書き直しました。
本の内容を書きすぎるのは問題があると思うので、バランスの難しいところですが、とにかくわかりやすさを重視して書きました!
著者の意思に反したこと書いてるかもしれませんが、それは私の知的限界です(笑)
濱野智史『前田敦子はキリストを超えた <宗教>としてのAKB48』を読みました。
物議を醸した話題の作品ということで楽しみにしていました。
「前田敦子はキリストを超えた」が楽しみ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/140847a544229822e21b030cde30ad48
発売が発表された時にはあれだけ非難轟々だったのに、本が発売されるとたいして話題にもならないというのは如何にもという感じです(笑)
インターネットによる言論の民主化、WebやSNSによって情報の発信コストが下がると話題を求めて彷徨うネット上の魂たち(ときとしてアンチ)が活動しやすくなります。
彼らが欲しいのは、彼ら自身の文脈(それは時として借り物の文脈であったりする)に組み込むべき「話題」であって、事実を探求するような態度ではないのです。
しかしながら、本著の中では、あらゆるコミュニケーションが自己目的化した近代において、「匿名アンチ」は人間の再帰的な認知能力を高める可能性のある存在として肯定的に描かれています。
(「再帰的な認知」は、「何が正しいのかを繰り返し熟考すること」と簡単に考えてください。)
「匿名アンチ」というと、なにかと否定的な文脈で捉えられることの多いものですが、批評界の中では集合的無意識を実現し得る存在として問い直されているそうです。
まぁ、これから話題に上がるかもしれませんね。
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■まず、ざっくりとした感想
まずざっくりとした感想ですが、著者の専門領域である社会学的な観点からの客観分析と、AKBヲタとしての主観分析がほどよくミックスされていて、読み応えがありながら軽快に読める内容で面白いと思いました。
内容は、基本的には当Blogでも好んで取り上げるシステム論(物事の原理となっている構造を捉えようとする姿勢)になっていまして、AKB48を多角的かつ構造的に捉えなおそうというものです。
個人的には、幾つかの論点については既に当Blogでも取り上げたことのあるものだったので、視点の新しさというよりも、当Blogとの解釈の差異や深みの部分で楽しさを感じることができました。
一応言っておきますが、当Blogの手抜き論評よりも高尚で出来がよいのは言うまでもありません(笑)
ただ、文量は多くないものの、読み手にある程度の予備知識を求める内容になっておりますので、読者を選ぶ本かもしれません。
また、AKB48ファンではない人々が、これを読んだ時にどう感じるかは予想がつきません。
なんとなくAKB48のことがわかるかもしれないと思うし、それでもやっぱりAKB48に対する印象は変わらないのではないか、という気も致します。
いや、本の内容がわかりにくいということではなく、外から見た時のAKB48のわかりにくさに原因があるのです。
そういう意味で、この本は「実体験を伴わない言葉だけの説明で、AKB48を記述し尽くすことができるのか?」という問いに対する濱野氏からの挑戦状とも受け取れます。
この本は大変に有意義な意欲的作品であるといえるでしょう。
■AKB48というわかりにくさ
AKB48を言葉だけで説明しようとしても、その良さを伝えることは非常に難しいでしょう。
これはAKB48だけに限ったことではありません。
ももクロでも、iPhoneでも同じことですが。
AKB48の良さは、レコード大賞やコンサートでの動員数、CDの販売枚数では伝えられません。
それはあくまでも結果でしかなく、中身ではないのです。
このAKB48の良さを伝える難しさが大量のAKB48アンチを生む原因になっておりますが、しかしながら、これがAKB48の良さそのものでもあり、これらは表裏一体なのです。
この件に関しては、過去何度かエントリを書いてますので是非お読みください。
IT革命と視覚と社会と
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e99ae9e1e7140832f5e4f7c12a5f122a
本著を読んでも、これはやはり難しいテーマであるということを再認識する機会となりました。
挑戦し甲斐のあるテーマであります。
今回、濱野氏が非常によい問題提起をしているわけですから、この本をいろんな人に読んでもらい、議論のネタにして頂きたいものです。
けれど、あっちゃんに読ませても・・(笑)
や、やすす先生ェ・・
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/70ff245298641cd5981798e54fbedbba
■前田敦子はキリストを超えたのか?
