田辺随筆クラブ会員による季刊随筆誌

第213号 目次

2015-05-11 10:53:33 | 「土」213号
      第213号  目  次


 春のこえ ………………………………………… 小 倉 喜久男 …… 1
 桜 ………………………………………………… 鈴 木 輝 重 …… 3
 早春 ……………………………………………… 大 原 久美子 …… 5
 N君の軌跡 ……………………………………… 玉 井 済 夫 …… 7
 私のハーモニカ・ストーリー ………………… 松 嶋 吉 則 …… 9
 辻井伸行と偉大な作曲家たち ………………… 田 中 芳 子 …… 11
 岩牡蠣と生牡蠣 ………………………………… 薮   一 昭 …… 13
 宇江敏勝さん訪問 ……………………………… 三ツ木   望 …… 15
 雑記帳ピックアップ …………………………… 津 守 晃 生 …… 17
 パリの一夜 ……………………………………… 砂 野   哲 …… 19
 金魚草 …………………………………………… 弓 場 和 彦 …… 21
 雉のみち ………………………………………… 久 本 洋 文 …… 23
 峯山の薬師如来堂 ……………………………… 飯 森 矩 子 …… 25
 道 ………………………………………………… 楠 本 清 志 …… 27
 山越の道 ………………………………………… 上 原 俊 宏 …… 29
 峠の風 …………………………………………… 水 本 忠 男 …… 33
 三時間待って病名加齢です …………………… 水 野 邦 男 …… 34
 田辺よいとこ …………………………………… 三ツ木   望 …… 36
 パラオから、戦没兵士の手紙 ………………… 吹 揚 克 之 …… 37
 猫のいる日々 …………………………………… 西 村 佳 子 …… 39
 マッちゃん ……………………………………… 竹 中   正 …… 41
 五十年目の野菜作り …………………………… 国 本 多寿枝 …… 43
 3・八歩の快哉 ………………………………… 小 川   進 …… 45
 天の邪鬼的つれづれなるままに(二十四)
   (さくら)…………………………………… 玉 置 光 代 …… 47
 光秀燦散(4) ………………………………… 三 瀬 シゲキ …… 49
 おじさんのコート ……………………………… 中 本 八千子 …… 51
 ふる里、バンザイ ……………………………… 坂 本 官 萬 …… 53
 ノーモア・過ち ………………………………… 前 川 三千夫 …… 55
  ―冬には雪に覆われる霊場― ……………… 笠 松 孝 司 …… 57
 硲(はざま)先生 ……………………………… 三ツ木 尚 子 …… 61
 お 礼 ………………………………………………………………………… 62
 あとがき ……………………………………………………………………… 62
 賛助会員・会員名簿 ………………………………………………………… 63
 広 告 ………………………………………………………………………… 64



