進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

「日本辺境論」雑感

2010-01-29 14:24:18 | TV・書籍
「私的日本辺境論」を述べる前に、今回書籍そのものについての簡単な雑感です。

内田樹の「日本辺境論」を読んだ。
(以前、羽田空港で軽く立ち読みしていたのだが、彼に敬意を表して購入した。)

まず、面白い
売れるだけのことはある。(鳩山総理もお買い上げだそうで。読んでるのかは不明。)
私個人としては8割程度は率直に同意できた。
(私個人の考えとも近いのが改めて確認できた)

思想的なことにあまり興味がない人も、1章「日本人は辺境人である」2章「辺境人の「学び」は効率がいい」の読み物としてスラスラ楽しく読めるだろう。
1章と2章だけでも「日本辺境論」のほとんどは理解できるから、それだけでもこの本を読む価値はある。
日本人論としてではなく、今後の日本人論を述べるにあたっても有意な考えとなるであろう。


これまで「日本人は・・・だから~」という雑談で発言できなかったあなた、会話のネタにできるのでおススメ。
または仕事か何かで日本的思考に苦しめられているあなた、あなたの悩みを解決するヒントになるかも。

しかし、3章「「機」の思想」は哲学的な素養をもたない人が理解するのには難しいと思う。
たぶん「わかったつもり」の人達がいっぱいいるはずだ。
これは当Blogの主張の中核テーマである「絶対性と相対性」についての彼なりの洞察だが、こういう議論が一般にウケが悪いのは、なんとなく想像できても、実践を想定した追体験を、その経験がない人が想像することが難しいという点にある。
特に「時間」という概念に関する考察は、ほとんど理解されないといっていい。
我々は普段「時計(時刻)」は意識しても「時間」を意識して生活することはほとんどない
「時間そのもの」について考える機会があるのは物理学者と哲学者、死にゆく人と僧侶ぐらいである。
例外としては、スポーツ選手や武道家、職人などはその仕事を極限まで極めようとする中で、自然と時間に関する手触り感覚が身につく場合もある
彼は武道家の立場から、彼は彼自身の説明通り「先駆的な知」により「日本人ならその手触り感をなんとなく理解できるであろう」ということで、その手触り感で「時間」をわかりやすく説明しようとしている。
そういう意味では「なんとなく理解する」でもいいのかもしれない。
これはほとんど彼の趣味、ライフワークなのだ。

私自身、この3章の彼の主張の半分には、理解はできるが同意できないというか、そういう考え方でいいのか疑問に思うところがある。
というのは、「「機」の発想」と「我々の現生活」との間のギャップを埋める方法が述べられていないからである。
いや、むしろ「ギャップを埋める方法が述べられていない」ということが、彼の作為的な意見、政治的スタンスを表明しているであろうと捉えることができ、それが無駄な反感を買うのだと思うのだ。
この日本辺境論に唯一欠けているのは、「日本人の性質」と「日本人の性質と乖離し始めた現実生活の性質」を有機的に結び付けようとする「気概」ではないかと思う。
むろん、彼自身、本書の目的は「大風呂敷を広げること」のみと述べているのであるから、確信的に行われたことなのであろう。
たしかに、辺境人として生きることも、気概を持つことも、どちらがよいのか、それは自明ではないから。

第4章は後から取って付けた印象。
あってもなくてもいいと思う。
読んだ後の印象もさほど残らない。
彼としては、日本人の思考方法を説明するにあたって「日本人が並列処理が得意な理由」に意味があるのだろうが、第1章と第2章の補完的説明だから、第4章は必須ではないと思う。


彼の文章を読んでいると、不思議と「美輪明宏」氏の書籍を読んでいる気分になってくる。(私は彼の本も読んでいる。私は彼の人生」のファンだ。)
美輪氏と同じで、構えさえしなければ自然と入ってくる文章で、とてもわかりやすい。
語り口や、論理展開の仕方だけに理由があるのではなく、彼の問題意識の延長線上に人間の「霊性」があり、彼はそこに向かって語りかけようとしているからではないかと思う。
彼は固体としての人間、表層意識の理性に向かってではなく、その奥にある人間性そのもの、潜在的な理性に向かって語りかけているのだ。
だから頭で理解しようとした時の悶々とした納得感ではなく、直感に刺激されて心底からジワジワと湧き上がるインスピレーションが我々にもたらされる
これが彼の人気の秘訣なのだと思う。

「みんなの党」は進化できるか

2010-01-29 12:14:45 | 政治
やばい。(←もう古いのかな?)
みんなの党が第2野党になる時代がそこまで来てる。

ヨッシー日記(渡辺喜美)
http://yossie-w-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/


今日の日経新聞は、みんなの党支持率5%(前回2%)で公明・共産を抜いた。次の参院選投票先では8%で民主・自民に次いで第3党。驚くべき数字である。

ラジオNIKKEIのマーケットサーベイでは超サプライズの数字。投資家のみなさんに聞いた。「支持または好意をもつ政党は?」。

民主19%、自民13%、みんなの党49%で堂々の第1位!!投資家は先を読む。


私自身「みんなの党」の掲げる政策が特段素晴らしいと考えているわけではないが、民主党と自民党の評価が低いので「みんなの党」の評価が相対的に上がっているのが実情ではある。
自民党も民主党も外交政策以外のところではあまり大きな違いがなく、どちらもいわゆる「大きな政府」指向であり、いわゆる「小さな政府」指向の政党が「みんなの党」以外存在せぬのである。


民主と自民は内政問題で方針の違いで揉めているが、大きな/小さな政府のスケールで見ると同じ枠組みの中での争いに見える。
一応、予防線を張っておくが、よく「大きな/小さな」というのは問題の本質ではないという批判がある。
例えば、オバマは「大きいか小さいではなく賢い政府」と言ったし、つい先日の自民党の議論では「無駄なことをせぬ政府」という表現が使われた。
だが、これは周回遅れの議論である。
「大きい」「小さい」を主張している人達は、その議論を何十年も前に経ているのだ。
個人の尊厳と自由と幸福を最大化するためには、どういう政府がいいのかという長い間の議論の末に辿り着いたのが「大きい政府」と「小さい政府」の議論なのであり、「大きい」か「小さい」かを問題にしているのではない。
本質的でないのはわかりきっていることで、話の単純化のために用語として使っているだけだ。
「小さい政府」を主張している人が原理主義的に「政府は小さい方がよい。」などと考えているわけではない。
個人の尊厳と自由と幸福を最大化するために、それが最もよい方法と思うがゆえに主張するのである。
理由はこれまで繰返し述べてきたので、ここでは述べない。
(後日まとめる)

よって「小さな政府」指向の国民は「みんなの党」を選択せざるを得ないのだ。
中産階級以上の富裕層は「小さな政府」指向の人が多い。
政府の助けを比較的に必要としてないので全体最適が重視されるからだ。
税は少ない方がいいし、政府による規制がビジネスを妨げることもある、政府は小さいにこしたことはない。
「みんなの党」が投資家に人気があるのは当然である。

しかし、そういう人達は日本国民全体でみるとマイノリティーでもある。
(もちろんマイノリティーでもオピニオンリーダーとしての影響力はあるではあろう)
「みんなの党」が国民政党としてもう一歩飛躍するためには、総合力を上げる必要がある。
民主党のように右も左もということではなく、もう一回り大きな風呂敷を広げないとより多くの支持を得ることができないであろう。
(もう一つ高い視点からの政策提言が必要だという意味)
今は小さい風呂敷を幾つか広げているだけだが、もっと大きな風呂敷が必要だ。
ただ「みんなの党」は層が薄すぎるので今のままでは無理であろう。

そんな中、小野次郎氏が合流するのは朗報だ。
まだまだだが・・。

それもそうだが、そもそも渡辺喜美氏が総理大臣というのがピンとこない。
非常に勝手なことを言わせてもらえば、彼の突破力は担当大臣の方が向いていると思う。
多くの国民が彼に安心感を抱けないのはそれが原因ではなかろうか。
「みんなの党」が野党第1党、政権与党になるためには、たぶんリーダーとして大物を連れてこないとだめだと思う。
これは完全に個人の感想でしかないのだが。

