていた猫が別の場所にいました。こちらは雉(きじ)、あるいは蓬(よもぎ)と呼ばれる毛色でした。
 鞄にしまったばかりのミオを取り出そうと慌てた私の所作に驚いたのか、この猫もクルリと身を翻して車の下に隠れてしまいました。
 いずれも遠かったので、写真を撮ることすらできなかったのが残念です。

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少し遅い花見

2011年04月13日 21時46分56秒 | 風物詩

 一昨年入院して、しばらく通院していた新松戸の病院で書類をもらわねばならぬ用ができたので、行ったついでに新坂川の桜を観てきました。
 新松戸と馬橋の間、新坂川の左岸およそ500メートルにわたって桜の並木があるのです。
 いまの住居からは遠くなりましたが、前の住居からなら歩いて十分もかからなかったのに、私はいつも機会を失していて、桜の季節に訪れるのは今回が初めてです。
 見ごろは先週末ごろだったはずです。
 それからずっと暖かい日がつづいたので、もしかしたら葉桜を観ることになるのかも、と思っていましたが、遅い春のおかげ。それなりの花見を堪能できました。



 桜の花の向こうを流鉄が走り抜けて行きます。



 すでにかなり散っている樹もありましたが、散った花びらが水面にたゆとう、というのもほんのちょっと時節が外れたよさです。
 昼どきを少し過ぎた時間だったので、ベンチに坐って弁当を開いている家族連れがいました。その家族が、ということではないのですが、なぜか「長屋の花見」という落語を思い出しました。

 最初に聴いたのは誰の噺だったのか憶えていませんが、江戸落語だと思っておりましたら、上方落語なのだそうです。江戸では「長屋の花見」、上方では「貧乏花見」。
 この噺を江戸で得意としたのは彦六、小三治。上方では米朝、枝雀。

 
 


 桜の花と文化、桜の花と日本人、その他もろもろ……考えれば考えるほど不思議な花です。



 堤の桜が終わるところから萬満寺まではさほど遠くないので、足を延ばしました。



 本堂は二層になっていて、どちらの庇にも風鐸(ふうたく)がありましたが、これは下の庇です。飛鳥型の変形です。



 萬満寺本堂の花頭窓。



 本土寺の参道では山吹が咲き始めていました。



 我が庭に一本だけムスカリの花がありました。丈の高い野草に囲まれているので、気がつきませんでした。

 毎日のように地震があります。ミシミシ、ガタガタッとくると、うんざりするような問題ではないのですが、もういい加減にしないかと、うんざりしています。
 うんざりを増幅させるのは、NHKが(印象としては)一日じゅう地震関連(とりわけ放射能)のニュースを流していることです。
 ことあるごとに、なんとかマイクロシーベルトといい、マイクロシーベルトといってはいるが、大部分において人体に影響はないといっているのだから、風評被害があるとしたら誰のせいか、とうそぶいているように聞こえますが、風評被害の元をつくっているのは貴様たちではないのか。

 テレビから消えると宣言したのだから、もう出ていないだろうと思った池上某が消えずに出ているのも鬱陶しい。
 なんとかのCMで、背中を丸め、まるで死に神を見ているようだったオシムが消えたらしいのは喜ばしいことですが、消えずに毎日毎日流されている詩があります。その詩人にはどちらかといえば好意を持っていたのですが、同じことを繰り返されると鬱陶しくなります。
 中原中也でも立原道造でも、朝から晩まで耳元で囁かれたら、うるさいだけです。

 早晩入院しなければならないことになりました。
 といっても、検査入院です。
「いろいろご都合もあるでしょうから……」と医師先生。いつから入院するか、下駄を預けられているのは患者である私です。
 ご都合などあるはずもないので、明日からでもよいのですが、いつからにしようか、下駄を預けられてしまうと、ご都合が悪いような気になって、決めかねてしまいます。
 検査入院ですから、入院することになっても、このまま往って還ってこない、ということはないと思います。が、入院することになれば、しばらくブログの更新を休みます。

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梨の花咲く

2011年04月11日 19時40分26秒 | 

 今朝、我が庭には地割れ(?)が起きていました。



 桔梗が芽を出そうとして引き起こした地割れです。

 その新しい芽を取り囲むように、下方から左側にかけて芽を出しているのはドクダミです。
 去年引っ越してきたとき、庭一面に茂っていました。
 エアコンが苦手な私は、夏は一日じゅう窓を開けっ放しにしておかなければなりません。すると、ドクダミ特有のあの臭いがたまらないので、能う限りの掃討作戦に出て、かなりの量の地下茎を引き抜きました。しかし、引き抜いた地下茎のさらなる下に、別の地下茎があったのだと思われます。
 再び掃討作戦を敢行するためには、すでに移し替えの終わった樹々やハーブ類をすべて掘り返さねばならないから、それは無理だと納得し、諦めもしたので、今年は伸びるのに任せておいて、その代わり健康茶や薬湯にさせてもらおうかと考えています。
 ドクダミ茶の作り方 ― こんなページがありました。

 現金なもので、陰干しの仕方などを目にすると、これまでは抜いたり、切ったりしてもすぐに生えてく
るのがいかにも憎々しかったのに、早く伸びて花を咲かせぬものか、と待ち遠しくなったりします。

