阿部ブログ

日々思うこと

東京電力・福島第一原発の吉田所長を偲ぶ ~東京都市大学・高木直行教授を訪問して~

2013年10月01日 | 雑感
今年7月9日、東京電力・福島第一原子力発電所・所長として事故収束にあたった吉田昌郎さんが58歳で逝去された事は記憶に新しい。
その吉田さんの元部下に会うとは思いもせず、はじめて東京都市大学の世田谷キャンパスを訪れた。
訪問したのは、東京電力で原子炉の炉心設計をされていた高木直行教授。訪問目的は、トリウム原子力に関し様々ご教示頂くため。高木教授には、久し振りのアクセスにも係わらず、即スケジュール調整をして頂き、今回の訪問と相成った。
さて、世田谷キャンパスにある原子力安全工学科に行くには、東急大井町線に乗り、自由が丘の隣の隣の「尾山台駅」で下車する。改札を出てすぐ左に曲がると、ハッピーロード尾山台という商店街が。
              
今時ハッピーロードもないだろうと思いつつ、また東京都市大学なんて聞いたことないな~と思いつつひたすら歩いて行く。商店街を抜けてもひたすら多摩川に向けて住宅街を歩いていくと、やがて左手に目指す東京都市大学の世田谷キャンパスが姿を現す。
            
あっ、しまった!場所は世田谷キャンパスと言う事で地図も送って頂いたが、研究室の場所を聞いていない。どこの建物だろう?
丁度良い事に、大学での説明会出席者用かわからないが、大型バスが停まっており、誘導の為に守衛さんらしき、大柄の男性が立っている。
男性に近づいていくと、これは本気でデカイわ。何食ったら、こんなに大きくなれるの? 
見上げなら質問する「お尋ねしたいのですが・・・原子力安全工学科は何処ですか?」
「んー、工学部だね。それは通りの向こう。原子力は10号館だね。」
何も見ずに言えるんだから立派。体はデカイが気は優しいタイプのよう。では、ついでに質問を。「東京都市大学って昔からありました?」
「いや、以前は武蔵工業大学といっていたよ。」

なるなる。これで理解。
武蔵工業大学は、研究用原子炉を虹ヶ丘の団地の隣に持っていた。実は以前原発の敷地に入った事があり原子炉建屋を見たことがある。随分前の事で廃炉になったかな? その後の詳細は知らないが、原子炉のある場所の周囲には、立派な住宅が並んでいる。そりゃそうだ。川崎・王禅寺のど真ん中にあるんだもん。親会社の社長宅も王禅寺だから、何かあると安穏とはしてられないかも。しかしこんな所によくもまあ建設したもんだ。守衛さんに原子炉の事を聞くと。
「原子炉は廃炉。燃料はアメリカに返還した。でもキャンパス自体はあるね。それに昔は周りに何もなかったんだよ。」と。
「そうですか。じゃあ東海村と一緒ですね。建設当初は、周り松林でしたけど、今じゃ直ぐそこまで住宅が建ち並んでいますからね。あんな所に家をかうのだから、原子力関係者か、よっぽど安全意識が低いかのいずれかですね。」
四方山話はここまでで、時間がないので、走って通り向こうの10号館へ。

しかし走る必要も無いほど10号館は近かった。でも周りの建物は、いやに新しく立派なのに10号館だけは如何にも古めかしい建物で、次大地震が来たら、これは確実に崩壊するだろう脆弱さを醸し出す風情の5階建て。勿論、エレベータなどなく階段でテクテク歩いて研究室まで行く。
ハンカチで汗ふき拭き「先生、コンニチは。お久しぶり・・・」とか言いながら研究室に入っていくと、高木先生は、即座に自分の足下を見て「ダメ!駄目!ココは土足厳禁!!」
「ありゃまー、いやー、ご免なさい。知らぬこととは言え、土足で侵入しちゃいましたね。」(道理で床がフカフカなわけだ。)
と、学生さんが、慣れたものでサッとスリッパを差し出す。いい動き。切れがいいね。勿論、若いね。