「話せば分かる」は通じない

2010-01-28 19:33:25 | 政治
政治家の進退(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/01/post-704.php


1月に党本部が行った愛知県の世論調査で、浅野勝人参議院議員は民主党の現職他を抑えて、トップに立った。それを見て、今年72歳になる浅野さんは立候補しないことを表明した。

「世論調査でトップなのになぜ辞めるのですか」とたずねる新聞記者に「君も71歳になればわかるよ」と答えた。


話の事実関係はわからないけれど、ちょっとカッコいい話に思えた。

でも、↓こんなことをいつまでも言っているようでは物足りない。


こういう人がいるかと思えば、古い自民党の真ん中にずっと座っていながら、まだしがみつこうとする人もいる。


自民党の中堅・若手の改革派には少し想像力が足りない。
まず、老齢の政治家が政治家であることにこだわるのは必ずしも利権が美味しいからではない。
そういう人も中にはいると思うけど、それでも散々批判されてまでやる合理的理由にならない。
そんなに批判が立ってしまったら選挙に負けてしまう可能性が高くなってしまう。
歳をとってまで政治家にこだわる理由は他にあるのではないか。

なぜその人達は政治家という仕事にこだわるのか?
そういうことに想像力を働かせてみよう。
「なぜ、彼らはそう思うのか?」という問いに答えようとすることは、どんな世界においても我々に「より本質的な理解」という素敵な贈り物を与えてくれる。

個人的な回答をここで紹介しよう。

彼らがこだわっているのは「政治家」という仕事ではなく「人間関係」という情緒的なものだ。
「憎いあいつにいい想いをさせたくない」「俺がいなくなるとあいつが困る」「あいつのやり方は目に余る」「これを許せば悪になる」などなど・・
彼らは全く合理的ではなく、情緒的な判断をしている。
だから「合理的でない」と批判しても意味が無い。
彼らは理ではなく情に流されているのだから。

でもこれは、日本的組織において往々にして行われている判断で、決して他人事ではない。
これを読むあなたも常日頃、日本人であればこういう場面に直面しているはずだ。

例えば、太平洋戦争において全く非合理的な戦略が採用され続けたのは、合理的判断を促す意見をことごとく無視した情だ。
日本人は太平洋戦争当時の軍人は無能だったような印象を持っているかもしれないが、内実を覗いてみると意外に合理的な議論も行われていた。
海軍の軍令部にしても陸軍の参謀本部にしても参謀にはそれなりのエリートが揃っており、それなりに合理的な面子がそろっていた。
それが最終的に情緒的判断になってしまうのは、組織的判断を行うにあたって最も優先される事項が「人間関係」だからであって、その議論に参加している人間が非合理的だからということではない。
「あいつがそこまでいうなら・・」「絶対に間違っているけど上がああいうから・・」「あの人の信念だから仕方ない・・」「あいつに死に花を咲かせてやりたい・・」「名誉挽回の機会を与えてやりたい・・」「あいつはわかってくれる・・」「わかってくれると思う・・」などなど、こういう言葉をあなたは聞きはしないだろうか。


なぜ日本的組織においては理よりも情が判断基準となるのか、それは後日。

情に流されてる人間を理で解こうとするのはとても男性的発想だ。
人々が理屈だけで物事を理解してくれるなら誰も苦労しない。
時に人は情を優先することがある。
犬養毅でないが「話せば分かる」は通じないのだ。(失礼)
情を相手にどう対応すべきか。
このあたりについてもっと想像力を働かせてくれまいか。

とても国際性豊かな河野氏なので、このあたりの日本的やり方は好きではないのかもしれないが。

973兆円の重みがわからない

2010-01-28 16:30:03 | 経済
近年、日本の借金が膨張している問題が注目されているが、借金の額だけを出されても数字が大きすぎていまいちピンと来ない。
それに、例えば同じ100万円の借金をするにしても、年収100万円の人と年収1000万円の人では額が同じでも重みが違う。
アメリカのオバマ政権が積み上げている借金は半端な額ではないが、アメリカと日本では経済規模が違うので数値だけで単純比較はできない。
借金の額が大きくても、経済力がそれに応じて大きければ問題ないのである。
(収入でなくても資産を持っていれば問題ない。これは後述。)

では、日本の経済規模(GDP)に比べて日本の借金がどの程度なのか、1800年代後半からの推移をグラフにしたものが東大の岩本氏のブログに掲載されているので紹介しよう。
(以前も騒がれたが今回2010年度のデータ分がUpdateされた。)
日本の借金は、歴史的にみてどのくらいの規模なのか。
(これは必読!是非リンク先へアクセスしてください。)

国の借金973兆円 (岩本康志)
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/32078272.html


2010年度の名目GDPは,1月22日に閣議決定された「経済見通しと経済財政運営の基本的態度」によると,475.2兆円。対GDP比は205%になる。第二次大戦期のピークは1944年度の199%なので,それを超える。


環境が違うとはいえ、今の日本の借金は太平洋戦争末期の1944年と同レベルである。
岩本氏の計算によれば、2010年度にはついにそれを超えてしまうようだ。
このグラフと話だけ見ると、絶望的な数字に見えてくる。
ちなみにこの数字は先進国最悪の数字だ。
状況としては、「今まさに戦時中」である。
当然ながら、様々な機関が日本の財政赤字に対して警鐘を鳴らしている。


「この赤字は消費税を数十%上げないと解決できない。」類の提言をいつも見る。

にも関わらず、なぜかこの財政危機説についてあまり騒がれていない。
本来ならもっと注目されていいはずである。

これには幾つかの理由が考えられているが、専門家の間でも意見が割れていることが大きな要因であろう。

世の中には「財政赤字フィクション派」という人達がいて、日本は借金も大きいが資産も大きいので差し引きすると、それほど絶望的な借金額ではないと主張しているのだ。
(実際に計算してみた高橋洋一氏が言うのだからある程度信憑性はあるのだろう。)
彼らによれば、財政危機説を裏で操っているのは財務省だという。
国の財布を預かる財務省には、財政の健全化を至上命題とする「増税バイアス」が働いており、増税する機会を常に狙っているというのだ。
政府の規模を際限なく大きくしていくのではなく(増税ではなく)、経済成長による税収アップで増税を回避すべきだという意見は、ある程度説得的でもある。
(これは小泉・竹中改革路線でもある。今なら「上げ潮派」と呼ばれる人達の考え方だ。)

しかし、これに対する批判も当然ながらある。
借金の額が低い経済成長率による税収アップでは取り返せない水域に達していることや、少子高齢化の日本では政府支出は増加する一方、経済が大きく成長する期待が持てないため、大幅な増税しか方法がないということがある。

借金(国債発行)がどこまで可能かという問題ももちろんある。
財政危機説をとなえる人達は、もうすぐ限界がくると主張している。
国債が暴落する可能性があり、暴落した場合、日銀が国債を買え支えると思われるわけだが、その副作用で貨幣の価値が暴落し、ハイパーインフレが起きるというのだ。
ハイパーインフレで借金が無効化される代わりに日本に眠る貯蓄は全て吹っ飛ぶ。
紙幣は紙切れになるし、せっかく溜め込んだ残高は気づいたら無意味になる。
わかりやすくいえばジンバブエになると思えばいいだろう。
実際、戦後の日本ではハイパーインフレで借金を棒引きしたわけである。
(グラフで戦後急降下しているのはそれが原因)
(今が戦時なら、もうすぐ戦後か。)

国債が暴落するかどうかについても意見が分かれている。

TVによく出てくる元ミスター円こと榊原氏なんかはまだ借金できるから国債発行して不景気を乗り切れと主張しているし、その一方で多くの経済学者はいつ国債が暴落するか戦々恐々としている。

