桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

法然上人御忌まつり

2019年04月25日 23時38分28秒 | 歴史

 東漸寺で国光大師・法然上人の御忌(ぎょき)まつりがありました。小雨だったので、どうかなと心配しながら出かけましたが、時間どおり開催されました。
 法然上人(1133年-1212年)が入滅されたのは実際は一月二十五日なのですが、東漸寺で行なわれたのは三か月後のことです。




 先導するのは山伏姿の男性。



 つづいて笙(しょう)と篳篥(しちりき)。



 さらに稚児行列。
 私の知人(東京生まれ・地元育ち)は幼稚園児だったとき、この稚児行列に参加したことがあるといい、もう一人の知人(地元生まれ・地元育ち)はこの日は学校(東漸寺の隣は市立の小学校です)が休みになったといっています。




 行列の最後に法然上人の坐像を載せた輿がやってきました。
 前後左右十八人がかりで担ぎ、最後に馬を持った二人がつづきます。出発点の東漸寺幼稚園からこの撮影地点までは200メートルもありませんが、担ぎ手の皆さんはすでに疲れ果てているようでした。




 境内には露店が出ていましたが、まだ客の姿がありません。


 



 いつもはスッピンの仁王門も観音堂も五色の幔幕で飾られていました。



 本堂には緋毛氈が敷かれていました。
 一時間後に稚児行列が戻ってくると、本堂で稚児聖水潅頂式が行なわれます。東漸寺のホームページには、今年も恒例の「御忌大法要」を行ない、二十五
日から二十七日にかけて「御忌まつり」として子どもたちが楽しみにしている縁日が開かれる、と告知されています。以下が日程です。

●日程
日時:平成30年4月25日(水)
午前10時30分 円光東漸大師渡御・稚児行列出発
午前11時30分 稚児聖水灌頂式(本堂)
午後12時 清興
午後1時 法話 大本山布教師 佐藤雅彦上人
午後2時 御忌大法要
4月25日~27日 御忌まつり・縁日

●清興(せいきょう)とは

※香衣大師渡御・稚児行列は、午前10時30分に出発地である東漸寺幼稚園を出発し、街を行脚いたします。お時間のございます方は、ぜひ沿道や参道にてご覧いただければ幸いです。

●御忌(ぎょき)大法要とは…

御忌大法要とは、浄土宗の宗祖で、鎌倉仏教の開祖ともいわれる法然上人(1133~1212)の忌日法要を意味いたします。御忌という言葉は、もともと天皇や皇后のご命日に限って使用されていました。法然上人のご命日に限って「御忌」と称するのは、太永4年(1524)に後柏原天皇が法然上人の徳風が天下に普きことをお知りなされて「今より後、孟春の月に遭わば、宜しく京畿の門葉を集会して一七日昼夜、法然上人の御忌を修せしむべきなり。」と詔勅を下賜されたことによります。

これを「太永の鳳詔」と称し、以後、浄土宗の大本山で、法然上人の忌日法要を御忌\大法要と称し、盛大に営むことになりました。法然上人ほど当時いろいろな階層の人々から慕われた方はありません。

法然上人がひとたび吉水の御坊で説法をされると、念仏の声は、台地に水がしみこむように巷に広がり、僧俗、男女を問わず、すべての人々に生きる喜びの声として迎えられました。阿弥陀如来のご本願―絶対的な救いの力として「南無阿弥陀仏」のご名号を唱導し、その教えを広められた法然上人。御忌会は法然上人を偲びご恩報じの念仏供養する、浄土宗で大事な法要なのです。

東漸寺で御忌大法要を奉修するようになったのは、享保20年(1735)、当山二十三世鸞宿上人の時、かねてより関東化縁の墾望のあった京都東山の長楽寺に安置されていた「香衣円光東漸大師(法然上人)の遺像」を増上寺に遷座したのち、名僧をたびたび輩出した檀林寺院である当山に寄附をされてからです。その当時の寄附書状並びに御忌大法要奉修嘆願の連判状、香衣円光東漸大師の謂れ書等は、当山宝藏に大切に保存されております。

当時は、「香衣円光東漸大師の遺像」を担いで、約1カ月かけて当山の末寺32カ寺を巡り、4月25日に当山に戻り、浄土宗僧侶や信者だけではなく、各宗の僧侶も随喜して御忌大法要を奉修していたといわれています。現在は交通事情により、お練りは東漸寺界隈で行い、4月25日にのみに行われております。

江戸時代より、東葛一円の人々に「御忌のおまつり」として長く親しまれ、大法要の日を機に3日間(毎年4月25日より27日まで)、参道や町に多数の植木市や露店がにぎやかに立ち並ぶ御忌の日。戦前は東葛一円では、学校が休みになっていたほど楽しみにしていたと言われています。

参詣の人々は第一礼装で当山を訪れ、地元小金では、お嫁にいっていた娘が小金の実家に帰り、草餅をつくり、集まった親戚の人たちに振る舞うというような慣習も伝わっています。


 雨に降られて東漸寺から戻ってくると、なぜかサティ(Eric Satie)のピアノ曲が聴きたくなりました。MDプレーヤーはいつでもスイッチがジムノペディ第一番が聴けるようになっています。



 雨上がりの散歩径。
 夏になると、半夏生が咲く(半夏生は葉っぱの色が変わったのが花が咲いたように見えるのですが)径です。雨が上がっただけではなく、陽射しが出ました。
 黄色いのは菜の花ではなさそうですが、窪地になっていて、降りて近づくことができないので、葉っぱの形を確かめることができません。

 この先、暗渠になっている富士川を越えて、結構急な上り坂を上ると、梨畑と香取神社があります。かつては猫のうさ伎と小春がいたあたりです。この猫たちがいたころは毎日のように足を運んだものですが、相次いで姿を消してからは足が遠のいてしまいました。



 梨畑では花の季節が終わって、小さな実を結び始めていました。

 

 こちらは別の梨畑。
 前の畑に較べると、蕊の残り方が若干多いと思えば、まだ花を残している枝もありました。


 

 こちらはキウイ畑。



 田んぼでは水張りが終わっていました。

 
 


 こちらの田んぼでは代かきが始まっていました。



 我が庵まであと数分のところまで帰ってきました。
 我が庵があるのは高さ20メートルほどの台地の上なので、どこへ行くにしても、行きは坂を下り、帰りは上らなくてはなりません。最近は歩数が四千歩を過ぎるころになると、太腿に痛みが出て、脚に疲れを覚えるようになりました。
 声には出しませんが、「ヨッコラショヨッコラショ」と自分を激励しながら坂を上ったら、ワッ、クッサ~、と感じる臭いが充満していました。ジャスミンの臭いでした。香水のジャスミンの臭い(匂いではなく、あえて臭いと書きました)も私は好きではありませんが、ときおりすれ違う女性の臭さにも、文字どおり鼻が曲がるような気がします。私がおかしいのでしょうか。

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旧日光街道草加宿を歩く

2012年08月17日 21時01分58秒 | 歴史

 旧日光道中・草加宿を歩いてきました。
 よりによってクソ暑い日に出かけなくとも……。
 その心は、というと、前はまったくフリーでありましたが、五月から不定期ながらもパート仕事を始めているので、休みの日でないと出かけられなくなったのです。


 


 旧日光道中の宿場町を歩くのは一つ先の越ヶ谷宿、さらにもう一つ先の粕壁宿につづいて三つ目です。



 明治末期建築の浅古正三(あさこしょうぞう)家。浅古家の地蔵堂から市役所を挟んだ旧街道に面して母家が遺されています。



 草加駅から徒歩六分。回向院。
「新編武蔵風土記稿」には恵光院と記され、「浄土宗、南草加村浄往寺末、草加山と号す。開山専誉順広元禄十四年二月二十五日化す、開基は村民源右衛門と云し者なり、本尊弥陀を置」と記されています。



 葛西道の道標。なぜか実際の葛西道の分岐点から100メートルほど離れた場所に建てられていました。



 明治期の町屋建築・藤城家。



 日光街道草加宿清水本陣跡。



 その昔、草加松原で「おせん」という人がやっている茶店があり、そこで売れ残った団子を平らにして天日干しし、焼き餅をつくったそうで、これが草加煎餅の始まりだと伝えられています。その「おせん」にちなんで「おせん茶屋」と名付けられた小公園が旧街道に面して設けられていました。



 このあたりで庵を出てから一時間半が経過していました。
 バッグの中には、冷凍庫で凍らせておいた500ミリリットル×2本の水分、同じくカチンカチンに凍らせた保冷剤が入れてあります。保冷剤は手ぬぐいでくるんであって、ときおり取り出しては額に当てたり、首筋に当てたりしながら歩いています。



 真言宗智山派の東福寺山門。



 甚左衛門堰。

 札場河岸公園の東側にある堰。かつて伝右(でんう)川と綾瀬川を結んでいました。寛永年間(1624年-44年)に綾瀬川の改修と伝右川の開削が行なわれた際に潅漑用と増水時に綾瀬川から伝右川に逆流するのを防止するためにつくられたものです。堰を造った野口甚左衛門にちなんで名づけられました。現在遺っている煉瓦づくりの堰は明治二十五年に改修されたものです。



 札場河岸跡。江戸時代、江戸との主な物流は、綾瀬川の水運でした。舟の荷は、この「札場河岸」で積み下ろしされました。



 望楼。



 松尾芭蕉像。元禄二年(1689年)三月二十七日に「奥の細道」の旅で千住をあとにした芭蕉が日光街道を北上し、最初に訪れたのが草加宿でした。



 草加松原。かつては千本松原と呼ばれたそうですが、現在の松の数は六百本。


 セカセカブンブンと歩き飛ばすだけで、休憩を取らないのが私の散歩の特徴です。しかし、この日は松の木陰にしつらえられたベンチに坐って、しばしの休憩を取りました。

 暑さに当てられたのでもなく、疲れたのでもありません。靴に砂が入ってしまったので、靴を脱いで砂払いをすべく、やむなく坐ることになったのです。

 小休止で元気が出たので、当初は草加の隣・松原団地駅まで一駅ぶん歩いたら帰ろうと考えていましたが、さらに一駅先の新田まで行くことにしました。



 かたわらを人工のせせらぎが流れるようになり、どこまでつづくものやら……と思った矢先に松原は終わり、だとさ。




 道は川に沿ってつづいていますが、松原が途切れると、桜並木に変わりました。

 前方に見えるのは東京外環自動車道です。



 蒲生大橋を過ぎると、陽射しを遮るものはまったくない、完全なピーカン状態となりました。




 新田駅はこのあたりであろうと小径を曲がって川岸を離れ、国道49号線を横切って迷い込んだところに呑み屋街がありました。まだ明るいので、やっている店は一軒もありませんでしたが……。




 帰りは新田駅から。

この日、歩いたところ

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福満寺へ行く

2011年09月13日 16時15分40秒 | 歴史

 平將門の王城の地跡が柏市内にあると知りました。
 その近くに將門の愛妾だった車ノ前の五輪塔と鏡の井跡があるということも知りました。車ノ前は將門の死後、この地に隠れ棲み、將門が信仰していた妙見菩薩を祀る御堂を建ててその菩提を弔ったというのです。
 それが妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年二月二十一日には將門の命日と称して妙見講を開くのだそうです。

 柏駅東口からバスに乗り、大井というバス停で降りて歩くこと六分。持ってきた地図に従って酒屋さん前のT字路を左に折れ、すぐ右に折れます。
 すると、左手に見える畑地の中に車ノ前の五輪塔があることになっているのですが、それらしきものは見当たりません。もう少し先か、と歩を進めると、径は右に曲がって、遠くに香取神社の鳥居が見えました。香取神社まで行ってしまっては明らかに行き過ぎです。
 五輪塔らしきものは依然として見当たりませんが、姿は見えなくとも、畑の中で農作業をしているらしい人の声が聞こえていたので、先に福満寺へ行き、戻ってきたら訊ねてみようと歩を進めました。



 香取神社です。
 この鳥居をくぐろうとすると、左手に山門が見えたので、ちょっと愕きました。福満寺の山門でした。
 地図では「卍」のマークが打ってある場所まではかなりの距離があると考えなければいけないのに、山門が見えたので愕いたのです。



 香取神社の創建は元和五年(1619年)とされていますが、古くからの言い伝えでは、江戸初期(1610年ごろ)からこの地に鎮座していたようです。現在の社殿は昭和五十年に再建されたものです。



 神社へのお参りは早々に済ませて、隣に見えた山門らしき建物に近づいてみると、山門を兼ねた鐘楼堂でした。
 私が携帯していた地図で「卍」のマークが打ってあるのは、本堂がある場所なのでしょう。

 福満寺は奈良時代、桓武天皇の代(781年-806年)の開創といわれる古刹ですが、戦国期に兵火に遭遇したあと、江戸期には二度(延宝年間と享保年間)の火災に遭って、堂宇伽藍の多くは灰燼に帰し、その後、再興なった諸堂も、本堂や薬師堂は明治三十六年(1903年)の火災でまたもや失われてしまいました。こうして江戸期の伽藍で現存するのは観音堂(現本堂)とこの鐘楼堂のみとなっています。

 鐘楼堂の横に立つと、目の下の谷底に拡がっている境内が見えました。かなり広そうです。木立に隠されていることもあるのですが、境内全体を見渡すことができません。



 鐘楼堂横の急な坂を下って行きます。
 下り始めると、木立の隙間を通して伽藍が見え隠れするようになりました。どことなく比叡山を歩いているような気にさせて、なかなか佳い雰囲気です。