「外界とはそれなりに遮断しなくちゃいけなくてね。土足厳禁なんだ。」
「ほー、それは大変。そう言えば原子力関係のこのエリアは区画を閉鎖してますもんね~」
「そうなの。さて、こっちで話をしますかね。」とデスクのある区画に誘導され、先生は、やおら大きな紙の山を2つ程移動させスペースを確保。
「お気遣いなく」とか言いながら、ちゃっかり座りやすそうな椅子を、自分の方に寄せて、こちらもセッティング完了。
さて、トリウム、トリウムと思いつつ、椅子に座り先生との距離も近くなり、視界が広がりキョロキョロ周りを確認すると、ふと紙の山の陰にある2冊の本が目に入った。船橋洋一の『カウントダウン・メルトダウン』だ。ちゃんと上下巻ある。

「先生、その本、読まれました?」
「ああ、これねーーーーっ。いけてないんだよね~この本。」
「いや、分かりますよ。船橋洋一ですからね。前著の『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン 朝鮮半島第二次核危機』を読みましたが、厚いだけの本で時間の無駄でしたね。尤もブックオフで105円だったから買っただけで、どうでもいいですけど。」
「やっぱり。アメリカ政府や大使館、軍に関する部分はともかく、1F(福島第一原発の事)に関する部分は読むに耐えない。」
「専門家が読んで、そうですか。まあこの手の米国留学組は、ジャパンハンドラーから情報貰って書いていますからね。読み手は馬鹿じゃないから、分かりますよね。経歴じゃだまされないですよ、最近は」
    
要するに『カウントダウン・メルトダウン』は、原子力の専門家としての視点から、そして元同僚などから聞く当時の状況と推移を聞いているので読んでいて、いくら何でもこれは変でしょ?と言う部分が多々ある。『カウントダウン・メルトダウン』を読めばわかるが『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』と同じで、行間が無く無味乾燥の文字列が連なるだけ。これだから『カウントダウン・メルトダウン』の上巻は売れているが、下巻が売れないのだ。処女作の『内部~ある中国報告』は良かったんだけどなー。
 
「読むなら、この本がお奨めだよ。門田将隆の『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』。
  
この本はきちんと取材して書いているし、この本は、東京電力でも社員に是非とも読むようにと推奨しているんだ。」
「へぇーっ。東電推奨で、専門家が読んでも良く書けているいると言うのだから、これは買って読まねばなりませんね。」
「そうだ。この本、買うんだったら是非、紀伊國屋書店で買ってね。カウント上がるから。」
「はい、合点承知です。いつもは日本橋の丸善で買うんですが、大手町ビルヂングの紀伊國屋で買います。」

門田将隆氏の『死の淵を見た男』は、現場や関係者を長時間、緻密に取材した事がありありと窺える良書。
福島第一原子力発電所(フクイチ)があった場所は、陸軍磐城飛行場。戦局が怪しくなってくると特攻隊の飛行訓練が行われた場所で、門田氏は、『太平洋戦争 最後の証言~零戦・特攻編』の取材で訪れている場所だ。
彼は、フクイチの中央制御室で実際に事故対応にあたった当直長らに直接取材をしている。言葉も彼らの現場の言葉をそのまま使う。即ち中央制御室は「中操」だ。その中操に詰めているフクイチの現場は、吉田所長から指示される前に前に実質的なベントにむけた作業を行っていた。これは物凄く重要な点だ。もし彼らがこの作業を指示を受けてからやったのでは、遅きに逸したし、放射性レベルが許容量を超え作業そのものが不可能だっただろう。
しかしフクイチの現場は、粛々と、黙々と必要と想われる全ての対処作業を実施したのだ。不眠不休で。彼らの自主的なベント前作業が無ければ、圧力容器から核燃料が爆発的に噴出し、東北、甲信越、関東全域は放射能で壊滅的打撃を受け、日本の半分は機能を停止する所だった。東京の機能停止は、実質的に国家としての終わりを意味する。
フクイチの現場での英雄的行為については、もっと喧伝されてしかるべきであり、将にフクイチの現場は国家的英雄だ。日本の危機を救ったのは東電の現場!