まず、物議を醸した「キリストを超えた」部分についてだが、これは濱野氏の実体験に基づくデフォルメ(強調)でありマーケティングなのであって、本著の主要なテーマではないと私は思いました。
本著の論旨に沿えば、この本の第一のテーマは副題の方の「宗教としてのAKB48」であり、前田敦子がナザレのイエスと同様の原理で超越性を帯びるに至ったということです。
著者の意思に沿えているかわかりませんが、これはつまりAKB48は「リトル・キリスト」を生み続けるシステムである、ということです。
その上で、AKB48というシステムが「キリストを生み出したアーキテクチャ」のより進化したバージョンであるだという主張です。
そういう意味では、「AKB48が疑似宗教システムとしてキリスト教のシステムを超えた」という方がより適切であり、わかりやすいものになったでしょう。
「前田敦子がキリストを超えた」という文脈でいえば、「前田敦子を生み出したAKB48というシステムが、キリストを生み出したキリスト教というシステムを超えた」ということになるでしょう。
あくまでも私の解釈です。
■なぜ前田敦子なのか?
なぜ著者があえて「AKB48」ではなく「前田敦子」にフォーカスを当てたのか、つまりなぜ前田敦子がキリストだったのか。
著者は、第3回選抜総選挙の壇上における前田敦子の名言を用いて説明しています。
[前略]
もちろん、私のことが嫌いな方もいると思います。
ひとつだけ、お願いがあります。
私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!
[後略]
この時、前田敦子はキリストに匹敵する超越性を帯びることになったとしています。
人類の原罪を背負ってゴルゴダの丘で磔刑に処せられたナザレのイエスは、死して預言者から神になった(イエスが神になったのはそれから300年後のニケーア公会議の時なんだけどそんな細かいことは今はどうでもいい)。
その自己犠牲の精神による「利他性」の発露、その瞬間に前田敦子はキリストになったのだと。
総選挙の壇上というゴルゴダの丘で、前田敦子はキリストを超えたという主張です。
(ここでは「キリスト」を「救済者」という意味で取るのが適切だと思う。)
■AKB48という新時代のシステム
著者はAKB48の構造を分析し、その「利他性」と「相補性」をベースとしたコミュニケーション・システムが、原始キリスト教のそれと類似しているといいます。
著者は吉本隆明の論説を引用し、ナザレのイエスがキリスト足り得た理由を、AKB48における握手会や劇場公演、そしてアンチとの関係性で説明しています。
簡単に言うと、イエス・キリストが支持された、つまり民衆から推された理由と、前田敦子などのAKB48のメンバーがファンに推される理由とが類似した構造的図式にあるということです。
宗教も思想も、相対主義からは決して逃れられない。どれだけ倫理的であろうとしても「疎外」は起こってしまう。つまり、ほんらいであれば加担したくないようなものにも加担してしまう。だから、そのとき置かれた状況と人間関係のただなかにおいて、ただ「加担」するしかない。それだけが「絶対」的である。まさに実存主義的なアンガージェマン(自己投企)でもあり、後に席巻するポストモダン思想の「脱構築」を思わせるようでもある、この「関係の絶対性」という吉本隆明の言葉。それは「思想」そのものではないが、しかし「思想」としかいいようのない、常に相対性の中で揺れ動く何かを捕まえた言葉である。
そしてここで言われる「関係の絶対性」は、まさにAKBにおいて生きられる形で作動している。AKBにおいては、誰もが「関係性の絶対性」に左右されている。どれだけあっちゃんが「絶対的エース」といえども、彼女は盤石なセンターではありえなかった。あっちゃんを推していないファンはいくらでもいた。だからあっちゃんはアンチたちから無数に叩かれた。しかしそのアンチがいるからこそ、そのアンチに向き合ったからこそ、あっちゃんというセンターは輝いた。ここにあるのは、原始キリスト教とまったく同じアンチのメカニズムにほかならない。私たちはAKBに、原始キリスト教と機能主義的にまったく等価なメカニズムを見るべきなのだ。
(P67)
それも、当時よりも技術的に発展したネットワーク社会に現れたAKB48の方が、これからの時代に適合したアーキテクチャを持っているということです。
本著の帯にもなっている次の箇所が「宗教としてのAKB48」を最も端的に要約しています。