 河津桜はとうに散って、青々とした葉を出しています。辛夷(コブシ)も白木蓮も散り始め、満開を迎えたばかりの桜もすでに散り始めです。



 代わりに梨の花が咲き始めました。



 猫のうさ伎(うさぎ)がときおり日なたぼっこをしている梨畑です。数日前の朝の散歩では全体を見渡しても数輪という状況でしたが、今日はこんな花盛りになっていました。



 所有者は同じようですが、こちらは別の梨畑。まだ咲いていませんでした。



 こちらもまったく咲いていない……と思ったら、違っているのも道理。キウイ畑でした。花が咲くのは五月になってからのようです。

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2011年四月の薬師詣で・松戸市

2011年04月08日 19時01分42秒 | 薬師詣で

 今日八日は薬師如来の縁日です。
 江戸川区の一之江というところに妙音寺という真言宗のお寺があり、薬師堂があると知ったので、行こうかと考えていましたが、早朝、ちょっぴり風邪気味だったのをあなどって散歩に出たのが祟りました。南風が吹いて暖かかったことも災いしました。
 早足を心掛けて歩いているうちに、かなりの汗をかいていました。汗をかくなんざァ、いってェいつ以来のことやら、などと思いながら帰ってきて、久しぶりに火照った身体を冷ましているうちに、ひどい風邪をキャッチしてしまったようなのです。

 畳んだばかりの布団を布いて横になりました。
 さっきまで暑い暑いといっていたのが嘘のような寒気を覚えました。しばらくワナワナと唇を震わせ、ガタガタと身体を震わせたあと、なんとか暖まってきた、と思うころ、いつしか眠っていて、目が覚めたら午後一時でした。空はいつの間にか曇っていて、ときおりゴウゴウと鳴る風の音も聞こえます。
 起き上がると、身体は朝よりは楽になっていました。
 が、東京まで出かけるという無理はやめて、目的地を地元の慶林寺に変更することにしました。



 北小金駅北口近くにあって、我が庵から徒歩十二分ぐらいです。本尊は大福薬師瑠璃光如来。すなわち薬師如来です。

 今日四月八日はお釈迦様の降誕会(ごうたんえ)でもあります。いわゆる花まつりです。
 毎月八日の薬師如来の縁日は、これまで三か寺に行って、いずれも何も催しはない、ということで納得していますから、何もなくともよいのですが、仏教寺院であるからには、今日だけはお堂の扉ぐらい開けていて、念願の薬師如来が拝めるのでは……と、密かな期待を胸に行ったのでありましたが……ときどき閉まっていることのある門扉が開いていたほかは、いつもとまったく変わりがありません。参拝する人影もありません。
 勤めに出なくなって以来、曜日の感覚をなくしかけているので、もしかしたら、今日は四月八日ではないのか……と我が頬をつねってみたり。



 本堂裏手の墓所。一番近いところに歴住の墓所がありました。
 新しく建てられた中央の「當寺開山歴住塔」を除くと、刻まれた文字が判読できたのは右側にあった一基だけ。
 實宗積山上座という名と宝暦四年(1754年)という年号が読み取れました。このお寺が創られたのは戦国時代の永禄八年(1565年)とされていますから、随分後代の人です。他の墓石は摩耗してしまっていて、文字が刻まれた跡すら見分けがつかないほどでした。

 もう一度本堂前に戻りました。柵の脇をすり抜けて階段を上がって行けないこともないのですが、柵を立ててあるということは、やはり上るな、ということでありましょう。扉の向こうにおわすであろう薬師如来に手を合わせて下山することにしました。

 風邪の具合が悪くなるようなら、すぐに帰ろうと考えていましたが、昨夜と合わせれば十二時間も眠ったおかげか、さほどのこともありません。長養寺と華厳寺へ足を延ばすことにしました。

 長養寺は慶林寺から歩いて二十四分。我が庵からなら十五分ぐらいですが、足を向ける機会がありませんでした。去年四月四日に参詣して以来、一年ぶりです。


 曹洞宗・長養寺。本尊はお釈迦様です。
 広いとはいえない境内ですが、本堂左には坐禅堂があって、毎日曜日には朝五時から参禅会が開かれています。



 間違いなく今日は四月八日でしたが、花まつりという札が提げられているのに、「まつり」が開かれているような雰囲気がありません。
 右下に「四月八日 参拝御自由」と記されていますが、たまたまかどうか、参拝に訪れていたのは私一人でした。



 長養寺には風鐸(ふうたく)がなかったので、花頭窓(かとうまど)を撮しました。

 このお寺の墓所は道路を挟んだ別の場所にあります。歴住の墓所を捜してお参りするのが第一の目的で訪ねましたが、見当たりませんでした。ないはずはないので、どこか別の場所にあると思われますが、すでに境内をあとにしていたので、またの機会に……。



 長養寺からわずか三分。真言宗豊山派・華厳寺。本尊は高さ2・8メートル、寄せ木造りの地蔵菩薩で、鎌倉時代の作だと伝えられています。



 小ぶりな風鐸です。この画像でははっきりしませんが、釣り鐘についている乳(ちち、にゅう、とも)と呼ばれる粒々があるので大和型です。
 今日は7~8メートルという強い風が吹いていたのに、不思議なもので、鳴るどころか揺れる気配もありませんでした。



 華厳寺の花頭窓。



 歴住墓所にお参りしました。
 中央は権大僧都法印暁深という名と延宝八年(1680年)という年号が読めますが、他の墓石は判読不能でした。



 華厳寺近くの空き地でこんな色の風信子(ヒヤシンス)を見かけました。
 いつごろから空き地となっているのか定かではありませんが、以前は家が建っていた痕跡があります。何かの都合で売らねばならなかったのか、と思いを巡らせたところで詮無きことを考えました。
 水をやったり雑草を抜いたりしている(なぜか)初老の婦人の幻を見るような気がしました。恐らく丹精込めて育てていたのであろうに……。