 観音堂。祀られているのは聖観世音菩薩で、聖徳太子作といわれています。
 住職一代に一度だけ開帳が許されるそうです。世代交代の平均値から推し量れば、三十年に一度ということになりますが、前回の開帳はいつで、次の開帳はいつなのでしょうか。



 本堂。本尊は阿弥陀如来。妙見大菩薩も安置されています。妙見様は平將門の守り本尊でもあり、重臣の一人・坂巻若狭守の守り本尊でもありました。



 本堂右に平將門大明神を祀る小祠がありました。




 上野の不忍池と弁天島を模した弁天池。

 境内を一周しましたが、車ノ前の五輪塔らしいものはありません。
「柏市文化財マップ」を持っていたことを思い出しました。生憎庵に帰らないと見ることはできません。わりと苦労して手に入れた資料ですが、これまで役立った試しはないので、ファイルに放り込まれたまま、棚の一画を埋めているのでした。

※庵に帰ったあと、「柏市文化財マップ」を開いてみると、車ノ前の五輪塔は載ってはいましたが、地図上では径もないところに印があるだけです。妙見堂跡地にある、と添え書きしてありますが、妙見堂跡地がどこなのかわからないので、独力で辿り着くことはむずかしそうです。

 結局、車ノ前の遺跡にはお目にかかることはないのかも、などと ムニャムニャと独り言を呟きながら、ネットサーフィンをしていると、Webの柏市地図情報配信サービスというのに行き当たって、これを見ると詳細な地図がついていました。

 五輪塔と鏡の井を捜してグルグルと歩いているとき、私が持っていた地図には南に折れる小径があったので、そこを歩いてみようとしたのですが、その曲がり角がなかなか見えてこなかったので、引き返してしまったのです。
 じつはその角を曲がってしまったのでは駄目で、もう少し先に行くと、やはり南に折れる道があり、そこを曲がると、突き当たりに五輪塔があったのです。
  

 前々から不満に思ってきたことですが、柏市は史跡や文化財に標識を立てて説明することが嫌いなようです。
 そのことと関係があるのかどうか、柏駅東口にはバス乗り場の案内図がない(西口にはあるので、どこかにあるのかもしれませんが、私は見たことがない)ことも不親切で、私にはすべからく文化というものに対する、この市の体質が顕われているのだろうと思えます。

 
市のホームページのつくり方にもそれは現われているようで、ほかの項目についてはわかりませんが、史跡・文化財に関する限り、調べようと思うと、かなり苛々させられます。ホームページ内で「車ノ前&五輪塔」をキーワードに検索しても、そのページに飛ぶようにリンクが張られていないのです。

 もう一つ ― 。
 郷土資料室というのがどこにあるかというと、市の中心部ではなく、沼南庁舎です。六年前に吸収合併されて消滅した旧沼南町役場です。

 旧沼南町は柏市に較べると、史跡・文化財には関心が高かったようで、神社仏閣には簡素ながらも木標が建てられています。合併してこの世から沼南町が消えてから六年も経っているのに、旧沼南町で出会う史跡前に建てられている標識がなんびとによって建てられたことになっているかというと、いまだに「沼南町教育委員会」のまま、というのが多く残されています。

 私がちょくちょく訪ねる醫王寺も旧沼南町にありますが、ここの薬師堂前には木標より詳細な記述のある説明板があります。木標よりは断然目立つし、「○○指定有形文化財」と「○○教育委員会」の「○○」の部分には、風雪に晒されているので、画一的なシールを貼ったのか、白ペンキを塗って書き加えたのか判然としませんが、一応「柏市」と書き換えてありますが……。
 役所仕事で、やっつけ仕事、ぶん投げ仕事の最たるもの。
 しかし、ま、文句を垂れるのはこのへんで……。

 これらは庵に帰ったあと、もろもろ調べ始めてわかることどもでありますが、現地でも五輪塔捜しは諦めて、王城の地の捜索に移ることにしました
 


 最初の酒屋さん前に出て歩き出すと、十分ちょっとで「平将門王城通り」という標識に出会いました。



 武家屋敷を思わせるような塀がありました。

 


 標識がある、ということはここが本丸? 王城の地は畑だった?
 ほかに何かあるのだろうか、と思いながら先に進みましたが、何もないうちに道は下り坂になり、人家も絶えて、心細い思いで歩きつづけると、目の前が開け、手賀沼畔に出たのだとわかりました。



 王城通りを抜けて手賀沼畔に出ると、こんな標識もありました。
 去年十一月、同じ柏市の岩井にある將門神社を訪ねたあと、やはり手賀沼畔を歩いたことがあります。この標識の前を通過しているはずですが、気づきませんでした。時刻はすでに夕暮れだった上、雨が降り出したので、脇見もせずに歩いた、という記憶があるので……そういうことだからでしょうか。



 手賀沼越しに我孫子市街(我孫子駅あたり)を眺めました。



 遊歩道はこんなに広々としているのに、自動車は通行禁止になっているので、本来なら非常に快適……といいたいところですが、夏 ― とりわけ残暑の季節の真っ昼間 ― はいただけません。この道には一息つけるような日陰がまったくないのです。



 九月もなかばだというのに、真夏と同じような雲が湧いているのですから、暑いのも当たり前。



 手賀沼畔に出たところから炎天下を歩くこと四十分。常磐線の北柏駅に到着。この日の難行苦行は終了しました。

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利根町を歩く(2)

2011年05月22日 19時44分56秒 | 歴史

 利根町の〈つづき〉です。

 徳満寺がかつては布川城という城であった、ということを示す標識が建っているのは、徳満寺の本堂を正面に見る入口でした。
 そこから出たところは、利根川を渡る栄橋から茨城県になるために、千葉県道から茨城県道へと名称を変える4号線の布川陸橋でした。
 利根川堤からつづく道路は非常に高いところを貫いているので、町は遙か下に見えます。

 


 利根川堤を下り、堤沿いに下流へ歩き始めたところに赤松宗旦の旧居跡を見つけました。

 赤松宗旦、本名は赤松義知。民俗学の柳田國男がもっとも愛読したであろう一書「利根川圖志」の著者です。
 文化三年(1806年)、現在の利根町布川(下総国相馬郡布川)に生まれましたが、八歳のとき、父親が亡くなったので、母方の実家(印旛村吉高)に預けられ、そこで医術と漢学を学びました。
 天保九年(1838年)、三十三歳のとき、生まれ故郷に帰って医院を開業するかたわら地誌研究に打ち込み、安政五年(1858年)に完成させたのが「利根川圖志」でした。



 あまり賑わいの感じられぬ道ですが、銀行があるところを見ると、利根町のメインストリートのようです。この銀行は郵便局を除くと、町内でただ一つの金融機関なのです。
 左に見える青果店の一軒先が赤松宗旦の旧居跡。突き当たりに見える緑が利根川堤防です。

 地図を手に入れられなかったので、適当に歩くほかありません。
 布川横町というバス停がありました。取手駅から大利根交通というバスが走っているようですが、行き先はどんなところなのか見当もつかないし、日中は二、三時間に一本ぐらいしかないので、実際にバスの走っているところは見ていません。



 適当なところで町中に折れて歩いていたら、布川不動堂に出くわしました。
 扉が閉まっていたので見ることはできませんでしたが、入口に建てられた説明板によると、御堂の中には不動明王坐像と大日如来坐像が祀られているようです。
 不動明王は南北朝時代、大日如来は鎌倉時代に製作されたと推測されています。開帳は毎年三日だけで、一月、五月、それに九月の二十八日。
 御堂そのものはいつごろ建てられたものかはっきりしませんが、文政五年(1822年)の再建という説明がありました。

 布川不動堂をあとにまた適当に歩いていたら、「しらさぎ団地中央」というバス停が目に入りました。利根川堤下で見たのと同じ大利根交通ですが、行き先が違うし、始発も取手駅ではなく、私が降りた成田線の布佐駅でした。
 しらさぎ団地がいかなるところであるのか知るよしもありませんが、なんとなく町の中心を外れてしまっているという気がして振り向いたところ、伽藍の大きな屋根が目に飛び込んできました。運のいいことに、それが目指す曹洞宗の来見寺でありました。



 来見寺の赤門と本堂遠望。赤門は宝暦五年(1755年)の再建。



 来見寺本堂。
 創建は永禄三年(1560年)。布川城主だった豊島頼継が創建したので、当初は頼継寺と呼ばれていましたが、徳川家康が立ち寄って以来、来見寺と名を変えることになったのだそうです。
 きっかけは慶長九年(1604年)のこと。鹿島参宮のおり、家康はこの寺を一夜の宿としました。なぜかといえば、来見寺三世の日山という和尚が三河国岡崎生まれで、幼いころから顔見知りであったというのです。
 で、自分がきた(来見)からには寺の名も変えてしまえ、ということだったのです。
 また布川という地名も家康がくるまでは「府川」と記したのですが、上流に絹川(鬼怒川)があるのだから、という駄洒落のような理由で変えたのだとか……。



 赤門や おめずおくせず 時鳥(ほととぎす)

 赤門前に建つ一茶の句碑。文化十二年の句。門を赤く塗ることが許されたというのも、家康ゆかりの寺だからこそです。臆す、という言葉が使われているのはそのため。

 来見寺を出たところで一人の老人と行き合いました。
 布佐の駅を降りてから利根川を渡り、町役場を経てここに到るまで、そもそも人とはほとんどすれ違うことなくきましたが、初めてすれ違ったようなその老人が「こんにちは」と声をかけてくれたので、それに釣られて柳田國男記念公苑はどこかと訊ねてみると、わざわざ角まで戻ってくれて道を指し示し、ものの七~八分のところだと教えてくれました。
 途中に布川神社があるので、寄って行くように薦められました。



 老人と別れて四分ほどで布川神社の前にさしかかりました。石段はかなり急な上に長いので、鳥居の左にある女坂を上ることにしました。



 坂を上り切ったところは小学校の校庭でした。
 平日でしたから授業があるはずなのに、いやに静まり返っていて、物音一つしません。校舎をよくよく見ると、人の姿というものがないのです。ちょっとゾクッとするようなものを感じて右手に廻ると、布川神社の社が見えました。



 布川神社拝殿。
 祭神は久々能智命(くくのちのみこと)と書かれていました。
 久々能智命は伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた御子神の一人ですが、「久々」とは茎もしくは木々を意味し、森林業の神とされています。
 この神社は寛元年間(1242年-46年)、豊島摂津守が建立したと伝えられていますが、森林とはあまり縁のないような布川になにゆえに森林業の神が祀られたのかは不明です。

 誰でもいいから人がいればいいと思うのに、来見寺前で道案内を乞うた老人と別れて以来、人影を見ていません。拝殿の左背後が無人の小学校ということもあり、境内が薄暗いということもあり、なんとなく不気味になったので、そそくさと境内を出てしまいました。
 あとで知ったのですが、小学校は別の小学校と統合されて、廃校になった跡でした。



 布川神社から四分ほどで柳田國男記念公苑に着きました。
 旧小川家跡という標識があるのは、柳田國男の兄・松岡鼎(1860年-1934年)がこの家の離れを借りて医院を開業しており、柳田國男はその兄を頼ってこの地にきたのです。



 恐らく建て替えられているのでしょうが、小川家の土蔵の遠望です。
 土蔵には柳田國男の好奇心をくすぐる本がたくさんあって、自由に読むことが許されていたのだそうです。「利根川圖志」もこの土蔵で見つけて貪り読んだのでしょう。
 とはいうものの、柳田國男がここにやってきて滞在したのは十三歳の年から二年あまり。いまでいえば中学生時代を過ごしたことになります。並の少年であれば遊びたい盛りです。

この歩いたところ。布佐駅~利根町~布佐駅。

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利根町を歩く(1)

2011年05月18日 20時27分31秒 | 歴史

 先日我孫子に所用ができたので行って、所用を済ませたあと、茨城県の利根町というところへ足を延ばしてきました。
 利根町が民俗学者の柳田國男の「第二のふるさと」といわれている、ということは前々から知っていたのですが、利根町とはどこにあるのかと思いつつも、地図を見てみることもなく、イメージからして水上のあたり(水上は群馬県ですが)で、遠いところなのだろうと思い込んでいたのでした。
 ところが、所用先を確認するために我孫子の地図を開くと、利根川を挟んだところに「利根町」とあったので、ゲゲッ、こんなところだったのかいと思うと同時に、早速足を延ばしたというわけです。



 我孫子で成田線に乗り換えて、四つ目の布佐駅で降りました。



 我孫子市は先の東日本大震災で大きな被害を受けたと聞いていました。
 四月一日付の朝日新聞千葉版によると、我孫子市東端の布佐地区で液状化現象が起き、沈んだり、傾いたりした住宅は約二百戸に上った、とされています。
 被害が集中したのは都交差点周辺。利根町へ行くのには逆方向になりますが、布佐駅から近いので寄ってみました。
 このあたりは明治時代に利根川の堤が切れて沼となったところで、川砂で埋め立てられたあと、宅地化された地域なのだそうです。液状化したのはそのためかもしれません。
 画像の中央を走る国道(356号線)は震災後二週間で仮復旧しましたが、家も電柱も軒並み傾いてしまったのですから、充分に手が回らないのでしょう。まだ傾いたままの電柱や街路灯が残っていました。