AKB48は、まさにいま現に生きられる<宗教>としてある。それは近代が生み出したサブシステムを縦横無尽につなぎあわせ、さらに情報社会が生み出した様々なインフラの力を借りることで、私たちはどこから来てどこへ行けばいいのかを指し示す。誰もがリスクにさらされ、未来も希望も見えないなかで自己決定せねばならない現代社会において、生きる意味を与える宗教として、間違いなく機能している。おそらく、AKBを知らない「外部」にいる読者は、現時点では何を言っているのかまったくわからないであろう。確かにこの社会のおよそ外部に位置するAKBというアイドルの世界で、まさかこのようなことが起きているとは、筆者も1年前まではまったく思いもよらなかったのだ。しかし、それは現にある。
ただ、AKBは、おそらくおよそ人類がこれまで生み出してきた宗教とは、まったく似ても似つかないものとしてあるだろう。なぜならAKBは、何一つとして超越的な次元を生み出すことがないからだ。これはあくまで現時点での作業仮説にすぎないが、AKBという宗教には徹頭徹尾、「近接性」あるいは「内在性」しかない。つまり「ここではない・どこか」としての超越的次元を希求することなく、どこまでいっても目の前にある「いま・ここ」の「近接的現場」だけを通じて、超越的なもの/全体的なものを備給する、そんな手品のようなトリックを実現してみせるシステム。それがAKBなのだ。本書を通じて、そのことを筆者は明らかにしていきたいと思う。
(P23)
従来の宗教は「超越性」を志向し、現世とは遠く離れた「ここではないどこか」を志向するのに対し、AKB48は「いま・ここ」にあるメンバーとの関係性だけが絶対であり、「超越性」なき「近接性」のみを貫いた宗教ということです。
人間は剥き出しの「偶然性」に耐えられないために、本来、宗教は「偶然性」を飼い慣らすためのツールであるが、AKB48は「偶然性」を飼い慣らしたりしないといいます。
「関係の絶対性」を希求するAKB48というシステムにおいては、この「偶然性」こそがメンバーとファンの関係性を決定づける最大の要素であるからです。
(また、推し変の起きるシステムとも言っています。)
■実は、AKB48第2章は3.11にはじまった
少し脱線しますが、自説を。
著者は、聖典たる『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』の主要テーマであった東日本大震災に端緒としたAKB48の活動をもとに「相補性」について説明しています。
ここでいう相補性とは、アイドルとファンの関係を対立構造(たとえば供給と需要といった関係)として捉えるのではなく、アイドルもファンも同様に「誰もが傷つきながら夢を見る」という等価な存在であり、その上で両者がお互いを救済し合っているとする考え方だと思います。
本著の中では、相補性を示す代表的な例としてHKT48の宮脇咲良のググタスでの投稿の要約が出てきますが、↓是非この機会に全文を読んでみてください。
(このエントリ、未だによくアクセスされているのはなぜなのだろうか・・)
HKT48 宮脇咲良 の被災地訪問に関する投稿がよくできてる
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0980179cd85fac2e8179b9cac06fd234
私は、3.11東日本大震災がAKB48に与えた影響はもっと大きなものだと考えています。
それは、映画を見た時にも、その後にも何度かその意義について書きました。
2011年はレコード大賞をはじめとした華々しい結果を残した年でありましたが、もっと大きな変化が水面下で起きていたのです。
3.11の後にはじまった震災復興支援事業を契機として、AKB48は社会的な存在になったのです。
3.11はAKB48の存在意義を変えてしまいました。
単なるアイドルグループから、社会的機関としての機能を果たしていく存在に変わったのです。
私は、これがAKB48の第2章の幕があけたタイミングだと思っています。
前田敦子の卒業は、このAKB48の変質をわかりやすく表現した出来事だったのだと解釈し直される時がくると、私は考えています。
■AKB48とは、未来の"前田敦子"のことである
最後に、著者に敬意を表して(?)、ぱるるオタたる著者の心の叫びを転載しておきます。
AKB48はリトル・キリストを転生させ続けていくシステムであると前述しましたが、そのシステムによって次に転生させられるリトル・キリストは「ぱるる」こと島崎遥香であるといいます。
「ぽんこつセンター」がAKB48に新しい秩序をもたらすから、というものです。
通常、センターには優れた者が座ります。
指導者であり、リーダーです。
カリスマのいる組織は強い、それは当たり前のことです。
しかし、「ぽんこつセンター」はそうではないといいます。