ちょっと難しいのだが、下記のブログで長期金利の上昇がどのように起きるか説明されている。

信用とデュレーション - 長期金利はどのように上昇するか(投資の消費性)
http://d.hatena.ne.jp/equilibrista/20100127/p1


いやね、自国の国債が安全だと言われてるのは合ってますよ。でもね買い支えろとは、少なくともBISには言われていない。年金や保険も、自国の国債が無難だよねとは言われているが、買い支えるべしとは誰も*4言っていない。彼らが守るべきは第一に、預金者の、保険加入者の、年金加入者の、財産だからだ。国債を売ったお金はどうするの?と思われるかもしれない。だって株買ったり、外国に投資したりすると、怒られたり、面倒な説明が必要だったり、ペナルティを喰らったりするもの。ええ、もちろんまた国債を買うんですよ。でもね、違うんだな。より償還が近い国債を買うんです。返済までの長さが短いものを。こういう動きを「デュレーションの短期化」と呼ぶ。

なぜすぐに償還される債券を買うのかといえば、より長いものと比べて、発行体の「信用」が毀損されることの影響を、あまり受けないから。だってそうでしょ。明日返してもらえる借金の値段は、5年後の財政が危ういからといって、それほど劇的には下がらない。そして皆がこうした行動を起こすと、より長期の金利から水準が上昇してくる。イールドカーブが立ってくるのだ。これは本当に怖い。

[中略]

原口大臣は年金運用を改革すると意気込んでいるし、第一生命は株式会社になるらしい。大口の投資家が、今よりも資産の評価に敏感になる*5とき、より信用の毀損を気にするとき、横並びの大好きな連中が一斉に短期化に走ったとしても、まったく不思議とは言えない。財務省が主催している国債投資家懇談会を、覗き見してみよう。その大口の投資家の方々が、我々の代理人が、あまりにもイノセントなことに僕だって驚く。一方で、あまり大きく報道されていないが、国債全体のデュレーションは、しれっと長期化されてきている。そう、財務省はわかっているのだ。いまのうちだ。

借金して無駄遣いするのはやめよう。景気は決してよくない。悪い金利上昇は、勘弁して下さい。


長期金利がジワジワと上がりはじめて、ある臨界点を超えるとリーマンショックの時に見られたように、突如として全員が売りに走ってジ・エンドである。
それが何時来るかは誰にもわからない。
来るかわかった時がその時。
「信用」っていうのはそういうものなのである。
バブルも同じ。
ファンダメンタルズはあまり関係ない。

だから専門家の間で意見が分かれて、一般に危機感が薄いのは、本当のところは誰にもわからないからなのではなかろうか。
事後的に「予言した専門家」などと騒がれるかもしれないが、実際のところどうなるかわかっていないのだ。
むしろどうなるかわかりたくないのかもしれないけど・・。
まずはブラック・スワンを読み返そう。

[ネタ] 日本刀の切れ味はいかほど

2010-01-28 12:01:47 | TV・書籍
全部読むのには疲れたが普通に面白かった。
「刀鍛冶」という馴染みのない世界の話なのにひきつけられた。
「日本刀」を直接触ったことも見たことない人が多いはずだが、「日本刀」は日本人の生活の中に溶け込んでいる文化的象徴のような気がする。
(ほんとかよ・・)

ほんと大衆にはなれないマイノリティーなインサイダー情報が手に入るのもネットのいいところだよね。
ロングテールか。

特に個人的に興味深かったのは、日本刀の切れ味。
私も俗説「日本刀を用いて切れるのは精々5人まで」に洗脳されていた輩なのだが、実際にはそんなことはないらしい。
しかも戦場では、敵は甲冑を着ているため、狙う箇所は喉下を突くそうだ。
20人は倒せるとか。


調査研究によると、戦国時代なんかの情報を調べると「映画や時代劇のように戦場で刀で切りあうことはほとんどなかった。」とか。
戦場における死傷者の原因は、飛び道具の弓矢、つづいて槍、最後が刀だそうだ。
刀は相手の首を切るためのものだとか。
考えてみれば当たり前で、敵と近接して刀で戦うというのは最もリスクが高くなるので、その必要性に迫られない限り合理的理由はない。
(弾薬や弓が尽き果てたとかね。)
やっぱり、肉弾戦は恐いよ。。

そして現代の刀鍛冶の技術は江戸時代のそれに遠く及ばないということも面白い。
(実践を前提としないのだから当たり前なのだが・・)

元刀匠(刀鍛冶)だけど質問ある?(社会生活VIP)
http://minisoku.blog97.fc2.com/blog-entry-888.html

「日本の民主化」とは「空気を変える」こと

2010-01-26 17:02:56 | 社会
ようやく当Blogと似たようなことをいう論客が現れました。
「国体」とは「國體」のことでありますが、簡略的に「国体」とします。


後日、内田樹氏の「日本辺境論」を基に「国体」というキーワードを使って、私的日本論を展開したいと思います。
日本辺境論を読んでみて、やっぱり彼とは考え方が似ていると再確認したのでした。
今回は単に当Blogの方がより深くこの問題を捉えているよという宣伝です。

小沢vs検察 「国体」との最終戦争の行方(カトラー:katolerのマーケティング言論)
http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2010/01/post-33e3.html


国家とは本来人間が作りだしたシステムであるから、為政者の権力意志を表現している。しかし、日本にあっては、それは天皇を頂点とする「国体」という曖昧な言葉で覆われ、誰が権力者なのか、顔の「見えない構造になっている。この「顔の無い統治構造」こそが「国体」の本質であり、日本の高級官僚たちは、その「国体」の一部を担っているという自覚があるから、強烈な使命感とエリート意識を持ってきた。

敗戦によってこの国の全てが灰燼に帰したが、マッカーサーの下で制定された平和憲法では象徴天皇制がとられたために、こうした統治構造とエリート官僚達の意識構造は、戦後になっても基本的には変わることがなかった。米国の占領に当初は怯えていた官僚たちも米国と手を結びさえすれば、「国体」の構造は温存されることを理解して、親米国体主義ともいえる戦後の奇妙な官僚至上主義が形成されていった。

[中略]

自民党による55年体制が、昨年の夏に終焉したのと同様に、外交、経済、それぞれの政治局面で、パラダイムが変わったことをメッセージとして出し続けることができれば、この陣取り合戦にも、ぎりぎりの所で勝てると小沢はふんでいるのではないか。

とすれば、壊し屋、小沢一郎が、政治家として最後の目標に据えているのは、実は、顔の無い統治構造「国体」そのものを壊すことかもしれない。
国体が壊れる時、この国は、千々に乱れて崩壊してしまうのか、それとも成るようにしかならないのか、その答えはまだ見えていない。


「国体」は絶対に負けません。
なぜなら「国体」に実態はないし、そもそも「国体」が何かは誰にもわかっていないからです。
「国体」が何かがわかっていないのだから、「国体」を倒すことができようはずがありません。
「国体」とは、その場に参加している人間達の間に漫然とある空気が生んだ感覚で、掴もうとしても誰にも掴めないのです。

では、当Blogで繰返し主張する「小沢の目的は日本の民主化」とは何でしょうか。

それは、新しい「空気」を作り上げることです。
これが「今でも日本は民主主義国家じゃん。」という反論に対する私からの回答です。

私のように「日本の民主化が必要だ。」という人の問題意識には、民主主義というものが民主主義制度のうえによって立つものではないという考えがあるのです。
民主主義制度を採用するから民主主義国家だというのではなく、その場にいる国民が民主主義を理解することによって初めて民主主義国家になれるという意味です。
形式論を述べているのではありません。

私が述べるように、もし日本における民主主義がうまく機能していないのだとしたら、民主主義制度を採用しているのに、その民主主義制度がうまく機能していない原因がどこかにあるはずです。
その原因は何でしょうか。

私は「空気」だと考えています。
その「空気」を変えるために必要なものが、何度も繰り返すように社会のダイナミズムです。
だから、社会の柔軟性を失わせ「空気」を固定化する阻害要因を排除しようとする小沢の志に私は賛同するのです。
このことについては、今後も議論してきたいと思います。