 以下は今朝六時過ぎ、風邪気味だったのを押して出た散歩で撮った画像です。三日間、前ヶ崎の香取神社に足を向けていなかったので、行ってみたのです。
 今朝六時台の我が地方の気温は15度。南南西の風7メートル。さすがに冬のコートは脱ぎましたが、こういう気温でも手袋だけは欠かせない。



 三日間足を向けていなかったので、猫の小春にはちょうど三日、うさ伎(うさぎ)に到っては先月の二十七日以来、十日以上も見かけていません。代わりに梨の花が咲いているのを見ました。



 三日前まではほとんど咲いていなかった香取神社の桜も一気に開花していました。



 いろは紅葉の花です。この樹は風媒花なので、今日のように強い風の吹く日はきっと喜んでいることでしょう。



 満開の赤花三椏(アカバナミツマタ)。無患子(ムクロジ)のある家で。



 今朝六時半ごろの富士川上空です。午後には曇ってしまいました。

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大谷口・大勝院の山桜

2011年04月07日 17時07分22秒 | 

 白っぽい桜が咲いているのを夢に見ました。
 夢の主題は桜ではなかったのですが、これはなんという桜で、どこに咲いているのだろう、と夢の中で思っていた記憶が残りました。
 しかし、今朝は夢の余韻に浸っている余裕はないのでした。血液検査のために通院しなければならなかったからです。

 五時過ぎに目覚めましたが、朝は相変わらず食欲が湧きません。グダグダ過ごしているうちに、そろそろ服を着なければ……という時間になり、通院のあとはどこかへ行くかという気分になるかもしれないので、昨日のうちにつくっておいた、ゆかりと鱈子の握り飯、それに辻利の緑茶ペットボトルを鞄に入れました。
 握り飯は、起きたときに腹が減っていれば食べて、昼は外食にしてもよいと思っていたのですが、食べる気になりませんでした。

 六時五十分に家を出るときの気温は9度と暖かい。とはいえ、私には依然として両肩のあたりが嘘寒く感じられるので、充分な暖かさとはいえません。
 天気は、晴は晴だが薄雲がかかっているような弱々しい陽射しです。予報ではかなり暖かくなりそうでした。何を着て行こうかと逡巡しているうち、時間がなくなって、結局腹には何も入れずに出動となりました。

 この一週間、鉄分増量剤を服んでいたおかげか、血色素数、ヘマトクリットなどは基準値に戻っていました。また四週間後に通院です。
 診断結果に特段の問題はなかったのですから、喜ばないまでも落胆する要素は何もないのです。しかし、薬をもらって、今日のお勤めも終了という十時過ぎ、すっかり疲れてしまっていました。上野公園の桜……とも思ったけれど、春日通りを下って帰る間にその気も失せて、湯島駅の階段を降りてしまいました。入ってきた電車は運良く常磐線直通だったので、何かを考えるいとまもなくすんなりと乗車。

 電車が下車駅の北小金に近づく直前、車窓を過ぎ去って行く桜の花を眺めているうち、ふと夢の中に白い桜の花が出てきたことを思い出し、すぐに大勝院の山桜を思い浮かべました。
 真言宗豊山派の寺院にある樹齢七百五十年といわれる古木で、北小金駅からだと歩いて十三分ほど。我が庵からだと十七分ほどかかるところにあります。
 新松戸に棲んでいたころはちょくちょく行っていたのに、北小金の住人となってから、なぜだか訪ねるのが間遠になっていました。距離はほとんど変わらないというのに……。



 かつては参道であったと思われる300メートルほどの道を進むと大勝院の山門です。去年十二月なかば以来、四か月ぶりの訪問。



 山門左にある染井吉野。

 


 樹齢七百五十年といわれる山桜です。
 主幹は人間の背より少し高いあたりで立ち枯れて、左上方に枝が伸びているだけです。

 去年は四月四日に、あんず通りへ杏(アンズ)の花を観に行くついでに立ち寄って、花が咲いているのを観ていますが、今年は開花はこれから。夢に出てきたのはこの花ではなかったようです。



 大勝院の風鐸(ふうたく)。
 枝垂れ桜がある清瀧院と同じ真言宗豊山派の寺院であるからか、風鐸も同じ飛鳥型です。夕方、少し強い風が出ましたが、私がいたときには風鐸を鳴らすほどの風には恵まれませんでした。



 例によって歴住の墓所にお参りさせてもらいました。ここはどれも無縫塔ではありませんでした。真ん中が開山和尚の墓石と思ったのですが、示寂の年を見ると、享保十五年(1730年)と彫られていました。
 右側にもっと古そうな墓石がありますが、文字はまったく読み取れません。

 このお寺は天文六年(1537年)の開創とされています。実際はもっと古く、柏市の廣池学園の敷地となっているところにあったのですが、大谷口城の築城とともに現在の土地に移ったのが天文六年。門前に置かれた「大勝院の由来」という石盤にも、それ以前の歴史は記されていません。



 珍しい樹を見つけました。一本の幹に咲いているのに、白、紅、ピンクと三色の花があるのです。樹高は高いものでも3メートルほど。
 東洋錦という木瓜(ボケ)で、人気の高い品種なので各所で見られるとのことですが、私は初めて見ました。墓所の周りに数本ありました。

 


