「私的日本辺境論」を述べる前に、今回書籍そのものについての簡単な雑感です。
内田樹の「日本辺境論」を読んだ。
(以前、羽田空港で軽く立ち読みしていたのだが、彼に敬意を表して購入した。)
まず、面白い。
売れるだけのことはある。(鳩山総理もお買い上げだそうで。読んでるのかは不明。)
私個人としては8割程度は率直に同意できた。
(私個人の考えとも近いのが改めて確認できた)
思想的なことにあまり興味がない人も、1章「日本人は辺境人である」と2章「辺境人の「学び」は効率がいい」の読み物としてスラスラ楽しく読めるだろう。
1章と2章だけでも「日本辺境論」のほとんどは理解できるから、それだけでもこの本を読む価値はある。
日本人論としてではなく、今後の日本人論を述べるにあたっても有意な考えとなるであろう。
※
これまで「日本人は・・・だから~」という雑談で発言できなかったあなた、会話のネタにできるのでおススメ。
または仕事か何かで日本的思考に苦しめられているあなた、あなたの悩みを解決するヒントになるかも。
しかし、3章「「機」の思想」は哲学的な素養をもたない人が理解するのには難しいと思う。
たぶん「わかったつもり」の人達がいっぱいいるはずだ。
これは当Blogの主張の中核テーマである「絶対性と相対性」についての彼なりの洞察だが、こういう議論が一般にウケが悪いのは、なんとなく想像できても、実践を想定した追体験を、その経験がない人が想像することが難しいという点にある。
特に「時間」という概念に関する考察は、ほとんど理解されないといっていい。
我々は普段「時計(時刻)」は意識しても「時間」を意識して生活することはほとんどない。
「時間そのもの」について考える機会があるのは物理学者と哲学者、死にゆく人と僧侶ぐらいである。
例外としては、スポーツ選手や武道家、職人などはその仕事を極限まで極めようとする中で、自然と時間に関する手触り感覚が身につく場合もある。
彼は武道家の立場から、彼は彼自身の説明通り「先駆的な知」により「日本人ならその手触り感をなんとなく理解できるであろう」ということで、その手触り感で「時間」をわかりやすく説明しようとしている。
そういう意味では「なんとなく理解する」でもいいのかもしれない。
これはほとんど彼の趣味、ライフワークなのだ。
私自身、この3章の彼の主張の半分には、理解はできるが同意できないというか、そういう考え方でいいのか疑問に思うところがある。
というのは、「「機」の発想」と「我々の現生活」との間のギャップを埋める方法が述べられていないからである。
いや、むしろ「ギャップを埋める方法が述べられていない」ということが、彼の作為的な意見、政治的スタンスを表明しているであろうと捉えることができ、それが無駄な反感を買うのだと思うのだ。
この日本辺境論に唯一欠けているのは、「日本人の性質」と「日本人の性質と乖離し始めた現実生活の性質」を有機的に結び付けようとする「気概」ではないかと思う。
むろん、彼自身、本書の目的は「大風呂敷を広げること」のみと述べているのであるから、確信的に行われたことなのであろう。
たしかに、辺境人として生きることも、気概を持つことも、どちらがよいのか、それは自明ではないから。
第4章は後から取って付けた印象。
あってもなくてもいいと思う。
読んだ後の印象もさほど残らない。
彼としては、日本人の思考方法を説明するにあたって「日本人が並列処理が得意な理由」に意味があるのだろうが、第1章と第2章の補完的説明だから、第4章は必須ではないと思う。
彼の文章を読んでいると、不思議と「美輪明宏」氏の書籍を読んでいる気分になってくる。(私は彼の本も読んでいる。私は彼の人生」のファンだ。)
美輪氏と同じで、構えさえしなければ自然と入ってくる文章で、とてもわかりやすい。
語り口や、論理展開の仕方だけに理由があるのではなく、彼の問題意識の延長線上に人間の「霊性」があり、彼はそこに向かって語りかけようとしているからではないかと思う。
彼は固体としての人間、表層意識の理性に向かってではなく、その奥にある人間性そのもの、潜在的な理性に向かって語りかけているのだ。
だから頭で理解しようとした時の悶々とした納得感ではなく、直感に刺激されて心底からジワジワと湧き上がるインスピレーションが我々にもたらされる。