 利根川堤を上流に向かって遡り、栄橋で利根川を渡ります。栄橋から上流方向を望んでカメラに収めました。この日は少し寄り道をしましたが、真っ直ぐ歩けば布佐駅から橋のたもとまでは約十分。
 川はこの付近では両側に迫る台地の間を抜けて行くため、利根川下流に特有の広大な河原もなく、川幅は270メートルしかありません



 栄橋を渡り始めると、利根町役場前に立てられたこんな看板が見えてきます。
 私は茨城県の地図を持っていないので、手始めに町役場を訪ねることにしました。観光地図のたぐいが手に入れられるだろうと思ったのですが、何十種類というパンフレット類が集められたスタンドには利根町を紹介するものは一つもありませんでした。
 辛うじて参考になりそうなのは国土交通省の利根川下流河川事務所が出している「利根川下流を知る」という小冊子だけでした。

 利根川を紹介しよう(それも利水治水の観点から)という意図でつくられた冊子ですから、当然のことながら、利根町に関する記述はごくわずかです。私が見たいと考えてきたのは柳田國男の記念館と徳満寺、来見寺という二つのお寺でしたが、載っているのは利根町役場、琴平神社と「利根川圖志」を書いた赤松宗旦の旧居跡、それに柳田國男記念公苑だけです。
 町役場はもはや用のないところとなったのだから、どうでもいいけれども、小さな地図がついているだけなので、どこがどこだかまるっきりわかりません。

 で、まあ、適当に歩き始めるしかないのです。



 町役場のある高台と谷を隔てて鬱蒼と樹の繁る小山がありました。見上げると木々の間に由緒ありげな建物が見えたので、もしかしたら徳満寺か、と思って上り口を捜すと、琴平神社でした。
 国交省の冊子によると、この神社に奉納する相撲大会が寛政年間からあり、それを見た小林一茶の句碑が境内にあるというので、石段を上ってみました。



 琴平神社拝殿。



 ありました。

 べったりと 人のなる木や 宮角力

 一茶の句碑です。
 現在の利根町布川は一茶が俳句を始めたときに師事した今日庵元夢(森田安袋)の生まれ故郷でもあり、俳句仲間でパトロンでもあった古田月船が回船問屋を営んでいた土地でもあるので、四十九回も訪れ、延べ二百八十九日も宿泊したという記録が遺されているそうです。



 徳満寺への石段と山門。十三段プラス五十八段の石階があります。
 徳満寺の境内は琴平神社と繋がっています。神社から薄暗い径を辿れば、そのままお寺に行くことができたのですが、初めてのところだったので、私なりに礼を尽くすつもりで、山門を捜して上ることとなりました。

 真言宗豊山派の寺院。寺伝には元亀年間(1570年-73年)に祐誠上人が中興とあって、創建の年代は明らかではありません。



 山門をくぐると正面に客殿があります。



 不鮮明な画像ですが、上の客殿廊下に掲げられている「間引絵馬」です。絵馬には、母親が必死の形相で生まれたばかりの子供の口を塞いで殺そうとしている様子が描かれています。水害と天明の飢饉に襲われた農民は子どもを間引きしなければ生きて行けなかったのです。

 柳田國男は明治二十年、十三歳のときに布川に身を寄せ、二年あまりを過ごしました。その間に、「間引絵馬」を見たこと、「利根川圖志」を知ったことなど、布川における体験がのちに民俗学を志す原点になったといわれています。

 絵馬の見学希望者は庫裡へ、という案内があるので、難なく見ることもできるようでしたが、近づけば硝子窓越しに見ることができたし、堂内では何かの集まりがあって大勢の人がいたので、庫裡へは行きませんでした。



 十九夜塔(右)。旧暦十九日の夜は地区の女性たちが集まって、如意輪観音の前で般若心経や和讃を唱える行事がありました。十九夜講とか十九夜様と呼び、茨城や栃木などで盛んに行なわれた行事です。
 この十九夜塔は、万治元年(1658年)建立のもので、発見されている中では日本最古のものだそうです。
 左は時念仏塔(斎念仏塔とも)で、元禄十四年(1701年)の建立。



 本堂の地蔵堂。本尊は木造の地蔵菩薩立像で、高さは7尺3寸(約2・2メートル)。毎年十一月下旬、一週間だけ開帳があります。



 段々に 朧よ月よ 籠り堂

 地蔵堂左奥、三峯神社を祀る祠の下にも一茶の句碑がありました。文化三年(1806年)一月の句と伝えられています。




 徳満寺は元は布川城のあったところです。
 野口如月という人が書いた「北相馬郡志」によると、布河(布川)は十三世紀なかばに摂津からきた豊島頼保が開いた土地で、十六世紀の初め、付近の村々を領するようになり、台上に城館をつくって小田原の北条氏に与力した、ということになっています。

 豊島氏といえば、東京・練馬の石神井城を本拠とし、いまの豊島区の地名の元となった豊島氏がいます。
 この豊島氏は泰経(生没年不詳)の代に太田道灌と戦って敗れ、滅亡しますが、その子だと称する豊島頼継という人物が登場します。
 豊島氏の再興を図り、布河豊島氏の祖となったとありますから、どういう経緯で石神井から茨城県へ行くことになったのかはわかりませんが、摂津からきた豊島氏とは無関係ということになってしまいます。
 来歴はともかく、豊島頼継という人がいたのは事実で、永禄三年(1560年)、利根町にある頼継寺(現・来見寺)の開基となっている、という記録があるそうですから、来見寺に行けば何かわかったり、閃くようなことがあるかも……。〈つづく〉

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利根運河を歩く(2)

2011年02月22日 11時40分40秒 | 歴史

 利根運河の〈つづき〉です。



 右岸を利根川に向かって歩いています。
 東武鉄道の橋梁をくぐると、堤の上に東京理科大学の野田キャンパスが見えます。ここには薬学部、理工学部、基礎工学部があります。



 理窓会記念林自然公園の入口。理窓会とは東京理科大学同窓会です。
 昭和五十六年、大学創立百周年を記念して造営された公園です。同窓会員と現役生のために造られた公園ですが、誰でも自由に入ることができます。5万2800平方メートルという広大な土地には、自然形態をそのまま残す蓮池、白鳥の池などがあります。

 昔からの川であれば、町や村の境となったのでしょうが、利根運河は明治のなかば、人力で開削した人工河川なので、掘るのに困難な場所は避けています。
 そのために緩く蛇行しています。昔からの村はそのまま町になり、合併して市になったので、右岸を利根川に向かって遡って行くと、市域は流山市、野田市、流山市、野田市、流山市、野田市、柏市、野田市、最後に柏市と目まぐるしく変わります。
 東京理科大学のキャンパスと自然公園は隣り合わせですが、キャンパスは野田市、自然公園は流山市です。



 理窓会記念林自然公園のカワセミの池。
 翡翠(カワセミ)は見るのがむずかしい鳥だといわれます。ここでは三十分も待てば見ることができると聞きましたが、寒い川風に吹かれながら、それだけ待つほうがよほどむずかしい。



 東武線の橋梁から約二十五分で柏大橋に着きました。
 この先、利根川まではまだ四十分以上歩かねばなりません。スタートした時間が遅かったので、最初から全部歩けるとは考えていませんでしたが、これより先は機会があれば再度訪ねることにして、しばし運河を離れて普門寺を訪ねます。

 画像は普門寺から戻ってきて、橋を渡ったあと、下流に向かって左岸を少し歩いてから撮影したもの。橋の左は野田市、右は柏市です。



 柏大橋から歩いて十分。曹洞宗普門寺に着きました。寛永元年(1624年)の開創。
 本堂前の玉砂利にはきれいに箒目がつけられていました。なんの前知識もなく訪問したので、到着するまで我が宗派のお寺だとは知りませんでした。清楚で、凛とした雰囲気のお寺だったので、きてよかったと安堵しました。

 このお寺には千葉県文化財に指定されている絹本著色(けんぽんぢゃくしょく)釈迦涅槃図があります。公開は年一回、二月十一日と決まっているそうです。知らなかったとはいえ、過ぎたばかりで惜しいことをしました。
 ト仙という人物によって天文六年(1537年)に描かれたと考えられていますが、ト仙がいかなる人物であるのか、いまのところは不明だそうです。

 


 本堂前の閻魔堂。桟の間から覗き見ると、承応元年(1652年)に造られたという等身大の閻魔様が間近に見えました。暗いので、眼をさまよわせながら覗き込んだら、目の前にギョロリと剥いた目玉が見えたので、少しギョッとしてしまいました。

 いつご開帳があるのかわかりませんが、下の画像は野田市のホームページから拝借しました。
 ただ、よそ者のいらぬお節介ながら、野田市が発行している観光ガイドマップには普門寺は載っていません。地図には卍印があるだけで、寺名すら記されていません。
 絹本著色釈迦涅槃図は千葉県が指定した文化財だから、市としては知らん、というかもしれないので、さておくとしても、閻魔像は野田市指定の有形文化財なのに、妙なことです。



 最後に本堂前の観音堂にお参りして普門寺をあとにしました。

 機会があれば、またきたいと思わせるお寺でした。
 偶然きたのに、またきてみたいと思えるお寺に出会えるのは、こよなくうれしいものです。ただし、また、と思ってはみたものの、最寄り駅はこの日利用した運河駅なので、往復七十分もかかります。おいそれとはこられないかもしれないと思い、おいそれとこられないからいいのだと思ったりするのです。

 同じ道を柏大橋まで戻り、国道16号を少し進むと、鳥居が見えたので、寄ってみると妙見神社でした。



 無住の上、柏市内の神社なので、説明板のたぐいもありません。



 真言宗豊山派円福寺。ここも無住。鐘楼がありましたが、鐘は取り外されていました。
 門前に「ふるさと散歩道-こんぶくろ池コース(全長7・8キロ)」と書かれた標柱があり、江戸時代末にはこのお寺に寺子屋があったという旨が記されていました。

 再び運河沿いの道に戻りました。
 夕暮れが近くなって、川風はいっそう冷たくなっていました。普門寺を出たときから帰りの行程に入っていますが、思わず遠くへきてしまっていたので、駅は遙かに遠い。
 東武線の橋梁と並行して架かっている、ふれあい橋が見えるようになってから、橋のたもとに辿り着くまで十分以上もかかりました。
 おぢさんはすっかり疲れ果ててしまっています。



 左岸。眺望の丘という土盛りの丘からずっと桜の樹がつづきます。
 手前に運河散策の森があって、そこに巨樹の一本・クヌギ(椚)があったのですが、駅に辿り着くことだけを考えていたので、失念していました。結局、四本の巨樹は一つだに見ることは叶いませんでした。

 


 運河駅間近のギャラリー平左衛門。百十年前に建てられた蔵を改造したギャラリーです。竹林に囲まれていて、ちょっといい雰囲気です。
 土日祝はここでレンタサイクルの貸し出し(¥500)があります。

 このギャラリーから運河駅まではわずか二分。しかし、改札口は線路を越した反対側にしかないので、階段を下って線路をくぐり、また上ったあと、柏方面のプラットホームへ行くために、また地下通路を通らなければなりません。
 運河駅に降り立ってから再び戻ってくるまで、三時間歩きづめの小旅行でありました。

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利根運河を歩く(1)

2011年02月20日 21時20分41秒 | 歴史

 柏市文化財マップをゲットしました。
 柏市民でもないのに、執念深く柏市役所まで行ったのです。ここにもなければ、どうしてやろうかと意気込んで出向きました。猛烈な風に見舞われた十八日のことです。
 意気込んだのは、その強風に煽られ煽られして、ときおり転びそうになりながら、柏駅から十五分もかけて歩いたからでもあります。

 柏市民ではないので、市役所に行くのは初めてです。どこに入口があるのかわからぬまま、たまたま辿り着いたのは別館でした。
 やがて理解するのですが、市役所は柏駅にはそっぽを向いていて(つまり本庁舎の正面入口は向こう側にあるのです)、駅から見ると、別館、本庁舎、第一庁舎という順に建物が並んでいるのです。
 市役所といえば、入ると受付とホールがあり、そこに市のPRを兼ねて観光や産業のパンフレットが置いてあるものです。
 そういうイメージとは大違いでしたが、千葉県第五位の人口を誇る都市の市役所にしては貧弱に思える受付(実際は市役所の受付ではなかった)を過ぎると、棚にはパンフレットが並んでいました。すわ、と思いましたが、文化財マップらしきものはありません。ざっと眺めて「利根運河絵図」と手賀沼を紹介する「TeGaマップ」の二点をもらうことにしました。
 ほかにめぼしいものはないのか、と見回してみて、初めて私がいるところは本庁舎ではなく、別棟だということに気づきました。

 本庁舎に行くと、私のイメージどおりの受付があり、パンフレットの並ぶコーナーがありましたが、肝心のマップはありません。
 受付で、行政資料室というところにある、と教えられて行っても見当たらないので、訊ねてみると、外来の人からは見えないところに置いてありました。係の人がさも大事そうに出してくれたので、柏に税金も納めていない私としては、うやうやしく恐縮しながらいただきました。
 幾重にも折り畳まれた印刷物で、パンフレットにしては重量があり、拡げてみなくても大きいことがわかるので、開いてみたのは家に帰ってからです。