 よくよく見ると、白い花には紅色の筋が入っているもの、ただ白いものと多種多様な色です。

 大勝院のある丘はかつて大谷口城があった一画です。直接行くことはできませんが、裏手が大谷口歴史公園になっていて、城跡の一部が保存されています。
 山門前の急坂を下り、城址を半周して、まてばしい通りに出ました。我が庵に帰るためにはもう一度台地を上らなければなりません。



 台地を上り終えたあと、民家の庭先でまた一本の幹から紅白二種の花を咲かせている樹を見つけました。こちらは梅の仲間のようでした。



 本土寺近くの苺園では苺の直売が始まっていました。ところどころにある無人の野菜直売所にも苺が出ています。
 ここでは1パック700円、デラックスパック1500円とあります。どれぐらいの大きさなのか、見てみなければなんともいえぬが、と思いながら、今日は野次馬根性が出るような心理状態ではなかったので、素通りしました。近いので、機会があればレポートすることにします。

 家に帰ったのは十二時過ぎでしたが、握り飯は結局手を着けることなく持ち帰ることになりました。辻利も薬ができるのを待っている間にひと口口をつけただけです。

※このブログを開設して二年半。前に較べれば多少は解像度の良い画像を載せられる方法があることに気づきました。代わりに画像が大きくなってしまうので、読みにくくなったかもしれません。いつまで経っても満足するものができません。

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異常なし、異常あり?

2011年04月06日 13時14分15秒 | 日録

 桜の開花とともに樹々の芽吹きの季節がやってきました。我が庭の樹々も命を繋いでくれているかどうか、戦々恐々の思いで毎朝を迎えています。

 というのも、千葉北西部の今冬の寒さは、私としても初体験だったほどの厳しさだったからです。
 私が旧庵から持ってきて庭に移し替えた樹は、
古い順に細葉榕(ガジュマル)、枸橘(カラタチ)、柘榴(ザクロ)、櫨(ハゼ)、シークヮーサー(五本)、シェフレラ、柚子、山椒、小手毬(コデマリ)、無患子(ムクロジ)と、十本あります。
 落葉樹であれば、冬は葉を落とすのが当たり前ですが、冬だから葉を落としたのではなく、凍死してしまったのではないかと心配するほどの寒さでありました。



 小手毬はいち早く蕾をつけて、異常がなかったことを証明してくれました。

 


 数日前、山椒(上)と櫨(下)、それに柘榴に新しい芽が出ているのを認めました。



 無患子も芽だろうか、それとも何か別の(よからぬ)ものか、と訝っていた先端が薄緑色に変化してきて、どうやら芽であると思えるようになりました。

 ところが、常緑樹であるシークヮーサーは五本とも葉こそ落としていませんが、冬以降、一様になんとなく葉の色がくすんだようになって、強い緑色に戻る様子が見受けられないのです。
 一つでも二つでも新しい芽を確認できれば安心できるのですが、今日までのところ、芽を出している様子はありません。葉は落としていないので、枯死しているとは思えませんが……。

 もっとも心配なのは細葉榕(ガジュマル)です。
 私の許にきてから二十年と、いま手許にある樹の中では一番付き合いが古いだけに、愛着も一入(ひとしお)のものがあります。
 これも常緑樹なのに、今年の冬は寒さが半端ではないぞ、と感じ始めたころから、葉の端っこに茶変するところが出始め、それが伝染病に罹ったように、見る見るうちに拡がって、雪が降るころには完全に枯れて、すべての葉が落ちてしまいました。
 南方の樹ですから、寒さに強いとはいえませんが、これまでの冬は耐えてきたのです。

 ただ、我が庭ができて、移し替えるまでは鉢植えで、ちゃんと生き延びてきたのです。
 もしかしたら、冬の寒さが原因ではなく、土が合わなかった、ということなのかもしれない。素人が我流でやっている上に、素人の勝手な判断ですから、間違っているかもしれませんが……。
 生命力の強い樹で、剪定した枝を挿し木にすると、すぐ根づきます。重態に陥るとわかっていれば、空いている植木鉢に挿し木をしておいたのに……と後悔の臍を噛んでいるところですが、いまとなってはあとの祭りです。

 細葉榕は沖縄ではキジムナーという妖怪が宿る樹だと信じられています。
 人間と敵対するようなことはない妖怪ですが、住みかである樹を伐ったりすると、家畜を全滅させたり、窒息死させたりすることもあるそうです。
 鉢植えにしておいたのを庭に植え替えようとしていたときにこの話を知ったので、窒息させられては敵わないと、ひときわ心を込めて植え替えたのでありましたが……。
 枝を伐ってみれば枯死したかどうかわかるかもしれない、と思うのですが、鉢植えだったときは好む好まざるにかかわらず、伸び過ぎた枝を伐らなければなりませんでした。折角大地に移し替えるのだから、伸びるままに任せようと植え替えたのです。

 初夏まで待って、新しい芽が出なければ諦めなければならない、ということになるでしょう。
 決して故意に枯らせたわけではないけれど、大事な樹を枯らせてしまった私は万死に値するというので、キジムナーが遠征軍を率いてやってくるかもしれません。

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清明

2011年04月05日 19時17分51秒 | 風物詩

 復活させたばかりの朝の散歩。
 今朝も……と、考えていたら、夜明け前の気温は氷点下でした。北国ではあるまいし、四月になってから氷点下を記録するのは観測史上初めて(?)ということになるのではないか。
 二十数年前、桜が咲いたのに雪、それもかなりの積雪を見る、てぇことはありましたが……。
 朝の散歩モードに入っていたギアを元に戻すより先に、身体はギシギシと音を立てて軋んでいます。
 この寒さは昨日が好天だったので、放射冷却現象が起きたのと昨日の午後から今朝未明まで北寄りの風に変わったためです。

