田辺随筆クラブ会員による季刊随筆誌

第210号 目次

2014-08-12 16:03:02 | 「土」210号
      第210号  目  次


 言葉・スイスの民宿で ………………………  砂 野   哲 …… 1
 かきつばた ……………………………………… 弓 場 和 彦 …… 3
 入道雲 …………………………………………… 鈴 木 輝 重 …… 5
 親父の思い出 …………………………………… 小 川   進 …… 7
 君は「彩雲」を見たか ………………………… 三ツ木   望 …… 9
 旬は? …………………………………………… 前 川 三千夫 …… 11
 閑居日記 ………………………………………… 大 原 久美子 …… 13
 花の窟 …………………………………………… 久 本 洋 文 …… 15
 天の邪鬼的つれづれなるままに(二十一)
   ( OCDについて ) …………………… 玉 置 光 代 …… 17
 「居愚」を偲ぶ ………………………………… 津 守 晃 生 …… 19
 カラスのスキップ ……………………………… 中 本 八千子 …… 21
 「隠れ家」が消えた …………………………… 薮   一 昭 …… 23
 最悪の5月連休とその後 ……………………… 竹 中   正 …… 25
 海 ………………………………………………… 楠 本 清 志 …… 27
 和服と次元 ……………………………………… 上 原 俊 宏 …… 29
 文楽大好き ……………………………………… 田 中 芳 子 …… 33
 光 秀 燦 散  ……………………………… 三 瀬 シゲキ …… 35
 言い続けよう!! ………………………………… 飯 森 矩 子 …… 37
 花の吉野山
  ―桜は蔵王権現の神木― …………………… 笠 松 孝 司 …… 39
 大庄屋倒壊史 四 ……………………………… 水 本 忠 男 …… 41
 南九州の旅 ……………………………………… 国 本 多寿枝 …… 43
 手作りの小屋 (上) ………………………… 松 嶋 吉 則 …… 45
 ちょい悪爺の独り言 …………………………… 嶋   清 治 …… 47
 伏拝の和泉式部の歌に想う …………………… 吹 揚 克 之 …… 49
 大叔父・山本玄峰 ……………………………… 西 村 佳 子 …… 51
 玄峰と白蓮 …………………………………………………………………  54
 民泊で地域活性に光 ………………………… いわもとまさなお …… 56
 新会員自己紹介 ………………………………… 弓 場 和 彦 …… 58
 お 礼 ………………………………………………………………………… 59
 会員・賛助会員名簿 ………………………………………………………… 60
 合評懇親会案内・あとがき ………………………………………………… 61
 広 告 ………………………………………………………………………… 62




