尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

敬意が保存された敬語/失われた敬語

2017-04-12 12:19:30 | 

 前回(4/5)は、なにゆえ敬語を仲間相手に使用していくようになったのか、その契機はなんであったのか、これを国語史の中に調べた柳田國男の説くところを読んでみました。それは、室町期における「訪問流行の時代」に、貴人(上﨟)同士が互いに同輩と見られたくないという意識から、これまで上位の者に敬意を表すために使われてきた敬語をナント同輩・仲間相手に使い、同輩意識を否定しようとしたことが契機になりました。そのような上流階級の敬語の使い方を下位の者たちが見て、上流階級の使う言葉はみな敬語なんだと思い違い(混同)をします。これがまた契機になって(誤った)敬語がやがて広く下々の仲間同士にも普及することになったわけです。ここから、国語史を変遷させるいくつもの契機が存在するだけでなく、誤用や転用が契機になって特定の使い方が世の中に普及していくことに心づきます。このように見てくると、歴史とは変化を促すいくつもの契機が、ところどころに結び目を設けた折れ線グラフのようなものだという気がします。さて、今回は、敬語使用が仲間のあいだに普及していくと敬語にどのような事態が発生するのかを読み取っていきます。(長い段落なのでその切れ目を二箇所入れました)

 

≪敬語本来の目途に引き当ててみると、これはほとんと類推とも言われないほどの拡張だった。以前は多分敬語を口にする者だけでなく、周囲にある者も人の敬語を聴いて、身が引き締まるようであったろうと思うのに、後々はかえってこれが通常となり、それを略した場合がかえって耳立って感ぜられるようになっている。敬語の種類の非常な増加、言葉の頻繁なる使用に伴う古びと印象の鈍り、それを補わねばならぬ新しい表現の続出などは、すべて原因をここにもっているかと思う。それよりも大きな変化は、真の敬意が心の中に動くと否とを問わず、これを良い言葉または上品なる言葉として、使用を強い省略を責める気風の起ったこと、しかもその用語が従来のいたって限られたる目的に供せられたものと、なんらのけじめもなく共通になっていることである。

例はいくらもあるが村の旧家、神職その他の格式のある家々は、昔ながらに何々どんと呼ばれるものが多いのに、ちょうどその隣へもって来て長どんもおりお三どんもいる。「先生というて灰吹棄てさせる」。それはまだ形式ばかりでも敬語であったが、今ではさらにあのやつという意味に、「先生よわっているらしい」などという場合が多くなった。これを聴いてはさすがに閉口せざるを得ない先生方も、おわしますことと思う。考え深い人たちならば、もうこれだけでも我々の国語の、隠れた大きな歴史の糸口を見出すことができる。演説や書簡などの計画あるものならばとにかく、人は日常の言葉に意識して空々しいことが言えるものではない。それをしようと思えばよほどまた技巧がいる。つまり先生だの「どん」だのという単語に、すでに敬語でも何でもない内容が生まれているのである。最初同輩以下に対してもこれを適用した際には、まだ敬う意しかなかったであろうが、後々いつの間にか別の意味に、時としては軽しめる意味にさえ交替しているのである。

それを古風な用途と共用して、一方を忌避しなかったのは不注意と評してもよい。ましてや一回ごとに聴き手をして自ら諒解せしめ、甚だしきはその斟酌(しんしゃく)もできないで、内心不快の感を抱くままにしておくなどは、実は親切なる指導者の態度でもなかったのである。ことにこれまで正しい意味の敬語の、必要が少ない生活をしていた子供たち、もしくは形ばかりの敬語を愛好している女たちに、こんな状態のままの国語のよい言葉を、伝授しようとしていたのだとすれば、その結果の不幸であるのは当り前のように思われる。≫(ちくま文庫版『柳田國男全集22』 一三九~四〇頁)

 

 上の引用では柳田は言い尽くせないと思ったのか、同じ議論をくり返していますので、シンプルに整理します。敬語が互いに仲間相手に使われる現象が普及してくると、一般に「敬語の種類の非常な増加、言葉の頻繁なる使用に伴う古びと印象の鈍り、それを補わねばならぬ新しい表現の続出」が起きます。こうなると、敬意が心の中に起動するかどうかに関わりなく、敬語を「良い言葉または上品なる言葉として、使用を強(シ)い省略を責める気風」が起ります。「気風」はいわば表象ですから感覚的認識を含み、これが手がかりになって、古くからの目上に対する敬語表現とのけじめを消してしまう事態がやってきます。つまり良い言葉と敬語との混同が起きるのです。この混同は室町・訪問流行の時代、上流階級のあいだに起きた現象と同じものです。

 たとえば、村には昔から「旧家、神職その他の格式のある家々は、昔ながらに何々どんと呼ばれるものが多いのに、ちょうどその隣へもって来て長どんもおりお三どんもいる」という事態です。こうなると「どん」にとどまらず「先生」などの敬語も同輩同士に使われ、その感覚は鈍り、そこから敬意の心の動きが失われていきます。敬語であった言葉から敬意が失われる、これこそもっと大きな変化にほかなりません。他方では効き目の鈍くなった敬語の代わりに、新しい種類の敬語が量産されます。このように、敬語といえども、そこに敬意が込められている場合と、そうでない場合が含まれる状況が、当り前になった時代がやってきます。これは当時(昭和十一年当時も現在も)現前の事実であり、この区別があいまいなままにして子供に敬語を教えることは、彼らに混乱をもたらすことにほかなりません。


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