 
 家に帰ってから拡げると、縦59・4センチ、横84・1センチ。すなわちA1サイズの巨大なパンフレットです。内側に柏市全域の地図、外側に文化財の解説などが印刷されています。
 ところが……。
 私の期待が別のところにあったので、この地図の責任ではありませんが、開いて見てガッカリしました。

 文化財の地図なのです。
 当たり前といえば当たり前かもしれませんが、千葉県と柏市が指定した有形・無形の文化財三十二点、天然記念物六点、計三十八点についての説明が載っているだけです。
 この地図が手に入ればわかるだろうと私が期待した醫王寺、吉祥院の二か寺は文化財ではない。ランドマークの一つとして地図に記載されているだけで、由来などは何一つ知ることはできませんでした。

 


 文化財マップへの興味はいっぺんに冷めてしまった代わり、この「利根運河絵図」に興味を惹かれました。柏の市役所で手に入れたものですが、柏市がつくったものではなく、隣の流山市観光協会の製作になるものです。



 土曜日に行ってきました。
 まだ朝のうちは寒いので、午前中は身体が動きません。出かけたのは午後。曇ながら、ときおり陽射しが出るという天気で、寒い散策になりました。

 柏から東武野田線に乗って五つ目の運河駅で降りました。柏駅での乗り換えがスムーズだったので、我が庵を出てから、三十分で着いてしまいました。



「運河」という駅名どおり、駅を出てちょっと歩くと利根運河があります。
 明治時代に開削された、利根川と江戸川を結ぶ長さ8・5キロの人工河川です。

 明治十九年、旧内務省が国営事業として計画しましたが、翌年には財政上の理由で計画は中断。
 利根運河株式会社という民間企業の手で着工されたのはそのまた翌年の明治二十一年。約一年半後の明治二十三年に開通しています。
 いまは運河としての役目を終えているので、水深も浅く、船の通航はできませんが、かつては小名木川~江戸川~利根運河~利根川と経由する蒸気船が東京-銚子間144キロを十八時間かけて結んでいた大動脈の一つだったのです。

 川岸の道は「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選ばれていて、春は桜の名所として名高いところですが、いまは堤の草も刈り取られたあとで、花らしい花といえば、ところどころに咲く白梅があるのみです。

 何を見ようというのか、好き好んでこういう季節にやってきました。
 とくに計画はありません。両岸を歩けば四時間という長丁場になるので、とても全部は歩き切れない。強いていえば、パンフレットに載っていた四本の巨樹を眺めてみることぐらいです。ただ、四本は離れ離れの場所にある上、二本は運河沿いではないようです。



 ひとまず橋を渡らずに済む左岸を、江戸川方面に向かって下ることにしました。画像に写っているように歩行者専用の浮き橋があって両岸を行き来することができます。



 名もなき林ではありません。深井城址です。
 先の「利根運河絵図」に載っていたので、寄ってみようと考えてはいたのです。当然標識ぐらいはあるだろうと思っていたのですが、残念なことに通り道には城址であることを示すものは何もなかったので、前を通り過ぎただけです。
 ただ、たんなる林にしてはなんとなく「怪しい」と感じて、写真だけ撮りました。しかし、もう少し先にこんもりとした林が見えていたので、城址はそっちなのだろうと思って、中には入らずに通り過ぎてしまいました。

 築城時期は未詳ですが、戦国時代は小金城を本拠としていた高城氏の支城となって、重臣の安蒜(あんびる)一族が支配していました。
 豊臣秀吉の小田原攻めの際、城主だった安蒜備前守は高城氏の他の重臣たちと同じように、小金城の留守を守るために出向きます。小金城の開城とともに深井城も廃城とされてしまいました。

 目星をつけた、もう少し先の林はたんなる林に過ぎませんでした。
 かなり歩いてきてしまっていたので、やはり先ほどのところが城址だったのかと気づいたものの、戻るのもかったるく、歩行者と自転車専用の西深井歩道橋で対岸に渡り、上流へ引き返します。



 運河大師。
 大正二年、運河流域の住民が弘法大師像を安置した札所を建てて、新四国八十八か所運河霊場を創建しました。しかし、昭和十六年の大水害による堤防の改修工事で、堤防上にあった札所は立ち退かされてしまっていました。
 これは柏・野田・流山の三市の有志が大師堂を建立して、近くの寺に移されていた十七体の大師像を再びお祀りしたものです。



 数尠ないながら、そこここに白梅がありました。
 どれも古木かつ巨木です。桜の季節に訪れていたら、気がつかなかったでしょう。この日にきてよかったと思いながら眺めました。



 明治初年創業の窪田醸造。「勝鹿」という日本酒をつくっています。

 


 流山市立運河水辺公園に建つアントニー・トーマス・ルベルタス・ローウェンホルスト・ムルデル(1848年-1901年)の顕彰碑。
 ムルデルはオランダ人土木技師。
 明治十二年、いわゆるお雇い外国人として来日。児島湾干拓、淀川治水など日本国内の多くの土木工事に関与しましたが、代表的な仕事は利根運河の開削です。
 運河運用開始の一か月前、任期切れのため帰国。開通式には出ることができませんでした。

 運河開削の中心になったのは広瀬誠一郎(1838年-90年)という人物です。
 
天保九年、現在の茨城県取手市に生まれ、県会議員、郡長を歴任したのち、サッポロビールなど多くの会社設立に関与した実業家・人見寧(1843年-1922年)とともに利根運河株式会社を設立、筆頭理事に就任(社長は人見)しました。
 この広瀬も運河の開通式を見ることなく病没しています。

 このあたりで空は完全に曇って、気温も急激に下がってきました。ときおりバッグから絵図を引っ張り出しながら歩いています。巨樹はたまさか対岸であったりして、まだ一本も見ていません。
 そろそろ帰るかと思いながらも、あと一つだけ見ておきたいところがあったので、ブログは〈つづく〉として、もうちょっと歩きます

↓明日更新するつもりの〈つづき〉を併せて、歩いたところのマップです。
http://chizuz.com/map/map84544.html


※二年半前の九月十五日、初めてブログを開設してから、昨日が八八八日目ということになりました。たまたま末広がりの数字が並んだというだけに過ぎませんが、途中で死ぬかもしれぬ、と思うほど体調を崩した日々があったことを振り返ると、よくぞつづけられたものだ、と感慨深いものがあります。

 編集画面というページを開くと、前日のブログ閲覧者○人、訪問者○人と数値が出ます。私には閲覧者と訪問者がどのように違うのかわかりませんが、昨日時点の閲覧者累計は二十万人余、訪問者は八万人余となりました。独りよがりなブログなのに、いろんな人に見ていただいていると思うと、もう少し生きなくてはならぬ、と思います。

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日光御成道鳩ヶ谷宿(本編)

2011年02月03日 12時44分07秒 | 歴史

 日光御成道鳩ヶ谷宿探訪の〈つづき〉です。
 旧鳩ヶ谷宿を歩きながら、目についた歴史的建築物を撮影しました。いまは商店街になっているメインストリートを歩いただけですから、路地の奥にはもっとあったのかもしれません。 

 
 
 


 画像三つ目の蔵は顧みられなくなってから久しいと見えて、窓に草が生い茂っていました。

 茨城県の石岡や土浦であれば、市の指定文化財にして建築年代など由来を記した案内板が建てられていますが、鳩ヶ谷市のホームページを見ても、該当するページはないようです。
 それとも、私には結構年代ものに見えたけれども、実際はさほどの価値はないのでしょうか。

 


 かつては商家だったらしき建物も民家に替わっています。
 商売をつづけているのは一軒だけ、「文楽」という地酒を売る酒屋さんでした(画像上)。

「文楽」は北西亀吉という人が明治二十七年、埼玉県の上尾で醸造を始めた日本酒です(いまも上尾に会社があるようです)。
 この店の名は北西本店とあったので、いまでいうところのアンテナショップとしてつくられたのでしょうか。



 表札には「醫院」とあって、右手には自宅用玄関がありましたが、開業しているのかどうかわかりませんでした。
 医院ではなく、「醫院」という表記を遺したままであることがふさわしい建物で、玄関前に立っていると、森鴎外のように立派なカイゼル髭を生やした先生がいまにも出てきそうです。
 
 鳩ヶ谷宿の中心近く、りそな銀行(鳩ヶ谷支店)の壁に「→法性寺大門入口」という標識があったので、しばし御成道をはずれて足を延ばしました。



 室町末期の建立と伝えられる法性寺の山門。



 法性寺本堂。文明八年(1476年)の創建、開基は太田道灌。
 当初は天台宗のお寺だったようですが、扇谷vs山内の両上杉の戦いの間、僧は兵乱を恐れて遁れ去り、堂宇もことごとく荒廃してしまったのを、明応七年(1498年)になって、震龍という曹洞宗の僧が再建して改宗。

 


 再び日光御成道に戻ると、やがて見沼代用水東縁(ひがしぶち)を渡ります。
 用水に架かる橋を吹上橋といい、昔は橋の北の両側に一里塚がありました。

 


 草加道を東へ行けば日光街道(奥州街道)、蕨道を西へ行けば中山道。
 道は四通八達していて、鳩ヶ谷が交通の要衝で、周辺物資の集積地だったころを窺わせます。



 日光御成坂公園のからくり時計。高さ約4メートル。
 平日は五回、日曜は午前十時から午後八時までの毎時、僧侶が鐘を撞いて時を報せる、というからくりが施してあるようですが、壊れて修理中でした。



 前回のブログの締めくくりにした地蔵院前から1キロとちょっと。鳩ヶ谷市役所西交差点の中央分離帯に建てられた石碑です。
 江戸から向かってくると、ここが鳩ヶ谷宿の入口ですが、逆方向の北から歩いてきた私にはここが終点となります。

 


 宿の外れに源永寺があったので寄ってみました。
 真言宗智山派の寺院。創建は不詳。当初は荒川河畔にありましたが、江戸時代初期に現在の場所に移されたのだそうです。
 画像下は境内にある六百五十年以上も前の板碑(青石塔婆)。右は建武五年(1338年)、左は貞和四年(1348年)の銘があります。建武、貞和という年号は南北朝時代、北朝方が用いた年号です。



 帰りは埼玉高速鉄道の鳩ヶ谷駅に出ました。くるときに降りた戸塚安行はここから二つ目、その次が武蔵野線に乗り換える東川口。

地蔵院から鳩ヶ谷駅まで

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日光御成道鳩ヶ谷宿(前段)

2011年02月01日 20時00分28秒 | 歴史

 日光御成道の川口宿、大門宿につづいて鳩ヶ谷宿を歩きました。川口宿と大門宿の中間にある宿です。
 武蔵野線で東川口まで行き、埼玉高速鉄道に乗り換えて、二つ目の新井宿で降りる
つもりでいましたが、東川口の次に戸塚安行(とづかあんぎょう)という駅があるのに釣られて、一つ手前で降りることにしました。

 安行は植木の町です。庭いじりと盆栽が趣味だった私の父が「一度安行へ行ってみたい」と呟いたのを、小学校高学年のころに聞いた憶えがあるのを思い出したので、歩いてみようと思ったのです。小学生だった私には「あんぎょう」が何を意味するのかはわからず、理解できるようになったのはずっとあとのことですが……。



 午後早々という時間帯だったせいか、私が乗った車両はこのような有様でした。
 この埼玉高速鉄道が開通するまで、鉄道というものがなかった鳩ヶ谷市では、盛んに東京都心と直結と謳っているようですが、深夜の上り電車ならいざ知らず、日中がこのような有様では先が思い遣られます。というより、初乗り¥210というのはいくらなんでも高過ぎるんではないかい?