 今日は清明。
 万物が清々しく明るく美しいころ、と定義されていますが、晴れているので明るいことは明るいが、寒いのと清々しいのとは違うだろうと、毒づいてもしょうがない天気に毒づいていたら、昼が近づくころからは字面にピッタリの陽気になりました。



 我が畑のほうれん草です。プロ用の種ではなかったためか、バサッと開いてしまうので、葉を一枚ずつ鋏で切りながら収穫します。
 竹ざるを脇に置いて、料理鋏片手にチョキチョキと……。朝はおひたしにし、昼はカリカリに焼いたベーコンを
熱々になったサラダオイルごとザバッと振りかけて食べました。ベーコン云々は昔々キリンシティというビアホールでよく摘んだメニューです。初めて収穫、初めて食べましたが、味は……とくに悪くない。

 昼が近づくころから気温がグングン上がり始めました。連れて、朝のうちはノッキングばかり起こしていた我が身も動くようになりました。
 昨日もわりと暖かかった(でも、我が地方では平年並み以下)ので、二日前の日曜日はまったく咲いていなかった清瀧院の枝垂れ桜も咲いているだろうと、観に行くことにしました。その前に本土寺参道の桜を……。



 本土寺参道の桜です。昨朝、初めて観たときは一分咲きだったのに、一日半で四分咲きから五分咲きです。



 土筆(ツクシ)がありました。富士川べりで。
 そろそろ土筆の季節だと思い、数日前から富士川を歩くときには気をつけていたつもりですが、見逃していたものかどうか……今日初めて気がつきました。
 一昨年は三月三十日、流山の江戸川堤を歩いたときに、すでに多くが杉菜に変わっているとブログに記しています。やはり今年の春は遅い。



 流山市前ヶ崎・香取神社の桜。
 神社の杜に囲まれているので、太陽の恩恵を受けることが尠ないようです。よって、まだ一分咲きにも到っていませんでした。

 家の中にいると寒いものだから、出かける前はしばらく庭に出て様子を見ます。その結果、冬のコートをジャンパーに替えて、スヌードも手袋もせずに出ました。
 陽射しは燦々と降り注いでいるので、少し歩くと汗をかきます。しかし、庭で様子を見ていたときより風が冷たい。私にはまだスヌードと手袋が必要でした。

 


 今日もうさ伎(うさぎ)は姿を見せなかったのに、小春メだけはおりました。
 おやつを置かぬうちはいつも前に回って、私が立ち去らないように通せんぼをします。キミにあげようとわざわざ寄り道しているのだから、おやつを与えることなく去るわけはないのに……。



 梨の芽。前ヶ崎の台地には各所に梨園があります。つい先日まで伸び過ぎた枝の剪定が行なわれていました。



 清瀧院の枝垂れ桜です。
 二日前はまったくといっていいほど花がなく、花見客も私一人でした。一方、東漸寺のほうは満開に近い状態だったので、大勢の花見客。
 好対照でしたが、今日は平日だというのに、東漸寺がそのまま清瀧院に引っ越してきたか、と思うような盛況ぶりでありました。

 参道入口にある民家で、ミックスらしい白い犬が飼われているのですが、いつも私が出入りするたびに、ワンワンキャンキャンとうるさいので、枝垂れ桜の季節がきたらどうするつもりか、と危ぶんでいたところ、人が出入りするたびにワンワンキャンキャンとうるさいのは変わらない。



 今日もときおり風あり。風鐸(ふうたく)がカラン、しばらく時を置いて、カラン、といい音(ね)を響かせていました。

 三好達治(1900年-64年)さんに「甃(いし)のうへ」という詩があります。

 あはれ花びらながれ
 をみなごに花びらながれ
 をみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音(あしおと)空にながれ
 をりふしに瞳をあげて
 翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ

 廂(ひさし)々に
 風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
 ひとりなる
 わが身の影をあゆまする甃(いし)のうえ

 二十四節気をさらに三つに分けた七十二候では、今日から九日までの清明初候は、玄鳥至(げんちょういたる)といって、燕が南からやってくる季節、ということになっていますが、まだ姿を現わさぬようです。

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復活・朝の散歩

2011年04月04日 17時20分55秒 | 

 一昨日の最高気温19度近いという莫迦陽気から、昨日は一転して8・4度という寒さ。
 さすがに氷点下を記録するという日はなくなりましたが、一度暖かさを経験してしまったあとは、真冬ならきっとありがたいと感じるであろう気温でも、身体のほうは寒い寒いと独り言を呟きます。

 昨年十二月なかば、急に寒くなってから朝の散歩を取りやめにしていました。
 今朝も七時台の気温は6度と決して暖かくはありませんでしたが、気持ちは春を感じているせいか、それとも昨日は終日曇っていたのが晴れたせいか、久しぶりに朝の散歩に出るか、というモードになりました。
 日の出もすっかり早くなって、今朝は五時二十三分。しかし、日の出時はまだ曇っていたので(今朝は四時過ぎに目覚めて、明るくなるまでは布団にもぐり込んだまま、NHKラジオの「ラジオ深夜便」を聴いていました)、外に出るのは自重。七時近くになって庵を出ました。
 朝の散歩に出るのは実に四か月ぶりです。

