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つれづれなるままに。

イタリア番外編:中国の標識。

2006年09月24日 | 
誠に面倒くさかった「北京経由」イタリア行き。
けれども、標識に出会えたことはラッキーだったかもしれない。
「漢字」の標識はとても新鮮。


Arrival。
コメントは差し控えたいが、中国は「一つ」であるという認識を実感。


これ、なーんだ。

答え。

スタバ。


小心地滑!!
滑っているのは人間でも、地滑り!


幸い飛行機は揺れなかった。
清潔袋の世話にならず、ホッとする。


なんとなく意味を掴める漢字だけに、面白さ倍増。
9年前に中国に行って、はしゃいだことを思い出した。
9年後の今、写真はデジタルになり、私は相変わらずはしゃいでいる。
技術革新と比較して、私は成長していないということか・・・。
トホホ。

イタリアその8:標識大放出。

2006年09月23日 | 
今回のイタリアでも、標識をパチパチ撮ってきた。
最後に一挙大公開(趣味の世界だ・・・)。
キーワードは「公共交通機関」。

まずは電車。


ドアの開閉ボタン。
ドアを開けたら、よじ登らなければならないらしい。
(実際ホームとの高低差はかなりあった)。


これもドアマーク。
一升瓶を持っているようにしか見えない。


さらに左右対称バージョンもある。
理由は不明。


車内のトイレ。
「トイレットペーパー(紙切れ)」。


「手洗い用ハンドソープ(石鹸切れ)」。


「乾燥機(故障中)」。


駅の待合室。
ほっこり、猫背。


お次はフェリー。


足元を見すぎなのか、こけすぎなのか。


説明求ム。特に左上。


これにも説明が必要だ・・・。


思ったよりは街中で収集したものが少ない。


カプリ島にて。
道が狭いので、人と荷物運び用のリフト?しか通れないのだ。


どうやら警察らしいと、今回の旅で知った。


スパーでもホットスパーでもなく、デスパー。


おむつかえシート。
ポンペイのレストランにて。


ヴァチカン美術館。
こんな小さな階段を下りようとすれば、落ちるのも当たり前。

そんなこんなで、2度目のイタリアも「これにておしまい」。
また来たいとか、今度は此処を見たいとかではなく、自然に「戻って来る」ような気がしている。

イタリアその7:Azzurri!

2006年09月21日 | 
今回の旅のハイライトであるカプリ島と一言で表すとしたら、迷わず「青」と答えると思う。
イタリア語で言うと、azzurri(単数形ではazzurroらしい)。

ダイビングなどでいろんな「青色」を見てきたと自分でも思うけれど、カプリの青は格別。
潜ってもいないのに。陸上から見ているのに。
小さな島なので、海と陸と空とは切り離せないような気がする。


さて、カプリへはナポリからフェリーで1時間の行程。

カオスなナポリもこうして見ると、風雅である。

小さいくせに高低差が大きなカプリ島。
マリーナ・グランデ(港)から街中に行くだけで、これだけの距離を上る。
ここでも「青」が印象的。


ちなみに、島内の道は異常に狭い!
こんなキュートなミニバスが縦横無尽(?)に走り回る。


さて、カプリ島といえば「青の洞窟」。
マリーナ・グランデから船に乗って出発。
日によっては入れないと言うこの洞窟。かなりドキドキ。


15分ほどで洞窟の入り口に到着するも、順番待ちの船がこんなに。
ここで1時間以上待機する。
船酔いしそうになるものの、アネロン大活躍。
ここから3人乗りの小さなボートに乗り換えて、洞窟内へ。


やっと入れた洞窟。
もう何の言葉も必要ないし、どれだけ言葉を尽くしてもこの深さは説明できない。
深い、深い青。
入れて良かった。


カプリでの2日間は、ひたすらお散歩三昧。


リフトにのって山の上から海を見下ろしたり、街並みを楽しんだり、お買い物に精を出したり(カプリで見つけたモロモロはまたの機会に)。

ホテルもキュート。
今回の旅のホテルは殆どがB&Bだったので、いかにもリゾート的な雰囲気が嬉しい。



ホテルの屋上から見た夜景。
断崖絶壁に、白い建物。南ヨーロッパだなぁと実感する。


混沌としたナポリから小1時間で見た景色は驚くほどのブルーと、ゆっくり流れる時間。
ナポリから日帰りも出来るし、ローマからの1日ツアーも出ているけれど、時間がある方は是非カプリにステイして頂きたい。
海で泳がなくても、潜らなくても、リゾートを体感できる島だった。

イタリアその6:ナポリの横顔。

2006年09月19日 | 

ポンペイからの帰りはイタリア国鉄を使った。
「カワイイ」と思って撮った標識。
これが大きな意味を持っているとはつゆ知らずに。


駅のホームから、反対車線の電車をパチリ。
壁際に写る黄色い箱が大きな意味を持っているとはつゆ知らずに。


事件はナポリ・ガリバルディ広場駅で勃発。
改札にて持っていた切符を取り上げられ、強面のオッサンにどえらい剣幕で怒られる。
どうやら購入した切符に駅名と時刻を記録しなければならなかったらしい。
その刻印機が冒頭の写真の黄色い箱と標識だったという訳なのだ。
それを怠った罰金は、一人当たり34ユーロ=約5,000円。高っ!