  213号             平成27(2015)年5月

本文紹介 ~N君の軌跡~

2015-05-11 10:52:27 | 「土」213号
N君の軌跡   玉 井 済 夫


 もう四〇年以上も前、高校三年生の受持ちをしていた時のことである。自分のクラスにN君がいた。彼の家は農家で、その一人息子であった。日置から汽車通学をしていて、立派な体格で成績は非常に良く、いつも笑顔だった。
 一学期が終わると、ほとんどの生徒は自分の進路の方向がほぼ決まってきた。その中で、N君の場合は保護者との面談もないまま、地元で就職する、という。私は彼の進路のことが気になっていたが、夏休み中のある日、彼が拒むのを押して家に行った。空き地に車を止め、たんぼ道を歩いて家に着いた。昔の古い農家そのものであ
った。彼の父はまことに高齢で、母は障害をもっていた。
 父は、私が担任であることはわかったようだが、進路の話は全くかみ合わなかった。耳が遠いためか私の言うことと関係なく、「今日は天気がいいのお。こんな日は野で仕事をせねば‥‥」と、畑仕事をしていた時のことを思い出しているようだった。それとともに、彼の毎日の生活がよくわかった。彼は、食事、洗濯は勿論、家事をほとんどしていて、田植えや稲刈りは親類の方や近所の方々の手を借りながら彼が中心になってしていた。経済的にも困窮する中、いくつかの奨学金を得ながら高校に通い、地域や役場とのやり取りも彼がしていた。
 その帰り、たんぼ道を歩きながら、イネの花が咲いているのに気が付いた。見てもパッとしない花であるが、足を止めてあらためてしばらくの間じっと見入った。さ
っきの父とのやり取りがなおよみがえって、打ち砕かれた思いの中だった。
二学期になって、彼に稲刈りの手伝いを申し出ると、やんわりと、来て欲しくない、という。なんとなくその気持ちが分かるような気がして、無理には行かなかった。
 田植えの時もそうだったが、彼は二、三日学校を休んで稲刈りをした。そして、地元での就職も決まったが、それでも私には、それでよかった、とも思えず、複雑な気持ちのまま日が過ぎた。
 三学期は、三年生の授業は一月末で終わり、二月はほとんど登校しなかった。多くの生徒にとっては大学の入試が続いていて、その結果が分かると報告に来ていた。卒業式も近づいた二月の末、N君がひょっこり登校して私のところに来た。私の椅子のそばで立ったままいろんなことを話し始めた。高校生活の思いや近況のようなことであったが、その彼の話はとめどなく続く中、ふと彼の足もとを見ると、ぽたぽたと涙が落ちていた。それまで相槌を打っていた私は、何かが胸に刺さった思いで、息もできなかった。それでもなお笑顔で話し続ける彼は、「先生、ぼくは、大学に行けなくてもかまわない。でも、一つぐらい、大学入試というものを受けてみたかった‥‥」というのである。
 二月の末は、生徒たちは入試の合否に悲喜こもごもの日々で、どこを受けた、難しかった、ここも受けた、ダメだった、浪人や‥‥、という話が飛び交う中で、彼は家族を抱えて一日も一晩も家を空けることができないのである。その思いが大粒の涙となって溢れ出てきたのである。そんな彼のそばで、私には一言の言葉もなかった。床の涙を見ながら、これが青春というにはあまりにもほど遠いものだと思った。しばらくして、彼はまた、彼らしい笑顔を残しながら自分の生活に帰っていった。
 卒業後、地元で就職した彼の生活は、以前と変わらなかった。母は既に施設に入っていたが、毎日面倒を見ていた父が一年後に亡くなり、それによって、彼の身が自由となった。何とも言い難いことである。そして、母親を気にしながら、大学を出たら田舎に戻る、という決心を胸に東京に出て、新聞配達所に住み込み、新聞配達をしながら受験勉強をし、苦心の甲斐があって翌年念願の大学に進んだ。ところが、大学三年の時に、思い続けていた母が急逝し、一人になったのである。そして、田舎に帰ることをあきらめ、彼にとっては未知の地・北海道で新聞記者となった。
 数年後、彼が勤める釧路の新聞社(支社)から電話がかかってきた。彼の上司らしい方が言うには、N君が結婚することになったので、彼の高校時代の話を聞かせて欲しい、という。なかなか簡単には説明できないことだったが、長い長い電話で何とか彼の人となりを伝えた。
 昨年、札幌に行く機会があり、久しぶりに彼に会った。彼の話ぶりは、高校時代とほとんど変わらない。仕事や生活での苦しさを語る時も、楽しさを語る時も、相変わらずの笑顔である。その彼も、もう六〇を目前にし、二人の子たちも成人となった。彼を思うたびに、生活とは、教育とは、人生とは……、そして、あの笑顔はどこから来るのか……、といったことをいつも考えるのである。
 本誌「土」を始められた野口民雄先生は、「学校の先生は道端のお地蔵さんのようだ。その前を毎年子どもたちが通り過ぎてゆく‥‥」と書かれている。まさに私もそのお地蔵さんだった。

