田辺随筆クラブ会員による季刊随筆誌

第193号  目次

2010-04-27 15:33:36 | 「土」193号
      第193号  目  次


 親父の絵 …………………………………………… 嶋   清 治 …… 1
 アカギレ …………………………………………… 前 川 三千夫 …… 3
 マナー違反は・・・・ …………………………… 鈴 木 輝 重 …… 5
 少年時代
   第一章 村を出る 3 …………………… いわもとまさなお …… 7
 思いでキラリ ……………………………………… 竹 辺 八 枝 …… 9
 不思議 ……………………………………………… 津 守 晃 生 …… 11
 中部ヨーロッパの旅 10 
  ―ウィーン市内観光― ………………………… 沖 水   邁 …… 13
 お返し ……………………………………………… 飯 森 矩 子 …… 15
 峠の向こうとヘーゲル学徒 ……………………… 竹 中   正 …… 17
 大阪の観光名所
   「泉布観(せんぷかん)」 ………………… 橋 本   弘 …… 19
 熊峯先生の墓碑 …………………………………… 中 田 美佐代 …… 21
 天の邪鬼的つれづれなるままに(五)
    (兄と弟) ………………………………… 玉 置 光 代 …… 23
 雨の段々畑 ………………………………………… 楠 本 清 志 …… 25
 乗り心地は満点 …………………………………… 加 藤 栄 子 …… 27
 食について(その6) …………………………… 倉 本 孝 雄 …… 29
 私の花物語 2 …………………………………… 小 西 茂 代 …… 31
 死して骨を残す …………………………………… 旗 嶋 一 夫 …… 33
 私の青春譜 2
   劇団「かもめ座」の想い出 ………………… 栗 山 晃 一 …… 35
 文学散歩(田辺) ………………………………… 国 本 多寿枝 …… 37
 周辺談義 
  ―随筆余話― …………………………………… 小 倉 喜久男 …… 39
 多田神社と天誅組 ………………………………… 水 本 忠 男 …… 41
 ごめんなさい、もう帰らないと ………………… 松 本 愛 郎 …… 43
 白い夜 ……………………………………………… 上 原 俊 宏 …… 45
 父のシベリア抑留を思う ………………………… 三ツ木   望 …… 49
 カラオケ狂騒曲 …………………………………… 久 本 洋 文 …… 53
 ふるさと、富田の水 ……………………………… 吹 揚 克 之 …… 55
 「土」の発展を願って
  ―第192号に思う― ……………………… 愛読者 田辺 Y …… 56
 感想・あとがき ………………………………………………………………… 57
 寄付のお礼 ……………………………………………………………………… 58
 名 簿 …………………………………………………………………………… 59
 会員募集 ………………………………………………………………………… 60
 広 告 ……………………………………………………………………… 60・61




   193号                平成22年5月
                         (2010年)

