日々是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
あれこれ雑記

じゃん拳ポン

2018-09-27 20:46:04 | 日記
またまた子供の科学(第80巻11号)からのお知恵拝借です。
生動物では群のなかでは優劣関係が決ります。その場合は優劣の力関係を理解しているのだと考えられています。われわれがじゃん拳で決めるように直線的ではなく、循環関係になった場合もあります。人間以外の動物が循環関係を理解することが出来るか?この疑問を解き明かすため、京都大学と北京大学の研究グループはチンパンジーにじゃん拳を学習させる研究を行ったました。
学習した七頭のチンパンジーには勝てばチャイイム鳴り褒美の餌を与える訓練を繰り返しました。七頭のうち五頭は百日ほどで完全に勝た方を言い当てることが出来ました。そこでチンパンジーは循環関係を理解する能力を理解する能力を備わっていると考えられます。
同じ訓練をチンパンジーに対して行ったと同様な訓練を3~6歳の子供に対して行いました。人間では何歳から循環関係が理解出来るか調べたところ四歳以上になると理解していると判断されたようです。
われわれの社会でも循環関係になっいる事などからチンパンジーにも複雑な人間関係も理解出来るかも知れません。

松浦半島あれこれ

2018-09-24 20:58:09 | 日記

唐津市には玄武岩の海蝕洞が七つ並んでおり、見事な柱状節理を見せています。白砂青松を背後に控えた鏡山は、佐世姫伝説もさることながら、烽火台が置かれており、近くの中原遺跡からは、甲斐国出身の防人関係の木簡が出土しています。それ故近くには防人の駐屯地があったことと推測されます。またこれとは別に黒曜石の採掘地でもありました。
鏡山麓の鏡神社には、高麗で描かれた巨大な「楊柳観音像」が伝わっています。国博にも展示されたのではと思います。大宰府にも大きな影響のある「藤原広嗣の乱」の所縁で残った神社もあります。
現在唐津市玉島町玉島小学校すぐ近くに大村神社があります。藤原広嗣は桓武天皇天平一二年十月十五日(七四〇年)に大村でなくなりました。僧玄坊と吉備真備の讒言により太宰小貳として筑紫に退けられたことになっています。そして広嗣は反乱をおこし、大野東人が討伐に赴きました。広嗣は国外に逃れようとしました。しかし荒天候の海に阻まれ、大村へと逃れました。そてその地で討たれてしまいます。
玄坊は奇妙数奇な(玄坊墓所跡に詳しい)生涯を終え、そのためか吉備真備は天平正寶四年、現在のところに無怨寺を建立し、厚くその霊を慰めたと言われます。明治の神仏分離によって大村神社と改称されています。
老輩はかって目睫の間に住んでいたことがありながら現在まで不知で過ごしたのは残念でしたね。

図説大江戸おもしろ商売

2018-09-22 15:16:48 | 日記

図書館から北嶋廣敏先生著を拝借しました。おもしろとありますが、大江戸八百八町の様々な商い、全く無駄の無い身過ぎ世過ぎに感心しました。それと目次を見ますと老輩年代には記憶の中にも生きた生活があるとも思えます。
一つには敗戦後の極度の物資欠乏の日常生活の実感がまだあったからでしょう。日々のあきないの例として挙げられている付木売りの付木は燐寸すら貴重な配給品であり、竈や火輪までの火種の応急継ぎ足しとして必需がありました。文字で注を書くとまわりくどいですが、日常極めて切実な物でした。
修繕・再生業のあれこれでは、羅宇屋・鋳掛屋・箍屋その他は通常頻繁に見られました。食物屋については多く知りません。
古着屋・献残屋・見掛屋などは名を変えて町中今日盛んに見られるところです。
ただ廃物処理再生については今日以上に巧妙化していると思います。灰買いで巧妙に財をなした智慧者灰屋紹由などいう豪商もいたそうです。

隠れキリシタン

2018-09-20 14:33:42 | 日記

「五島は大陸への波頭であったばかりではなく、広く海の彼方の文化の入って来る受け入れ口でもあった。永禄九年(1566)には、この島にはキリスト教が伝わっている。五島領主の使者が、大村領の横瀬浦にいた神父コスモ・デ・トルレスのところへ医師を求めてきたので、デイエゴというキリシタンを五島に行かせた。それから五島へキリスト教が広がってゆく。しかしのちに、キリシタンは全国的に禁圧されることとなり、五島でも領主が厳禁して多くの犠牲者を出したが、民間ではひそかに、これを信ずる者がいた。その後、寛政九年(1795)に、大村藩の西彼杵半島から農民を招いて島の未墾地を開墾させ、漁業ばかりでなく、農業を盛んにしようと計画したとき、渡島してきた者のほとんどは、ひそかにキリスト教を信じているいわゆる隠れキリシタンであった。この人たちはまたたく間に全島に広がり、畑を開き、麦、甘藷を作り、また漁撈にもしたがった」以上は、宮本常一先生著「旅の手帖愛しき島々」によります。
隠れキリシタンについては、島原の乱崩れによるものとばかり思っていました。今日までの歴史的事績は人の多く知るところであり、現在は観光の一助ともなっています。明治政府にも大きな弾圧と迫害を受けましたが、信仰を捨てる者は殆どいなかったそうです。

海鼠が嗤う

2018-09-15 16:52:15 | 日記

随分昔の話になりますが、長崎県松浦市福島町に住んでいたことがあります。その当時は炭坑が三個所、いや小さなケンサキ掘りを加えたらもっと有ったかも知れません。なにしろ松浦市福島と正確な行政区分を知ったのが最近ですから。勿論現在は伊万里市波多津戸町の間に福島大橋が架けてありますから、現在でも伊万里市に加えてよかろうにとは思いますね。現在の福島港近くの炭坑住宅に住んでいました。しかし学業中は伊万里の会社寮にお世話になっていましたから、この出来事は春休み休暇中の事だったようです。
岩礁気味な海岸で渡船は浮桟橋に着き、乗客が乗降りしていました。
海岸には時によって伝馬舟が舫ってあることも有りました。岩礁の海水は澄んで底が見え、海鼠の採れそうな誘惑が有りました。舫いに注意すれば良かったですが、ついついの不注意から引き潮に沖へ曳かれてと、河口からの波で舫い舟は沖へ沖へと押ながさていました。岸にいた近所の大声での注意がなければ、気が着きません。幸いにも沖に波多津から炭俵を積んだ伝馬舟が島へ向かって来ています。恥も外聞も有りません。大声で助けを求めました。
古事記の大昔から海鼠は無口ですから、今日まで他言は していないと思いますよ。