桜さくらに歌われて/お箏三弦日記

皆さまこんにちは。しがない箏三弦の師匠のブログでございます。どうぞごゆっくりおくつろぎ下さい。

礼拝に参加しました。

2018-07-08 23:42:24 | 日記
母の病室を夕方6時過ぎに出て、偶然6時半から某所で礼拝がある事を知り、ふと立ち寄りました。キリスト教プロテスタントの礼拝です。同じキリスト教でもカトリックは礼拝とは言わず、何か違う言い方があったように思います。

プロテスタントはイエス・キリスト、牧師さんが司り、讃美歌を歌います。

カトリックは聖母マリアを崇拝し、神父さまが司り、シスターがいます。歌うのは聖歌、修道院系と言えば良いでしょうか。

高校短大とプロテスタントの学校でしたから、礼拝は毎日あります。運動会の日も始まる前に礼拝がありました。入学式卒業式も、校内チャペルで蝋燭を持って入場、全校生徒に炎を繋ぐキャンドルサービスがあり、美しく荘厳でした。

あれから30数年、卒業してからは礼拝とは縁がなかったのですが、ある牧師さんと知り合う機会があり、今日の礼拝参加となりました。

教会の十字架を見つめて時間を待つ時、懐かしい空気感に落ち着きました。プロテスタントの学校に行かなければ、こうしてふと思いついて、ふらりと礼拝に参加してみようかなど思わなかったと思います。母の母校で、愛校心の強い母に強制的に入れられた学校でしたが、私もとても好きになり、母はよい道をつけてくれたと思います。

母や私の在学した頃とは、今はずいぶん様変わりしたように見えます。
でも、それでも存続してほしいと思いますし、女子高を貫いてほしいと思います。
続いてほしいですが、万が一存続が厳しくなったら、男子など入れず、潔く閉校してほしい。誇りを捨ててまで存続するのは意味のない事です。

懐かしい礼拝でした。若い頃が甦りました。讃美歌は、学生時代しょっちゅう選ばれていた「90番」でした。30数年離れても歌えるものですね。
ひたすらに母の幸せを祈りました。

介護の現実

2018-07-08 02:14:34 | 日記
私の場合ですが、やはり介護という苦労に当たっても、お箏があって良かったと思います。
先月後半は全部稽古を休み、ライブも中止して生活の全てを母中心にしました。とにもかくにもそうせねばならない状態でしたので。

しかしいつまでも休んではいられません。少しずつ状況を把握しながら、少しずつ稽古を再開しています。
しかし3時間以上拘束される事は避けるようにしています。少しでも母の所に居たいし、いつ呼ばれてもすぐに駆けつけられるようにしたいので。

色々キャンセルしましたが、幸いな事に誰一人ぼやいたり責めたりする人もなく、皆さん母をいたわって私を励ましてくれます。有難いです。
昔父を亡くした時、亡くなった翌日の仕事に遅刻してしまったのですが、代わりがいないから何としても行かなきゃ、と思って行ったのですが、
「先生のお父さんが亡くなった事なんかはこっちには関係ない事ですから!」
と大声で人の居る所で叱られました。

それは正論ですから反論も出来ずその場はやり過ごしました。今となっては思い出しても何の感情も湧かない、はるか過去の事になりましたが、そう言われた事は、色んな意味で教訓にしたいと思っています。

でも、えてしてそういう厳しい事を言う人は、優秀な人が多いのも事実です。私の知る限り。自分自身にそれだけのものを課しているから、それに至らない人が歯がゆいのでしょう。

閑話休題。

介護は生半可なものではありませんが、お箏があるから、しっかり自分を保て、バランスを取る事が出来ていると思います。お箏がなければ母に同調して引きずり込まれていたかと思います。まずは私が元気でしっかりしていないと共倒れになり、母の介護が出来なくなりますから。

幸い母は頭はしっかりしています。意思の疎通が出来るからその点は助かります。お箏を弾くのを喜んでくれます。手をゆっくり合わせたり離したり、私に拍手しているのだと分かった時は涙が吹き出ました。

……認知症になった方が母は楽かもしれません……

食事が美味しかったりすると、
「これを母に食べさせたい、母はもうこういうものは食べられないのだな…私だけ食べては親不孝、母にも…」
などと思い、とても辛い気持ちになるのですが、
でも、
「母は私より21年間多く、美味しいものも食べて、泣いたり笑ったり、人生を謳歌した、今はその母の人生の終焉を全力でフォローするのがつとめ」
と、自分に言い聞かせています。辛そうな私の顔を母が見たい訳がない、と思いますから。

こうしてブログを更新していても、
母は眠れているだろうか、しんどさだるさは続いているか、ナースコールを押すのを遠慮していないだろうか、眠れない夜は長いだろう、
などと思います。朝目が覚めても一番に母が頭に浮かびます。

ひょっとしたら母は、
もうしんどい事に飽きた、もうお父さんの所に行きたい、
と思っているかもしれません。
でも父のお仏壇に、
「もうちょっとだけお母さんをこちらに置いて下さい、もう少しだけ連れて行かないで」
と拝み、母には
「もうちょっと居てよ、そう急がないでいいじゃない、長生きして下さい」
と耳元で大きな声で言いました。

母にどれだけの時間が残されているのかわかりませんが、幸せな今のまま、恐怖心を持ったり悲しんだり悲観的になったりしないで、今のまま穏やかに…と切に願います。
そして最期の瞬間までお薬が効いて、苦痛を感じる事なく父の所へ…
とひたすらに願うばかりです。