尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「沈黙」 ゼロ(零)形式のことば

2017-07-19 13:37:53 | 

 前回(7/12)は、栗原文夫著『文章表現の四つの構造』(右文書院 二〇一七)の第二部(応用編)から第十二章「帰納と演繹」を紹介しました。そこでは、人は、二、三の具体例を挙げただけで高次の命題を抽象することを好んで行なう、という「帰納法の危うさ」を学んだことが収穫でした。しかし、帰納法によって得られた命題は演繹法の前提(出発点)でもあることを考えると、「帰納法の危うさ」が演繹法にも持ち込まれる可能性を否定できません。そして私たちが思考を抽象から具体へと展開していく演繹法を暮しのなかで用いるときに、どのような命題を頼りにして具体的な問題を解いていくか、その如何は命題の質に左右されるはずです。つまりその普遍性の度合が関係するのです。より普遍的(本質的)な命題が得られれば、具体的問題の解決はより広く深い思考を可能にします。私は、第十二章「帰納と演繹」を通して、本書には、「文章表現における四つの構造」という命題もまた具体的な文章分析に耐えうる普遍性を備えているかどうか、読者のよる検証への期待が込められたものではないかと感じました。

 さて、今回は応用編からもう一つ、第十九章「沈黙」を紹介します。私は文章を書いてもついダラダラと綴ってしまうし、話せばきっとオシャベリにちがいなく、「沈黙」は一つの憧れです。また「沈黙のことば」(吉本隆明)や「肚からの物言い」(柳田国男)に関心を持って以来、「沈黙」についての考察は腰を据えて取り組むべき課題だと思ってきましたが、ほとんど手つかずのままです。そこで、本書の「沈黙」論(第十九章)から自分で考えるための手がかりを掴まえたい。まず著者は沈黙をどう捉えているのか見ていきましょう。

 

「沈黙」は、沈黙は言語活動の完全な不存在を意味するものではない。沈黙とは黙して語らぬことであり、沈黙の成立には何らかの語られぬ言語内容がなければならない。≫(前掲書 二六八頁)

 

 私なりに砕いてみます。まず「沈黙は言語活動の完全な不存在を意味するものではない」という記述です。これは沈黙が言語活動と無関係に存在するのではないと理解します。つまり黙ってはいてもそこにはなんらかの言語内容がともなっている、ということですから、「黙して語らぬ」ことが表現の一つのありかたであって、沈黙は言語の特殊な形式だと受けとることができます。これが沈黙の成立です。このように考えなければ、次に続く以下の引用中の「沈黙と表現」を誤解してしまうことになります。

 

沈黙と表現は、言語活動の潜在と顕在という点で対立関係を構成する。言語活動の総体はこの沈黙と表現によって成り立っており、両者の対立関係は、言語活動における最も原初的で、最も究極的な対立であると言える。≫(同上)

 

 つまり「沈黙と表現」の「沈黙」を認識と受けとってはまちがいだということです。対象についての認識が表現として外化されるという一連の過程は、表現一般に言えることです。また言語表現は対象についての概念的認識を背景にもっていることで、この一連の過程は言語一般に言えることです。であれば、「沈黙」を認識と見なすことは、「沈黙」の問題をこれら一連の過程に解消してしまい、その独自性を見出す途を閉ざすことになってしまいます。

 私たちの思索には「ことば」がともないます。ここでいう「ことば」は厳密に言えば、表現以前のありかたであって言語ではなく認識段階の表象です。ですから、正確に言えば、沈黙とは表現以前の「ことば」による思索をそのまま表現したものではなく、「表現以前の「ことば」による思索」をゼロ(零)形式によって表現したものということができます。へんな言いかたに聞こえるかも知れませんが、対象について感じ・思い・考えることがあっても、適切に表現する「ことば」が見つからない場合、あるいは表現しないほうがいいと判断した場合など、「感じ・思い・考えること」を口にしないし、書かないという経験はだれにでもあると思います。このとき、黙っていること(沈黙)を一つの表現形式と捉え直すことができるはずです。これをゼロ(零)形式の表現、ゼロ(零)形式の「ことば」とよぶことができます。これが一つの「手がかり」ですが、もう一つあります。これは次回に。