  210号             平成26(2014)年8月

本文紹介 ~花の窟~

2014-08-12 16:02:39 | 「土」210号
花の窟   久 本 洋 文


 紀伊半島の南端、木本の岬から連なる海岸線を遠くはるかに白い波頭が縁取っている。水平線には幽かに霞がかかり、青空は優しく彩色されて広大なパノラマを展開している。
 縹渺、ちょうどこの言葉が似合う。熊野灘を望む二十四キロの汀がつづく七里御浜、私たちは御浜町・道の駅の屋上からの見晴らしに酔いしれていた。
 六月の中ごろ、白浜文学サークルの文学散歩に参加させてもらったときのことで、旅は本宮から南に下って新宮に出て、海岸線を三重県に入り、名所花の窟にいたるコースである。
 熊野市の街並みに入り、四十二号線をさらに北に進むにつれて前方に山々が迫ってくる。道路沿いに山の背が崩れた形の白い岩肌が見えたが、それが目的の花の窟であった。
 バスを降り昼食を済ませて、亜熱帯の森をくぐって細い砂道を崖の下につく。一つの大きな岩で四十五メートルの高さがあるとか、背後に覆う様な山の背に連なる。
 弥生時代、山は神の降りて来る場所であり、水とともに神は里に下りて稲作を助け秋には豊作を農民とともに祝った。やがて人々は里に社を造り、そこに山の神を迎えて常に尊崇するようになり、これが氏神社の起源となった。この熊野有馬の里には、山から平地に神を迎え入れる古い習俗が今も残っていて、花の窟の頂から綱を渡す「御綱掛け」祭りが二月と十月におこなわれる。そしてこの地から二キロほど離れた田園のなかに産田神社が祀られている。
 古代の伊邪那美が火の神・迦具土を出産し、ホトを焼き、死んだという伝説とこの窟とが習合した。
 岩の奇異な形、女性の性器に似ているというところに付会したのだろう。岩山は花の窟となり、伊邪那美の墓地となった。
 これが日本書紀に記載されて、人々の知るところとなったのだが、書紀の成立した八世紀以前の土俗や伝承が今に残っているということに歴史的な意味があり、古代人の思いや信仰のかたちを知るよすがとなったのであろう。
 明治元年、明治新政府は神道国教化政策をうちだし、仏教を破壊し神道を顕彰した。書紀にあった花の窟は権力によって墓地から神社に神格化され、産田神社も上位の社殿に格上げされた。
 仏教国といっても過言ではない日本の宗教が、根底から崩され、寺院の九十パーセントが破壊されたというから、その影響は甚大で、多くの歴史的遺産や文化遺産は倒壊、流失、焼失の憂き目をみた。最近、日本のすばらしい仏画や仏像が海外の美術館の所有になっていることを知るにつけ、悔しいおもいにひたるのだが、この花の窟にも変化がおこった。
 神格化される以上は淫らな姿は神聖な権威を崩すことになると、窟の性器にみたてた部分を人工的に隠蔽してしまった。
 今目の前のものは、べつになんの変哲もない大きな岩肌にすぎず、御幣が真正面に立てられているだけである。
 道路から見るとあっというまに通りすぎてしまいそうな岩肌、参道の前には、観光客を誘致するためのいろいろな工夫がこらされている。
 しかしすぐ隣に接して幹線道路が通り、ひっきりなしにたくさんの車の往来がある。爆音や排気ガスのなかで、窟は森にくるまり縮こまっているように見える。
 旧い土俗の跡は、いつかほんとうに見過ごされ、消滅していくのではないか、そんな危うさを感じさせた。
 いっぽう、産田神社は窟からは少し距離があり、道路も狭く、鄙びた家屋や田園に囲まれて建てられ、立ち寄る人は少ないようで、窟に比べて静かな雰囲気である。何度も火災にあって、そのたびに建替えられ、旧い面影はなくなってしまった。神域に、磐境という石組みが残されているのが、唯一、神籬に神霊を迎えるという古代の信仰の形をとどめているようである。
 しかし境内から前の駐車場に出たとき、思わず息をのんだ。すぐ隣の大きな空き地に、太陽光パネルの黒いガラス板が、まるで苔のように、広大な土地を占有して一面に張り巡らされているのだ。
 幼い頃、私の住まいの近くにも鄙びた祠があった。周囲に住宅が建ちはじめ、祠への関心は薄れてきて、いつのまにか消滅してしまった。
 消費社会、商業主義は旧い文化を知らずしらずのうちに破壊して新しい装飾を押し付けるようである。
 それがよいのか悪いのか……。
「学問は歴史に極まり候ことに候」
 語呂合せのような言葉が浮かんでくる。誰の言葉か思い出せないまま境内を見返してみたのだった。
 道路を隔てて熊野灘の雄大な景色を眺めていると、人間の存在などいかにも小さく感じられて、身体が一瞬透明になり、消えてしまいそうになる。
 気がつくとバスの発車時刻になっていた。
 談笑するサークルの人たちの声が明るかった。

本文紹介 ~言葉・スイスの民宿で~

2014-08-12 16:02:29 | 「土」210号
言葉・スイスの民宿で   砂 野   哲


 シュレスビッヒホルシュタイン州は、ドイツでもっとも北にある州である。当時、筆者はその州の州都、キールにある大学に勤務していた。ある夏、2週間の夏休みをとって、スイス民宿の旅に出た。キールからスイス国境まではドイツ縦断に近い長旅であるので、途中ドイツ南部にある温泉保養地バーデンバーデンで一泊してから、シュバルトバルド(黒い森)を抜けてライン川河畔に出て、そこで国境を越えてスイスに入った。
 スイスでもバゼルやベルンはドイツ語圏であり、あまり不自由なく過ごせたが、レマン湖湖畔からはフランス語圏で、絵葉書を買うにも言葉が通じなくなった。
 レマン湖の畔にあるジュネーブに一泊して、フランスに入り、シャモニーではモンブランという初めての4千メートル級の峰を見て感激し、そこには2泊することになった。さらに、モンブラントンネルを抜けてイタリーに入ったが、ここはイタリー語だけで言葉がまったく分らなく、心細くなって引き返して、その日のうちに再びスイスに入った。とにかく、この地方では一日ドライブしていれば言葉が3回くらい変わることがあるということを話したかったのである。

