尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「コトワザと大衆との関連にみる一側面」によせて

2017-09-23 06:55:10 | 

 前回(昨日)に続いて「表象論としてのコトワザのもつ論理」(本書第Ⅰ部第2章)の続きです。今回は第Ⅲ節「コトワザと大衆の関連にみる一側面」を読みます。

 

ここ(コトワザが「世間一般にいわれる語」に関するコメント)からさらに歩を進めてみよう。コトワザと大衆との関連において、認識発展論の角度からつきささってみようというわけである。

 (2)「諺を内容の上から見ると、人事、自然を問わず、人間の関係するところすべてに渡っている。」(同上:P.5より)≫(同前)

 これを機縁として一考してみるに、「人間の関係するところすべてにわたっている」ということは、コトワザなるものを“大衆の論理学”といってみることができるであろう。より正確には“論理学以前の論理学”といったほうがよいかも知れぬ。いわゆるの体系化がないからである。さりとて全然体系化がないか、というと大衆=通常人の伝承的に生きのこってきたところの、それなりの体系、ナチュラルな体系があるといってもよい、とわたし考えている。これについては、折をみてふれることにしよう。/ともかく“一般大衆のナチュラルな論理学”として、コトワザをみるとき、より実践的な課題を、そこからくみあげることができる。

① 問題解決の方法論。(特殊法則の適用)

② 法則性の感性的なつかみとり。(特殊的段階の法則把握)

③ 言語選択能力とその生出能力の育成。(一種の文芸能力)

④ 行使する方法と自分を守る方法の習得。

⑤ 言語感覚と記憶の技術の獲得。

・・・などにおいてである。わたしは、小学校言語学=小学校哲学として研究と実践を進めている。むろん、コトワザを主とする言語学では、第二段階の直接教育であり、特殊的法則の行使能力の育成にとどまることはいうまでもない。≫(本書 十二~三頁)

 

 コトワザを「一般大衆のナチュラルな論理学」と位置づけると浮き彫りになってきた「実践的課題」は、庄司が構想し教育的な実験を行なっている小学校言語学=小学校哲学──「私的言語教育試論」あるいは言語教育構想のこと──において「(A)目標にしていきたいもの」に挙げた六つの目標(課題)とほぼ重なります。再録しますと、①言語へ意識を高める、②言語の選択能力を高める、③言語の生出能力を高める、④言語の記憶技術能力を高める、⑤言語以前の感覚能力も高める、⑥コトワリの把握能力を高める、の六つになりますが、以上挙げた中で⑤「言語以前の感覚能力も高める」を除くと、その順序は異にするものの、見事に一致しています。とすれば、前回書いたようにこの論文は、「表象論としてのコトワザのもつ論理」によって、同時進行していた言語教育構想は組み替える意図があったことがいっそう明瞭になります。さらに、興味深いことは「大衆の論理学」としてのコトワザは、「小学校言語学」におけるコトワザ教育とかなり親しいもの、もっといえば同じ第二段階の表象的論理として扱われていることです。ここに、小学校におけるコトワザ教育の研究は「大衆の論理学」の解明に活かすことができるのではないか、との展望をもたらしたということができます。もう一つ見ていきましょう。

 

(3)「諺を、形式・表現の上からみると、それは何よりも一般の耳に入り易い形で語られるところから、形が比較的簡単で、句調のよいものが多いことが、まず注意せられる。諺の一つに「寸鉄人を殺す」というのがあるが、寸言の中に深い意味を蔵しているのが、諺の特徴といえるのである。」(同上:P.12より)

“特徴”というところに、認識発展論の立場からの把握というよりは、分類主義・解釈主義的な受けとめ様の気配が感じられる。このようないきかたでは、コトバの武器付与とはなるまい。

①「一般に耳に耳に入り易い形で語られる」ことの意味と論理。

②「形が比較的簡単で、句調のよいものが多い」ことの意味と論理。

③「寸言の中に深い意味を蔵している」ことの意味と論理。

≫(本書 十三頁 太字強調は引用者)

 

