尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

処刑現場の立会いをめぐって

2016-12-12 14:04:41 | 

 前回(11/05)は、殺害された崔天宗の葬儀をめぐる通信使側と対馬藩側の言い分を見ました。そこで、私は双方の意思疎通が上手くいかないのは、どちらの言い分も異なった普遍的価値にもとづいているということ、つまりどちらにも「正義」があったからだということを書いてみました。さて今回は、鈴木伝蔵の処刑への立会いをめぐる日朝双方のゆきちがいを読んでみます。出典は、池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』(臨川選書 一九九九)です。引用には通信使内部の地位をあらわす役職がいくつか出てきますので、その序列構成を簡単に紹介しておきます。出典は、金仁謙『日東壮遊歌』(東洋文庫 一九九九)の訳者解説です。

 まず朝鮮通信使といってももちろん一人や二人などではなく、この時の通信使一行の合計は四八四名にものぼります。地位の高い順に並べますと、まず「正使」・「副使」・「従事官」の三使が最上位にあります。その下に「上官」グループ(三九名)があり、最上位が「堂上官」と呼ばれる三名です。この三名が随行通訳の首席で、日本側では「上々官」と呼んでいます。通信使側が「首訳」と呼ぶのは「上々官」のことです。また「上官」グループの末席に日本の儒者との詩文応酬を担当する「書記」(三名)がいます。その一人が金仁謙です。当時五七歳。以前彼を紹介したときは「製述官」と書きましたが、金仁謙は兼任だったのかも知れません。その次のグループは「次官」(十三名)、「中官」(一七八名)と続きます。殺害された崔天宗は「中官」グループの二番手「都訓導(執事)」(三名)のうちの一人でした。仕事は目付役でした。目付役なら厳しいことも口にしたかもしれません。この下には「下官」グループ(二五一名)が控えています。「下官」には、大旗持ち役(二名)、毛槍持ち役(二名)、楽士たち(十八名)、「屠牛匠」(牛をほふる職人?一名)などもいます。それに乗船水夫(一三八名)、荷船水夫(九〇名)。これで全部です。

 

≪四月一八日に捕縛された伝蔵に対して死罪の判決がくだり、同二九日に処刑が実施されることとなった。この日の朝、大坂町奉行。幕府目付ら列席のもとで朝鮮通信使の上々官に対する仰せ渡しがあった。この日に鈴木伝蔵の処刑を実施するので、その場に上々官が同席するようにとの内容である。上々官はその旨を三使(正使、副使、従事官の三人)に伝達することをただちに返答した[慶応115]。

ところで上々官は、その仰せ渡しに聞き違いがあってはならないとして、対馬藩通詞梅野勘助に内容を確認し、確認文書の作成を求めた。この文書はさらに通詞谷伝内にも確認させている。したがって、鈴木伝蔵の処刑の有様を朝鮮通信使側がその目で確認することが文書によっても保障されたわけである。

しかしながら、同日中に大坂町奉行・幕府目付らから再度の通知が上々官に対してなされ、上々官が処刑現場に同席するには及ばないとされた[慶応115]。江戸表からわざわざ目付の曲淵勝次郎が来ているのだから処刑の実施に疑いもあるまい。だから朝鮮通信使一行には処刑ののちに知らせようというのである。

これに対し上々官は、処刑の実施に疑いを差し挟んでいるわけではないことを述べた上で次のように論じる。対馬藩と朝鮮との間にはとりきめがあって、犯罪者は両国の役人が立ち会って死刑を見届けることになっている。さらに、自分たちが処刑の現場に立ち合わなければ本国への報告書の書き様が無い。だから立会わせてほしい[慶応115]、というのである。

ところで、右の経過は、処刑現場への立会いをめぐって、同日中に正反対の令達が為されたことを示している。この点について、大坂町奉行は今朝上々官に伝えるときに申し違いをしたようだ[慶応115]とし、それを受けた対馬藩は町奉行と符節(フセツ:割符のこと)をあわせたような見解をだす。今朝、町奉行から上々官に伝えられたのは、鈴木伝蔵仕置きの件について直接上々官へ伝えようということであって、それを処刑場へ出てくるよう伝えられたものと上々官が勘違いしたのである。誤解した上々官による確認文書の書き方が良くなかったために、三使が内容を誤って受けとることになった。是は不調法の至りである、という[慶応115]。

この対馬藩側見解に対し、上々官は「こうした枝葉末節のような取り上げ方は議論以前の問題である」として改めて処刑場への立会いを要求する。こうして両者の意見調整が付かないため、同日中の処刑は見送られるに至る。

一方、右のやりとりの前後関係は不明ながらも、同じ四月二九日に以酊庵長老が通信使の宿舎へやってくる。あまり説得的ではない長老の言を聞いた金仁謙は、日本人に対する不信感を隠すことができなかった(E)。結局のところ鈴木伝蔵の処刑は通信使側からの立会人五四名を含めて五月二日月正嶋で行なわれたが、その様子を伝え聞いた時にも金仁謙は不信感を示している(F)。