「犯罪行為を権力闘争への置き換えるという論理のすり替え」というような批判をする人がいるのですが、私にそのつもりはありません。
単純に小沢批判が稚拙すぎることへの批判です。
興味のある方は最近アップした下記3エントリをご覧ください。

小沢バッシングに思うこの国のかたち
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5d4f9e273e8a4aad203e5a289859a5d1

小沢は民主主義政治家
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/15018de5306aeb659f9d77a10bec998b

国家権力に対峙する方法について考える
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/92071e9d212d3fef66c7e339622463b6

気づくと他にも似たような内容のエントリをたくさん書いてしまっているのでまとめなきゃですね・・

[ネタ]バカ殿

2010-01-26 10:37:58 | TV・書籍
バカ殿に出演した台湾人に中国人激怒!志村を天皇と勘違いし「天皇に跪いた!大陸から締め出せ」
(痛いニュース)
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1391088.html


ひぃ、超ウケタ。
腹がイタイ・・。

2chのコメンテーターってセンスあるな。

バカ殿の姿を見て、どういう存在か評価するのに、やっぱり文化的背景ってあるのかね。
舞妓さんも顔が白いし、外国人の方は意外にそんなものだと受け入れられるのかも?

それにしても「情報」には付属情報がないから、嘘か本当かもわからないし、まさに「ガラスの剣」だな。
「情報」ほど有用かつ危険なものってない。
おそろしい。

「好き」になりたい人へ

2010-01-25 18:02:03 | 恋愛

初っ端から形而上学的といいますか観念的な話に終始しており、読み手の期待を裏切るものかもしれませんが、考えるところを書かせていただきます。


「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは?(シロクマの屑籠(汎適所属))
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20080908/p1


“恋の毒”が頭に回って、寝ても醒めてもいられない心境になることがない・なれないことのほうが余程でっかい問題で、恋が恋として熱情を帯びて始まらないということこそが、問題として最も重要かつシビアなのではないか、と僕は思う。異性が周りにいないというなら出会いの場が必要だろうけど、そうでない場合、本気で異性の誰かを好きになって、その人に自分がどうコミットしていくのかを真剣に思い悩む、というパトスが湧き出る湧き出ないのほうが、「彼女を作るための10のtips」などといった小細工的問題よりよほどクリティカルではないか。


「深刻」かどうかは別問題として横に置くとしても、確かに「人を好きにならない。」ということの方がより本質的な問いだと思います。
ただ、私はそれが(良くないという意味での)問題だとは思っていません。
「問題」だというためには、その事象によって受ける影響が損失だと言わねばならないからです。

別に「人を好きになるならない」なんてことはどうでもいいことですが、ただ、その理由を問うことは、そのことについて悩む人には処方箋となるかもしれません。
なぜ「人を好きになれる人」と「好きになれない人」がいるのでしょうか。
今日はそのことについて考えて行きたいと思います。

まず、初めに言っておくと、私は「人を好きになれる人」です。
いや、こんなことを書くと「不健全な人」と思われるかもしれません。
たいてい社会的道徳の中には「貞操観念」というものがあって、恋多き人は嫌われます。
「1人の人をずっと愛し続けること」を是とする文化もあります。

しかし、私は「人を好きになる。」のは生物として健全な能力の一つだと思っています。
(健全ってことはその逆の能力もあるの?いや、ない。単にニュアンスの問題。)
とりわけ、人間におけるこの能力は知性のある部分と強い関連があります。
個人的な意見を言わせてもらえば、人を好きになることができない人は、ある能力が低いことを示しています。


人と人との結びつきにおける重要な本能的な要因として「免疫関係」などがあると言われていますが、私はその考えに否定的です。
もちろん、無視できるかどうかについては議論がありますが、私は人が人を好きになるというのはもっと精神的なところに依存した問題であると考えています。

その能力とは「想像力」です。

「想像力」に欠ける人は「人を好きになること」はできないし、仮に性欲的充足や社会的地位のために一時的な関係を構築することはできても長続きはしません。


ここでいう「関係」とは実質的な関係であり、名目的な関係ではありません。
実質的関係がなくても名目的な関係、例えば夫婦関係を継続することは可能です。

なぜ「想像力」が「人を好きになること」と関係があるのでしょうか。

答えは簡単です。

「人を好きになること」とは、「知りたいと思うこと」に他ならないからです。
(これは当Blogの主張である「全ての欲求の源泉は知的好奇心である」と同じ意味)

想像してみましょう。
人でなくてもいいです。
あなたが好きな人、モノについて感じているものと、好きでない人、モノについて感じているものと何が違いますか。

あなたの横を好きな人が通ったらあなたはその姿を見ようとするでしょう。
隣り合った時に恐くて見れないかもしれませんが、あなたは見たいと思っているはずです。
夜寝る前に、あの人は何をしているのだろうと気になりませんか。
あなたが好きなバンドについて、あなたが好きな人はどう思うか気になりませんか。
あるレストランで美味しいメニューを見つけたら、一緒に来て相手の反応を見たいと思いませんか。
あなたが感動した話を、好きな人に話して反応を見たいと思いませんか。
あなたの考えを相手と共有したいと思い、共有できるか確かめたいと思いませんか。

あなたが人を好きになるとき、相手のことをもっと知りたいと思っているのではないでしょうか。

将棋でもスキューバダイビングでもいい。
あなたが趣味に没頭するとき、もっとそのことについて知りたいと思うし、もっといろんな世界を見たいと思うのではありませんか。
競技大会で優勝したいのも、優勝するとはどういうことか知りたいと思うからではありませんか。

こういう反論があるかもしれません。

「それは、人を好きになるから知りたいと思うのではないか。」と。

なるほど。確かに、人は自分が恋に落ちるというその瞬間についてよくわかりません。
原因と結果を取り違えることはままあります。
しかし、ここで答えを出しておきましょう。

人を知りたいと思うその瞬間に、あなたはその人を好きになるのです。
つまり、知りたいと思うことが、好きになるということなのです。
好きだから知りたいのではありません。
知りたいから好きなのです。

逆に言えば、あの人のことを好きではなくなったからもう興味がないのではありません。
あの人のことをもう知りたいと思わなくなったから好きではなくなったのです。

あったその瞬間にその人のことをもっと知りたいと思うかもしれません。
知りたくて知りたくて仕方がなくなる。
例えば、あなたは一生懸命努力してその人と付き合うことになったとします。
しかし、3年くらい経ってあなたは倦怠期を迎えました。
この3年の間に、知りたいことが尽きたのです。
お互いの趣味、考え方、相手のしぐさ、当初はあれだけ心を惹きつけたことなのに、あなたは興味をもてなくなります。

マザーテレサもこう言いました。
「愛の反対は無関心だ。」と。

ある学問ではこう教えます。

人類が生物学的進化の上で、子供をつくり、産み、育てるのに夫婦の関係が維持されなければならなかった時間は3,4年程度だから、ドーパミンが3,4年で効果を失い、恋はその時間軸で終わってしまう。
生物学的にみれば、種の保存のため、雄はさらに新しい雌を求めさまよう。

なかなか説得力のある説明ですが、私はこの考えは原因と結果を取り違えていると考えています。
(この話に反証可能性があるわけではありませんので、信じるかどうかは読み手に任されております。)
「知りたいと思う」仕組みが「生きる」ということなのであって、「生きる」から「知りたいと思う」のではないのです。
(機能不全のエロとかをどう説明するかだね。)


「恋愛への飽き」の問題をどう乗越えるかについて、回答になっているつもりです。

だいぶ深みにはまってまいりました。
ここでは深入りせず、話を元に戻します。

もし、私が主張するように「知りたいと思う」ことが「好きになる」ことだとするならば、「知りたい」と思えれば人を「好きになれる」ということです。
では「知りたい」と思うとはどういうことでしょうか。