 戸塚安行駅。
 駅前にあった周辺の案内図を見ると、東福寺西福寺三仏寺……と、いくつかお寺がありましたが、デフォルメされた地図なので、正確な場所がわかりません。
 適当に歩き出しましたが、しばらく歩いてもお寺らしき建物が見えてきません。ここで手間取っていては鳩ヶ谷宿を歩いている途中で日が暮れると思ったので、引き返したところ、偶然百観音公園という小公園があり、そこで「→西福寺」という標識を目にすることができました。



 真言宗豊山派の寺院。弘仁年間(810年-24年)、弘法大師が開いたと伝えられる古刹です。



 境内に聳える矮鶏檜葉(チャボヒバ)。別名鎌倉檜葉。葉が矮鶏の足のようなので、この名があります。
 檜(ヒノキ)を園芸用に改良した樹で、普通は庭木や生け垣として用いられます。樹高は示されていませんが、これだけの高木は珍しい。



 高さ約23メートル。元禄六年(1694年)、徳川家光の娘で、尾張光友の正室・千代姫(1637年-99年)が建立。
 千代姫の墓所は芝増上寺ですが、この塔の中に位牌が納められているそうです。
 塔のあるお寺というのはいいもんです。



 西福寺から下る坂の途中、どこから出てきたのか、こんなんが散歩をしておりました。

 


 花山下という交差点で埼玉県道・越谷鳩ヶ谷線に出ました。日光御成道の鳩ヶ谷宿と日光街道の越谷宿を結んでいた赤山街道です。
 その交差点を過ぎると、安行です。

 さすがに植木の町です。道路の両側何百メートルにもわたって造園業者の畑があり、中にはこのように植物園みたいな庭園もありました。自由に入れます。

 なるほど、ここが安行でありますか、と思いながら、私は父のことより、ゴロのことを思い返していました。

 ゴロとは、私の小学校高学年から中学生時代にかけて、我が家にいた三河犬です。
 三河犬とはどのような犬種かと、改めて調べてみると、猟犬ですが、純血種はすでに絶滅しているようです。
 ゴロが純血種だったかどうかわかりません。犬関係の辞典によると、大きめの柴犬という感じで、和犬ブームがあったとき、三河犬と柴犬、あるいはチャウチャウなどを交配させた三河雑犬が生み出され、それが三河犬として売られた、とあります。
 しかし、ゴロは大きめの柴犬、という大きさではありませんでした。秋田犬と同程度の大きさで、前脚を伸ばして立ち上がると大人の背丈より高かったのです。

 ゴロがいた裏庭には円形に小径がつくってあり、ところどころに置かれた石の上に盆栽が乗せてありました。我が父が丹精込めてこしらえたものです。
 ゴロは日に何回かそこを歩き回ります。身体が大きいので、カーブを曲がるとき、尻尾が石の上の盆栽に当たって落っことしたりします。落っこちるだけならいいが、当たりどころが悪くて鉢が割れ、土も苔も散乱、ということもあります。しかし、ゴロにとってそんなことは知ったことじゃない。

 が、父にとっては一大事です。散乱した盆栽を見つけて、「こら、こいつ」とか叫びながら、庭箒を持って追っかけ回すことになるのですが、落っことした直後ならゴロにもわかるかもしれないけれども、昨日一昨日のことを責められてもわかりませんし、日頃無愛想な父が珍しく遊んでくれるとしか思えないのでしょう。バウバウと吠えながら、小径を走り回って逃げるのです。

 歩いているときより身体が大きく振れるので、尾当たり次第に盆栽を蹴散らかして行くことはいうまでもありません。父はさらに怒髪天を衝くという勢いでになって追いかけ回しますが、ゴロは捕まりません。
 いよいよ進退きわまったというときは、庭と道路を仕切っている塀(高さが1・8メートルはありました)に前脚をかけ、飛び越えて外に逃れるという最後の手がありました。
 私は内心ゴロを応援しながら、このチェイスを見つめ、ゴロが塀を飛び越えて無事逃げたのを見届けると、捜しに出たものでした。

 子どものころの想い出は、まるで宝石みたいに一生残るものなんですね。
 いまでも父が血相変えてゴロを追いかけている光景を思い浮かべると、忍び笑いが浮かんでくるのを禁じ得ません。

 この日もきっとニヤニヤしながら歩いていたことでありましょう。すれ違った人がいたら、まだこういう手合いが出てくる季節には早いのに、と思いながらも、気味悪がられたのに相違ない。

 


 花山下交差点から十分ほど歩くと、細い径を入ったところに関東代官・伊奈氏が祀った日枝神社拝殿と奥の院があり、その奥に赤山陣屋跡(画像下)がありました。
 陣屋とはいえ、北を除く三方に家臣団の屋敷を配し、二万四千坪という広さがあったようです。

 陣屋は当初小室(現在の埼玉県伊奈町)に置かれましたが、寛永六年(1629年)、この赤山に移されました。伊奈氏が関東代官となって、関八州の幕府直轄領約三十万石を管轄。
 世襲で十二代にわたって関東代官を勤めた伊奈氏ですが、忠尊(ただたか)のとき、後継を巡ってお家騒動が発生。寛政四年(1792年)、忠尊は改易、永蟄居の処分を受け、百六十三年の陣屋も破却となります。



 赤山街道が首都高川口線の下をくぐるところ。赤山陣屋跡からここまでおよそ800メートルありますが、このあたりが陣屋の南外堀だったという標識がありました。



 赤山街道が鳩ヶ谷市街に向かって「く」の字に曲がる直前、長い参道(目測300メートルはありました)の彼方に源長寺の甍が見えました。
 浄土宗のお寺で、創建は元和四年(1618年)。伊奈氏二代目の忠次がこの地にあった古寺を再興し、伊奈家の菩提寺としたものです。赤山陣屋の屋敷地とは寺の北側で隣接していました。



 五代忠常が伊奈家墓所に建てた頒徳碑。忠次、忠政、忠治の業績が刻まれています。



 赤山街道が日光御成道(県道さいたま鳩ヶ谷線)と合流するところに、地蔵院という真言宗智山派のお寺がありました。
 地蔵院縁起によれば、聖武天皇の時代より千百年の歴史を誇る古刹です。本尊は行基作と伝えられる地蔵菩薩。



 地蔵院本堂。



 境内に祀られている良縁地蔵。
 昔話では、村のお大尽の母親が息子の嫁取りでこのお地蔵さんに願をかけました。息子にはつきあっている娘がいたのですが、母親は別れさせて、お大尽家に相応しい嫁を、と願っていたそうな。
 ところが満願の日がくると、母親のまぶたには、別れさせたいと思っていた娘の素直で、優しい笑顔が次々浮かんできたそうな。

 お地蔵さんのおかげで、よい娘だと気がついたというお話。
 このお地蔵さんは良縁を結んでくださるだけではなく、悪縁なら断ち切ってくれるそうです。

 昔の赤山街道と御成道の分岐点から御成道に入って、いよいよ
鳩ヶ谷宿です。〈つづく〉

戸塚安行駅から地蔵院までの行程です。

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辨榮聖者と水戸光圀

2011年01月27日 22時46分35秒 | 歴史

 借りていた本を返却するために県の西部図書館へ行くついでに、五香まで足を延ばして善光寺に参詣しようと思い立ちました。



 今月の初め、その本を借りるときに立ち読みした松戸関係の史料に、五香にある善光寺と辨榮(べんねい)聖者のことが載っていたからです。
 そのときはザッと読み飛ばしただけですから、なにがしかの縁があった、という概略しか憶えていません。この日はじっくり読み直すか、借りられる本であれば借りようと思って行ったのです。が、やんぬる哉、書棚にその本は在りませんでした。

 鼻から善光寺へ行くつもりで家を出てきていました。春を思わせるような陽射しがあったので、図書館の外にあるベンチに坐って持参の地図を眺め、前にも寄った念仏寺の脇を通って行けば、県道松戸鎌ヶ谷線に突き当たり、あとは一本道……と確認しました。
 実際はもう一本先の道を歩かなければならなかったのですが……。



 念仏寺はこの日も人影なし。写真だけ撮って歩き始めました。

 念仏寺の脇の道を直進して左折するだけ……。こんな単純明快な経路で、迷うヤツがいるとしたら、そんなヤツの気が知れぬ、と思ったのですが-実際は道を間違えていたので ― やがて県道に出るはず……、と思っているあたりで、道は善光寺に背を向けるようにカーブを始めました。
 左に折れる道があったら折れていたはずですが、生憎そういう道がなかった。
 ??と訝りながら歩いているうち、南東に向かっていた道は予想以上に鋭くカーブしていて、やっと左に折れる道があったと思ったときは、ほとんど真西に向いていたのでしょう。そこで左に折れたら、真南に向かうことになります。
 初めての土地を歩くとき、私は必ず地図とコンパスを持っているのですが、この日は初めてとはいえ、いつも行く図書館の近くだったので、コンパスを持っていませんでした。



「日本の道100選」という標識の掲げられた、けやき通りに出ました。
 携帯していた市販の地図に目を落としましたが、100選というからには有名な道であろうこの道が地図には載っていない。
 太陽は燦々と輝いていますが、午後の太陽の位置は方角を曖昧にさせてしまいます。私には少し焦りが出ていて、並木道をゆっくりと眺めている余裕がありません。

 けやき通りはちゃんと地図に載っていたのですが、ページの綴じ代のところにかかっていたので、よく見えなかったのでした。
 それに、私が歩いていた道はそのまま進めば、まさに善光寺に到ったのですが、新京成の線路を見ないことには安心できなくなってゴチャゴチャと歩き回り、やっと馴染みのあるさくら通りに出ました。
 この通りは三年前にきただけですが、桜の花を見ながら八柱の駅から五香の駅まで歩いています。両側の商店街はまったく記憶にないけれども、ともかく歩けば五香の駅に着けるわけです。 



 ようやく善光寺を探し当てましたが、三つある門はすべて閉じられていました。

 明治の初め、この近辺は荒れ地で、職と禄を失った武士たちが開墾に入りました。武士の商法ならぬ武士の農法ではなかなかうまく運びません。食べるものも事欠くような有様だったので、見かねた辨榮さんが集めてきたお金を惜しみなく分け与えたということです。

 辨榮さんはここにお寺を建てようと考えて、日々浄財を集めていたのですが、そのようなわけで、お寺は一向にできません。やっと小さな庵が結べただけですが、のちにこのようなお寺ができたのは、施しを受けた人々が恩返しをしたおかげなのです。
 ザッと飛ばし読みしたときの曖昧な記憶しかないので、間違っているところがあるかもしれません。

 霊鷲山という山号はいかにも辨榮さんゆかりのお寺らしい、と思いながら眺めました。いうまでもなく、霊鷲山は釈尊が法華経を説いたとされる山の名前ですが、そちらより辨榮さんの生地からつけたのではないか、という気がしたのです。

 辨榮さんが出家しようと思ったのは柏・鷲野谷の生家近くに東光山醫王寺というお寺があったからであり、そのお寺は北小金・東漸寺の開山でもある經譽愚底(きょうよ・ぐてい)上人が鷲野谷は幽遼蒼巒の境にあって、薬師如来霊応の地だと伝えられていたのを知って庵を結んだのが発端です。



 門前に建てられた辨榮上人草創道場の石碑。
 入れないので、門前を二度歩いて立ち去ることにしました。これに懲りずにまたきなさい、と辨榮さんがいっておられるようです。



 図書館で立ち読みした同じ本に、水戸光圀と本土寺のことが載っていました。本土寺には秋山夫人の墓があります(この時点では私はまだ見ていません)が、それを建てたのは光圀だというのです。

 秋山夫人は家康の側室の一人で、家康の五男・武田信吉(1583年-1603年)の生母です。信吉は二十一歳という若さで早逝してしまいますが、八歳のときに本土寺近くの小金城三万石に封じられ、佐倉十万石を経て、水戸二十五万石の藩主となります。

 水戸藩は信吉が死んだあと、信吉の異母弟・頼将(頼宣・のちの紀伊藩主)を経て、同じく異母弟であり、光圀の父でもある頼房が入って水戸徳川家の祖となるわけですから、光圀にとっては伯父・甥という関係よりさらに一段深い関係があったことになります。
 光圀にとって伯父の母である秋山夫人は信吉が小金にいたときに亡くなり、粗末な墓しかなかった(一説には墓もなかった)ので、光圀が改めて本土寺に葬ることにしたのです。

 本土寺の参道並木に光圀が寄進した杉と松があるらしい、ということは知っていましたが、どういう関係があって寄進したのかわかりませんでした。秋山夫人の墓を建てたことと関係があったのだろうと薄々わかったので、帰りは本土寺に寄ってみることにして、五香駅から電車に乗りました。



 本土寺に着きました。あと数日間、今月末まで参観料は無料だったので、境内に入らせてもらいました。



 建治四年(1278年)鋳造の梵鐘(国指定重要文化財)がある鐘楼。残念ながら梵鐘はよく見えません。

 本堂の右手前に「秋山夫人の墓→」という案内があります。それに従って初めて境内を歩きました。



 翁の碑。文化四年(1804年)に行なわれた芭蕉忌に建立されたもの。本土寺ではしばしば句会が開かれ、一茶も参加していたようです。



 本堂と像師堂を結ぶ回廊の下をくぐると、秋山夫人の墓がありました。貞享元年(1684年)に水戸光圀が建立した、とかたわらの説明板に記されています。

 秋山夫人は武田家の重臣・秋山虎康の娘で、名は於都摩(おつま)。十五歳のとき、家康の側室となり、信吉を産んだあと、天正十九年(1591年)、二十四歳という若さで病没してしまいます。
 松戸市の文化財マップによると、本土寺には夫人の父・虎康も葬られているとのことですが、これは寺の人に訊かなければ場所がわからないので、いつか機会を改めて。

 


 菖蒲池(上)と紫陽花。
 いくら無料だからといって、こんな冬枯れの景色を眺めるためにわざわざ遠くからくる人もおりますまい。現に工事関係者が数人いたほか、境内は無人でありました。
 されど、遠来の客がこういう枯れた景色を眺めることはないのだから、こういう殺風景な画像をブログに載せておくのも、近場で暮らす私の特権にして役割の一つかとも考える次第であります。

 


 本土寺をあとにして改めて参道を歩いてみました。
 並木はほとんどが椎(シイ)と欅(ケヤキ)ばかりで、杉は参道入口近くに数本、松に到っては一本もありません。古そうな杉は参道左側の一本ですが、幹の太さからいって、何百年とは見えません。
 水戸光圀が秋山夫人の墓を建立したのは、いまから四百三十年も前です。光圀名残の樹はもうないのかもしれません。

 ある説によると、光圀が秋山夫人の墓を訪ねたとき、墓はなく、土地の人が「日上の松」と呼んでいる松の老木が参道中ほどの西側にあっただけ、ということです。墓すらないことを悲しんだ光圀が本土寺に改めて埋葬したというのですが……。