『死の淵を見た男』を読んだあと直ぐに、前述の門田氏のシリーズ本『太平洋戦争 最後の証言~陸軍玉砕編』も読んだが、日本は第一線の現場(兵士)が、むちゃくちゃに強い、最後まで戦い続ける。
  
東部ニューギニア戦のポートモレスビー攻略でも、オーストラリア軍&米軍の連合軍と戦闘ではなく、死闘を繰り広げる。オーストラリア軍は日本兵の捕虜を取らない。全て殺す。ジャングルの戦場にジュネーブ条約など存在しなく、とにかく殺しまくる。戦闘不能の兵士も殺す。しかしこれは日本軍も一緒。オーストラリア兵を捕虜にしても食わせるメシがない。だから殺す。後に米軍の公刊戦史には「世界最強の抵抗」と記載される稀有な戦いとなった。
このポートモレスビーの戦いでも強かったのは第一線の兵士だった。欧米では、指揮官がリーダーシップを発揮するのだが、日本ではちょいと違う。よく地位が高くなればなるほど無能になると揶揄される日本。しかし、現場(兵士)の頑張り・踏ん張りが、今も昔も、この国を支えているのですね。
さて、『死の淵を見た男』は是非ともご一読頂きたい。吉田所長が、フクイチに赴任する時、道元の「正法眼蔵」を持っていったエピソードや、一時帰宅した際のご家族とのお話は読んでいて、ホント泣けました…・・・(最近涙もろい)。
それと買うときには、紀伊国屋書店でお願い出来れば幸いです。

高木教授と『死の淵を見た男』を買って読みますよと約束して、さて帰ろうかと言う頃合で、「実は、吉田さんは僕の上司だったんだ。」
「えっ、ホントですか。はじめて聞きました。柏崎でご一緒だったとか・・・」
「いや、2007年4月に新しく東電本店に出来た「原子力設備管理部」に異動したんだが、その初代部長が吉田さん。」

吉田さんや高木さんが、異動して間もない7月16日には、例の中越沖地震が起きる。柏崎刈羽原発も震度6.5に見舞われ、部員全員がこの対応に追われる。それとは並行して部長としての吉田さんは、公益社団法人土木学会の津波評価部会から出された津波想定評価の対応に追われてもいた。
この時の津波評価部会の福島第一原発への津波想定は「6メートル」。ただし、福島沖に「波源(地震源)」はないとの条件。この条件は、2006年1月25日に中央防災会議(本部長:内閣総理大臣)の専門委員会が、福島沖と茨城沖を「防災対策の検討対象から除外する」という報告を出していることが背景にある。
しかし、吉田さんは、土木学会の津波評価部会に対して「波源」の策定について意義を唱える形で、審議を正式に依頼している。また部下に命じて、2009年から2010年3月にかけて、1200年前の貞観地震時の津波を推定するため、農閑期を利用して堆積物調査を実施している。つまり福島沖にも「波源」がほぼ確実にあるだろうとの想定で対処していたのだ。

そして運命の福島第一原子力発電所の所長に吉田さんが就任するのは、2010年年6月。勿論、福島沖の「波源」問題も、津波想定問題も未解決、未対応のまま、2011年3月11日を迎えること事になった。なんの因果か、巡り合わせか・・・・・・

「そう。最近吉田さんの追悼記事を書いたんだ。んーと、これ。「エネルギー・レビュー」の9月号。コピーしてあげるから、帰りの電車で読んでみて。」
「おお、有難う御座います。ジックリ読ませて頂きます!」
「吉田さんじゃなければ、福島の事故はもっと酷いことになっていたと、つくづく想う。ベントを実施せよとか東京から言うのは簡単だが、所長としては部下に命じるとき、それは「死んでくれ」と言っているようなものだからね。この人が言うんだったら、俺ら行こうぜ!となるのが、吉田さんの吉田さんたる所以。人格人望のなせる技だよ・・・」

吉田さんをはじめ、フクイチの現場の皆さんが、自己の死を覚悟・諦観しての奮闘が、最悪の事態を回避させました。将に体を張って日本を救い、逝ってしまった吉田昌郎氏に心からご冥福をお祈り致します。

■高木先生の経歴はコチラ↓
1992年 4月 東京電力入社
      柏崎刈羽原子力発電所 発電課
      原子力研究所 新型炉研究室 リサイクルGr
1999年 2月 日本原子力発電 高速炉開発部 安全・炉心Gr(出向)
1999年 7月 核燃料サイクル開発機構(大洗)炉心燃料Gr(出向)
2004年 4月 東京工業大学 原子炉工学研究所 特任准教授(兼務)
2004年 7月 核物質管理センター 開発部(出向)
2006年 7月 東京電力 本店 原子力技術品質安全部 将来構想Gr
2007年 4月 原子力設備管理部 原子炉安全技術Gr
2008年 3月 東京電力退職
2008年 4月 東海大学 工学部 エネルギー工学科 准教授
2010年 4月     工学部 原子力工学科 教授
2012年 4月 東京都市大学 工学部 原子力安全工学科 教授

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