 まず①と②についてのコメントを抜粋します。≪コトワザというものは、きわめて実践性の高いものである。役立つ度合いの高いものなのである。そういうものは、単純なものでなければならない。そうでなければ役にたたぬからである。とくに、とっさのばあいの問題処理のときなどに、あれは何だったけな、と思い出すのに苦労するような文句ではよき武器とはいえない。ここに、記憶の技術の論理が横たわっている、といっていい。≫とあるように、①と②は記憶術の問題にかかわっていることが説かれています。また、③──「寸言の中に深い意味を蔵している」ことの意味と論理──については、「表現の論理」にさおさしたもので、≪コトワザは表面づらの論理ではなく、裏面の論理である。「筋」といい「道」というものがことばのかげにかくれているから、ある種のコトワザの意味がとれにくい≫というふうに、「寸言の中に深い意味を蔵している」存在理由を説明しています。さらに、≪コトワザにみる「五・七調」、「五・五調」、「七・七調」、「同音」「」類音」「韻「対句」「誇張」「ユーモア」、これらの中の論理もまた民間文芸論にとどまらず記憶技術の論理に関係するのだ」とも述べています。

 さて、ここからは私の意見です。コトワザが「耳に入り易い形」で語られたり、「句調のよいもの」が多かったりするのは、庄司が指摘するように大衆の記憶術の発露であるといっていい。しかし日本のすべてのコトワザに見られる短句化の傾向が、記憶術の問題に解消できるのかどうかは訝しい。なぜならば、コトワザは「論理」だからこそ簡潔さを必然とする、と庄司も述べているからです。私が知っている範囲ですが、韓国のコトワザもフランスのそれも結構長いものが目立つという印象があります。しかし長い文句だから両国民の記憶術が劣っているというわけでもないことは当然でしょう。どちらの国民も日常的にコトワザを使っているということが確かであるとするなら、長いか短いかの理由を記憶術に解消することはできないはずです。ですが、もし庄司のいうように、コトワザ本質観を「表象としての論理」に求めるとすれば、可能なかぎり諸民族のコトワザについて、この本質観が適用できるものかどうかを吟味することの方が先です。その上での記憶術の問題が論じられるべきです。

 もう一つ、疑問があります。庄司が「寸言の中に深い意味を蔵している」のは、それがもつ表現上の問題に属するというのは正しい指摘だと思います。しかし、「寸言の中に深い意味を蔵している」のは、コトワザには表の意味のほかに裏の意味があるからだというのでは答えになっていません。コトワザには表の意味において感性的な度合い(抽象の度合い)があるとはいえ、すべてのコトワザには意味があるからです。これを文学的な言語としてみた場合、その中に「深い意味を蔵している」のは、言語には意味があるからだといっても答えにならないことと同じなのです。私は、コトワザの特殊な表現形式と内容の関係こそが、「深い意味」を探ることを可能にするのだと考えます。この意味で表現上の問題に属するというには正しいわけです。とはいうものの、ここには、私の未だ十分に解決できていない問題があります。

 コトワザには、年齢や経験によってその解釈に浅い深いがあるのはなぜかという問題です。その理由をどう考えたかすこし綴ってみます。それは、省略された形のものも含めて比較的短いコトワザは、一文(ときには一語)であると同時に文章だからではないか、と考えてみたのです。文章にはたいてい題名がついています。なぜ文章には題名がついているのか。あるいは文章の題名にコトワザが使用されることが多いのはなぜか。こんな疑問を考えていると、そういえば手紙などは題名がない。こんな題名ぬきの文章が可能であるように、反対に文章内容が省略された題名だけの文章もありえるのではないか。それに近い表現形式としては、俳句(川柳)や短歌、あるいは意味が不明になりながら使われてきた枕詞のように、意味内容を表現する文章本体が省略された、それを探る手がかりだけが残されている言語表現の一群が存在します。他方で、さきの疑問については、単に人間の想像力の問題なのではないかと考えることもあります。たしかに各人の想像力によってコトワザの解釈は異なってきます。ではこの想像力はなにを手がかりにして起動させることができるか。それはコトワザの表現形式(表の意味)にしかありえません。ここを起点にして起動させる想像力はかなり自由なものです。だからこそ、コトワザの意味は時代によって変遷するし、誤解もされるし、年齢や経験によって深浅があるともいえます。ふと、こんな定義が思い浮かびます。コトワザとはどのような言語か。それは表現内容を理解する手がかりを題名にしか求めることができない、「題名だけの文章」あるいは「想像力で補うことしかできない文章」である。──すこし道草をしました。


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