 いまは常磐線で断ち切られていますが、当時の参道は現在のサティの南入口のある旧水戸街道から始まっていました。距離にすると、現在より400メートルほど長かったので、中ほど、というのはどのあたりになるのでしょうか。
 わかったとしても、参道の西側(つまり左側)は畑地と駐車場を除くと店舗が建ち並んでいるだけで、松の樹はありません。

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土浦再訪(2)

2011年01月22日 19時07分19秒 | 歴史

 土浦再訪の〈つづき〉です。

 郁文館正門から千束町という交差点に出て左折。高架になった道路の下をしばらく歩くと、鍵形に曲がった道に出くわしました。その道に入って行くと、少し先でまた鍵形に曲がっています。標識らしきものは見かけませんでしたが、道筋だけは昔のままのようで、旧水戸街道なのであろうと見当がつきました。鍵形に次ぐ鍵形の道路は城下町ならでは、です。
 少し歩くと、細い路地の先に朱塗りの御堂が見えました。慶長十二年(1607年)創建の曹洞宗東光寺です。



 東光寺瑠璃光殿。元文四年(1739年)の建立。
 瑠璃光というからには薬師如来が祀られているものと思われますが、説明板の記述は御堂のことに終始していて、祀られているであろう仏像については一言も触れられていませんでした。



 東光寺本堂。
 民家に押し潰されるような形に境内があります。狭いところによくぞ建てたり、と感心するような伽藍の配置です。画像右上の庇は瑠璃光殿。



 浄土真宗大谷派等覚寺。創建は建仁年間(1201年-04年)。
 創建当時は極楽寺といって、土浦市街の北西7キロほどの藤沢城内にありました。江戸時代に入った慶長五年(1605年)、藩主となった松平氏が現在の地に再興。このときに寺の名も改められました。



 等覚寺の銅鐘。鎌倉時代の建永元年(1206年)の銘があり、年代が明確なものでは関東では最古といわれます。国の重要文化財です。



 旧水戸街道沿いには古い蔵が残されています。「しるこ」という電飾看板の掲げられた店。「しるこ」というのは店の名か、汁粉屋なのか。
 ほかに店の名を記した看板はなさそうですが、店は閉まっていたので、何を生業としているのか、不明のまま。



 矢口家住宅。嘉永二年(1849年)の建築。
 土蔵造りは天保十二年(1841年)の土浦大火後、瓦葺きの屋根などとともに防火の備えとして取り入れられたものです。

 


 旧水戸街道を挟んで向かい合わせの上・野村と下・大徳。
 野村は江戸時代後期から明治時代初期に建造された蔵で喫茶室があり、予科練関係の資料も展示されています。
 大徳は天保十三年(1842年)の建築。大正時代は呉服屋として栄えた店です。いまは観光協会の事務所が設けられ、土産品の販売、資料の展示などを行なっています。



 江戸後期の地理学者であり、天文学者の沼尻墨僊(ぬまじり・ぼくせん)が享和三年(1803年)に開いた寺子屋・時習斎の跡です。
 野村の先、引っ込んだところに御堂が見えたので寄ってみたら不動堂でした。隣に小さな琴平神社があり、その境内にこの塚がありました。

 琴平神社のすぐ脇には長唄小唄の教室がありました。戸はアルミ製に変わっていましたが、格子戸で、引けばカラカラといい音がしそうでした。路地は抜けられるようになっていて、この一画だけ江戸情緒が残っていました。

 城下町にしてはお寺の少ない街です。そう思いながら、行きに歩いてきた駅前通りを突っ切ると、民家の陰に隠れるように御堂がありました。

 


 臨済宗済岸寺です。
 土浦駅から歩けば十分ほどのところですが、裏手は広大な墓地でした。墓地に面して民家の縁側があったりします。御堂が瀟洒なところからすると、墓地がイヤに広いと思ったら、いくつかのお寺の墓地が背中合わせになっているのでした。

 下は済岸寺墓地で見つけた土浦藩儒であり、侍講でもあった中田正誠(1813年-57年・号は平山)の墓。



 済岸寺近くで見かけた土浦の猫殿。
 白猫は三倍ほどもありそうな黒猫の身体に押しのけられて、私が置いた餌にありつくことができません。安心して食べられるようにと、少し離れたところに置いてやったのに、気づかない様子です。やがて黒猫が見つけて、それも食べられてしまいました。
 しかし、喧嘩をしたり、威嚇し合ったりはしない。毛並みはまったく異なるけれども、親子のようです。



 浄土宗高翁寺。永禄三年(1560年)の開創。
 ここに「ブラリひようたん日記」で知られる高田保(1895年-1952年)の墓があったと知ったのは、家に帰ってからのことでした。



 阿弥陀院。
 名残は何もありませんが、江戸時代はこのあたりに水路があって、積み荷を積んだ舟が行き交ったようです。あたりには船頭たちを相手にした料理屋や旅籠のある盛り場であったそうです。



 千手院。
 済岸寺の墓所からこのお堂が見えたので、行ってみようとしのですが、柵があって行けませんでした。どんな仏様を祀っているのかわからないまま行くのを諦めたら、意外なところに路地があって行き着くことができました。



 土浦駅近くまで戻ってきたら、「さくら通り」という歓楽街がありました。通りの名はさくらでも、桜の樹はどこにもありません。賑わっているように見せるための、べつのサクラという意味か?

 病気をしてから外で呑むことはなくなりましたが、私は若いころからこういうところには鼻が利く、という天分があります。
 出張などで、見ず知らずの町へ行っても、誰に訊ねることもなく、寝るまでのしばしの時間を過ごす歓楽街がどの方角にあるか、ということがわかったのです。しかし、いまや無用の長物となりました。



 観光協会のあった大徳で、蜆(シジミ)のしぐれ煮と公魚(ワカサギ)の甘露煮をお土産に求めました。家で待つ者などいないので、酒の肴として我が胃の腑に収まるのみ。

この日歩いたところ

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馬橋・萬満寺の終い不動

2010年12月29日 19時13分56秒 | 歴史

 昨日二十八日は不動明王の縁日。年内最後の縁日ですから、終い不動(しまいふどう)です。
 私には不動信仰というものはありませんが、近くにある馬橋・萬満寺の本尊が不動明王なので、どんなものだろうかと思って行ってみました。
 出かける前、念のため萬満寺のホームページを見てみると、確かに縁日とありましたが、午後三時に終わってしまう、とあったので、慌ててもろもろの用を済ませて家を出ました。



 萬満寺山門前に着いたのは、まだ終わっていないはずの三時前でしたが、山内は妙に静かでした。
 縁日、それも年内最後の縁日というからには賑々しい数の参拝客があり、露店の数軒も出ているだろうと思ってきたのですが、露店はおろか、参拝客すらおりません。
 赤地に「南無不動明王」と染め抜いた幟は、風に翩翻とはためいているけれど、もしかして一日勘違いしてない? と思ってしまいました。



 煙をくゆらせているお線香は私があげた一束だけ。
 香炉の灰に開けられた穴の数を数えてみるまでもなく、朝からの参拝者の数は知れています。お不動さんを信仰していない私がご利益を求めてきているわけではないけれど、確率からいうと、私がご利益に授かるのはかなり有望?
 といっても、萬満寺の本尊である不動明王のご利益とは中気除(ちゅうきよけ)ですから、ありがたいことに、いまのところはご利益を授からなくてもよいのです。




 本堂の右斜め後ろにある不動堂です。



 この日は扉が開けられていて、お不動さんを見ることができました。



 ただ、遠過ぎてよく見えず、カメラに収めようとしても、フラッシュが届かないので、萬満寺のホームページからこの画像を拝借しました。

 私がお不動さんと対面しているとき、背後から「失礼します」という声が聞こえました。私と同年齢と思われるご婦人で、本堂前でお札を売っている老人と長々と話し込んでいた人です。

 この萬満寺には、明治に入って廃宗になってしまった普化宗一月寺(いちげつでら)所縁の石があると聞いています。以前訪ねたときも捜したのですが、見つけられませんでした。そのときは境内に人影もなかったので、見るのは諦めて帰ったのです。
 この日は、寺の関係者がいた! と思ったものですから、お線香をあげたあと、話が途切れるのを待っていたのですが、なかなか終わる気配がありません。ついにしびれを切らして、割って入ろうとすると、老人が「いらっしゃい」と声をかけてくれたので、その所在を確かめることができましたが、「今日はお不動さんも開いているから……」と教えてくれたので、一月寺の石を捜す前にお不動さんにお参りしていたのでした。

 お不動さんは本当に遠過ぎて、これがお不動さんだと知っていなければ、何が祀ってあるのかわからないかもしれません。
 私がじっと坐り込んでいたので、ご婦人はここに一月寺ゆかりの何かがある、と勘違いされたようです。「北小金の一月寺には私が子どものころは虚無僧がたくさんきていたものですよ」と問わず語りに語り始めました。
 ん? 何歳ごろのことだったのかはっきりしないが、私が子どものころにも虚無僧が我が家の玄関前に立って尺八を吹いているのを見ています。
 改めてご婦人を見ると、この季節ですから、帽子にマスクを掛け、見えるのは眼の周辺だけ、という取りようによっては怪しげな姿でしたので、年齢を推測することはできません。虚無僧を見た、子どものころ、という二つのキーワードで私と同年齢と判断を下したのですが……。



 いわくありげな石はいくつかあって、これかあれかと思いながらカメラに収めたあと、ようやく説明板とセットになったものを見つけました。本堂裏手の墓所に遺されている旧一月寺の遺墨墳碑です。「雖為骨肉同胞 不許無案内入」と刻まれています。

 


 こちらは旧一月寺の開山塔。
 説明板には台石(画像下)に一月寺の由来が記されている、とありましたが、すっかり摩耗していて読むことはできません。

 一月寺の名を有名にしたのは、普化宗の本山だったということより、江戸時代末期に起きた大名家のお家騒動。世に「仙石騒動」と呼ばれる事件です。
 鍵を握るのは神谷転(かみや・うたた)という名の旗本・仙石弥三郎の家臣と一月寺の愛�也(あいぜん)という僧侶。
 ことは但州出石藩の第六代藩主・仙石政美が急死したことに始まります。文政七年(1824年)、参勤交代で出府途中に発病し、江戸到着後亡くなるのです。まだ二十八歳という若さ。

 政美の出府直前まで藩政を牛耳っていたのは仙石氏一門で、筆頭家老だった仙石左京という人物です。左京は藩財政建て直しのために、藩士の俸禄の一部を強制的に借り上げ、御用商人以外の商人を締め出す代わりに運上金を大幅に値上げする、などという改革を推進していました。
 しかし、成果はなかなか上がらない。一方では俸禄を減らされた藩士や藩から締め出された商人、多額の運上金を課せられた御用商人からも反発が出ます。
 政美は左京と対立し、失脚していたやはり一門で勝手方頭取家老だった仙石造酒を復権させ、左京に替わって藩政を執らせることにして江戸に向かいました。その矢先の病死だったのです。
 左京一派による暗殺? ということも推察されますが、真相はわかりません。

 後継を巡って一悶着起きるかと予測されたのですが、政美の弟・久利を藩主に立てるということですんなり治まって、造酒派の天下がつづくと思ったところ、造酒さん手際が悪い。側近の一人をあまりにも重用し過ぎたために、内部分裂を起こし、乱闘騒ぎまで起きる始末です。
 造酒さん、折角カムバックを果たせたというのに、あえなく隠居 ― ということになってしまいました。

 復活した左京は以前の政策をより強力に推し進めます。
 一方、造酒の嫡男・主計ら造酒派は、左京が自分の嫡男・小太郎を藩主の座に就かせんものと画策している、と先代藩主・政美と現藩主・久利の父親である先々代の久道に訴えます。ところが、久道は左京と通じていたとみえて、この訴えをまったく相手にしなかっただけでなく、烈火のごとく怒って、首謀者たちを蟄居処分に付してしまいました。
 その中に河野瀬兵衛という人がいて、彼は藩追放という処分を受けたのですが、江戸に上って、仙石氏一門ながら旗本に取り立てられていた仙石弥三郎に訴えを記した上書を届けることができた。どういう繋がりがあったのかわかりませんが、仲介の労をとったのが、先の神谷転です。

 この上書が弥三郎から江戸で暮らしていた久道夫人・軽子に渡った時点で、左京の運命はまた下り坂、ということになります。
 左京の緊縮政策によって、江戸屋敷の出費も抑えられ、耐乏生活を強いられていた軽子は上書の内容を頭から信じてしまうのです。
 左京は軽子への弁明に努めるとともに、江戸から藩内に戻っていた河野瀬兵衛を捕らえようとします。瀬兵衛は天領だった生野銀山へ逃げますが、ここで捕らえられてしまいます。
 しかし、天領での捕り物は幕府勘定奉行の許可が必要、というのが決まりでした。その禁を犯してしまった左京は老中・松平康任に揉み消しを頼みます。
 こういう事態になるのを予測していたとは考えられませんが、左京が次の藩主に立てようとしている(と、造酒派から見られていた)小太郎の嫁に迎えたのは松平康任の姪だったのです。
 老中と親戚関係にあることに図に乗り過ぎたのか、左京は瀬兵衛を弥三郎と軽子に結びつけることとなった神谷転まで捕縛しようとします。一度ならず、二度まで違法行為を働こうというわけです。

 ここでようやく一月寺が登場します。我が身が危険だと感じた神谷は一月寺に帰依し、虚無僧となって江戸の街に潜伏します。しかし、松平康任の命を承けた南町奉行所の手にかかってしまいます。