実は「知りたい」というのは受身な行為ではありません。
「知りたい」とは知的かつ積極的な行為です。

例えば、目の前で何かの事象が発生します。
それを見て、あなたは知りたいと思うのでしょうか。
違います。
あなたは見た、感じたものについて「これはどういうことなのだろうか。」「もしかしてこういうことだろうか。」ということを思考します。
「知りたい」というのは、ある事象の裏にあるロジックや背景、もしくは自分の予測との整合性を確認する行為なのです。
これは受身ではなく、積極的な知的関与があって初めて成立するものなのです。

私はそれをここでは「想像力」ということにします。

だから、あなたが博識であればあるほど、いろんなものについて興味を持つでしょう。
逆にあなたが無知なら、目の前で起きたことに関心を持たないかもしれません。
その事象について思うところがないからです。

ようやく本題です。

目の前に異性がいて、興味を持つか持たないか。
もしくは、異性を求めて行動に移すかうつさないか。
それは、あなたのその時に持っている知識や想像力に強い影響力を受けるのです。

想像力が低い場合、あなたは人を好きにならないでしょう。
その場合、単に異性は経済的、性欲的、社会的な価値としてしか評価されないでしょう。

好きになりたかったら「知りたい」と思うこと。
そのために知識を持つというのもテクニックとしては有効です。


人を好きになるというのは、経済的、性欲的、社会的な価値を一つメタ視点でみた「知性的な価値」だという評価を私はしています。

ただし、自分の想像力を発揮させるための機会が異性にはないと自覚しているなら、それは想像力の欠如を示しているのではないので、全く問題ないのです。
ちなみに、私は妄想族で、「想像」と「創造」の区別もついておりません(笑)


本エントリでは「人を好きになる。」ということがどういうことか、話の単純化のために全く定義してません。


では、「知りたい」と思うためにはどうすればいいの?という問いがあると思います。
でもこの問いはもっと高度で、実は「知りたい」というのは人間の意識の中で何層にも重なっていて、解釈によっては跡付けで「知りたい」と思っているだけに過ぎないと言うこともできたりするのです。
自覚的に感じている「知りたい」だけでは説明し尽くせないので、また後日説明したいと思います。

恋愛ブログ宣言

2010-01-25 15:19:55 | 恋愛
最近は「小沢ネタ」「政治思想ネタ」をヘビーローテーションしましたので、今週は少し趣向を変えていこうと思います。
今週はブログ開設当初にメインに据えようと思っていた「恋愛ネタ」をメインで行こうと思います。

小沢ヘビーローテーションは流石にやり過ぎかと思っていたのですが、案外好評を頂いて驚いております。
できれば感想や雑感などもコメントしていただけると嬉しいです。
もちろん、反論やご指摘いただけるのも勉強のため大変助かります。
当Blogはエントリに関連する限り、コメント・トラックバックをフリーで運用しております。


私は、私のキャラクター上これまで数多くの人生や恋愛などについて相談を受けてきました。
(男女問わず、特に女性の方が多かったのですが。)
「恋愛相談」というと何か甘酸っぱい感じもしてきそうなワードでありますが、しかし時に大変に厳しいものです。
普段、政治や経済、社会情勢などばかりに注視している人にとっては他愛もないトピックスかもしれませんが、多くの人達にとって「恋愛」というのは人生の中で大変なウェートを占めるファクターです。
(例えば殺人などの犯罪における最大の要因は「男と女の問題」です。)
その人の人生を豊かにも狂わせもする計り知れないパワーを持っており、実際、私が見てきたところ「恋愛」は人間を変え得る最大の力を持っていると考えます。
しかも強烈な力(「魔力」といってもいい)を持つ「恋愛」には答えがありません。
そんな恋愛相談を受けるのは、往々にしてその人の人生の悩みを抱え込むようなものです。
相談相手との距離感に気をつけないと、答えのない底なしの泥沼にはまり、こちらが傷つき倒れます。
時には激しい討論も起きますし、修羅場と呼ばれる惨劇もあります。
私自身、そういう修羅場を体験してきましたが、本当に「恋愛」は人を人徳者にもするし殺人者にもするのです。

少しネガティブな話が続いたので、ポジティブな話もしましょう。
「恋愛」には良い面が多くあります。
「恋愛」がなければ、我々を魅了する小説も音楽も、多くの文化的な芸術も生まれなかったでしょう。
我々の住む世界はもっと退廃的なものであったかもしれません。
「恋愛」で我々が持つ願望が、多くのイノベーションを生んできました。
「会いたい」「伝えたい」「わかりたい」という気持ちが、どれだけ時空間を縮める技術開発に発展してきたことでしょうか。
「恋愛」は、我々に生きるという喜びを噛み締める機会も提供してくれます。
小さな幸せへの気づき、自分らしさというアイデンティティ、恋人や家族との関係を育む喜び、恋愛が私達に与えてくれるメリットを考えたらキリがありません。

これほど我々の世界に強い影響力を持つ「恋愛」。
「恋愛」をテーマに何も語れないわけがありません。
「恋愛」という切り口にすれば、社会の様々な問題が見てくるはずです。


「恋愛」というワードに馴染まない方は、ジョージ・アーサー・アカロフ風に「アニマル・スピリッツ」と言ってもいいかもしれない。

当Blogでは私自身の知識と経験から、恋愛関連の様々なテーマについての個人的な考えを、今後Blogで述べていきたいと思います。
質問などは随時受付けております。

戦略は細部に宿る

2010-01-25 12:31:47 | ビジネス
考えさせられる。

http://twitter.com/tatsurot/status/8142408986


JALとANAの両社に、マイルをハイチに寄付したいと要望を送ってみた。
JALの回答:「そのようなサービスはございません」、
ANAの回答:「過去にもお客様ご要望で四川大地震などで臨時対応したことがあり、早速担当部署に検討させます」。
ユーザーと向き合う姿勢がまるで違う。


他の部分を見ずして、ここだけ見て全ての判断するのは早計だ。
なので、本エントリでは、この2社の対応の違いが何を表しているかだけ私見を述べたい。

この違いは、「組織的な体制」の違い。

JALが「個人に与えられた個人の立場」でサービス対応しているのに対して、ANAが「個人に与えられた組織の立場」でサービス対応しているのである。
JALの担当者に問いただしても「権限がない。」「マニュアルに書いていない。」「ずっとこれでやってきた。」「言ったところで組織が変わらない。」などと言われるだけだ。

「マニュアルの違い」だけと指摘する人もいるだろう。
「カスタマーサービスのマニュアルがANAの方が作りこまれているだけに過ぎない。」と。
そうかもしれないが、それでも組織的な違いがある。

マニュアルがどういう観点に基づいて作られているか、
マニュアルがどういうサービス対応者を想定して作られているか、
ということだ。

要は「組織的な観点から見て、どうするのが最適なのだろうか。」という問いについて組織的な答えを用意している組織と、そうでない組織では、現場レベルの細部で差異が表れる。
何か問題が起きたときの対応方法についてどう対応するか、その時の行動原理をどう組織として定義できているかである。

JALの社員は悔しがるだろう。
個人レベルでは努力をしているからだ。
(だから個人を責めても仕方がない。これには官僚批判においても同じだ。)
それが結果に結びつかないのは、組織的な働きが弱いからである。
努力の方向性(戦略)が皆バラバラで、統合されていないから、個別局面ではうまくいっても、全体として期待した結果に結びつかない。

往々にして日本の組織では、どういう組織的な仕組みがあれば「一人ひとりの能力を引き出して、そしてそれを組織的な力に昇華できるのか」について、戦略的思考が欠けている。
この原因は、意思決定における最大の決定要因が「人的関係」であるからだ。

この組織論的論考については後日述べたいと思う。

小沢を正しく失脚させる方法は「小沢越え」

2010-01-22 17:14:57 | 政治
Your Partyには期待しているんだけど、物足りないなぁ・・
全く見えていない。
山内氏を批判する気はないんだけど、あまりに多くの政治家が同様のことを言うのを見ていて、残念な気持ちになる。
あまりに視点が狭すぎて。
「木を見て森を見ず」とはこのことか。