 このところの散歩は猫のうさ伎(うさぎ)と小春に会うためもあって、富士川へ下るということがほとんどでしたが、本土寺の仁王門前では桜が咲いているはず、と思ったので、反対の方角に足を向けました。
 去年はまだ近くの住人ではなかったこともあり、チラリと観ただけ。このときは本土寺の桜を観ようと散歩に出たのではなく、偶然通りかかって観たのでした。



 辛夷(コブシ)は満開期を過ぎて散り始めです。

 


 まてばしい通りの交差点から仁王門まで450メートルほどある参道のうち、仁王門前の100メートル少々だけが桜並木になっています。まだ一分咲き、というところでした。
 去年観たのは四月四日。あんず通りへ杏(アンズ)の花を観に行き、帰りにこの参道前に出て桜の花を眺めたのでしたが、ちょうど満開でした。それに較べると、今年はかなり遅い。

 


 桜の樹の下には一面の雪柳。
「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」と芭蕉は詠みましたが、この雪柳は100メートルあまりの参道の両側を埋め尽くしているので、結構壮観で、よくよく見なくても気がつくはず。
 しかし、去年は桜に気をとられてしまったせいか、気がつきませんでした。念のため、そのときの写真を捜し出してみたら、ちゃんと写っていました。



 本土寺五重塔遠望。右端に写っているのも桜ですが、こちらはさらに遅いようです。



 一軒の民家の庭先で、変わった花を見かけました。幹に「ヒメコブシ」と書かれた木札が下げられていました。
 すっかり開いた花は色褪せたように見えますが、開花したばかりと思える蕾は木蓮のようです。
 木蓮よりは花の色が薄く、花弁も細過ぎるようなので、やはり辛夷の仲間で、漢字では姫辛夷とでも書くのだろうか、と思いながら写真だけ撮って、あとで調べたら、正しくは四手辛夷(シデコブシ)、別名が姫辛夷という樹でした。

 愛知県と岐阜県、三重県の伊勢湾周辺という限定された場所だけに自生する樹で、小川のほとりなど湿地を好む性質があるそうです。
 準絶滅危惧種の一つで、渥美半島の田原市伊川津町椛(なぐさ)というところには、「椛のシデコブシ」と呼ばれる二百株もの群落があって、国の天然記念物に指定されています。

 この家では、道路に面した場所に植えられ、ほかの木々にはないのに、この樹だけに木札が下げてあったところを見ると、いかに貴重な樹木であるか、家の主(あるじ)が道行く人々に知らしめんと下げたのだろうと想像されます。

 朝から陽光はたっぷりで、日中は暖かくなるかもしれないと思わせましたが、風が冷たいのです。四月になったというのに、私は依然スヌードと手袋が手放せず、写真を撮り終わってカメラをコートのポケットに戻すと、かじかんだ手を揉みほぐしています。



 初猫?
 寒かったので、散歩を早々に切り上げて戻ってくると、こんなんが私の行く手を素早く横切って、民家の庭先に姿を隠すのが見えました。私が近づくと、完全に逃げ去ってはおらず、ごみ箱の陰に坐って私を見ていました。
 さもありなんと思っているので、私はちゃんとミオを持っています。
 たまさか強い風が私から猫殿のほうに吹いていました。タッパーウェアの蓋を開けると、鼻を伸ばして、漂ってくる芳香を嗅ぎ取ろうとしています。その瞬間を狙ってシャッターを押したつもりだったのですが……。

 ちょうど十日前の夕方、我が庵のすぐそばで初めての猫殿を見かけています。その後、会う機会もあるかと思っていましたが、機会は訪れませんでした。私は耳にしていないが、♀猫殿のラブコールを聞きつけてやってきた通りすがりの♂猫殿だったのかもしれぬと考えていた矢先です。
 夕暮れだったので毛色ははっきりしませんでしたが、オイチかと思ったぐらいですから、顔のあたりはもっと白っぽく、身体は薄茶色だったような印象がありますが、果たしていかに?
 

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風鐸の音

2011年04月02日 19時50分27秒 | 

 枝垂れ桜の様子を見に清瀧院へ行きました。樹齢四百年といわれる古木です。

 


 開花はまだでしたが、蕾はいまにも咲きそうにふくらんでいて、写真では味気なく見えますが、実際は樹全体がぼんやりと薄紅色に見えるのです。



 ときおりサッと風が吹き、枝垂れ桜の枝がユラユラと揺れます。カメラを構えたままで風の熄むのを待っている間、風鐸(ふうたく)がカランと鳴るのを聴きました。
 間断なく揺らすほどの風ではなかったとみえて、カランカランではなく、カラン……またしばらく時を置いてカラン……。数十秒から数分というこの間(ま)が……じつ
にいい。

 あまりいい趣味ではないね、といわれるかもしれませんが、私は卒塔婆が風にパタパタッと鳴るのを聴くのも好きです。ただ、程度問題であって、あまりにも強過ぎる風があって、パタパタパタパタと鳴るのはうるさいだけとしか感じられませんが……。

 自分では風は鬱陶しいだけで好きではないと思ってきましたが、風鐸が物静かに鳴る程度の風ならいい。これから、風のある日は風を毛嫌いせず、風鐸の音(ね)を聴く楽しみができたと思うことに致しましょう。
 ただ、風鐸は高いところにあるので、音を楽しんだあと、どんな風鐸が吊されているのかを確認するために、遠眼鏡を持つようにしなければなりません。