 自分の計画が着々と進んでいると思っていた左京には、大きな落とし穴が待ち構えていました。
 まず頼みの綱としていた松平康任を蹴落とそうと狙っている人物がいたことです。
 同じ老中の水野忠邦です。
 その小判鮫のようでいながら、切れ者と名高い脇坂安董が寺社奉行にいたことも、左京にとっては不運でした。一応は僧となっている神谷を寺社奉行ではなく、町奉行に捕縛させたというのも越権行為だからです。

 捕らえられた神谷の即時釈放を求めたのは一月寺の愛�也です。寺社奉行所に訴えたときに、神谷が持っていた上書の写しまで提出したので、違法行為の揉み消し事件その他、ことはすべて明るみに出てしまいました。
 軽子の実家が姫路藩だったというのも、左京の立場をより悪くしていました。姫路藩主・酒井忠学の妻は将軍・家斉の娘・喜代姫だったのです。
 姫路藩邸を訪れる都度、軽子は喜代姫に自家の騒動を愚痴っていました。喜代姫を通して家斉の耳にも入っていた、というわけです。

 この種の事件の処分は寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三者で構成される評定所で扱われますが、
実際に取り調べに当たったのは寺社奉行吟味物調役という役目に就いていた川路聖謨(としあきら=このころの名は弥吉)です。

 結果は仙石左京=獄門の上、晒し首。仙石小太郎=八丈島遠島。松平康任=隠居。
 川路さんはこの事件で名を挙げ、のちのち勘定奉行まで出世します。ライバルを蹴落とした水野忠邦は老中首座に就き、脇坂安董は外様大名から譜代大名に列せられて老中となります。
 ただし、藩主の久利にお咎めはなかったものの、出石藩は五万八千石から三万石に減封。

 直接関わった者たち ― 。
 敗者は当然のことながら、勝者といえどもいい目は見ず、水野、脇坂、川路という部外者だけがいい目を見た、ということで事件は幕引きとなりました。
 神谷転のその後はわかりませんが、先の遺墨墳碑は愛�也の死後、報恩のために神谷が建てた石碑なのだそうです。

 いま、我が国では別の仙石騒動が起きておりますが、こちらはどうなりますことやら。

  ― お不動さんの終い縁日で参詣したはずの萬満寺からとんだ脱線をしてしまいました。

 帰りは馬橋から北小金まで、JR二駅ぶんを歩いて帰ることにしました。二駅といっても、電車ならわずか四分と近いのです。



 歩いて帰ったおかげで、我が庵近くではこの時期になってもまだ花を咲かせている石蕗(ツワブキ)があるのを見ることができました。

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岩本石見守正倫

2010年12月06日 19時18分11秒 | 歴史

 散策道の途中、一軒の民家の塀際に、このようなショッキングピンクの花が咲いているのを見ました。

 


 花の色は別として、一見曼珠沙華に似ていますが、よーく見ると、花の形が違う。さらによくよく見ると、葉も違うし、花が咲いているときにすでに葉があるという形態が違う。
 十日ぐらい前から咲き出したのを見るようになって、前を通って帰ってくると、思い出したように花図鑑を見るのですが、なかなか行き当たらないので、花の名前がわかりません。

 昨日朝の散策時、花の前を通り過ぎたところで、その家の主婦らしき人が出てきたので、あと戻りして訊ねてみました。
「そうなんですよね」という。何がそうなんですなのかわかりませんと思ったら、この花の名がなかなか憶えられないのだといいます。
「じゃあ、ややこしい名前なんですね。外国の花ですか」
「そうです。なんていったかなぁ……。球根なんです。だから、増えるんです」
(増えたら下さい)と口に出かかりましたが、家の前は何度も通ったことがあっても、初対面の人です。
 散歩の二回に一回はこの家の前を通るので、これから何度か出会う機会もあるかもしれない。挨拶の回数を積んでのち、切り出してみようと思います。



 また香取神社へ行きましたが、小春はいませんでした。拝殿の欄干の下、定例の場所にキャッティを置いて引き揚げました。

 昨日、日中は暖かくなりましたが、朝はかなり強い冷え込みでした。足は素足にスニーカーで出ましたが、上はいつものウィンドブレーカーでは寒そうに感じられたので、真冬のコートを出しました。
 寒かったせいか、心臓が圧迫されるような感じがあって、いつまでも消えません。
 香取神社へ行くのには、富士川に向かっていったん坂を下り、また上らなければなりません。何度も上り下りしている坂なのに、昨日は少し苦しいような感じがしました。
 いつもならまだその先へ足を延ばすのですが、昨日は香取神社で打ち止め。三十分で帰ってきてしまいました。




 やはり寒さが厳しかったせいだったのでしょうか。昼が近くなって、部屋いっぱいに陽光が射し込むようになると、心臓の圧迫感も消えていたので、県立西部図書館へ行きました。わからなかった「岩本家」について、「寛政重修諸家譜」を見るためです。

 借りようと思ったのですが、貸し出し禁止図書になっていたので、コピーを取りました。
 巻十九にありました。岩本という姓の武家は聞いたことがないと思っていたら、案の定、幕臣ではわずか一家だけ。ページ数にして3ページ。コピーは二枚で済みました。

「寛政重修諸家譜」の岩本家の項に最初に出てくるのは岩本能登守正房という人で、寛延元年(1748年)、六十一歳で亡くなっています。前書きに、次郎左衛門正次のときに紀伊大納言頼宣に仕え、三代を経て正房に到る、とあります。

 正房のころの紀伊藩主は、のちの吉宗です。吉宗が将軍となるのに従って、晴れて江戸に出てきますが、当初は扶持米三百俵なので、旗本ではなく御家人です。
 しかし、何があったのか、記述がないのですが、一か月足らずで従五位下能登守に叙任とあるので、石高は記されていませんが、この時点で旗本に列したわけです。

 正房には三男二女があって、家督を継いだのは次男・帯刀(たてわき)正久という人。寛延二年(1749年)、二十九歳で死去。
 正久の嫡男が内膳正(ないぜんのしょう)正利で、天形星神社に境内社として祀られている「石見様」の父親であるとともに、十一代将軍・家斉の祖父ということになります。正利の代に二千石取りに出世しています。

 正利の嫡男が「石見様」こと石見守正倫(まさみち)ですが、「寛政重修諸家譜」には牧馬関係の仕事に従事していたらしき記述はあるものの、房総地区に縁があったようなことまでは書かれていません。
 一橋治済の御部屋様(側室)となり、十一代将軍家斉を生んだ富子は正倫の姉です。
 諏訪神社のホームページには長姉とありましたが、次姉です。三姉の次に正倫が生まれ、さらに妹が二人いますが、この二人は実子ではなく養女なので、正倫より年長だったかもしれません。男子は正倫だけだったようです。

 私は前のブログ(去年八月十二日)に、富子はすこぶるつきの醜女(しこめ)であったと書きました。実際に見ているわけはないので、誰かが唱えた説か創作の受け売りです。
 その容貌ゆえに縁づく先がなく、困った父親が友人の田沼意次に相談して大奥に上がることになった、とも書きましたが、これも受け売りです。
 ついでにそのブログでは父親の名を「正利」ではなく、「正行」としています。受け売りするときに私が誤記した可能性もありますが、多分売り先の人が間違えていたのではないかと思います。

「寛政重修諸家譜」には正利の妻は大奥老女・梅田の養女と記されています。富子はその娘です。意次の手を煩わせるまでもなく、正利が独力で大奥に上がらせる手だてがなかったわけではないことになります。ちなみに弟の正倫の母は梅田の養女ではなく、某氏とあるので、腹違いの姉弟です。

 一橋治済としては、当時最高の権力者であった意次を蹴落としてやろうと虎視眈々とその機会を狙いながら、同時にゴマすりもしていたのですから、意次が絡んでいない事案には興味がない。もし正利が意次に頼らず、富子の養祖母に当たる梅田に頼み込んでいたとしたら、富子を見初めたところでなんのメリットもない。
 やはり意次が何かの形で絡み、世話をした、と考えるほうがいいようです。

「灯台もと暗しではありませぬか」と意次。
「はて?」と正利。
「そこもとのご妻女は梅田殿のご養女。孫娘を大奥に上がらせるのはわけもないことでござろう。それがしからも手を尽くしておきますゆえ、そこもとからも梅田殿に……」
「やや、これは迂闊でござった」

 二人の間にこんなやりとりがあったのかしれません。

 石見守正倫のことを調べに行ったのに、脱線してしまいましたが、「寛政重修諸家譜」では先に書いた程度のことしかわかりません。
 うーむ、よし! と自分に気合いを入れました。
「徳川實紀」の「文恭院殿(家斉)御實紀」を借りて帰ろうと思ったのです。こちらは前にも借りたことがあるので、借り出せるとわかっています。

 気合いを入れたのは、何百ページとある本を、貸し出し期限の二週間以内に隅から隅まで読まねばならないからです。厖大な量の文章の中に正倫のことが出てくるとしても、おそらく数行に過ぎないでしょう。見落とさないように、慎重に、かつまた素早く目を通しおおせねばならない。

 反対側の書架に廻りました。
 と、全十五巻がズラリと並んでいるはずの「徳川實紀」の二か所が空いていました。腰をかがめて覗き込むと、なんと空白の一か所は家斉の巻があるはずのところでした。
 パソコンのコーナーに行って、所蔵図書を検索してみました。「状態」というところが「○」であれば、借りられるということ。「×」であれば貸し出し中か、戻っているとしても、予約している人がいて借りられない、ということです。
「文恭院殿御實紀」の「状態」は「×」でした。

 


 帰り道、偶然金ヶ作の八坂神社前を通りかかりました。祭神は素盞嗚命。天形星神社と同じです。
 天形星神社が付録のようになり、付録に追いやった岩本石見守がまた付録のようになってしまったので、なんとなく申し訳ないような気になって、お賽銭をあげました。

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日光御成道大門宿

2010年11月30日 18時34分23秒 | 歴史

 日光御成道・川口宿につづいて、大門宿を歩いてきました。
 また越谷に所用ができたので足を延ばしたのですが、所用があったのは当初北松戸。そのあと、越谷に行くことになろうとは思わなかったので、資料も地図も持っていませんでした。



 川口宿を訪ねたときと同じ東川口で降りました。書店があれば、地図を買おうと思いましたが、駅の北口南口と見回したところ、書店はありません。地図が得られないとなると、川口宿を訪ねたあと、大門宿に関してインターネットをさまよっていたときのおぼろげな記憶しかありませんが、我が庵からはそれほど遠いというところでもなし、収穫が得られなければ、またいつの日か出直しましょう、と思って歩くことにしました。



 東川口駅の西側は台地です。
 日光御成道は結構長い坂を上り切ったところを通っていました。そこから貝殻坂という坂を下り始めるまで、街道は高台の端っこを縫って走っています。いまは家が立ち並んで、台地の下はところどころから覗けるだけですが、昔は見晴らしのいい場所だったのだろうと思われます。

 坂を下ってやや広い道と合流するまで、街道には歩道も白線もありません。歩いているすぐ横を車がビュンビュンと飛ばして行きます。
 カメラに収めたこの景色を目にするあたりで、川口市からさいたま市(緑区)に入ります。

  

 東川口駅から歩くこと約二十分。朱色も鮮やかな大鳥居が目に入りました。
 大門神社です。主祭神は天神七代之大神・地神五代之大神とありました。十二の大神を祀るので、かつては十二所社と呼ばれていたそうですが、記録も旧蹟もなく、創立年は不詳。
 参道は200メートル以上あって、三の鳥居までありました。この神社がかつての大門宿の南端に当たるようです。

 

 大門神社から四分ほどで本陣表門に差しかかりました。つくられたのは元禄七年(1694年)。大門宿の宿泊所は本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠六軒と小さな宿場です。



 本陣表門のはす向かいにある脇本陣表門。交通量が多く、道路を渡れなかったので、さいたま市のホームページから画像を拝借。こちらは安永五年(1776年)の建築。

 

 大興寺に着きました。ここが大門宿の北端に当たります。南端の大門神社前から十分足らずで宿を通り抜けることになります。
 この山門(画像上)が大門という土地の名前の元になったのだそうです。山門奥に見えるのは観音堂。本尊は行基作と伝えられる如意輪観音ですが、盗難に遭って、いまはないそうです。画像下は徳本上人念仏供養塔。

 


 大興寺本堂と観音堂(下)です。真言宗智山派の寺院で、永禄年間(1558年-70年)の開山。



 建築中の鐘楼塔。
 他の大興寺探訪のブログを見ると、茅葺きの鐘楼塔が載っています。樹木や宝輪塔の位置関係からいって、間違いなくこの場所ですのに、茅葺きの鐘楼塔はなくなってしまったようで、新しきものをつくっていました
。目隠しされているので、写真には写せませんでしたが、釣り鐘が提げられているのは見えましたから、鐘楼塔に違いありません。
 私が訪れる寺社は無人であることが通例なので、茅葺きの鐘楼塔がどうなったのか、いまのところは不明です。



 東北自動車道と国道122号線を越すと、埼玉スタジアムが見えました。見えることは見えますが、カメラに収めても、それとわかるかどうか、という遠さでした。この画像はこのあと近くまで辿り着いたときに写したものです。
 これより先に進むと、東武野田線の岩槻まで鉄道の不毛地帯です。岩槻までは9キロ。とても歩く気力はないし、進めば進むほど、近くに駅がなくなると認識していたので、帰路に着くことにしました。