逆に見守られなければならない、批判も絶えない、到底リーダーにふさわしくない者がセンターに座るということは、「否定神学」に似ているということです。
ただし、存在しないという形で存在するような「不在の超越者」とは決定的に異なるといいます。
誰もがそれを叩くことでガス抜きが実現され、一方で「ぽんこつ」でもセンター足り得ることで「私でも」と成長と変化への希望を抱ける世界、ぽんこつがセンターであることで「平和」と「繁栄」が実現される社会がそこにあるというのです。
そういう妄想を抱かずにはいられない存在、それが「ぱるる」とのことです。
ゴリ推しの光と影
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/287519bfb7ede2710136f5afe67b9b95
前に、私は前田敦子さんについて「空っぽの絶対的エース」と書いたことがあります。(当Blogの人気エントリ)
次は、「ぽんこつの絶対的エース」ということですかね(笑)
AKB48のタオ<道> 空っぽの絶対的エース 前田敦子
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5e891a13328ef801a2aa92c929c9f9bb
さて、そろそろ疲れてきたので、このあたりで終わりにしようと思います。
AKB48は、今後私たちに何を見せてくれるのでしょうか。
また、私たちは、AKB48というシステムを通して何を見たいと思い、何をしていくのでしょうか。
楽しみです。
つくづく宗教と親和性が強い世界ですね、AKB48は。
前田敦子→島崎遥香と継承されるキリストの系譜は(なんだそりゃと思いつつ)理解できなくも無さそうなのですが、違和感は拭えない。
個人的には高橋みなみ→横山由依と続く現場マネージメント人材、人間関係のハブとなる者が、宗教上文脈でどう位置づけられるのか気になります。
あと、大島優子、松井珠理奈、渡辺麻友といった偉大なる実存的な実力者が、空っぽorぽんこつに宗教的意味合いで勝てる余地があるのかも気にかかる。
あと、多神教というかなんとなくTPOごとに神・仏・キリスト・自然への畏敬等をちゃんぽんにしている日本人にとって、AKBをキリストという一神教で切り取ることが本当に正しいのかどうかも、本を読んで考えたいです。
マネージメントと宗教・心理という意味合いから考えれば、ぽんこつセンターと、このブログにおける次世代のリーダー、48グループ相補性の代名詞を抱えるあの組織は、主にとって面白い存在に違いないなということも、この記事を見て改めて思いました。単にメロンパン食うだけで終わらない意味がありそうですね。
コメントありがとうございます。
私などは狭苦しい者です。
これからも、いろいろとご助言頂けると幸いです。
コメントありがとうございます。
>個人的には高橋みなみ→横山由依と続く現場マネージメント人材、人間関係のハブとなる者が、宗教上文脈でどう位置づけられるのか気になります。
キリスト教でいうとペテロか、もしくはパウロですかね。
または宗教的権威を利用してきた歴史上の為政者とか。
人類の歴史をみると、ムラ社会を脱して大規模な都市国家を治めるのに宗教的な権威が使われてきましたね。
多様性をどう取り込みマネジメントしていくか、という部分では宗教や理念以上の方法論を知りません。
そういうのを排除しようとした共産主義は瓦解しましたからね。
むしろ興味深いのは、これまでは体制側(運営)を象徴(前田敦子)を支える立場だった高橋みなみが、総監督として権威そのものになってしまったということです。
パワーバランスが崩れると思うのですが、これがどういう変化をもたらすのか、そしてそれをどうマネージしていくのか、楽しみです。
あと、当Blogで主張してきたことですが、私は、本著でいうところの「リトル・キリスト」はセンターではないと思うのですよ。
前田敦子は体制側の権威の象徴でした。
その権威に立ち向かう「リトル・キリスト」たちが、大島優子なり松井玲奈といった存在だと思っています。
その文脈でいえば、島崎遥香は「リトル・キリスト」ではなく、ぱるるに対抗するライバルとして打ち立てられるメンバーが「リトル・キリスト」なのだと思います。
ゴリ推しの光と影
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/287519bfb7ede2710136f5afe67b9b95
それと、キリスト教が迫害された理由の一つは、当時はキリスト教が危険思想だったからです。
元来、ローマ帝国は多様性に寛容な国家でした。
それゆえ長期にわたり国家を維持できたわけです。
そんな国家観からすれば、自分の信じる神しか認めないというキリスト教は危険な思想でした。
