田辺随筆クラブ会員による季刊随筆誌

第202号 目次

2012-08-03 11:57:30 | 「土」202号
      第202号  目  次


 父の手 …………………………………………… 田 中 芳 子 …… 1
 少年時代 12
   第四章 映画館侵入 …………………… いわもとまさなお …… 4
 モンシロチョウ ………………………………… 久 本 洋 文 …… 7
 鍬を持った物乞いは来ない …………………… 前 川 三千夫 …… 9
 遠 足 …………………………………………… 田 上   実 …… 11
 老兵達の夏休み ………………………………… 竹 中   正 …… 13
 入学式 …………………………………………… 大 原 久美子 …… 15
 四国の霊場・石鎚山
   ―西日本最高峰の山岳信仰― …………… 笠 松 孝 司 …… 17
 狭庭考 …………………………………………… 飯 森 矩 子 …… 19
 ああ還暦 ………………………………………… 三ツ木   望 …… 21
 二つの白浜町 …………………………………… 嶋   清 治 …… 23
 天の邪鬼的つれづれなるままに(十三) …… 玉 置 光 代 …… 25
 熊を殺さないで(二) ………………………… 水 本 忠 男 …… 27
 瓢箪から駒 ……………………………………… 鈴 木 輝 重 …… 29
 映画の中のワイン ……………………………… 薮   一 昭 …… 31
 昔の杵柄 ………………………………………… 上 原 俊 宏 …… 33
 「伊波禮毘古」の東征(1)…………………… 三 瀬 シゲキ …… 37
 ささやかないとなみ …………………………… 小 倉 喜久男 …… 39
 ふるさと ………………………………………… 中 本 八千子 …… 41
 遠花火 …………………………………………… 楠 本 清 志 …… 43
 脳みその浄化 …………………………………… 吹 揚 克 之 …… 45
 わが愛車物語 …………………………………… 松 嶋 吉 則 …… 47
 想い出の引き出し ……………………………… 畔 地 久 子 …… 49
 過ぎ去った友を偲ぶ …………………………… 津 守 晃 生 …… 51
 北九州漫遊旅行 ………………………………… 国 本 多寿枝 …… 53
 記念写真 ……………………………………………………………………… 55
 竹辺八枝さん逝く ……………………………… 吹 揚 克 之 …… 56
 竹辺さん、有り難う …………………………… 飯 森 矩 子 …… 57
 お 礼 ………………………………………………………………………… 59
 懇親会のご案内 ……………………………………………………………… 60
 あとがき ……………………………………………………………………… 60
 広 告 ………………………………………………………………………… 61