 どこへ向かう道かわからねど、埼玉スタジアムの最寄り駅は埼玉高速鉄道の浦和美園駅だと知っていたので、スタジアムを目指して歩けば、なんとかなるでしょう、と再び東北自動車道を超えました。ちょうど浦和の料金所があるところです。
 何をしているのか、道は到るところに「通り抜けられません」「迂回してください」という表示。その先を眺めると、ガーガーという建機の騒音。反対側では料金を払い終わってブーブーと発進して行く自動車の騒音。



 墓所が見えたので、寄ってみると、明照寺という曹洞宗のお寺でした。
 開基は春日景定という人。生没年はわかりませんが、江戸時代の旗本で、このあたり(中野田村)が知行地の一部だったようです。家康に召し抱えられたとあるので、十六世紀後半から十七世紀前半にかけての人です。
 春日氏は中世には足利氏や上杉氏、太田氏などに仕えた一族です。この場所から10キロほど離れた見沼区南中丸というところに陣屋を構えていたようです。



 水子地蔵の脇侍のように置かれていたピカチュウの石像。後ろはキティかと思いますが、キティらしくないキティです。ピカチュウに対する右の脇侍はドラえもんでした。川口宿の錫杖寺で見たキティ像といい、ここといい、子どもに親しみを持ってもらおうという傾向は最近のお寺の流行なのでしょうか。
 向かい側には明照寺児童遊園と書かれた広場があって、子ども向けのフィールドアスレチックなどがありました。

 

 明照寺のすぐ隣にあった重殿社。
「じゅうでんしゃ」ではなく「じゅうどのしゃ」と読むようです。前身は重殿権現と呼ばれていたらしく、蔵王殿がなまって重殿となったという説もありますが、よくわかりません。
 本殿(画像上)と拝殿内に掲げられた扁額がさいたま市の文化財に指定されているようですが、扁額は暗くて見えず、本殿は厳重な囲いがスッポリと被されていて、これもまた見えません。せっかく建てられている説明板も浦和市時代のもので、風雨に晒されて、非常に読みにくい。



 中野田不動堂。
 棟材に天明六年(1786年)の建立と明記されているそうですが、その旨を記す説明板も浦和市時代のもの。こちらも風雨に晒されています。



 いよいよ浦和美園駅を捜しますか、と歩き始めたところで見かけた山茶花です。5~6メートルの高さがあります。花を見れば確かに山茶花ですが、花の大きさは樹高に比例するものかどうか、大ぶりに感じられました。



 山茶花の隣で咲いていたビワ(枇杷)の花。白い小さな花で、薄く甘い香りがします。あとで調べて、枇杷はバラ科だったと知りましたが、知ってみるとバラ(薔薇)に似た香りだったような……。この寒い季節に花を咲かせるとは知りませんでした。

 私が写真を撮っていたら、不審者と思われたのでしょうか。隣家の老女がしげしげと私を観察していました。振り向いて目が合うと、クルリと向きを変え、何事もなかったような風情で姿を消しました。
 姿を消したのではありません。木陰に隠れて依然私を窺っていたのです。その家の前を通り過ぎるとき、また目が合ったので、会釈すると、「写真を撮られたのかね」と声をかけられました。
「あれは山茶花ですか? だとしたら、随分背の高い樹ですね。初めて見ました」と私。
「私らの若いころはあの花を伐って市場に出したもんですよ。いまはもう駄目。外国から安い花が入ってくるから……」
 歳のころは七十代。若いころ? ふーむ、五十年ぐらい前のことか、それとも少女時代のことをいっているのか。山茶花の切り花? 茶室で使うぐらいしか思いつかないが……。

 陽が沈もうとしていました。木陰に入ると覿面に寒くなります。
 細い径を下ると清水の流れがあり、立派な道路に出た、と思ったら、先に画像を載せた埼玉スタジアムが見えました。周りは荒れ地か、そうでなければ建機が入って造成中の土地です。そこに不釣り合いにきれいな道路が走っています。
 自転車に乗った女子高生と女子中学生の一群が私を追い越して行きました。女子中学生は全員白いヘルメットを被っています。近くにいれば、こまっしゃくれて、うるさくて、憎たらしいだけなのに、三人、四人と連なって、先頭に遅れまいと自転車を漕いで行く中学生たちは可愛らしい。



 浦和美園駅に着きました。東川口までは一駅ですが、料金は¥210。北総開発鉄道もびっくりの高料金です。

 すっかり暗くなったころに庵に戻ってきて、本土寺のライトアップが終わっているのに気づきました。
 この一週間、狭い参道を結構な数の車が行き来して、(駐車場はあるのかなぁ)という感じで、ノタリノタリと走っていたので、かなり鬱陶しかったのです。参道の途中までは歩行者専用の道があるのですが、なくなったところで車がすれ違ったりすると、いっぱいいっぱいで歩けやしないのです。
 北小金駅から参道につづく道も、車が通るとは思わないのか、紅葉を見に行こうという人がいっぱいに拡がって歩いていたりしました。追い越すに追い越せない車がノタリノタリ。私はカッカカッカ……。それも終わりました。

この日歩いたところ。

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キューポラのない街 ― 日光御成道

2010年11月26日 19時50分21秒 | 歴史

 日光御成道・川口宿を探索してきましたが、その日のうちにブログに書くことができず、翌日は立花誾千代の祥月命日だったので、書くのはそちらを先にしたため、五日も前のことなのにあと回しになってしまいました。
 二十一日の日曜日、越谷に所用があって出かけたので、帰りに川口へ足を延ばしていたのです。
 先日赤羽へ行ったとき、赤羽に日光御成道の岩淵宿があり、荒川を挟んで川口宿もあったのだと識りました。岩淵宿には面影はまったくといっていいほど遺されていませんが、川口宿には多少なりとも遺されているような……と識ったからです。



 武蔵野線の南越谷から東川口へ行き、地下鉄南北線(埼玉県内の呼称は埼玉高速鉄道)に乗り換えて、川口元郷(かわぐちもとごう)という駅で降りました。



 旧街道がありそうな方角を目指して歩くと、国道122号線からJR川口駅に通じる道路との交差点にミニ緑地がありました。「鍋屋の井」という石碑が建てられています。
 かつてはここに噴き出しの井戸があったようです。しかも名水で、それに目をつけたユニオンビールという会社が進出してきたために、名水も涸れてしまったとか。



 川口市立文化財センター。
 二階へどうぞ、とあったので階段を上って行くと、事務室兼受付がありましたが、入館者は私だけでした。「御成道を見にきたのですが……」というと、男性職員がおもむろに出てきて、「片づけちゃったかなァ」といいながら、シャッターの下ろされた別室に案内してくれました。私が訪ねた前の週まで御成道の企画展があったのだそうです。

 

 幸いにしてまだ片づけられずにいましたが、決して広い展示室とはいえないのと複製地図と写真が中心の展示だったので、上手く写真に撮ることができません。

 

 常設展示を見ていたら、こんなストーブがありました。
 小学校か中学校、もしくは両方とも、であっただろうか。両方とも見た憶えがありますが、どっちがどっちだったかは憶えがありません。画像(下)のほうが近代的な感じがします。こちらは高校時代だったかもしれないという気もします。

 文化財センターをあとにして、教わった道を荒川に向かって歩くことにしました。文化財センターを訪ねていなければ、私が見当をつけていたのは方向違いの道でした。またとんでもない道を歩くところでした。

 

「鍋屋の井」のあったミニ緑地のすぐ前が、いまは「本一(本町一丁目)通り」と呼ばれている寂しげな商店街の入口です。昭和四十年ごろまでは活気溢れる商店街だったそうですが、この通りがかつての御成道であり、岩槻街道です。
 パンフレットも案内地図もないので、古そうな建物を見つけてはカメラを向けました。
 美濃屋畜産店(上)と福田屋洋品店。福田屋洋品店の手前・植木鉢を並べた家はかつては商店だったと識れますが、何を商う店であったかは不明。



 縄屋商店。現役かそうでないか。現役だとしたら、何を生業(なりわい)としているのか、まったく不明。




 お菓子とホビーの名古屋本店。このスタイルからすると昭和初期か。



 中西日進堂薬局。古そうですが、大正時代の建築。江戸の面影を求めたいので、大正は新し過ぎます。



 濱田接骨院。こちらはもうちょいと古く、明治期の建築。

 残念ながら江戸時代の名残は何もありませんでした。
 どこかの路地を入ったところに本陣の門が遺されているようですが、どこを曲がればいいのか、見当がつかないので、本日の取り組みはこれにて打ち止めです。
 時代は問わず、古い建物の遺された町という観点で見れば別だったのかもしれませんが、川口宿=江戸時代という観点で歩いたので、ふーむと考え込むことしきりの道中でありました。

 川口市も私とは違う観点から同じようなことを考えるのか、川口宿に関しては熱心ではなさそうです。それが証拠に案内板のたぐいは一つもありませんでした。あれば、本陣の門を見ることができたのに……。




 荒川堤防下に建つ鎌倉橋の碑。
 鎌倉時代、このあたりは舟戸が原と呼ばれる原野でしたが、鎌倉から奥州に向かう街道があったので、小川に架けられた橋を鎌倉橋と呼んだようです。鎌倉と奥州といえば、源九郎義経です。兄・頼朝を応援しようと平泉から駆けつけた義経もこの橋を渡ったのです。

 このあと「本一通り」に一度戻って訪れる錫杖寺というお寺が川口宿の北端ということですから、そこからこの碑のあるところまで500メートル少々しかありません。
 中仙道追分(現在の東京・本郷)から近く(約11キロ)、江戸を出た旅人は川口宿から三つ先の岩槻宿で泊まるというのが普通だった(将軍の日光社参も第一日目の宿は岩槻城)ので、隣の岩淵宿と併せて一宿と数えられました。本陣脇本陣それぞれ一軒ずつありましたが、旅籠の数はわずか十軒と、旅籠の数だけでいうと、我が小金宿の十分の一という小さな宿場町でした。



 広い河川敷を横断して荒川の川岸まで行ってみました。
 画質が悪く、判別できるかどうかわかりませんが、遠くに写っているのは、先週訪ねた赤と青の新旧岩淵水門です。

 

「本一通り」を逆戻りして錫杖寺へ。
 真言宗智山派のお寺で天平十二年(740年)、行基が草案を結んだのが始まりと伝えられています。
 江戸時代に入った元和八年(1822年)、徳川秀忠が日光参詣の折、この寺で休息したのにならい、翌年、家光の参詣の折にも休息所となって、以来、将軍が日光に参詣するときは必ずここで休息することになりました。



 境内にあった可愛い石像。

 讀賣新聞に務臺光雄(1896年-1991年)という人がいました。社長・会長を歴任した人です。
 務臺さんのころ
の讀賣は、まだ全国紙ではなかったこともあって、「朝毎讀」といわれるように三番手でした。なんとか毎日を抜き、朝日を抜いて部数を日本一にするために、務臺さんが知恵を絞った手段の一つは、讀賣巨人軍を使って、子どもたちのファンをつくることでした。新聞を取ってくれる家に子どもがいれば、後楽園球場の入場券をプレゼントしたりしたのです。
 子どもが新聞を買ってくれるわけではない(つまり無駄な投資ではないか)、と幹部たちは異を唱えたそうですが、務臺さんは「いずれ大人になったとき、讀賣のファンになってくれる」といったそうです。
 直接聞いたわけではありません。務臺さんを心から崇拝していた讀賣OBで、のちに脱税で捕まった人から聞いた話です。

 脱線しました。
 右のほうには「かわぐち地蔵」の石像があるのですが、キティの像はそれと同じような扱いになっていました。これを見て、錫杖寺の住持も務臺さんのようなことを考えているのか、とふと思ったまでです。

 錫杖寺に参詣しているとき、荒川河畔に善光寺というお寺があったことを思い出したので、再び荒川へ戻りました。



 今度は違う道を歩いてみました。
 金山町といういかにも鋳物にゆかりのありそうな地域で見つけたキューポラの排煙塔です。
 文化財センターの係員に教わるまで、私はキューポラといえば、煉瓦か何かでこしらえた煙突がニョキニョキと立っていたのだろうと思っていました。この形とは違う煙突型のものもあるそうですが、キューポラそのものは建物の中なので、外から見ることはできません。
 ことにいまは高層マンションが林立しているので、鋳物工場のある路地に偶然迷い込まない限り、排煙塔に出会うことすら困難です。
 こうして、川口からキューポラがなくなったわけではないけれど、外見的にはキューポラのない街へと変わりつつあります。



 夕陽を受ける善光寺に着きました。荒川堤防の上にあります。昭和四十三年、火災で焼失したあとに建てられた近代的な堂宇で、江戸時代の面影はまったくありません。



「江戸名所図絵」(ちくま文庫から)に描かれた善光寺。
 開創は建久六年(1195年)。信濃の善光寺にお参りするのとと同じ御利益があるとされたので、江戸市民はこぞって参詣したということです。

 帰りは京浜東北線の川口駅に出ました。

 このブログを書こうと資料を捜していたら、川口宿の先、大門宿(武蔵野線東川口駅近く)にはもう少し「らしい」遺構があるようです。近いうちに訪問しようと思います。

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