田辺随筆クラブ会員による季刊随筆誌

第216号 目次

2016-02-08 15:54:01 | 「土」216号
      第216号  目  次


 いなか育ち ……………………………………… 前 川 三千夫 …… 1
 短歌三首によせて
     年初に思ふ …………………………… 西 村 佳 子 …… 3
 天神崎でゴミ拾い ……………………………… 三ツ木   望 …… 5
 〝御神渡り〟〝御柱〟の諏訪大社
  ―湖を挟んで上社・下社― ………………… 笠 松 孝 司 …… 7
 琳派で賑わう京都で …………………………… 田 中 芳 子 …… 9
 戦争と平和
  私たちがよくよく心しなくてはならぬもの …… 平 野 雷太郎 …… 11
 去年今年 ………………………………………… 鈴 木 輝 重 …… 13
 アサギマダラ …………………………………… 久 本 洋 文 …… 15
 壱千兆という数字について …………………… 三 瀬 薫 紀 …… 17
 天の邪鬼的つれづれなるままに(二十七)
   (ハエと蚊)………………………………… 玉 置 光 代 …… 19
 詩恩の海 ………………………………………… 小 川   進 …… 21
 夕陽輝け ………………………………………… 飯 森 矩 子 …… 23
 同窓会顛末記 …………………………………… 竹 中   正 …… 25
 自分とは何なのか ……………………………… 津 守 晃 生 …… 27
 母 ………………………………………………… 大 原 久美子 …… 29
 ふる里探検(2)…………………………………… 坂 本 官 萬 …… 31
 日曜日の朝 ……………………………………… 上 原 俊 宏 …… 33
 裏街道(最終) ………………………………… 水 本 忠 男 …… 37
 唐辛子 …………………………………………… 弓 場 和 彦 …… 39
 南部川鉄橋の思い出 …………………………… 三ツ木 尚 子 …… 42
 散歩どき 冬
  ―大橋から川口、大浜へ― ………………… 吹 揚 克 之 …… 43
 南白浜中に住んだ思い出 ……………………… 国 本 多寿枝 …… 45
 ジャズと暇な話 ………………………………… 薮   一 昭 …… 47
 町中(まちなか)探検・
    江川郭門はどこだ? …………………… 宮 田 政 敏 …… 49
 ジンギスカン …………………………………… 砂 野   哲 …… 53
 怪我の記憶 ……………………………………… 松 嶋 吉 則 …… 56
 笹の露 …………………………………………… 中 本 八千子 …… 59
 合評懇親会 …………………………………………………………………… 61
 自己紹介 ……………………………………………………………………… 62
 お 礼 ………………………………………………………………………… 63
 あとがき ……………………………………………………………………… 63
 広 告 ………………………………………………………………………… 64

  216号             平成28(2016)年2月

本文紹介 ~いなか育ち~

2016-02-08 15:48:53 | 「土」216号
いなか育ち   前 川 三千夫

 もう、方言を口にする人達は、数少なくなってきたように思う。
 週に四日、グランドゴルフで集まる十人余りの仲間、と言っても、女性が殆どだが、八ホール一周で、二ラウンドプレーした後、自分達の手造りで建てた小舎の中で、ティータイムと言って、お茶を飲んだり、お菓子をつまんだり、今の時期だと、みかんなど、誰かれとなく持ち寄る物を口にしながら、お互いの近況、地域の情報など話し合って、心配したり、労わり合ったり、時には冗談も出て、大笑いする事もあるが、その出てくる言葉が、子どもの頃の言葉になる。
 それも昔のくらしに戻った、或る日、或る時に、こがなことあってない、〝てちくらされた〟〝てしこうおこられて、おこ持って追わえてくるやもん、にげっとんだこともあった〟〝おとろしかったて〟など、〝ほんまにのら〟〝まあ、わるさしたさかなあ〟〝なんせ、やんちゃくれやったさか〟〝それに兄弟も多かったさか、親もかなわなんだんやら〟など、親の苦労も思いやって、昔を懐かしんだりする。
 やっぱり腹の底からの思いや願いなど出し合う場では、その地に育った者どうしの言葉を出し合うと、こだわりなしに話が通じるものだと思う、私達には!
 それは、男も女も共通する。なにしろ、あまり豊かなくらしでもない、似た様なたつきだから……。そこで育
ってきたからである。