運営に対抗して一人の推しメンを狂ったように信仰するメシア教はたしかに危険ですね。
魅惑的でもありますが。
リトル・キリストは、主氏の考えでは、確かに体制側の権威そのもの(例:前田)とは言い難いかもしれませんね。たぶん濱野氏と主氏のキリスト観や定義が違うのでしょう。
「前田亡き後、衰退の危機にあるAKBを救済するべく現れたメシアは誰か」(運営は救世主に誰を指名し、大多数の世俗的信者を帰依させるのか)というのが、今の次期センター争いだと思われるのですよ。
そう考えると、第一章に既に大活躍していたメンバーは例え年齢が若くても、メシア足り得ない。
マジすか学園3で松井珠理奈に「パル、お前が希望だ。 私たちみんなの。行け!」と言わせたセリフは、とても宗教的だなと思ったものです。
上記メシアの定義と、
>運営に対抗して一人の推しメンを狂ったように信仰するメシア教
と書かれた主氏のメシアの定義は違うのでしょうね。
主氏の記述の対象者たるヲタさんは、極めてプロテスタント的ですね。
権威に抵抗するメシア教のような強烈な(危険なではない)大島教徒、玲奈教徒のほかに、HKTには権威の象徴兒玉を打倒した宮脇教徒がいます。が、宮脇はすぐに権威側に取り込まれてしまった。
さやみるが共に権威の象徴と言えるNMBには権威に抵抗する勢力は存在せず、両者が「我こそが権威なり」と争っているように見える。不思議ですね。
AKBを宗教的に切り取っても面白いですね。
コメントありがとうございます。
>たぶん濱野氏と主氏のキリスト観や定義が違うのでしょう。
そうですね。
どこに着眼点を置くかによって、いろんなパターンがありそうです。
濱野氏の主張もよくわかります。
>運営は救世主に誰を指名し、大多数の世俗的信者を帰依させる
体制側が主流派かもしくは力を持っていないと反体制側は盛り上がらないので、その通りだと思いますね。
むしろ、自分たちの力を増すための有望株を取り込んで主流派にしてしまうというか。
↓そんなことを次に書きます。
>権威に抵抗するメシア教のような強烈な(危険なではない)大島教徒、玲奈教徒のほかに、HKTには権威の象徴兒玉を打倒した宮脇教徒がいます。が、宮脇はすぐに権威側に取り込まれてしまった。
>さやみるが共に権威の象徴と言えるNMBには権威に抵抗する勢力は存在せず、両者が「我こそが権威なり」と争っているように見える。
この手の話は面白くて、前にその手のエントリを書いたのですが、
[わかフリ解説] 革命騒ぎ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/bb700cc2831e7fbfb98b1f93e4b99eb0
世の中に「革命」という言葉があるが、しかし歴史を紐解くと「革命」というのは案外少ないというのですね。
「革命」を目指したものの成功して「革命」になるものは稀で、ほとんどは失敗して「~の乱(反乱)」とか「~の蜂起」とか「~の暴動」といった形で片付けられてしまっていると。
で、革命が成功する場合とそうでない場合の違いについて調査した結果、革命が成功するかどうかは「革命を推進する側」の問題ではなく、「革命される側」の問題であるらしいです。
革命の旗手の主張がどれだけ正しいかは革命が成功するかどうかに関係しておらず、革命が成功するかどうかは「体制側の落ち度」であるとのことです。
なぜ革命が成功しないかというと、体制側の力が充実している時には、体制側には5つの対応方法があるからだという。
体制側の行動として、5つのフェーズがあるそうです。
「囲い込み」「適合」「吸収」「中立化」「無効」
大衆を囲い込んで、革命を非正当化する。
資本を投入して、革命を既存体制に適合させる。
革命勢力を吸収してしまう。
革命勢力を鎮圧するなどして中立化させる。
体制側を変化させて革命目的を無効化してしまう。
この5つとも失敗すると、革命が成功してしまうそうです。
基本は「囲い込み」「適合」「吸収」の3つを使って体制側は主流派であり続けると。
で、原始キリスト教は主流派になれず、一神教よろしく上の3つにも適さなかったので、迫害されたと。
それが、原始キリスト教を強くしたんですよね。
数百年後に体制側にとってかわったと。
う~む、この手のことを考えると、AKB48はマネジメントのさらなる民主化を進めた方がいい気がしますね。
その方が革命の余地があって盛り上がるかもしれないかなと。
暴走してしまう可能性も増しますので、バランス感覚が大事ですが。
今でも、選抜総選挙やリクアワなどなどありますが。
ぐぐたす選抜が中途半端だったので、これをもっと盛り上げて欲しいところです。
山形浩生さんの「前キリ」に関する批評はご覧になりましたか?
