尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

八右衛門はどのような「公人」を生き抜いたのか

2017-04-13 13:28:02 | 

 前回(4/3)は、四十二歳(文化五=一八〇八)の八右衛門を襲った受難とを追ってみました。それは厄年に合わせたかのような借財を背負いせっかく再興した家を潰してしまいながらも一、2年のうちに再興したこと、またその後には隣家の火事による類焼で居宅を失うもまた普請に成功、林本家の聟・音八が死んで後家になった嫁の身に起きた密通問題で、どういうわけなのか一七〇日間の手錠刑、「検見」との関連で「慎み」処分、越後の病人を「村継ぎ」で送ったことが発端となり、「追込め」刑に服すという不本意としか思えない経験をします。七転び八起きの人生そのものです。今回はその後の八右衛門を追います。

 彼は文政二年(一八一九)五十三歳のとき、また東善養寺村の名主に復帰します。同年(おそらく密通問題で)嫁が家を出たために、林本家は若い八右衛門の親代わりだった本家の七右衛門夫婦と孫だけになってしまいます。同年のうちに、七右衛門が死に本家が存続の危機に陥ったので、八右衛門が後見することになり、一家で本家に引越しすることなります。本人は「本家の聟に成る」(巻之三)と記していますが、自分の田畑・家屋敷は父の弟の忰に譲り、分家の位牌も渡しています。名主としてだけでなく、林本家の当主の自覚も伴ったことと思われます。

 ここで、この文政二年(一八一九)年から八右衛門が没する文政一三年(一八三〇)までの年譜(五十三~六十四歳)を抜粋再録しておきます。その後八右衛門を襲う難儀前後の経緯の大凡を視野に入れておきたいからです。

 

一八一九(文政二)/ふたたび名主となる。この年、家族ぐるみで本家に入る。勧農野廻り役となる(五三)

一八二一(文政四)/正月~三月、藩命により信州へ引越百姓の手配に出かける。一〇月二九日、藩の増徴にたいし難渋願書を勧農役所に提出。一一月、門訴百姓引き戻しを命じられ一揆中止の説得に努力、各村の勘弁願書の案文を作成する(五五)

一八二二(文政五)/閏正月二三日、入牢を命じられ、吟味を受ける。一二月、門訴頭取の罪状で永牢の判決下る(五六)

一八二六(文政九)/この頃までに牢内で『勧農教訓録』三巻を書きあげる(六〇)

一八三〇(文政一三)/八右衛門、牢死(六四)≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 三四三~四頁 巻末年譜から八右衛門だけ抜書き)

 

 上の年譜は、八右衛門が書き残した『勧農教訓録』をもとに作成されたものですが、ふたたび名主となってからの難儀は、八右衛門が公人として考え、公人として行動し、公人として裁かれ、公人として刑に服し、公人のまま牢死した生涯であったろうことが読み取れます。ただ一つ入牢中、秘密裡に『勧農教訓録』を執筆したことだけが私人としての振る舞いであったことにも心づきます。つまり彼の公人としての正義は、事件の当事者によって私的に書き残される他なかったということです。ここにこの記録の稀少性があるのではないでしょうか。大抵は第三者や支配者による記録が多いと思われるからです。一見すると、第三者や支配者の方が公平に描かれていそうですが、当事者から見た事実やそれに対する思考は、狭い範囲であっても歴史の真実をサポートしているはずのものです。また第三者や支配者のふりまく「公平性」はときに真実を隠蔽することも確かです。八右衛門はどのような公人を生きたのか。この辺の消息を深谷克己氏は以下のように書き添えています。

 

≪八右衛門が出あったこれからのちの難儀こそ、どの百姓でも出あうという性質のものではなかった。しかし、どの百姓でも出会うという性質のものではない今度の難儀こそ、かえってこれまで以上にどの百姓にも深いかかわりをもつ性質の難儀であった。その難儀は、村の移り変わりと百姓の暮しむき、前橋役所の支配のありかたなどの条件のなかで、名主役を勤める百姓がその役目を誠実にはたそうとすれば、どうしても避けることのできないものであった。≫(深谷克己前掲書 二九頁)

 

 八右衛門は、村の難儀に際し村の公人(名主・指導者)として考え行動しました。しかも難儀の内容はどの百姓にも深くかかわる性質のものでした。ここには難儀とたたかう人間行動における形式と内容の一致が見られます。なにか公的な役職に就いているからでも、どの百姓にも深くかかわる問題に取り組んでいるからでもなく、両者の一致に八右衛門の公人性を認めている点が肝腎です。そしてこの一致を実現するのは、役目を「誠実」に果そうとする心掛けであることも指摘しています。時代は十九世紀初め、文政年間(江戸後期)のことです。(現代の事件ではありません。)次回から、いよいよ八右衛門の生涯最大の難儀である「文政四年善養寺領農民減税事件」(『前橋市史』第三巻)を調べていきます。


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