「知らなかった」とか「そんなこと言われなかった」とか、そんな言い訳はやはり通用しないらしい。
必要以上に怒鳴られ、怒られながら3名分・102ユーロを徴収される。
そんなに怒らなくてもいいのに。
何だか納得いかないまま、少しゴキゲンナナメで駅を出る。

けれども、ナポリはそこからの名誉挽回も早い。
続いて乗ったバスでは、乗客総動員(?)で目的地を教えてくれた。
優しさが身に沁みる。


歩いている途中に見つけて入ったカフェ。
ここでも店員さんはとても親切だった。
「当店ではメニューはございません」と何処かのTVのようなことを言われる。
では何が用意できるか・・・ということを逐一説明してくれる。

で、選んだのがコチラ。

レモンのフローズン。甘くなく酸っぱくなく爽やか。
疲れたカラダにレモンが染みる。


人の親切さに感激したと思ったら、急に怖くて冷たい面を見せ付けられる。
現実に凹んでいたら、別の人の親切や陽気さに救われる。
その落差も激しければ、スピードも速い。
2日間で一番印象に残っているナポリの風景は、まさに人。

結局解らず仕舞いだった地図と同様に、この街はきっともっと奥深い筈。
僅かな期間で去るのは惜しいけれど、明日からは、いよいよカプリ島へ・・・!

イタリアその5:ポンペイ時間。

2006年09月19日 | 


9月19日、朝からポンペイ遺跡へ出かけた。
(写真は遺跡内の広場=フォロからヴェスヴィオ山を望む)

火山の噴火で一日で滅びたというポンペイの話を知ったのは小学生の時。
何かの本で見た「逃げ遅れた人」の骸骨の写真が印象に残っている。
その女性の指にはルビーの指輪が嵌ったままで、噴火の急さを物語っていた。


ナポリからポンペイまではCircumvesuvianaという周遊鉄道で40分ほど。
ポンペイを廃墟に追い遣ったヴェスヴィオ山の名前が含まれている路線だ。
ヴェスヴィオ山。
その名前を聞いて、急に「フニクリフニクラ」の歌詞が浮かぶ。
「あれーが火の山ベスビアスー、ひのやまー、ひのやまー」の火山はこれか!

この時に本日のテーマソング決定。
(しかし、この歌はどのような経緯で「おにのぱんつ」になってしまったのだろう)


40分でポンペイ・スカービ駅に到着。
スカービとはイタリア語で「遺跡」の意味らしい。


駅から遺跡の入り口までは5分とかからない。
チケット(11ユーロ)を購入したら、いよいよ遺跡に突入。
最初の門は自動改札だった(!)。

ポンペイが時を止めたのは、西暦79年8月24日。
2000年近くを一気に遡る。


これはバジリカ。裁判や商取引が行われた場所との事。
外側と内側、異なる2種類の柱で支えられていたようだ。


遺跡中の街区は綺麗に残っている。
道路と呼べる広いものも路地のような狭い道もある。
狭い道には馬車が入れないように車止めもあった。
写真は道に遺された馬車の轍の跡(左右に走っている)。
この道はメインストリートで、轍も私の踝まではまるほど深かった。


これは「ヴェッティの家」の内部。修復中なのか、中には入れず。
この家は壁画で有名だそうだ。
裕福な商人の家らしい広さ。


赤い文字が書かれた民家の壁。
何でもこれは、選挙ポスターのようなものだとか。
こんなに綺麗に残っているなんて、現代と同じように「ポスターには触るべからず」というお触れがあったのだろうか?
ちなみにこのように壁画や文字がある外壁はアクリル板で保護されている。


歩き回った最後は円形闘技場。
ローマのコロッセオよりも小さいけれど、保存状態は良い。


コロッセオのアリーナには下りられないけれど、ここでは降り立てる。
意味もなく走りたくなるのは何故だろう。

ちなみに建物のいくつかは物品の倉庫になっていて、中には人が安置されているところもあった。


逃げ遅れた人の石膏型。
火山灰の中に埋もれた死体は、年月を重ねるうちに腐ってなくなってしまい、空洞として残ったらしい。
そこに石膏を流し込んで、人を復元しているのだそうだ。
幾つかは骨が残っていたし、その姿勢は、紛れもなく「人」のものだと実感。