これが彼の人気の秘訣なのだと思う。
内田樹の「日本辺境論」を読んだ。
(以前、羽田空港で軽く立ち読みしていたのだが、彼に敬意を表して購入した。)
まず、面白い。
売れるだけのことはある。(鳩山総理もお買い上げだそうで。読んでるのかは不明。)
私個人としては8割程度は率直に同意できた。
(私個人の考えとも近いのが改めて確認できた)
思想的なことにあまり興味がない人も、1章「日本人は辺境人である」と2章「辺境人の「学び」は効率がいい」の読み物としてスラスラ楽しく読めるだろう。
1章と2章だけでも「日本辺境論」のほとんどは理解できるから、それだけでもこの本を読む価値はある。
日本人論としてではなく、今後の日本人論を述べるにあたっても有意な考えとなるであろう。
※
これまで「日本人は・・・だから~」という雑談で発言できなかったあなた、会話のネタにできるのでおススメ。
または仕事か何かで日本的思考に苦しめられているあなた、あなたの悩みを解決するヒントになるかも。
しかし、3章「「機」の思想」は哲学的な素養をもたない人が理解するのには難しいと思う。
たぶん「わかったつもり」の人達がいっぱいいるはずだ。
これは当Blogの主張の中核テーマである「絶対性と相対性」についての彼なりの洞察だが、こういう議論が一般にウケが悪いのは、なんとなく想像できても、実践を想定した追体験を、その経験がない人が想像することが難しいという点にある。
特に「時間」という概念に関する考察は、ほとんど理解されないといっていい。
我々は普段「時計(時刻)」は意識しても「時間」を意識して生活することはほとんどない。
「時間そのもの」について考える機会があるのは物理学者と哲学者、死にゆく人と僧侶ぐらいである。
例外としては、スポーツ選手や武道家、職人などはその仕事を極限まで極めようとする中で、自然と時間に関する手触り感覚が身につく場合もある。
彼は武道家の立場から、彼は彼自身の説明通り「先駆的な知」により「日本人ならその手触り感をなんとなく理解できるであろう」ということで、その手触り感で「時間」をわかりやすく説明しようとしている。
そういう意味では「なんとなく理解する」でもいいのかもしれない。
これはほとんど彼の趣味、ライフワークなのだ。
私自身、この3章の彼の主張の半分には、理解はできるが同意できないというか、そういう考え方でいいのか疑問に思うところがある。
というのは、「「機」の発想」と「我々の現生活」との間のギャップを埋める方法が述べられていないからである。
いや、むしろ「ギャップを埋める方法が述べられていない」ということが、彼の作為的な意見、政治的スタンスを表明しているであろうと捉えることができ、それが無駄な反感を買うのだと思うのだ。
この日本辺境論に唯一欠けているのは、「日本人の性質」と「日本人の性質と乖離し始めた現実生活の性質」を有機的に結び付けようとする「気概」ではないかと思う。
むろん、彼自身、本書の目的は「大風呂敷を広げること」のみと述べているのであるから、確信的に行われたことなのであろう。
たしかに、辺境人として生きることも、気概を持つことも、どちらがよいのか、それは自明ではないから。
第4章は後から取って付けた印象。
あってもなくてもいいと思う。
読んだ後の印象もさほど残らない。
彼としては、日本人の思考方法を説明するにあたって「日本人が並列処理が得意な理由」に意味があるのだろうが、第1章と第2章の補完的説明だから、第4章は必須ではないと思う。
彼の文章を読んでいると、不思議と「美輪明宏」氏の書籍を読んでいる気分になってくる。(私は彼の本も読んでいる。私は彼の人生」のファンだ。)
美輪氏と同じで、構えさえしなければ自然と入ってくる文章で、とてもわかりやすい。
語り口や、論理展開の仕方だけに理由があるのではなく、彼の問題意識の延長線上に人間の「霊性」があり、彼はそこに向かって語りかけようとしているからではないかと思う。
彼は固体としての人間、表層意識の理性に向かってではなく、その奥にある人間性そのもの、潜在的な理性に向かって語りかけているのだ。
だから頭で理解しようとした時の悶々とした納得感ではなく、直感に刺激されて心底からジワジワと湧き上がるインスピレーションが我々にもたらされる。
これが彼の人気の秘訣なのだと思う。