中国共産党化する民主党(山内康一)
http://yamauchi-koichi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-8cdd.html
(全文コピー、太字による強調は私によるもの)


政治評論家の森田実さんが旧知の民主党議員から聞いた話として、
次のようなコメントが紹介されていました

------------------------------------------------------------------
いつも小沢一郎幹事長関係者に監視されているような感じがします。
マスコミとの接触は幹事長室に届けなければなりません。
有志の会合も届け出制です。党内には各所に密告者がいます。
小沢さんを公然と批判したことが知れたら粛清されるおそれがあります。
------------------------------------------------------------------

マスコミとの接触が制限され、幹事長を批判すると密告され粛清されるのでは、
民主党内には、憲法で保障された「言論の自由」がないことになります。
有志の会合も届け出が必要というのでは「集会の自由」もないことになります。

そして「密告者」がいて「粛清」される恐怖に脅えているのでは、
独裁政権下の一般市民のような立場にあるといえるでしょう。
とても先進民主主義国の政党の雰囲気とはいえません。

小沢幹事長(=党書記長)の民主党は、中国共産党的な政党になりました。
小沢さんが143人もの議員団を連れて中国共産党にごあいさつに行くのも、
何となく理解できます。親近感が強いのでしょう。

いまの小沢専制のもとで沈黙している民主党議員には明日はないでしょう。
いま声をあげて、小沢幹事長を批判する勇気ある民主党議員がいて、
その議員が粛清されてしまって、民主党内に居場所がなくなってしまったら、
みんなの党にリクルートしたいくらいです。


いろいろと指摘したいことはあるのですが、要約して2つだけ。

企業統治」という概念をご存知ないと思われる。
昨年の衆院選前に劣勢に立つ幾人かの自民党の議員が次のようなことを主張していた。


マスコミに出演する議員を、プレゼン力と人気と専門知識を兼ねそろえた有力議員に絞ろう。
実力がない議員が出演して民主党に一方的に攻めたてられる姿をお茶の間にさらしてはいけない。


党として外部への情報統制をするのは当たり前である。
(だってあなた閣僚が好き勝手主張する党ですよ?)
今時リスク管理として広報に力を入れていないのは政治の世界ぐらいである。
それに民主党員が烏合の衆ってことを自分達がよく知っているから余計に統制の必要性を感じているだよ。

それと、これが一番いいたのだが「小沢幹事長を批判する勇気ある民主党議員」ってなんと志の低い見方か

小沢に勝る政治理念を持っていれば小沢に対峙できるはずだ。
批判として評価に値する内容だったら執行部は静粛できないだろう。
批判が単なる批判だから静粛されてしまうのだ。
それが無駄な批判だからで、党になんの利益ももたらさないからだよ。
細かい味方の失点を批判することが政治家の仕事なのか。
小沢のやり方が間違っていると思うなら「これが正しいやり方だ!」と主張すればいいだけだ。
そんな理念もない技術屋の集まりに「勇気出せ!」というのは、所詮自分達の都合のいいように民主党政治家を操りたいだけではないのか。

小沢を失脚させたいなら小沢を超える政治理念を述べてみろ!!
当Blogのいつもの主張だが、支配者は被支配者が支配を望むからこそ存在できるのだ。
アマチュアが早くプロになって支配者を過去のものとしてしまえばいいだろう。



小沢さんが143人もの議員団を連れて中国共産党にごあいさつに行くのも、
何となく理解できます。親近感が強いのでしょう。


全然わかっていない。
これは自民党利権を剥がしにいってるだけ。
今後は民主党だよって言いにいっていることがどうしてわからない。

河野太郎がいく

2010-01-21 19:44:48 | 政治
ちょっと本エントリとブログの立ち位置の関係について指摘を受けたので内容を少しだけ修正しました。

河野太郎は彼自身のブログでもよく主張しているように行政チェックに余念がない。
彼には官僚の嘘説明を暴くための「行動力」がある。
いや、より正確にいえば「空気読まない性格」か。
その「空気読まない正確」こそ私が彼を評価する最大の要因だ。
(国際感覚にも優れているし、割切って考える論理的思考能力があるなど他にいいところはあるが)

こういう人は新しい何かを始めるのに強い。
新しいことをはじめるためには、既得権益者を犠牲にすることが度々ある。
そういうことに気を使う人は何もできない。
ある意味で情を無視するような性格が、そして決めたことを責められてもめげない性格が必要なのであるが、彼はそれを持っていると思う。

こういう人って既得権益を守る側にしてみれば絶対上司にしたくないタイプなのである。
菅直人以上に鳩山政権にうってつけの人材である。
オバマじゃないけど、鳩山首相は野党側から大臣指名したらいいんじゃないかなと思う。
河野太郎が引き受けないと思うけれど、ここは超党派でやってほしい。

副大臣がやり残したこと(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/01/post-698.php


僕が法務省の副大臣をしていたときにホリエモン事件があった。
そのときにすごく気になったのが、XXXという供述をしているというニュースが毎日のように新聞やテレビで流れたことだ。

なぜ取り調べの供述が外に漏れるのか、取り調べをした検事の責任はどうなっているのかということを秘書官に調べさせた。
秘書官は検察庁にいくわけにはいかないから、法務省の幹部に副大臣がこう言っていると聞きに行ったのだろう。

戻ってきた答えは『接見した弁護士が漏らしているのではないか』

僕はぶち切れた。

[中略]

検察のリークがあったと思われる場合には、法務大臣が検事総長なりに記者会見を開かせ、そうした事実があったかどうかを確認させるべきだ。もしそうした供述はなかったというならば、その後、裁判でそれに反する供述は使えなくなるし、そうした供述があったというならば、取り調べた検事が処罰されなければならない。

[中略]

法務副大臣時代に、裁判所から法務省に来た裁判官が、民事局長などの職に就き、入札ルールをねじ曲げて民事法務協会に業務を発注しているのを見て唖然とした。官製談合をやっている人間が裁判官として裁判所に戻るのだ。
しかも、ほとんどそうした問題を法務省の記者クラブは追及してこなかった。

裁判員制度が始まったことでもあるし、日本の司法制度をもう一度きちんとあるべき姿にしていく必要がある。

国家権力に対峙する方法について考える

2010-01-21 16:55:14 | 社会

題名のわりに軽い内容です。


池田信夫氏がプリティなテーマで鋭く日本(京都)体質の本質を切り抜いている。
つい先日、私も少し異なる観点で「小沢バッシングに思うこの国のかたち」で「日本では表象としての絶対的な支配者を排除する力が働く」という主旨のエントリをしたばかりであった。


京のお茶漬け(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51348480.html
(ほとんど全文コピペ,太字による強調は私によるもの)


[前略]

実際の京都人は、排他的で冷たい。ていねいに話すのは、「よそ者」に気を許していないことを示しているのだ。

これには理由がある。京都には1000年以上にわたって国家権力の中心があり、街中が戦乱に巻き込まれる体験を何度もしている。権力が変わると、きのうまでの隣人が敵に回るといった経験が繰り返されてきた結果、「一見さん」を信用しない習性が根強く残っているのだ。魯迅の小説に描かれているように、人間が国家権力と隣り合って生きていると猜疑心の固まりになる。幸い日本は国家に対峙した経験があまりないが、京都だけは例外的に権力を意識し続けた都市である。

「京のお茶漬け」というのは落語のネタだが、それに近い風習は(少なくとも私の子供のころは)あった。「もう遅いさかい泊まっていきなはれ」といわれると、「あしたは朝早いさかい」と辞退して帰る。「泊まっていけ」というのは「早く帰れ」という暗号だが、はっきりいうと相手は気を悪くして敵に回るかもしれないので、あくまでも婉曲にいうのだ。その暗号を理解できるかどうかで敵を識別する意味もあるが、本当のよそ者が誤解して泊まったら大変なので、こういう表現の間合いは非常にむずかしい。