 こうして、マッターホルンのあるチェルマットの手前の村の民宿に着いたのはキールを出てから一週間以上経った日の夕方であった。この地方は民宿でも英語が通じることが多く、ここでも英語が通じた。民宿の女将さんらしい中年の女性は、部屋の用意をするから、それまで食堂で夕食を済ませてはと勧めてくれた。
 食堂には何組かの先客がいたが、みんな数日の滞在で顔見知りになっているようであった。まず、隣りの席の老人2人組が筆者夫婦に話しかけてきた。彼等はアメリカのリタイアした教授たちで、友人同士で約一ヶ月のスイス旅行であり、この民宿も何日目かであると話した。そのときは、民宿の女将さんが流暢な英語でこの二人と言葉を交わしているのも見て、その見事さに驚いた。
 その隣の席には、フランスから来てこの宿に何日か滞在していると言った母子がいた。母親はこれも見事な英語が出来たが、子供はフランス語だけのようであった。その子供に女将さんはフランス語で冗談を言って喜ばせているのも見た。
 そのとき電話が鳴って、女将さんは笑いながら受け答えをしていた。ヨーロッパに暫くいると、話せなくてもその言葉が何語であるかは分るようになる。それはイタリー語であった。かくて一時間あまりの滞在で、女将さんが英語、フランス語、イタリー語をじつに見事に操るのを見せつけられた。
 スイスはドイツ語、フランス語、イタリー語、レトロマン語の4ヶ国語が公用語になっている国である。食事が終わってから民宿の14、5歳の子供が部屋に案内してくれるときに、「この地方での日常用語はなんですか」と英語で聞いてみた。「ドイツ語です」と、見事な英語で返ってきたときはにわかには信じられなかった。ドイツ語だけはまだ聞いていなかったのである。

 ヨーロッパは陸続きで、ヨーロッパ連合になる前でも共産圏への入国を除いて簡単に国境を越えられた。国境近くの人は国境を越えて隣の国に食事や買い物に行くことも珍しくなかった。当然、国境近くの人や、外国人の宿泊客が多い町で仕事をする人は最低2ヶ国語は話せる。あるとき、国際列車の中でフランスのストラスブールからドイツの隣町にアルバイトに行く女子学生に会った。彼女はフランス語、ドイツ語に堪能なのはもちろんすばらしい英語も話した。「どうして?」という問いには「必要だから」と事も無げに答えた。「日本では必要がないから」筆者の外国語も上達しないのであろうか。
 ツェルマットはマッターホルン北東にある町であるが、車の乗り入れは禁止でわれわれは電車でツェルマットの町に入り、そこで登山列車に乗り換えてゴルナグラートに登った。行きは雨で霧が深く、アルプスの山々を見る事は出来ないと諦めていた。ゴルナグラートに着いた頃は雨は止んでいたが霧が深く、すぐ近くの建物さえよく見えない状態であった。われわれはドライブ旅、民宿は前夜と同じで夕方までに帰ればよかった。
 そこで、ホテルのレストランに入ってゆっくり食事をとって時間を過ごした。食後外に出たそのとき霧がすっかり消えて、目の前にマッターホルンの雄姿が、その手前のゴルナー氷河の向こうにはモンテローザやリスカム、ブライトホルンなどのたくましい姿がくっきり見えるようになっていたのである。ちなみに、これら山々はイタリーとの国境にあり、山まで多国語、モンテローザはイタリー語名で、他の山はドイツ語名である。
 そしてその夕方、われわれが感心した女将のいる民宿に帰ってきたが、食事のとき気がついたら昨夜のアメリカ人2人とフランス人母子の姿が見られず、かわりにドイツ語とイタリー語、英語の会話が耳に入ってきた。女将は相変わらず各国語で受け答えをしていたが、もう前日のように驚くことはなかった。