本文紹介 ~ アカギレ ~

2010-04-27 15:33:25 | 「土」193号
アカギレ(皹)   前 川 三千夫


 「痛い!しみるなあ」 右手親指の爪の左側に、一糎ほど皮膚が割れて、赤くなっている。
 血は出ていないが、傷が深いので、頭のてっぺんに響く程しみる。一月末頃のことだ。アカギレになっている。
 痛くても、夕食の仕度など、水仕事をしなくてはならない。毎年、冬場になると、アカギレするから、親指用のゴムサックを買ってくるが、一年で使い切れないのに、次の年になると、使えなくなっている。
 子どもの頃にも、アカギレになって、泣きべそかいたりした。炊事などの水仕事でなく、「てんごうしやれん。」と言われながら、納屋の入り口などに掛けてある、鎌や、鉈などを出して来て、冬休みごろになると、小鳥や、山兎を捕えるワナを作ったり、春先になると、ウグイや、うなぎなどを捕るつけ針用の餌を探しに、川端のネコ柳の根元の方を割って、ヤナギ虫をとったりと、親の大事な道具類を勝手に持ち出して、刃をこぼしたりした。昭和十年代のことで、その頃は、今の様に手袋がなかったから、なにをするにも素手だった。だから、指先や、手のひらには、小さな切り傷が出来た。
 小学校の五、六年生頃からになると、田の岸や、畦などの草刈りや、時には、牛の餌(マグサ)の茅など刈ったりしたが、素手で茅など掴むから、手や指には、切り傷がたくさん出来て、うすく血のにじむ事が多かった。
 それでも、二、三日すると、傷跡は残っても、日に日に傷は癒えてくる。
 昔の田舎には、子どものする仕事はいっぱいあって、畑や、家のまわりの草取りなども当り前だった。
 学校から帰ったら、ランプ掃除、牛の餌の藁切りなど、すべて素手だから、寒くなってくると、ヒビ、アカギレは当り前だった。
 大きく割れたアカギレに、母や祖母が、髪につけるビンツケ油を乗せて、鉄の火箸を少し焼いて、そのビンツケ油をとかしこんでくれたりした。
 近所のおばさんが、「前の子(おばさんの家の前の)等は、しごとこわがらん(苦にしない)と、よう働くのら」と言ってくれたりした。そんな事だから、かえって仕事せな悪いように思った。
 二月はじめ、毎月三回と決めて、ずっと続けているサロンのカラオケがあって、夜七時会館へ行った。その雑談の中で、アカギレの話になった。
 「で、アカギレ、なっとうしたんな?」と聞くので、
 「ようない、タナモト(水つかい仕事)すんど、ほいで水つかうんやら、気いつかなんでんけど、痛い!と思ったらアカギレになっていてんら。」「どれ、おう、パカッと割れたあら、ほら痛いわよう。」という。
 それから、歌そっち除けで、子どもの頃の、山の中の家のくらしに思いが走った。
 今は、どんな山奥の家でも、水道が引かれているが、私の子どもの頃は、水は、谷や、山からの湧き水を、木の樋を、何本も繋いで、百米も、百五十米も離れた所から水をとっていた。
 冬になると樋を流れる水が凍ったりするので、夕方には、家の中のカメ壷にいっぱい溜めておく。風呂の水もしっかり溜めておくし、担い桶には、風呂の湯かげん用の水も入れておいたりした。
 雨や風の吹いた日には、樋にゴミがかかったりするし、時には、樋の継ぎ手がはずれたりする事もあった。
 「水来なよう、水つれて来て!」と、これはたいてい家に居た祖母から言われる。冬の夕暮れ近く、山沿いを通っている樋を、殆ど道のない岸のような所を見てまわったりした。
 アカギレ一つで、昔の事が、よみがえって来た。
 今から思うと、子どもの頃から、遊びや、ちょっとした仕事の中で、道具を使う事を覚え、あれこれ工夫した事が身についてきているので、なにかの事にも、それなりに対応出来る様になったと思う。
 アカギレは、今も治り切ってはいないが、割れも小さくなって来て、もうしみもしない。
 今は台所の洗い場のことを、?はしり?とか炊事仕事を?たなもと?とか、?てんごうすんな?などという言葉は、殆ど耳にする事がないが、今、小学校三年生の学習に、昔のくらしというのがあって、子どもの頃の遊びや、炊事用具など、農具、百姓仕事など話をしたり、いっしょに民具館へ行って見学したり、時には説明したりもするが、実物を見る機会も少なく、絵や映像で学んでいるのが殆どだろうと思う。
 子ども達が、今ある道具を使って、物を作ったり、工夫したりという機会がたくさんあれば、生きていく上でそれは、大きな宝になるのではないかと思ったりする。

 二月十六日、いつもの様に、朝食のあと七時すぎ外に出たら、?ゲキョ?と短い鴬の鳴き声が耳に入って来た。
 一月中ごろ迄は、?チャッ、チャッ?と鳴きながら生垣の間を飛び回っていたのに…。
 今は、桃の花に続いて、土手の桜も咲き始めた。
        二〇一〇年三月一七日