本文紹介 ~岩牡蠣と生牡蠣~

2015-05-11 10:50:52 | 「土」213号
岩牡蠣と生牡蠣   薮   一 昭


  紀南地方は生牡蠣を好んで食べる人は多くいない。昔から美味しいものが数多くあったからだろう。しかし酢牡蠣の時期になると女たちは、氷水のような中に手を突っ込み、猛烈な痛さを感じながら、寒さに堪えて旬のものを家族に食べさせたい気持ちがあった。瀬戸に住んでいた母は、近所の女の子たちと寒風の冷たい磯に牡蠣打ちに出かけた。小ぶりな牡蠣を籠に取ってきて、酢牡蠣や美味しい牡蠣ご飯を作ってくれた。昔の人はその季節に一度か二度は牡蠣ご飯を食べたものである。そんな親の気持ちも知らない子どももいた。いろんな子の中には牡蠣の匂いや独特のクセのある味が受けつけない子もいたが、多くは食わず嫌いである。私もそんな一人だった。
 社会人になって牡蠣は食べるようになったが、カキフライばかりだった。その後、大阪から名古屋へ転勤になり、三重県的矢湾、石川県能登や北海道の厚岸湖の生牡蠣を食べるようになった。仕事の関連でパリやニューヨークへ出かけても、生牡蠣の美味しい所なら歓迎である。
 平成27年1月頃の『紀伊民報』には牡蠣の養殖をしている新庄漁業組合のことが書いていた。そこには真牡蠣と岩牡蠣の料金が提示されていた。久し振りに牡蠣が食べたくなり、鳥ノ巣まで出かけた。漁業組合までの道は細く、車で行くには普通乗用車がやっと通れる程度である。購入時に「おいやん、殻の大きい牡蠣は岩牡蠣で一年中食べることはできるが、真牡蠣は毒素が含まれるため、2月一杯までしか食べれんで」と説明を受けた。牡蠣は季節が暖かくなると食べないのはそういう理由で、アメリカでは「R」のつく月には食べない方が無難とされている。中には酢牡蠣を食べる人は何人もいたようだ。
 シェークスピアの『The Merry Wives of Windsor』(ウィンザーの陽気な女房たち」)の有名な一説に、「the world is a person is oyster」という言葉がある。ヨーロッパやアメリカの人にとって、牡蠣を手に入れることは世界を手に入れることと同じくらい、欲求を満たした。世界の金持ちの証明は、牡蠣の養殖場を持っているかで決まるらしい。有名なロックフェラー財団は自己所有の養殖場を持ち、いつでも牡蠣を食べられるようにしている。アメリカの牡蠣料理の中に「oyster la Rokefeller」がある。牡蠣を開け、そこに刻んだパセリとバターを練ったものを乗せ、オーブンで焼いている。日本では「焼肉を一緒に食べる仲というのは男女の仲だ」
という話があるが、アメリカでは牡蠣を一緒に食べる仲というのはそういう仲だそうだ。英語で、He is as close as an Oyster や He is an Oyster of manの二つの
言葉は「彼は口の堅い男」という意味だが、ビジネス社会では口の堅い男=信頼の置ける男という評価がされている。
 牡蠣の養分の中で一番有名な栄養分はグリコーゲンである。キャラメルの「グリコ」の広告は、大阪の道頓堀にあり目立っている。小学校の授業で、「牡蠣の中に含まれるグリコーゲンのエキスを使っているから、できた名前だ」と聞いたことがある。そのようなことから、牡蠣は世界的に人類を救う食べ物という意味を持っている。全世界の人が牡蠣というものに対して非常に関心が強いのだ。
 実は、フランスの牡蠣もアメリカの牡蠣も宮城県産や熊本産が多いのである。例えばフランスで養殖されている牡蠣の9割が、宮城県から行った宮城種だということはよく知られている。日本の牡蠣は味が良く、病気に強く、成長が早いという三拍子揃った優れた性質の牡蠣だ。
 この三拍子揃った牡蠣を世界中に広めたいほど営業をしようと思ったのは、今から120年も前だ。アメリカ合衆国北西海岸には日本のような大きな牡蠣がないので、その種をアメリカに輸出した。
 昭和40年代に、フランスではそれまでポルトガルからポルトゲーゼという種類の牡蠣を輸入していたのだが、ウイルス性の病気が発生して全滅した。そのため宮城県の種に目をつけて、輸入した。今フランスで養殖している牡蠣の大半は宮城県の種である。パリに行って生牡蠣を食べるのも、それは日本の宮城県がルーツだ。宮城種は南米のチリを含め世界中に広まっている。牡蠣は広島が有名だが、今、水系に40箇所を超すダムができその弊害から、牡蠣の種がだんだん採れなくなっている。広島で養殖している牡蠣の60~70%は日本の東北地方とりわけ宮城県からの種である。
 ニューヨークにあるオイスター・バーの牡蠣リストには日本の名前がある。「マツシマ」「クマモト」などは「ブルーポイント」「プリンスエドワード島」「クッシ」「オイスターベイ」「イーグルロック」とともに、毎日「本日のメニュー(リスト)」に載っていると思う。牡蠣市場において、世界中の歴史は、日本の牡蠣を抜きにしては語れない。新庄公園の西側にある鳥ノ巣で、これほど美味しい岩牡蠣が養殖されているなんて、新しい文化の創造だ。「海のミルク」と言われる牡蠣が紀南地方に生まれている。そのうち研究熱心な人が誕生し、食のブランド品が生まれることだろう。