阿部ブログ

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近衛兵の叛乱 ~竹橋事件の墓碑が青山墓地にある~

2013年05月22日 | 雑感
過去ブログ「火はわが胸中にあり~竹橋事件、近衛砲兵大隊蜂起~」にも書いた明治11年の近衛兵による叛乱で処刑された兵士の殉難墓碑が青山墓地(2種(イ)11号29側)にある。
               ←「旧近衛鎮台砲兵之墓」
竹橋事件の墓と碑の由来が書かれている金属板が左側にある。
           
書かれている内容は↓の通り。

竹橋事件
墓と碑の由来

 「旧近衛鎮台砲兵之墓」は、一八七八(明治一一)年八月二十三日の竹橋事件で死刑に処せられた、近衛砲兵大隊兵士四七名・近衛歩兵第二連隊兵士一名・東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士五名・同隊下士官二名および事件当夜自殺した近衛砲兵大隊兵士一名の計五六名の墓である。
 下士官二名は、翌一八七九(明治一二)年四月十日になって処刑されたが、兵士五三名は事件後二か月足らずの十月十五日深川越中島で銃殺され、当青山墓地の陸軍墓所(現都立赤坂高校正門付近)に埋葬された。
 一八八九年(明治一二)年の帝国憲法発布に伴う大赦により、墓碑建設が許され、無期流刑から生還した鎮台予備砲兵大隊少尉内山定吾や同志、遺族らの手によって、頭書の墓碑が建立された。
 しかし、第二次大戦後、赤坂高校の建設の際、墓は現在地に移されたと言う(異説もあって、経緯の詳細は不明)。たまたま隣接地に住む遺族の高樋和夫氏が、独力で墓を探し当て、守って来たが、くしくも兵士の一00回忌に当たる一九七七(昭和五二)年、作家澤地久枝氏も墓を突き止め、広く世間に紹介した。
 同じ年、麻生三郎氏を中心に、「明治一一年竹橋近衛暴動の真相を追求する会」(現「竹橋事件の真相を明らかにする会」)が結成され、すでに澤地氏が始めていた全国的な遺族の「掘り起こし」を、さらに精力的に進めた。
 その結果、多くの遺族が判明し、一九八五(昭和六0)年遺族有志によって全国遺族会が発足し、左隣の「合葬之碑」と、合わせた「旧近衛鎮台砲兵之墓」管理権を、東京都から委譲された。
 「竹橋事件の真相を明らかにする会」の運動も大きく前進し、事件の真相とその意義の解明は本格的な軌道に乗りつつある。
 墓の右隣の碑(撰文 澤地久枝氏)は、この事件を、裏面に刻まれた五六名の殉難兵士たちの名とともに、日本の歴史に永遠に留めるため、兵士たちの一一0回忌を期として多くの人々の思いと協力を集めて、建てられたものである。
 なお、前記「合葬の墓」は明治年間に陸軍刑務所で刑死なし獄死した兵士の内、引き取りの手のなかった一七名を合葬してその中には事件に参加して準流一0年に処せられ、獄死した、近衛砲兵大隊兵士市川朝吉・宮崎又作の二名も、含まれている。

一九八七年一0月一五日
  竹橋事件全国遺族会
  竹橋事件の真相を明らかにする会

お墓の右側には『火はわが胸中にあり』の著者である澤地久枝氏による殉難鎮魂の碑が建っていおり、こう書かれている。
            
『この碑は、一八七八年(明治一一年)八月二十三日夜に起きた「竹橋事件」殉難者の鎮魂のためにものである。
事件は東京竹橋にあつた、近衛砲兵大隊の兵士を主力に東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二連隊の同調者をまじえて、将校、下士官の連座者をふく、日本陸軍史上唯一の兵士の叛乱となつた。三百余人が、待遇改善その他の要求をかかげて直接行動に訴えたのである。
兵士たちはすべて徴兵によつて陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろつている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へ兵士たちを駆り立てていつた。生ま在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火でもあつたと思われる。
叛乱は鎮圧され、同年十月十五日、兵士五三名が深川越中島で銃殺刑になり、遺体は青山墓地に埋められた。現在の都立赤坂正門付近と推定される。

一八八九年(明治二二年)帝国憲法発布にちなむ大赦ののちに、福井清介、内山定吾らの発起により、計五六名の事件殉難者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」に建立された。
この墓は、第二次世界大戦末期の混乱で行方不明になつていたが、百回忌にあたる一九七七年十一月、現在地に移されているのを発見した。

事件の真相は明治政府によつて抹殺され埋没せしめられ忘れられた歳月が過ぎたが、全国的な研究と調査がすすみ、ようやく全容があきらかになろうとしている。
たたかい、かつ踏みにじられた明治の青春の記念として いまここにこの碑を建て、「竹橋事件」が後世に伝えられるべき火となることを願う。
この碑は、遺族をはじめ事件にかかわつたわれら一同の反戦平和への悲願の証でもある。
一九八七年十年十五日
澤地久枝 撰』

この殉難の碑の裏には処刑された兵士53名の名前が書かれている。
                

竹橋事件殉難者名簿
一八七八(明治一一)年一0月一五日 刑死
近衛砲兵大隊兵士
浅見綾次郎  伊藤丈三郎  今井政十郎
岩本 久蔵  浦塚城次郎  小川 弥蔵
門井 藤七  金井惣太郎  菊池作次郎
木島次三郎  木村 円解  久保田善作
小島 万作  是永 虎市  近藤 祖舟
桜井 鶴次  笹井 常七  佐藤種五郎
沢本久米吉  新熊安治郎  新家 仲吉
高橋小三郎  高橋竹四郎  田島 盛介
谷新 四郎  辻  亀吉  堤  熊吉
中沢 章治  長島竹四郎  永合竹次郎
野中 与吉  羽成 常助  馬場 鉄市
広瀬 喜市  藤橋吉三郎  布施 仙吉
松居 善助  松宮弁次郎  松本久三郎
宮崎関四郎  水上 丈平  見山今朝治
本橋兼次郎  山中 繁蔵  山部 七蔵
山本 丈作  吉田 定吉
東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士
真田 兼松  鈴木 直次  高見沢卯助
宮崎 忠次  横山  昇
近衛歩兵第二連隊兵士
三添卯之助
一八七九(明治一二)年四月一0日 刑死
東京鎮台予備砲兵第一大隊下士
平山  荊  梁田 正直
一八七八年八月二三日 自殺
近衛砲兵大隊兵士      大久保忠八

現在・過去の竹橋はこんな感じ。
                         

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