本文紹介 ~文楽大好き~

2014-08-12 16:01:16 | 「土」210号
文楽大好き   田 中 芳 子


 今年の二月二十八日の朝刊を開いて驚いた。「竹本住大夫さん引退。五月東京公演で-」とある。ああやはりという気持と、また一人、人間国宝が去られるという淋しさに襲われた。
 実は一月の公演で、住大夫さんは『近頃河原の達引《堀川猿廻しの段》』を語られたが、その時の顔色がとても白く、その声にいつもの迫力がなくて、お身体を案じていたのだった。大阪は四月の国立文楽劇場での公演が、私にとって聴き納めになるのだなと思った。
 留学する息子に、日本の伝統芸能を教えて送り出したいと、二十余年前に門を叩いた文楽である。その時の演目は覚えていないが、太夫の語りと、三味線の音色。人形遣いの操る人形の動きを観ていると、頭の中はもうろうとして、唯々舞台に釘付けになっていた。これ程心を揺さぶられるものがこの世にあったのかと思いつつ、無我夢中のうちに第一部が終了。ふわふわとした気持のままで、第二部のチケットを手に入れ、そのまま夜まで観続けた。「文楽友の会」を知り、すぐに入会もした。
  ・初春は 人間国宝 打ち揃ひ
   いよよ華やぐ 人形浄瑠璃
  ・首をば 操るひとの 面しずか
   人形生きて 怒りかつ泣く
 翌年のお正月公演は、太夫、三味線、人形遣いのそれぞれに、国宝が出演されていた。義太夫節を語る住大夫さんの、登場人物と一体となり、噴き出る汗に涙も混じる熱演にどきどきし、鶴澤寛治さんの奏でる太棹三味線の、不可思議な音色に心打たれ、人形を遣う吉田玉男さんの、端正なお顔は静かで、操っている人形が恰も生身の人間のごとくに、いきいきと動く姿に目を奪われた。心に少し余裕も出て、一流の芸に触れることの出来る幸せを、しみじみ感じながら観劇をしたものだった。
 長い年月をかけて、一月、四月、夏休み、十一月と年四回の公演を、ほぼ観つづけていると、同じ演目を二度、三度と観ることになるが、太夫の登場人物を語り分け、その情景までも表現する巧みさ、太夫と協力して義太夫節を作りあげる三味線の、まるで真剣勝負のような緊張感に満ちた音色。人形遣いの洗練された技術による芸の細やかさには、毎回新しい発見があり、「三位一体」の芸術の奥深く、底の知れない世界に身も心も虜になって、文楽詣ではこれからも続いていくであろうと思う。
 吉田蓑助さんが病に倒れ、リハビリの末に人形を遣う手は動くようになられたが、声が出なくなる。ある年、文楽劇場で文楽の集いがあり、住大夫、寛治、玉男、蓑助の四人が登場される機会があった。司会者の質問に、お三方は、演目のこと、稽古のことなどについて話をされた。蓑助さんのただ笑顔で肯かれていたお姿が心に残り、会の終了後女性の司会者に、「私の履歴書を読ませていただきましたので、蓑助さんのおっしゃりたい事は、わかるような気がします、とお伝え下さい」と声を掛けてしまったのだった。
 日経新聞の「私の履歴書」には、住大夫さんや玉男さん他の方々も執筆されている。子供時代の修業や、文楽の分裂、旅回りの上演と劇場探しなど、ご苦労話が述べられていた。個性ある方々の積み重ねてきた思いの察せられる紙面からは、一芸を追求する人のみが醸し出すことの出来る品性と、ある種の凄みも読みとれるのだった。
 玉男さんが亡くなられた時は、何よりもあの品のあるお顔を見ながら、人形の見事な動きを目で追うという、魅力ある時間はもう持てないのかと、心底がっかりした。吉田玉女さんによると、「師匠はよく『床本を読まなあかんで』と言われ、いつ楽屋へ行っても、好きな煙草を吸いながら、じーっと床本を読んでいました」との事だ。幸い玉女さんは、来年四月に二代吉田玉男を襲名される。
 国立文楽劇場開場三十周年記念、七世竹本住大夫引退四月公演は、通し狂言『菅原伝授手習鑑』が上演された。通しとは、一日がかりで一つの作品を演ずるもので、第一部につづいて第二部も観ると、十時間余もかかることがある。出演なさる方々は勿論のこと、観劇する方も、気力と体力を必要とする。
 『菅原伝授手習鑑』は、『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ三大名作の一つで、菅原道真公が九州大宰府の地に左遷される物語だ。右大臣菅丞相(道真)が、書の技芸を弟子武部源蔵に伝授してのち、源蔵夫婦や、三つ子の松王丸、梅王丸、桜丸が、主人の忘れ形見の菅秀才を守りぬくまでが上演される。松王丸と千代夫婦が、秀才の身代わりに一子小太郎の首を差し出す《寺子屋の段》は、涙なしに観ることは出来ない。
 住大夫さんの引退狂言《桜丸切腹の段》は、桜丸が菅丞相失脚の責任をとり切腹する場面で、子に先立たれる父白太夫の悲痛、夫の死を止められない妻八重の慟哭。親子の情、夫婦の情、兄弟の情と、情の世界を演ずる文楽だが、悲劇を語る太夫の声音には、豊潤で滋味溢れるものがあり、野澤錦糸さんの三味線と相俟って、聴く者の心により深く響いた。蓑助さんが桜丸を、文雀さんが八重を遣われ最後の舞台に華を添えられたことも良く、竹本義太夫六十八年間の、集大成を聴かせていただいた。