久しぶりに書いてみます。キッカケは、礫川全次著『独学の冒険』(二〇一五 批評社)を読んだことです。この本は、私の研究活動において欠如していた点を気づかせてくれた、得がたい一冊です。私のような半端な「独学」者や、「独学」志望者には朗報といって良いものです。なにか独学上の悩みがあったら一読をお勧めします。
さっそく、いま気になっている問題を書いてみます。
興味をもったキッカケは、今年の夏に「神輿かつぎ」を実見したことです。神輿をかつぐ人間たちが、汗水をたらし重さに耐えながらヨロヨロ歩く苦しみの表情がふと恍惚然として見える瞬間にであったのです。もしかして、これが「神」が乗り移るということかと思いました。この一瞬の体験を反芻しながら、こんなことを考えました。
「神」を普遍性と読み換えてみる。すると、自分の意思でありながら自分だけの意思ではないように思える人間行動というのは、ありえる。たとえば、宗教的熱狂、政治的熱狂、芸術的熱狂など、なにか自分と異なる存在に憑かれたように見える人間行動の数々。また「神」を他人だと捉え直してみる。すると、人間はいつも自分の意思だけで行動するとは限らない。そう思っているだけで、実際には他人の意思を斟酌して生きている。自分と他人の意思が二重化、あるいは浸透し合っているのだ。もっと広い社会の意思さえ重ねることができる。
こう考えたら、なんだ、これは社会的人間として生きる我々の基本的な構造ではないかと気付きトーンは落ちましたが、今まで考えてきた「われわれ性」とか「問題の共同」と同じ考え方だと分かり興味が深まり、改めて祭礼における「神輿かつぎ」の事例を探してみようと思ったわけです。そこで読んでみたのが、柳田国男『祭礼と世間』(ちくま文庫版全集)です。柳田は宮城県の塩竈神社における「神輿荒れ騒動」について強い関心をもっていたことが分かりました。
これがどのような騒ぎだったのか新聞報道で確かめておきます。騒動があったのは大正八年三月十日。東京朝日新聞には三月十七日に報道されました。この記事は、炉辺叢書版『祭礼と世間』(大正十一年 八・二〇 郷土研究社)に再録されていたものです。今回はこれを紹介します。記事内容は、前半に騒動の概要、後半は社会的な反響に分けて読むことができます。長いので二回に分けて紹介します。まず前半、騒動の概要です。
難しい漢字があります。ご存知の方には失礼ですが、「舁」は第二水準の漢字で「か(く)」と訓読し、ヨが音読みです。①物を肩にかけて運ぶ、特に二人以上で肩にかつぐ、②だます、という意味があります。いまでは「担ぐ」と表記することが多いですが。以下の新聞では、「舁ぐ」「舁いで」と表記する例も見られます。
◎神輿荒れの騒動
神意か否か塩竈神社氏子と警察署の紛糾
本年も民家数戸を破壊す。日下部博士出張して調査
国幣中社塩竈神社の神輿荒れは、古来有名なるものにて、年毎に必ず数戸の民家を破壊するを常とし、これ神意に出づるものなりとて、古来不平を懐くものなかりしに、去十日の帆手祭に、例の如く十六人の舁子に担はれたる神輿は、塩竈町内を暴れ廻り、民家四戸を破り、塩竈警察署に乱入したる後、午後十時漸く御堂に帰還したるが、警察署に乱入したる際、之を制せんとしたる警察官との間に活劇を演じたるより、町民は大に憤慨して町民大会を開き、町長氏子総代等県庁に押寄せて、警察側の不敬を難じ警察側は又神輿の影に隠れて私怨等を晴らさんとする行動は、公安上断じて許すべからずとなし、此際真の信仰を徹底せしむる為には、飽く迄迷信打破に努力せざる可らずとなし、問題は愈紛糾を極めんとし、大に世の注目を惹き居れるが、(大正三年三月十七日 後半は次回に)
騒動の発端は、毎年の伝統である「帆手祭」の「神輿荒れ」にあります。それは、神輿がねり歩くとき、毎年のように数戸の民家が破壊され、しかもこれは「神意」であって、古来不平を懐く者はいなかった、とあります。
ところが、さる大正八年三月十日の帆手祭では神輿を舁く氏子連中が、町内を暴れ廻り民家四戸を破ったうえ塩竈警察署にまで乱入しました。その際、神輿を制しようとした警官たちと揉み合いになり、ようやく午後十時頃に帰ったという「事件」だったようです。「揉み合い」で犯罪に相応する怪我人が出たかどうかは記載がないので、それほどのことはなかったと思われます。
これではおさまりがつかなかったのが、町長氏子総代をはじめ町の氏子連中でした。大いに憤慨してなんと「町民大会」まで開いて、宮城県庁(仙台)に押寄せ、塩竈警察署の「不敬」を糾弾したのです。これに対して、警察側は「神輿の影に隠れて私怨等を晴らさんとする行動は、公安上断じて許すべからず」とあるところが、なんとも興味深い。警察側は、ふだんから町民(氏子)たちが「私怨」を懐いていることを図らずも吐露しているからです。これには騒ぎに直接参加しなかった町民たちもカチンときたにちがいありません。そのうえ、警察側(署長か)「此際真の信仰を徹底せしむる為には、飽く迄迷信打破に努力せざる可らず」なんて言っています。これでは町民の憤慨の炎に油を注ぐようなものです。
「神輿荒れ」、ある種の共同幻想ですね。