本文紹介 ~ 親父の絵 ~

2010-04-27 15:32:29 | 「土」193号
親父の絵   嶋   清 治


 子供の頃、浜で遊んだ記憶が強く残っている。昼間は静かな浜が夕方になると沖へ行く漁師のおいやんが浜へおりて来て、声を掛け合い漁に行く準備をする。すると浜が急に賑やかになる。夏は「いさぎ」を釣りにゆくのが主で、沖で漁火をつけて朝まで漁をするのである。
 浜から舟が次々沖に出てゆく頃には、夕焼けが真っ赤に燃えて、夕凪の海も赤く染まっているように見える、その中を一隻一隻と波止場の崎を廻って消えてゆく。
 親父達が沖へ出てゆくと、子供達も浜から家に帰り夕食になる。夕食は芋お粥に昼食に残った麦飯を入れて食べる。おかずは野菜の煮たのや、魚の干物などを焼いて食べた。昼食に魚の煮物に大根などを一緒にたべるので、一日中魚や野菜を食べていたことになる。
 私の生まれた白浜町瀬戸は、紀南のどこにでもある半農半漁師の町だから、子供の足で走れば二分か三分で浜に出る。私の親父も爺さんもその又爺さんも漁師で、一年中魚を近くの海で獲って生活して来た。
 「がいにさあ いさぎもくわんよ」これが漁師仲間の挨拶のようなものである。
 私は瀬戸で生まれ、育ち、そして町役場の職員に入れてもらった、絵に描いたような瀬戸の子である。
 親父はお人良しで、私にも良い親父だった。叱られた記憶はほとんど無い。
 最近私も老後になって暇になり、以前から撮った写真を入れた抽出を開けて整理してみた。すると親父が私の長男を抱いて嬉しそうに笑っている一枚が出て来た。
 そんな写真の記憶など全くなかったが孫を抱いて、まさに至福の笑顔である。私は、暇にまかせて、親父の笑顔を中心に十号の絵に描いて部屋に置くと、急に親父が思い出されて懐かしかった。
 私は親父の末っ子で、上に姉三人の最後の男の子、昔流に言うと家の跡取り息子である。私は親父の四十三才の子で、末っ子の特典で実に我が儘いっぱいに育った。
 白浜町も当時は戦争の真最中で、観光の仕事もできず、半農半漁の瀬戸は、生活するのがやっとの村だった。
 しかし米も魚も自家でとるので、戦中戦後のひもじかった記憶はあまりない。
 戦後十年程たって私が二十歳になった頃、親父が急に私に、「わしは、魚をとることしか知らない漁師で、何も世間のことはわからない、これからは家の事は全てお前にまかせるから頼む」と言われた。
 私は役場の職員になったばかりの時で、世間の事は何もわからなかった。
 その当時戦後の混乱も大分治まって、白浜温泉の開発がどんどん進みかけた頃である。親父は、不動産会社等の開発計画の話を持ち込まれ、難儀して私に振ったのである。
 二十歳の私は困ったが、自分の思い通りに、何とかやってきた。親父は、「お前に任せる」と言った以後は一言も口をはさまなかった。土地を売ったり埋め立てをして宅地にするのも、自家を建て替えるのも何も言わず従った。その後も親父は私を信じ切り、家内と結婚するのも何も言わず賛成して、家内を娘以上に信じ切り、老いを自然のままに受け入れて、何の不満も言わず家内に全てを任せて、九十才で老衰して夜眠ったまま他界した。
 私は、親父の絵を描きながら、老後の生き方について親父との記憶をたどった。息子を信じ、嫁を信じ、孫を可愛がって、自然の摂理に安心して従った親父を初めて偉いなあと尊敬した。
 父の生き方にたいして母は全く正反対だった。
 なぜなんだろう、母も九十才の長寿だったが、私には色々な顔を見せてくれた。まず私を溺愛する顔、老後を不安がって、誰が自分を介護してくれるのかと真剣に考えていた。そしてそれを私に訴える。
 母は私が家内と結婚すると、何か家内を受け入れるのに二つの顔を私に見せた。家内を嫁として見る顔と、どこかに信じきれず他人のように見る顔である。
 そして急にお金に執着するようになって、自分名義の貯金にこだわった。体が悪いと入院したがり、常に先の事を不安がって、結局最後迄母は気をゆるすことはなかった。老後の後半は認知症になって、この家に鬼がいるとか、お前は早く嫁をもらえとか、生まれた実家に帰るとか、ほとほと弱った。預金通帳も最後まで隠してついに出てこなかった。
 私が、家内と結婚するまでは、全く親父と同じですべて私を信じ、溺愛していたのに、私の結婚とともになぜ大きく変わったのかわからなかった。
 私は今、親父も過ごした老後に入り、自然の流れのままに生きた親父をえらいなあと思うようになった。
 私は、家内を四年前に亡くし、今は気儘に自由に生活している。
 しかし、家内がいないので、これから先は不安だが、考えないことにしようと思う。
 なんとかなるさ、毎日のように暇つぶしの絵を描きながらそう思うのである。