京都にながく共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろう。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。こうして昔からマルクス主義に親しんでいるので、京都人は社会主義にも幻想を持っていない。そういう土地に育った私から見ると、国家が永遠に債務を返済してくれると信じる人や、派遣村で貧しい人々を救えと国家に求める人は、権力に裏切られたことのない幸福な日本人の典型にみえる。そういう人に限って「反権力」を語ったりする。



あの織田信長ですら手こずった1000年の歴史を持つ京都の面従腹背の文化は、明治以降に構築されたたかだが100年そこらの官僚機構よりも手ごわいかもしれない。

しかし、この両者には共通点がある
そのことについて、前回の焼き直しだが言い回しを変えて説明しよう。

京都における天皇というシステムは、桓武天皇が奈良の平城京から平安京に遷都した時から、明治初期に東京へ遷都されるまでの間、いくつかの混乱期や荒廃期を経ながらも約1000年の長きにわたり維持された。
この実質骨抜き状態になりながらも1000年にわたり維持されたことは注目点である。

桓武天皇は、平城京における強大化した寺院系勢力を退けるために、既得権益者の抵抗にあいながらも京都への遷都に成功したが、その既得権益者が闊歩していた平城京が都であった期間はわずか100年にも満たない
「権力は腐敗する」という言葉があるが、たった100年であっても天皇の地位を脅かすほど既得権益者の力は強大になる。
京都のように1000年という長期にわたって権力構造を健全に保つためには、工夫が必要であった
それは権力構造を複雑にし外部の誰にも解けないパズルを構築すると同時に「表象としての絶対的な支配者」を認めないようにすることである。

このシステムは誰か1人が設計したものではなく、天皇システムの周囲にいる関係者のある種の防衛本能によって、それもいくつもの困難とともに長い年月がかけられ、少しずつ構築されたものである
1人の人間が設計したものなら外部の人間にも賢ければ解けようものだが、数え切れないほどの者が幾世代にもわたって共同で作り出した複雑系システムなのである。
これは暗黙知的なものではなく形式知化できないほど複雑に作られた知であり、捉えどころがないのではなく全容を把握するのが難しいといった類のシステムである。

天皇システムが生き残るためには、権力構造が複雑なだけでは不十分であった
なぜなら、その場合、相手を権力構造そのものに引きずり込まなければ効果がないからである。
システムの存在そのものを否定する集団には効果がない。
ここで出てくるのが「表象としての絶対的な支配者を認めない」ことである。
これは、目立つ、目立たないということではなくて、「実質として存在する」のではなく「名目として存在する」ということである

君臨すれども統治せず」の極意である。
これは良心でもなんでもなく、統治しないことで己を守るのである。

権力を狙う外部者は、実質的な権力を手にすることができれば満足するからである。
そういう形で征夷大将軍になったり関白になったりする人がいたのだ。
(織田信長はそれでも満足できなかったので消されてしまった。小沢一郎みたい。。)
だから天皇システムは名目として存在し、実質は他に譲るのが得策である。
端的にいえば「私(天皇)はお飾りで、実質的に偉いのはあなたですよ。」ということである。

空っぽの有用性」で天皇の真空エネルギーについて触れたが、天皇が実質的に権力を持っていないということは、むしろ周囲に認知されて意味があるのである。
「みんな偉くないのを知っているのに、偉いと思っている。」ということが重要で、それがなんとも日本的なのである。


そういう体制を構築できた環境的要因については前回のエントリで述べているのでそちらを参照。
外敵の侵入に怯えなくて済む限り、名目的な支配者と実質的な支配者を分け、人々は名目的な支配者を崇めて暮らすことで無駄なコンプレックスを抱かずに済ませたというのが当Blogの主張である。

そういう意味で「象徴天皇制」という考え方は、本質的に昔と何も変わっていない。

話が少しそれてしまったので本題に戻る。


この天皇システムの仕組みは、今でも形を変えて官僚組織に受け継がれている。
しかも今度は逆側から天皇システムを利用しているといっていいだろう。



官僚組織を幾世代にわたって複雑に作り上げ、外部の人間には理解できぬようにし、「名目的な支配者」=「政治」に譲り、「実質的な支配者」=「官僚組織」とし、国民の目を政治に向けさせ、人々に政治を見下させることで人々のコンプレックスを発散させる。
マスコミには政治を叩かせ、政治家に自分達の都合のいいように武器を渡して国民に向けて「政治の責任です。」と言わせる。
政治家にとっても政治の責任なら自分を必要としてもらえるので悪いことではない。
(「なんとかしろ。」と国民に言わせる(つまり必要とさせる)のは政治家の仕事の一つである。)
実質的な支配者そのものを否定するものが現れれば、織田信長を消し去るように寝技で排除する。


さて、我々にはどのような対抗手段があるだろうか。
答えはある。


京都にながく共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろう。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。



天皇システムを国民側が逆に利用するのである。
競わせ一つの権力にコミットしないことだ。


本来、官僚機構と競うべき政治が機能しないうえ、さらに官僚機構と政治を抑制すべきマスコミも機能していないという批判はあるだろう。
だが、ここで登場するのが「インターネットによる市民の政治参加」だ。
そもそもマスコミとは市民から権限が委任された存在であるので、それが機能せぬなら、その役割はより直接的に市民に近づくことになる。
専門家個人やその道の有識者がマスコミに変わって統治機構を抑止する力になるであろうし、それは不可避である。
(なぜ不可避かについてはまた後日)

もう一つは、外敵を呼び込むことだ
そして、そこに新しい旗を打ちたてる。
そうすれば人々は新しい権力にコミットする
権力の乗換えだね。

[妄想シリーズ] ハッピー・トレイン計画

2010-01-21 12:45:09 | 経済

妄想シリーズとしてシリーズ化します。
このシリーズは個人的に社会的価値などを無視して、単に思いついたことを表現するものです。
"妄想"というところからわかりますように、これは個人的な願望に近いものと考えていただいてよいかと思います。
「そんなの読まされる側に立って考えろ」と思われるかもしれませんが、テーマに[妄想シリーズ]とつけますので無視していただくでも結構かと思います。

電車内痴漢:39人を検挙 首都圏の新学期集中取り締まり(毎日jp)
http://mainichi.jp/select/today/news/20100121k0000e040035000c.html

どんどんやってくれ。
個人的には、小沢問題よりも警察(検察じゃないけど)はこっちに金かけてもらって構わない。
こっちの方がずっと社会のために役立つから!!

私は、是非政府(JR東and私鉄?)に「ハッピートレイン計画」を遂行していただきたい。
通勤ラッシュを解消するだけでなく、電車内を楽しくして欲しい。
エキュートなんかで駅中を楽しくするのはいいですが、電車内も楽しくしてくれないだろうか。
ただ移動するだけの機関として電車を位置づけるのはとても勿体ないと思うのは私だけだろうか。
iPodやウォークマンなどで時間を潰すだけではもったいないと思うのだ。
これだけ効率化された都市生活において、あの時空間だけは生産性が上がらないのである。
いや、本読みたい人は読めばいいんだ。
電車内に自由があることが生産性向上のために大事なんだ。

例えば、電車というのはいろんな人が行き交うが、まるで出会いがない。
「電車男」ではないが、もっと電車カップルができてもいいと思う。
そのためには、もっと若い女性が楽しく乗れるということが重要だ。
今、若い女性は電車に乗ると男どもからの脅威に耐えなければならず、みな構えている。
若い女性にとって電車にのることはリスクなのである。
そして男も、そういう女性を前にして身構えてしまうのだ。

この状況を是正せずして何が「安心社会」か!!

首都圏800万人の電車通勤者に夢を見させてくれ!!