二九日、以酊庵長老がやってきて首訳を通じておっしゃるには「ついに今日、伝蔵を死刑に処そうということなのだが、昔からわが国法では、他人にお見せできる刑罰もあり、またお見せできない刑罰もあるのだが、伝蔵に化する刑罰は、他人にお見せすることが出来ない。異国人にはお見せ出来ない」(中略)奸邪(カンジャ:よこしまなこと)なあいつらは、わが国の人〔朝鮮人〕にお見せせずに、偽りのものを殺して、(われわれを)だまそうとしているのだな。(以下略)[金仁謙]

償命(ショウメイ:命の償い)はやっと果たされたが、魁首(シュカイ:首謀者)は殺していない。天人たちはいかに思われただろうか。憤恨(フンコン:怒り恨む)するばかりである。[金仁謙]

右の二つの史料には抜きがたい不信感が窺える。Fにいう「魁首」が何を指しているのかは特定することが出来ないが、今回の処刑で本質的な解決がもたらされたわけではない、という満たされない気持ちがここに表わされている。形の上での解決は行なわれてしまった。「天人たちはいかに思われるだろうか」という言葉に、真相が明らかにされていないのではないかという疑念と、自分たちの力が及ばないやるせなさが表現されているように思われる。≫(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九 六〇~六二頁)

 

 大坂町奉行・幕府目付らの態度はまさに朝令暮改であって、腰の定まらない幕府側の態度が透けてみえます。四月二九日の朝、日朝外交全体への影響を恐れる幕府側の意向を表現した令達が、その日のうちに、そんなことしたら通信使側がつけあがると幕府側に翻意を迫る対馬藩という構図が見えています。そして大坂町奉行は江戸から目付も来ているのだから鈴木伝蔵処刑の立会いは必要がないと「改募」するありさま。これでは通信使側もだまってはいません。対馬藩との旧来の申し合わせを根拠に鈴木伝蔵処刑の立会いを再度要求していきます。通信使側でなくても、なぜ朝の令達を変更したのか知りたいところです。大坂町奉行にいわせれば、朝の令達は「上々官に伝えるときに申し違いをしたようだ」というのです。「申し違い」をしたのは、幕府側(大坂町奉行所)の方だったとちゃんと「自白」しています。

 これに口車をあわせた対馬藩は「町奉行から上々官に伝えられたのは、鈴木伝蔵仕置きの件について直接上々官へ伝えようということであって、それを処刑場へ出てくるよう伝えられたものと上々官が勘違いしたのである」と、日本側が起こした「不調法」を相手(上々官)のせいにしています。なんとも姑息な現実路線です。しかも幕府の支配下にある以酊庵の長老まで通信使の宿舎に出向かせて、裏話風の言い訳をさせています。これでは、「硬骨の老儒者」である金仁謙でなくても、首謀者がいるのではないかという不信感が芽ばえるのも不思議ではありません。結局、二九日の処刑は延期され幕府側は、翌日三〇日に処刑への立会いを認めることを通信使側に伝達します(前掲書 二一頁)。そして、ついに五月二日に通信使側五四名の立会いがでるなか、伝蔵は処刑されます。これまでにも露顕してきたことですが、日朝間における表立った争論の背景には、幕府と対馬藩の軋轢が潜伏していたことがわかります。つまりある一つの「もつれ」にはおそらく(朝鮮側にも)互いに対立構造を抱え込んでいることが分かります。

それにしても通信使側の立会いが五四名とはいかにも多く感じます。金仁謙の『日東壮遊歌』(東洋文庫 一九九九)の五月二日の記事を再録してみます。

   ≪ 初二日、伝蔵を  処刑するというので

首訳三名、兵房軍官三名を  さし遣わして検分させる

月正島という河岸に  ぐるりと矢来(やらい)をめぐらし

その中央に役人が控(ひか)え  縛り上げた伝蔵を

跪(ひざまず)くように坐らせると  倭人の一人が刀を持ち

横からさっと切りつける  首が地に落ちると

控えていた別の一人が  その首を水で洗い

設けられた小さな壇上に  首を据(す)える

三日後に埋めるというが  晒(さら)し首と同様である

訳官と軍官らは  矢来の外よりこれを見て戻ってくる

とりあえずは仇(かたき)は討ったが  首謀者が野放(のばな)しのままとは

天は如何(いか)に思(おぼ)し召(め)すや  憤(いきどお)りと恨みばかりが残る ≫(三四八頁)

 

 この記事の注には、処刑時刻は辰下刻(午後八時)だったという記載が『朝鮮信使来朝帰帆官録』にあると記されています。検分に参加したのは「首訳三名、兵房軍官三名(ともに上官グループ)」とあります。残りの五一名は、矢来の外で見物していたかもしれない通信使一行でしょうか。


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