 風鐸メーカーのホームページを覗いてみたら、普通型、長方型、大和型、飛鳥型と四種類あることがわかりました。
 全体の形にそれほど差異はありません。模様や穴の形や位置などの違いで呼び名が異なるようです。このメーカーの区分けによれば、清瀧院の風鐸は飛鳥型です。



 本堂前にはかなりの古木と思われる染井吉野があります。開花はまだ数輪でしたが、今年初めて見る桜の花です。

 先月末、東京で開花、高知で開花、というのをニュースで聞きながら、どうも今年は桜と聞いてもピンとこないなあと思っていたら、我が庵近くには桜の樹がないのでした。
 一番近いのは本土寺仁王門前の桜並木で、歩けばものの三~四分ほどではありますが、このところ散策に出るというと、富士川に下りることが多いので、反対方向になるのです。

 付近でもう一つ枝垂れ桜で名高いのは東漸寺です。清瀧院から東漸寺まで歩こうと思い、途中にある廣壽寺にも寄って行くことにしました。



 廣壽寺の風鐸。
 少し小ぶりです。ここも飛鳥型のようですが、真下から見ると、清瀧院が楕円形をしているのに対して、こちらは正円形です。

 


 廣壽寺には何度もきているのに、歴住の墓参を済ませていなかったので、ちょっとお邪魔をさせてもらって焼香しました。画像下の中央が開山・色翁長瑞大和尚の無縫塔。
 かたわらに「歴住諸位大和尚譜」と彫られた石盤があって、それによると、開山大和尚が示寂されたのは寛永十一年(1634年)。
 廣壽寺の創建はその七十二年前、永禄五年(1562年)と伝えられているので、ほんのちょっとだけだが、辻褄が合いにくい……という気がしないでもありませんが、長瑞大和尚が若くして開山となり、長命の人であったのなら、ない話でもありません。



 廣壽寺から前ヶ崎のあじさい通りを抜け、猫の小春がいる香取神社前を通って東漸寺に向かいます。その途中の民家にあった枝垂れ桜です。



 東漸寺門前に掲げられた今日の標語は故・坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」。

 


 東漸寺の枝垂れ桜(樹齢三百二十年)はほぼ満開でした。北小金駅から近いので、さすがに人も多く、そこかしこでシャッターを切る音。
 花の前には十脚ほどのパイプ椅子が置かれ、老嬢がズラリと並んで鑑賞中でした。「こんな天気のいい日に桜が観られてよかった……」と、その中の誰かが一言。
 ほんに毎年のことですが、桜の見ごろに晴天という日は滅多にない。

 清瀧院から東漸寺までは歩けば三十分以上かかりますが、3キロも離れていません。つまり、気候はほとんど変わらない(と……考えていい)。それなのに、去年の開花も清瀧院のほうが一週間遅かったそうですが、こんなに差があるとは……。



 東漸寺本堂には風鐸はありませんでしたが、本堂前に置かれた大香炉の屋根にありました。先の分類に従えばこれは長方型。

 


 参道沿いにある枝垂れ桜です。樹齢等は不明ですが、古木でないことは確かだからか、立ち止まって見上げる人もなく、カメラを向ける人もつむじ曲がりの某一人、とぞ。

↓清瀧院から東漸寺までのマップをつけました。
http://chizuz.com/map/map87298.html

 夕方、また地震がありました。
 震源地は茨城県南部で、鉾田市では震度5弱を記録。松戸は震度2とのことでしたが、結構長い揺れを感じました。しばらく強い地震がなかったので、忘れかけていた地震酔いが復活しそうな兆しがあります。

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三月は二度の通院

2011年04月01日 14時02分11秒 | つぶやき

 昨日三十一日は三月二度目の通院日。一か月一度の通院と理解しているのですが、実際は二十八日ごとなのですから、月に二度通院、ということもあり得る。不思議でもなんでもないことなれど……。
 また血液検査の数値が思わしくありませんでした。鉄剤の注射を打ってもらい、鉄分増量の薬をもらって、一週間後、再度検査です。

 先週から今週にかけて、少し張り切り過ぎたことが背景にあるのかもしれません。
 物臭な私としては珍しく頻繁にブログを更新したり、一日必ず一万歩、と心掛けているので、散策から帰ってき
てノルマに達していない日はもう一度出かけたりと、自分ではよかれと思ってやったことが裏目に出たのかも……。

 しかし、つらつら考えてみると、私にとって一番重大事であったのかと思い当たるのは、通院の前日、部屋の隅、陽の当たらない場所に置いていたパソコン机を窓際に移したことです。
 畳の部屋なのでウッドカーペットを布いて、その上に机を置き、デスクトップパソコンを置いています。それを1メートル動かすかどうかなのですが、ウッドカーペットを引っ張るのは、機器の接続ケーブルをすべて外した上、机の上のものを全部下ろし、机をどけてからです。引っ張り終えたら机を戻して、機器の接続ケーブルを繋ぎ直すとうことになるので、かなり大がかりではあります。

 正月を過ぎたころから窓際に移動させたい、と思っていました。今冬初めて経験したことですが、寒い日はもちろん、暖かいと感じる日でも、一日じゅう肩口と首の周辺が薄ら寒く、手の指先に到っては氷のように冷たいからでした。
 初めて棲んだ家なので、知らなかったのは当たり前ですが、冬の間は陽当たりがよく、部屋の中2メートル近くも陽が射し込むのです。
 パソコンに向かっていると、もう少しで足許、というところまで射し込みます。窓際に移せば、全身に日光を浴びることができる。よっしゃ! 移動、移動、と思ったのですが、寒いものだから、肝心の身体が動かない。
 明日天気がよければ、明後日天気がよければ……と考えているうちに、物臭太郎の家ではずんずん日が経ってしまいました。
 日が経つうちに、太陽は高くなり、いつの間にか部屋には射し込まなくなりました。しかし、従来どおりの場所に置かれたパソコンの前に坐っていると、寒い日でも、窓際に移って腰を下ろしてみれば、やっぱり暖かい。よっしゃ! と一大決心を固めて手を着けることにしました。
 ところが……。