例えば、女性車両とかセコイことを言わず、もっと妊婦車両とか子供車両とか家族車両とか、出会い車両とかもやって欲しい。
わかった!
例えば15両中の10車両くらいの車両内スペースを車両単位でオークションかけて売却し、各民間企業の創意工夫を導入するというのはどうだろう。
そこに生まれるサービスもあろう。
これまでの輸送量が減ると困るので、幸福実現党ではないが電車を2階建てにしたり、ホームの長さを拡張して車両編成数を増やすというのはどうだろう。
単なる移動手段として電車を位置づけるのはもったいないである。
2階部分を全て売却でもいいだろう。
ビジネスなので痴漢は禁止方向になるだろうし、居酒屋トレイン、バー・トレイン、などがあってもいい。
気づいたら終点でした系の乗り過ごしが増えそうではある。
キャバクラ・トレインを作れば痴漢も減るかも?
わかった、風俗店として痴漢・トレインがあればいいのだ。
やりすぎか・・っていうか絶対禁止されるだろうな。
保育・トレイン、理容・トレイン、カフェ・トレイン、いろいろあると思う。
けど、多分法律かなんかで禁止されてるんだろうな。
もしそうなら、その法律やめてもらえないかな。
でも鉄道会社の人ならこの手のアイディア絶対考えるはずだから、それでも実現されないのは、多分その前段で輸送量が足りていないからなんだと思うんだな。
だ・か・ら、2階建てやホーム拡張やったらいいんだ。
金がない?
コストとのトレードオフ?
だから料金を2階建てにすればいいんだよ。
需要がない?
それはやってみなければわからないよ。

もっと人々が首都圏に集中して都市化するのもいいし、ハッピー・トレインの出現で遠方に住むようになってもいいと思う。
電車が楽しくなったら、もっとみんな遠くに住んでもいいかなって思うようになると思うよ。

----------------------------------

私は毎日通勤に電車を使うのだが、直接痴漢行為を目の当たりにしたことはない。
しかし、痴漢行為に準ずるような行為を見かけることは日常茶飯事である。

私が遭遇する危ない行為は主に2通りある。
1つは、通勤ラッシュ時に若い女性の隣を狙って電車に乗ってくる男が多い。
ラッシュ時には乗車率が高く、体と体の距離がないくらいギュウギュウになる。
隣が若い女性だと嬉しい男がやはり多いらしく、毎日のように狙っている男を見かける。
本人はわからないようにしているつもりだろうが、私なんかは明らかに「こいつ狙ってる」とわかる。
明らかに動きが不審なのである。
普通、ラッシュのように資源を争奪する状況では、参加者は最短経路で目的を達しようとするものであるが、こういう不審者はそうではないのだ。
電車に乗る前の列への並び方が変である。
ラッシュに困ったような顔をして誤魔化している姿が痛い・・。

もう一つは、電車にゆられたふりして若い女性に体を当てる男。
これもわかる。
本人は誤魔化しているが、意識しているのが不自然すぎてわかる。

50くらいの男が女子高生に一生懸命触れようとしているのを見るのが痛い・・
金融日記じゃないですが、もっと性風俗的な規制を緩和して、こういう元気はあるけど発散する先のない男どもに対応して、若い女性に対するリスクを減らした方がいいなじゃないかと思う。
禁欲的なことを是とする時代は、近代の終焉と供に終わったのではないか。
もっと社会全体のために頭を使うべきなんではなかろうかと思う今日この頃である。

「政治とカネ」の問題で置き忘れられる2つのトピックス

2010-01-21 11:16:13 | 社会
日本を騒がしている小沢一郎に関連する「政治とカネ」の問題だが、大局的に見ると2つのトピックスがある。
1つは、民主主義の根幹と言われる「よく知らされた市民(Well known public)」をどう実現するのかということ。
もう一つは、「政治の役割」の定義をどうするのかということである。

前者について、上杉隆氏がわかりやすく指摘をしている。
米国内で指摘された「軍産複合体」と同じように仕組みを持つ「官報複合体」という存在が日本における「よく知らされた市民」の実現を阻んでいるというものだ。
構造としては戦前の「大本営発表」と変わらぬものだと彼は主張している。
(もちろん新聞社の人達は否定する。「我々は検察と緊張感持って仕事をしている。」と。主観的評価で実態を的確に把握するのが難しいという好例である。)

小沢問題で検察リークに踊らされるメディアへの危惧(上杉隆)
http://diamond.jp/series/uesugi/10110/


密室であるはずの取調室の会話が即時に新聞紙上に踊るのだろうか。なぜ、検察からのリーク情報は止まないのか。

 そもそも捜査が順調な場合には、検察は絶対に情報を洩らさない。筋のいい事案を追っているときは、たとえば朝刊に「きょう○○を逮捕へ」という具合に、結果が出た段階で初めて世間に知らされる。

 ということは、事前にメディアに捜査情報が漏れる場合は、捜査が芳しくない状況にあるか、あるいは「死に筋」であったりする。つまり、リークによって局面を打開するためにメディアを利用するのだ。

 この1年弱の小沢報道も同様の可能性が高い。贈収賄、斡旋収賄、脱税などの文字が躍り続けているが、現時点では、元秘書と現職秘書の政治資金規正法違反にぎすない。


「政治の役割」という話題については、ここでは軽く触れるに留める。
(これまでも当Blogで度々触れてきただけでなく、説明が長くなりそうなので日を改めることにする。)

日本の識者やマスコミというのは、片方で加点方式の人的評価を賛美しておきながら、もう片方で旧来の減点方式の人的評価を実際にするという、八方美人ぶりを発揮している

政治家は1つでも法律に違反すると政治生命が絶たれなければならないのか。

「日本は法治国家だから」と言う人々もいるだろうが、しかしその「法」は所詮人間が作ったもので、時代とともに変えていかなければならないものでもある。
その時々に、法による利益と損失のトレードオフを鑑みて成立・修正・削除されるべきものだ。
それに、そもそも法律で何かを規制するのは、皆でその法が守られることによって得る利益が社会的にみて価値があるからで、法そのものを守ることに価値があるわけではない
ただ、「公平性」というものが人間社会の安定において非常に重要な要因であるため、法の適用がケースバイケースであると問題が生じするため、法は名目的に一律的に適用されなければならないとされている。


速度違反なんかいい例だ。(法律家の方々はいや、それは質が違う話だといわれるかもしれないが、マクロで見れば同じである。)
あんなの運が悪いと捕まるが、ほとんど99%は捕まっていない。
速度違反を100%捕まえられると、国民が困るからそんなことはしない。
取り締まるコストが高いから100%でないだけだという人がいるかもしれないが、違う。
もし技術的に100%取り締まれるとするなら、法律を改正する必要が出てくると思われる。
そもそも100%取り締まりたいなら国内で販売される車にメーカー側のコストがかかっても速度制限を設けなければならないが、そんなことはしない。
あくまでも指針なのである。
法律違反がだめだというなら「あなた制限速度40kmの道路で80kmで走ったことあるから、あなたに小沢一郎を追求する権利はない。」と言われたらどうするのだろうか。

ここでの問題は、法律にレベルの高低があるとかないとか、そういうことではなく、「罰を与える」ことが法律の主眼ではないということだ。
水戸黄門のように悪者に懲罰を与えるのが法律の仕事ではない。
社会的価値に照らし合わせて「みなで守る必要のあるものかどうか」が主眼なのである
罰を与えるのは、あくまでも「皆で守らねばならないということを認識させるため」と「公平性の担保」のためである。

他にも犯罪の抑止という観点もあろう。
たとえば、性犯罪者を獄につなぐのは、たとえその犯罪者の人権を犠牲にしたとしても、社会的に見て、その人を市中に出すのは危険だからである。

「あいつ犯罪者だから人でなし」みたいな議論は相当危ない議論だ
太平洋戦争中に日本国内で起きた言論統制を許した雰囲気とは、まさにそういう発想に基づくものだった
犯罪は相対的な基準に基づく判断だが、その相対性はあくまでも自分達の利益に適うかどうかによって評価されるべきものなのである。

あいつにはこういう過去があるが、でもあいつのこの能力は、社会のために役に立つから、社会のために、あいつにこういう仕事をやらせる

という発想ぐらいできないものだろうか。
「悪者は獄に繋げばいい」みたいな発想は大変に危険なのである。