 子どもの頃に、親や祖母は、神や仏の事をアットウさんとか、のんのんさんとか言って、あがめたり拝んだりさせて、善悪のけじめをつけさせたようだった。
 子どもがいたずらすると、アットウさんに罰あたる、と言っていましめたりした。
 私の生れた家は(今は跡形もないが)、昔は、奥の間には仏壇があり、部屋の高い所には神棚があった。かまど部屋には荒神さん、水場には水神さんなどあって、家の中にも外にも、神様、仏様、という祠や地蔵さんがいくつもあった。大日如来もあったし、地域には弁天さん、稲荷さん、川の近くには琴平さんもあった。
川舟を操る人達は、四国まで行って、琴平大神宮のお札を下げてもらってきた、とも言われていた。
 をつなぐ道端や峠道には、地蔵さんの祠や、道しるべの石など、到る所に神・仏があって、坊らは、ちゃんと見守ってくれるんやと家の人には良く言い聞かされた。子ども心には、まわりには目に見えない、何かがあって、と思うと気色悪かった。
 見守ってくれていると言うより、見張られている様に思った。それでも、悪さはしたけれど……。
 正月前には、家の中の神仏は勿論だが、家の外や道端の地蔵さんや祠には、しめ縄はったり、半紙へ包んだ小餅や米など、お供えして廻った事もあった。
 近頃、新しく家を建てたり、マンションに住んでいる家々には、私の子どもの頃の様な、神や仏や、と言う話はないのだろうか。
 神・仏に例えるものがあるのだろうか、そんなもの無くても、それぞれの家庭には、それぞれの生活の規範があるのだろうから、いらざるおせっかいは、しない方が良いのだろう。

 そろそろ年の暮れも迫ってくると、何やら、子どもの頃の、年末の頃のあわただしかった事が、懐かしく思いだされてくる。
 正月の何日間は、牛のまぐさ切りなどしなくて良い様に、晦日までには、何日分もの飼料を用意したり、家の巡らの掃除したり、きれいに片付けたり、子どもの手でも出来る事など、忙しく動きまったり、隣・近所への使い走りなんかもした。

 毎月の末頃には、薄くなって来た頭髪も、放っておくわけにもいかず散髪する。
 店に入って椅子に座り、首から布で髪が身体や服につかない様に覆ってもらい、散髪にかかる。
 「この頃、〝なにし〟な」と話しかけてくる。「なんちゅうことない、ぼちぼちや」と返事する。「日和悪りさかのら、作りもんもあかんねやろ」「そうやら、ほんまにおうじょうや、あきゃせな。」 店主も田舎、それも山奥育ちだから、これだけのやりとりで話が通じる。
 言葉を交し合う中では、子どもの頃の、産れた家のまわりの様子や、その当時の、今は亡きおいさんやおばさんとの関わりなど、言葉の端ばしで思い浮かべながら、話がはずむ。

 子どもの頃に使っていた言葉、今はもう死語になっている言葉も多いが、ひょっと耳にすると、心の中の目が輝く思いがする。
 方言って ええなあ、のら!
           二〇一五年一二月二十一日