 散策で一万歩歩くと、さすがに疲れはするものの、ヨタヨタするのは脚だけで、心臓が苦しくなったり、ほかに異常を感じるようなことはありません。脚の疲れは家に帰れば、やがて治まります。
 近場ばかりですから、毎度変わり映えのしないような景色の中の散策でも、猫のうさ伎(うさぎ)や小春に会ったり、これまで気づかなかったものを見つけたりするのは、微少なことながらも心には刺激になり、家に閉じ籠もっていれば、恐らくなって行くであろう気鬱から私を救い出してくれます。

 一方、パソコンの移動では、重いものといっても、パソコン本体とモニタ、プリンタ、それに机ぐらいのものです。机の下に置いてある本箱はかなり重いけれども、キャスターがついているので、動かすのは力仕事ともいえぬほどの仕事です。それに、それぞれ移動させなければならぬといっても、せいぜい2メートルがいいところ。
 ところが、ウッドカーペットの上のものをちょいと脇に運んで、ズルッと引っ張り終わったころから、妙に身体がだるいのを覚え、冷や汗だか脂汗だかわからない汗を浮かべるようになりました。うっかり滑らせるといけないと考えて、イボイボのついた軍手をしていても、手はかじかんだままだというのに、頭だけが熱い感じです。

 どう考えても、一万歩歩く以上に過度に身体を動かしているという気はしません。なんだろう、妙だな、と考えているうちに、すっかり疲れてしまって、できることならすべてやめてしまいたい心境になってしまいました。
 しかしそのままでは、疲れたといって横になる場所はおろか、足の踏み場すらない状態ですから、たいして動いてもいないのに、ゼーゼーハーハーと荒い息をつきながら、ときどき休みつつ(というより休む時間のほうが長い)、なんとか移動を完了しました。九時ごろから始めたのに、昼までかかってしまいました。

 検査の数値がよくなかったからといって、体調が悪いわけではなかったのです。
 昨日も暖かかったので、東京・湯島へ通院の帰りは上野公園へ桜の様子を見に行こうかと思いましたが、気にしない気にしないと思いながらも、やはり検査結果のよくなかったことが陰を落としたものか、いつしか気を鬱ぐ緞帳のようなものが降りていて、湯島の駅が見えてくると、上野公園へ行くのはや~めたと簡単に諦めて、すんなりと地下鉄の階段を降りてしまったのでした。

 湯島から北小金に戻る電車の中で考えることがありました。
 電車は北千住を過ぎると地上に出ます。窓の外は春の陽光に溢れていて、ことに荒川、江戸川を渡るときには川面がキラキラと輝いて、目には眩いばかりです。
 流れて行く車窓の景色を眺めながら、なぜだか、フーッと溜め息。

 人によって天命は異なり、私が何歳まで生きるかわからないが、血液検査の結果一つをとってみても、とくになんでもない日と昨日のような日がある。
 これからはゆっくりした周期で、結果が思わしくない、という日のくるのが次第に早くなるのであろう。
 悪くなって行くというのは結果であって、実際はよくなろうというスピードが追いつかなくなって行くということなのであろう。
 それが老いというものであり、死に向かうということなのであろう。

 どこにも行かなかった代わりに、富士川べりを散歩して帰ろうと思いました。

 


 蒲公英(タンポポ)と芝桜。富士川べりで。
 いつもならピントが合わないと、つい苛々してしまうことが多いのですが、この日はどっしりと腰を下ろして、カメラと被写体の距離を少しずつ変えながら、それぞれ10カットぐらいずつカメラに収めました。

 家に帰ってみたら、案の定使えるのはそれぞれ一枚ずつ。たった十分の一かよォ、とは思わず、一枚でも使えたことがありがたい、と極力考えることに……。しかし、依然として自然とそのようには考えられる域には達していない。
 役に立たないので、ぶん投げて棄ててやろうか思ったあと、マニュアルを読んでみたら、ないと思っていた手動のピント合わせ機能がちゃんとありました。しかし、直射日光の許だとピントの合わないことがある、とちゃっかりエクスキューズされていました。

 マニュアルを読んだあとで撮影した我が庭のタイム(クリーピングタイム)。マニュアルを読んだあとなので、一発必中でピントが合いました。去年、花が終わったあとに手に入れたものなので、初めての花です。



 三年目の小手毬(コデマリ)。
 今年も小さな蕾をつけました。ピントを合わせたい被写体が小さいせいか、マニュアルを読んだあとなのに、何度シャッターを押しても、あとピン。わざと遠く離れて撮ったものをパソコン内で拡大しました。




 桔梗殿の芽はやっと1センチ5ミリほど。

 我が地方では三月三十日から日の入りが六時台となりました。
 去年の曼珠沙華と同じように、片栗(カタクリ)も遅い。桜も遅い。我が庭の桔梗殿が芽を出したのも遅い。何もかも遅いのに、いつの日か一年の辻褄合わせをしなければならないのだから、今年の夏は涼しめになるのでしょうか。

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