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20121210
おそらく「前キリ」を読んでいないであろう人がツイッターで拡散しているのを見てなんだかなぁと思いました。
アンチに関する考察もしている本書の批評で、前田敦子のことを「なんとか」、AKB48のことを「アキバ48」と呼んだり、「ちんころアイドル」といったアンチAKB的な表現をしたりすることにどういった意図があるのかと。
まぁ、ゆいいつ引用らしきをしているのが5ページ目の一節なので、山形なんとかさんが最後まで読んでいない可能性もおおいにあるとは思うのですが。
僕は濱野さんのぱるるに関する記述が思いのほかヲタヲタしくて微笑ましかったです。
>ヒナさん
コメントありがとうございます。
>「前キリ」
「前キリ」を最初理解できませんでした(笑)
なるほど、もう略語ができているんですね!
山形さんの記事は、教えてもらうまで読んでませんでした。
で、読んでみましたが、ありがちな反応だなと思いました。
「本は読んだけど理解しようとしなかった。」ということだと思いました。
何も知らずに決めつけてはいけませんので、あくまで山形産の記事を読んだだけの感想としては、です。
それで、内容についてです。
まず、山形さんが批判している部分についてですが、誤解に基づく主張であり、意味をほとんど成さないです。
AKB48アンチに良い燃料を投下することになったという意味では、意味があったのかもしれませんが(笑)
>そもそも自分がちんころアイドルに入れ込んでることを正当化するために、世界の希望を否定しようとする本は、ぼくは本質的に卑しいと思う。ちんころアイドルにいい歳こいてはまるのは、それはそれでかまわない。それはもちろん、恥ずかしいことで、醜悪なことで、笑われて当然なんだけれど、でもそういう自分をそういうものとして肯定し、その恥ずかしさ自体を胸を張って肯定できるのが現代のよさであり、それに対して周囲も眉をひそめる程度ですませ、本当に石を投げたりはしない。それは世界の豊かさであり、それを可能にしてくれている世界の優しさであり、それ自体が希望だ。でも、浜野はそれを見ないで、自分の卑小さと醜悪さを正当化すべく、世界を絶望にひきずりこもうとする。それがこの本の本質的な卑しさの元でもある。
読めばわかりますが、濱野氏は「世界の希望を否定」などしておりません。
濱野氏はこう書いています。
「もちろんAKBは、こうした「リスク社会」や「再帰的近代」の問題を正面から解決するものではありえない。しかし、こうしたリスクに晒された時代をどう生きるべきかについての示唆は与えてくれる。」
なぜ、山形さんのように知識人においても、こういった誤解が起きるかというと、山形さんがAKB48に対して偏見を持っているからです。
AKB48アンチな知識人にありがちな話です。
ただ、その偏見を責めるつもりは私にはありません。
なぜなら、当Blogでは繰り返し主張してきましたが、AKB48は大変に「わかりにくい」存在だからです。
このエントリの本文中においてもその点、説明しております。
>■AKB48というわかりにくさ
>AKB48を言葉だけで説明しようとしても、その良さを伝えることは非常に難しいでしょう。
↓この部分が偏見っぷりをうまく表現していますね。
それはあなたの視点だということ。
>でもこの本は、そういう等身大のファンを無視し、実物大のアキバ48を(たぶん)無視して、世界を勝手な思い込みで絶望に陥れることで両者を分不相応にでかいものに仕立て上げる。単に、自分自身の気恥ずかしさと後ろめたさを隠さんがために。
山形さんであれば、行動経済学についてよく御存じでしょうけれど、人には癖があるのですね。
AKB48と自分のモノという意識の深い関係 ~所有意識~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e763b2d0812b7407b30562276345df02
>[3] 他の人が取引を見る視点も、自分と同じだと思い込んでしまう
実体験を伴わずにAKB48を理解することの難しさ、それは恋愛をしたことのない思春期の若者が初体験を想像することと似たように、大変に難しいことなのです。
だから、世の中にはたくさんの恋愛小説なり恋愛ドラマ、恋愛映画があります。
表現しにくいこと、伝えにくいことを、言葉で伝える試みが文学と思えば、文学の必要性もよくわかりますし、ドラマにせよ映画にせよ、同様ですよね。
伝えるための努力をしているわけです。
そして、この前キリもまた、その努力の一つとして受け取れば、何のことはない話、だと私は思います。
↓本文中にも書きましたが、
>本著を読んでも、これはやはり難しいテーマであるということを再認識する機会となりました。
>
>挑戦し甲斐のあるテーマであります。
>
>今回、濱野氏が非常によい問題提起をしているわけですから、この本をいろんな人に読んでもらい、議論のネタにして頂きたいものです。
議論のネタになったのでありますから、この本の意味はあったと逆説的に思ったりします(笑)