古代ポンペイの街はとても静かだ。
有名な観光地で沢山の見物客で賑わっているにも拘らず、そこにはある種の「静けさ」のようなものが立ちはだかっている。
道路の上に立ち、壁に手を触れても、景色と自分の間には一枚のアクリル板のような隔たりが存在するのを感じた。

天災である日突然滅びて、それから二度と人が立ち入ることすらなかった空間。
そんな状況が、独特の雰囲気と時間の流れ方を作っているのだろう。
フォロ・ロマーノよりもアユタヤよりも兵馬傭よりも、ポンペイは静かな場所だった。

イタリアその4:ナポリで迷子、迷って出逢う。

2006年09月18日 | 


ホテルに荷物を置いたら、速攻でナポリの下町スパッカ・ナポリへ繰り出す。

狭い路地、古い建物、洗濯物。
なんとなく、春に訪れたリスボンの下町に似ている。
持ってきた地図が全く役に立たなくて、地元の人に道を訊く。

南イタリアでは英語があまり通じない。
特に一般の人はカタコトの英語も話せないようだが、彼らはそんなことには全く頓着しない。
「ドゥオモに行きたい」と伝えると、
まず地図を閉じられ、身振り手振りで道順を教えてくれる。
「2つ目の角を左に、そしたら左側にあるから」

これが不思議と解るのだ。二人いれば二通りの道順があって、今度は「こっちが早い」「いやこっちだ」と喧嘩を始める始末。
こういう時にはやっぱり女性が強い。
お父さんの言った道順却下、娘の主張を採用。

「カメラは危ないから鞄に仕舞いなさい」
そんな心配までして貰って、歩き出す。

イタリア語を全く解さない私たちにイタリア語でまくし立てる彼ら。
それでも言いたいことはちゃんと伝わる。
私たちも、いつの間にか日本語で話していた。
言葉なんて関係ないと思える瞬間。
少し大袈裟な身振りと、表情で言いたいことは十分伝わる。

・・・勿論教えて貰った通りに歩いても、目的地には着かなかったけれど。



3回くらい道を尋ねて、ようやくドゥオモに辿り着いた。
と思ったら、妙に周囲が人だかり。
その理由は、日付。

イタリアでは各都市に「守護聖人」がいて、その街を守ってくれている。
ローマの「サン(聖)ピエトロ」とかヴェネツィアの「サンマルコ」なんかは有名人。
ここナポリの守護聖人は聖ジェンナーロ。
305年に当時の皇帝の迫害に遭い殉職した彼は、飢饉やペスト(!)火山災害からナポリを守っていると今でも信じられているらしい。

そんな聖ジェンナーロの血液がこのドゥオモに祀られていて、普段は凝固している血液が年に2回だけ液化するという奇跡が起こるそうな。
稀に血液が融けない場合があるらしく、その年は大災害が起こるとか起こらないとか。
だから、ナポリ市民はかなり真剣に動向を見守っているのである。

そのXデーが5月の第1日曜日と、9月19日。
・・・明日だ。



訪れた時は、ちょうど夕方のミサの最中。
その中でテレビカメラがセットされ、スクリーンが組み立てられていた。
清水寺で「今年を表す一文字」が発表される時のような緊張感と高揚感。



前の通りでは本場ルミナリエの電飾が飾られているし、キャンディの屋台なんかも出て、お祭り騒ぎだった。


偶然の前夜祭に別れを告げて、再びスパッカ・ナポリをそぞろ歩く。
前回のイタリアで覚えたイタリア語に「パッセジャータ」という言葉がある。
「ブラブラ歩き」とか「お散歩」とかいう意味で、目的なく歩くことがポイントらしい。
(ちなみにジローラモ氏は「行ったり来たり」という表現をしていた。)

地図が役に立たないナポリの路地裏は、パッセジャータが良く似合う。
妙に多い「トウガラシ」モチーフの装飾品、ウェディングドレスのお店、良く解らないキリスト教の用品、ベタなおみやげ物屋、そしてピッツェリア。
冷やかして歩くだけで、相当楽しい。

うろうろし過ぎて帰りは相当怖かったけれど、楽しい迷子の午後。
帰れた時はホッとした。

そして、肝腎の血液は融けたのか・・・?
それはまさに神のみぞ知る、である。

イタリアその3:ナポリへ。

2006年09月18日 | 


2日目の午後はユーロスターでナポリへ移動。
ローマから2時間弱。近いものである。



近代的な車輌は全席指定(多分)。
けれども、こういうところに「いいかげんさ」が顔を出すのがイタリア。
自分の席に他人が座っていたり、他人の席に自分が座ることになったり、人が来るたびに席を移っている人がいたり(そもそも切符をもっているのか?)。
座席マークはこの上なくカワイイのだけれど。
足なんか組んじゃったりして。