本文紹介 ~天神崎でゴミ拾い~

2016-02-08 15:42:08 | 「土」216号
天神崎でゴミ拾い   三ツ木   望

 天神崎でゴミ拾いを始めてから六年がたつ。わたしが天神崎をいつ知ったのかは思いだせないが、「天神崎の自然を大切にする会」の会員になったのは平成一二(二〇〇〇)年二月二八日のことだった。
 それがわかるのは会員証(会員番号二三一三)があるからで、その裏にわたしは入会日を記入しているのだった。会員証の表紙には、丸山を中心とした天神崎の写真に「子供たちの宝」と「ナショナルトラスト法人第一号」の文字が刻まれている。
 やがて、天神崎で開催される自然観察会に参加するようになったわたしは、理事の玉井先生に知遇をえた。また、今は亡き釣りの師匠に導かれてアオリイカ釣りにもいくようになった。というわけで、足しげく天神崎に通うことになった。
 あれは二〇〇九年の秋のことだったのではなかろうか。鮎釣りのシーズンが終わり、早朝イカ釣りに天神崎に通いだすと、広い磯でゴミ拾いをしているひとりの老人が目についた。
 その老人をはじめて見たわけではなかったが、その朝は気になって、わたしは釣りを一時中断した。老人からゴミ袋をもらい、しばらく一緒にゴミ拾いをした。そうして磯をよく見てみると、何とゴミの多いことか。
 それ以来、イカ釣りの後はゴミ拾いをしようと、田辺市指定の「燃えるごみ専用袋」を持参して、その袋を駐車場わきに置くことにした。何回かそうしていると、田辺市の職員から注意を受けた。袋を放置するとそこがゴミだめになるとのこと。
 市職員の助言でわたしは市役所の環境課におもむき、ボランティア用のゴミ袋をもらいうけた。以降、回収したゴミはその都度、三四六(みよろ)にある市の「ごみ処理場」に運ぶことにした。その最初が一二月一四日のことで、それ以来六年間、わたしは「ひとりボランティア」と称してゴミ拾いをつづけている。
 ところで、その「ごみ処理場」はたいへん見晴らしのいい高台にあって、田辺市街のみならず田辺湾が一望できる。わたしはゴミを運ぶたびに、注意深く運転しながらその景色に見とれている。
 話を元に戻す。わたしのささやかな釣りノートには、アユ・イカ・キス・アマゴなどの釣果を記入しているが、天神崎でのゴミ拾いも記録されている。それによれば、二〇一〇年=三四回、二〇一一年=四二回、二〇一二年=一五回、二〇一三年=一六回、二〇一四年=五五回、二〇一五年=五〇回となっている。
 二〇一二・一三年の回数が少ないのは、イカが釣れなくなって釣行の回数が減ったためである。今は天神崎でイカ釣りをしなくなったので、もっぱらゴミ拾いのためにでかけているといってよい。
 わたしにゴミ拾いのきっかけをつくってくれた「老人」は平山さんといい、もうとっくに七〇歳を超えておられるが、毎日のように天神崎および周辺の整備に務められている。ゴミ拾いだけではなく、草刈りや大水の後の流木の片づけなど、ほぼひとりでされている。頭が下がるばかりである。
 さて、いま改めて自らに問い直しておきたい。それは、なぜゴミ拾いをつづけるのかということだ。普段は何も考えず、ただ習慣的にというか無自覚的に行っていることを再度、意識的に確認しておくことが大事だと思うからである。
 ゴミを拾いつづけている第一の理由は環境問題である-というと、少し面映ゆい気がする。わたしのなかでは、環境問題にそんなに大きなウエイトがあるわけではないが、一応ひとつの理由として、ここでは一番に挙げておきたい。
 じっさい考えてみれば、環境のことは考えれば考えるほど気が遠くなる。日々家庭からでるゴミや産業廃棄物の膨大な量は、はたしてうまく処理されているのであろうか。また、処理されず自然の中に捨てられ埋もれていくゴミは、はたして地球環境にどんな影響を与えているのであろうか。そんなことを考えると虚しくなる。
 ゴミ拾いをつづけている第二の理由は、わたしの美的感覚の問題といえよう。美しい天神崎で汚いゴミを見たくないのだ。わたしは決して潔癖症ではないが、天神崎の磯を汚しているゴミが我慢ならないのである。しかしそんなゴミが、拾えども尽きないのが現実である。
 第三の理由は健康問題である。朝の天神崎はすがすがしいので、その磯を歩くと心が清らかになるように思える。波の音や鳥のさえずりがいっそう和ませてくれる。もちろん磯を歩くことは身体にもいいはずだ。
 わたしは日ごろから、健康のためにウォーキングを心がけているが、最近は「ごみ処理場」からの帰りにスポーツパークによって、約二キロメートルのジョギングもしている。そのあと畑によって作業をするのが、わたしの午前のスケジュールとなっている。
 そうして、わたしの一日が天神崎から始まる日が年に何十日かあるわけだが、それがわたしのライフスタイルともなっているのである。