そうこうするうちに、ナポリに無事到着。ほぼ定刻どおりだ。

駅に降り立って済ませたかったこと。
それは、切手を買ってポストカードを投函すること。
元々かなり筆不精な私だが、旅先では必ず家族に葉書を出すことにしている。

イタリアでは切手は郵便局かタバッキと呼ばれる売店に売っている。
国際郵便のエアメールで、1枚0.8ユーロ。

ところが、今回渡されたのは0.6ユーロのもの。
「ちがうよ」と抗議するも、タバッキの兄さんは「大丈夫、これで届く」と自信満々。
明らかに値段が足りていないのだから、届く訳がないじゃないの・・・。

今度はガイドブック記載の切手の写真を見せてクレーム。
やっと理解したタバッキ兄さん。
「わかった。2枚貼って出せばいい。

そうだそうだ、ここはナポリ。
ひとつナポリ人に倣って2枚貼って出すとするか。

こうして始まったナポリでの2泊3日。
珍道中の予感がプンプンする。

イタリアその2:リベンジ。

2006年09月18日 | 


2日目午前はヴァチカン美術館へ。
昨年のGWに訪れた時は不定の休館日という間の悪さ(トホホ)。
どうしてもシスティーナ礼拝堂が見たい!ということでリベンジなのである。
特に「天使と悪魔」を読んだ後だけに、熱は高い。

開館の8時45分前後にヴァチカンに到着したものの、既に長蛇の列。
休館日の翌日ということで、月曜日は一番混雑するらしい。
結局、2時間も並んだ。

やっと入り口が見えたと思ったら、良く解らない禁止令。


タンクトップ inの人はなかなかいないと思う・・・。


とても広い館内、全てを見ることはとても出来ない。
結局システィーナ礼拝堂と、ラファエロの間と、地図の間など限られた場所だけを見る。
それでも2時間もかかってしまった。


ラファエロの間にて(「アテネの学童」)。
この部屋では写真を撮ることが出来た。

つくづく、絢爛豪華で隙がない。
柱も壁も天井も、全てに絵画が描かれ、彫刻が彫られ、象嵌が施されている。
手を加えていない部分などありはしない。
空間の美を見ることに慣れた日本人の私には、多少くどい・・・。

そしていよいよシスティーナ礼拝堂へ。
写真撮影が禁止のため、残念ながら画像はない。
もっとも「自分の目で見なくては意味のないもの」は沢山あって、システィーナは無条件にそれに含まれると思うけれど。

「最後の審判」の青(キリスト教の宗教画で青ベースのものは珍しいと思う)の鮮やかさ、天井に描かれた「創世記」の緻密さにタメイキ。
ついでに上を向きすぎて、目を回す。
そのダイナミックさと、修復術の凄さには目を見張るものがある。

そして、決して広くはないこの空間でコンクラーベを行うのかと思うと、何だか不思議な気分になる。
80歳以上のご老体が大勢、この薄暗い部屋に閉じ込められる・・・。
相当ハードな儀式に思えるのは私だけか。
そんなことを思いながら、礼拝堂を後にした。


2時間足らずの滞在、それでも来て良かった。
正直、サンピエトロにあるミケランジェロのピエタにかなうものはないと思うけれど、さすがの聖地。

世界一小さな「国」の権威は、やはり世界一かもしれない。

イタリアその1:しゅっぱつ。

2006年09月17日 | 


全ての道はローマに通ず。
譬え、空路で、しかも北京経由でも。


2006年9月17日、29回目のお誕生日にイタリアに飛び立った。

旅行会社から日程の連絡が来ずやきもきしていたら、「中国国際航空」に乗って「北京を経由する」という道順だった。
トランジットの筈が中国の入国&出国審査を同時に受け、パスポートにスタンプを捺される。
9年前に中国を旅した時は、入国したにも拘らずスタンプを捺して貰えなかったのに何故だろう。

3時間+12時間のフライトでフィウミチーノ空港に無事到着。
時差も手伝って、29年間の人生で一番長い「お誕生日」だ。



記念すべき「最初の晩餐」は、やっぱりリゾットから。
本場のイタリアンで文句なしに感動するメニューは、パスタでもピザでもなくリゾットだ。
ごはんの「アルデンテ」、もう最高。

ローマ人の食べる量には従えないけれど、初っパナからガッツリ食べてイタリアモード全開。
こうして6泊8日の夏休みが始まった。

カウントダウン。

2006年09月15日 | つれづれ


「夏休み」まで残すところ7時間弱・・・。
引継ぎも大体終わった。

ああ、早く帰って荷造りしたい。

夏休みが来るということは、一つ歳を取るということ。
こちらもカウントダウン。
月齢でいうと、28.9といったところ。
いや、実年齢もか。

月は28の次は0に戻るけれど、私は29になる。
あーあ。