  202号              平成24(2012)年8月
                         

本文紹介 ~ 鍬を持った物乞いは来ない ~

2012-08-03 11:57:11 | 「土」202号
鍬を持った物乞いは来ない   前 川 三千夫


 本を持った〝もの乞い〟は来るが、鍬やトビを持った〝もの乞い〟は来ない、と前号の終りに書いた。
 なんの事かと思われるかも知れないが、戦後すぐの、昭和二十一年ごろの事である。戦後の復興で建築材の需要が多く、山林の伐採や、集材、運搬などの仕事が忙しく、人手が欲しい時だから、日当もよかった。
 私は、昭和二十年七月二日に、十八才で召集令状(いわゆる赤紙)が来て、七月四日、大阪の中部二十三部隊に入隊したが、貝塚市の北小学校で、八月十五日の終戦を迎え、九月四日には、また学校に戻った。昭和二十二年三月八日に学校を卒業したが、その一年余の間の、山の景気が良く、賃金もはずんだので、私の様に、学校へ行って学んでいる者は、心良く見られてなかったのだろう。卒業して、卒業証書といっしょに、任地方教官叙三級と書かれた紙一枚もらって、学校教員になった。
 最初に手にした給料は、一ヶ月三百九十円だった。この頃、教員のなり手などなかったし、採用された教員の中には辞める者もあった。山仕事の方が、ずっと実入りが良かった。本と弁当持って、四粁ほどの山道を歩いて、勤めの学校まで通っている者は、なんと!といった目で、まわりの人から見られていたのかも知れなかった。
 勤めに出た、昭和二十二年十二月に、年末手当が二千円支給された。私はその金持って田辺へ出て、栄町だったかの、森内楽器店へ行って、二千円のギターを買って帰って来た。親から笑われた。そうか、ギター提げたもの乞いか、と自分でもおかしかった。
 冬休みに入って、近所のおいやんらが、流しに行かんか、と誘いかけてくれた。や、別に、ギター提げて、盛り場を流して歩こう、という流しでなく、川での丸太流しの事である。手もとにお金もなかったし、早速そのしこにかかった。トビの柄をすげ替えたり、先をとんがらせたり、仕事に履く草履も、自分でも作ったりする。
 一週間ほどの仕事とかなので、草履は四足はいる。特に水につかったりするから、丈夫にしなければならない。雨具のミノ、弁当入れ(ワッパ)、お茶入れるものは、何だったか覚えていないが、たぶん、兵隊に行っていた時の、ゴム製の水筒だったかも知れない。
 仕事のしこするのも、今まで親や、兄などの仕事を、見よう見まねで知っていたので、殆ど自分で整えられた。親も、それとなく手助けしてくれた。
 冬休みに入って、少しして、朝早く、声かけてくれていた人が、「いこら」と言って来てくれた。着替えを少しと、用意しておいた道具や持ち物など、まとめて、風呂敷に包めるものは包み、トビの柄にくくりつけて、担ぐようにする。
 同じ様な格好した人達といっしょに、四里余りの、川に沿った道を、上流に向って歩いていった。昼ごろだったか、川近くの日傭宿に着いて、荷物を預けておいて、すぐ、川流しの現場に行った。川には、丸太が次々と流されて来ているので、すぐ仕事にかかる。トビ持って、川の中程の石へ行き、丸太を誘導したりする。流れてくる丸太が、一度にドッ!とやってくると、それを捌くのが大変、うっかりすると、足元の岩まで乗り上げてくるので、一本一本かかえたり、トビの剣先で突きとばしたりと、手早くしなければならず、大変な力仕事になる。
 一緒に、と誘ってくれた人達は、もうその道の玄人なので、丸太捌きは勿論、すべての要領を心得ており、素人の私など足許にも及ばない。仕事の手を抜く事、楽な仕事をする事など、手馴れたもので、私などは、あちこち指図されて飛び回る様だった。
 一日目は、そんなこんなですごした。夕食のあとは、いっしょに泊った人達が、明日は、木尻が、どの辺までくるとか、もう少し上流へ来てほしい、など、仕事の段どりをしているのを聞かされ、持ち場がどこになるかを言われる。あと、雑談で騒いでいる人達も居たが、初めての仕事で疲れたので、いつの間にか眠ってしまった。
 翌朝早く起き、朝食のあと、用意してくれていた、昼食のつまった、ワッパや、お茶を持って、川の岸の岩場を歩いて、昨夜指示された、それぞれの持ち場に行く。
 今日は、ここで延べ(丸太の流れの誘導)してくれ、とか、あそこが難所やから、気をつけて見張っておけ、とか言われ、それぞれ、手分けして場所につく。
 丸太も、スムーズに流れるとは限らない。こちらに来るな、と思って待ち構えていたら、他の丸太とコッツンコして、とんでもない方向へ流れたりする。それを拾いに行くのに、丸太二本をひかえ、それに立って乗って、トビで水をかいで川を渡ったりする。上手な人は、まるで畳の上を歩くように、と言われるくらい、軽々と乗り廻したりする。その人の真似は出来ないが、子どもの頃川で丸太遊びをした事が、役に立つ事にもなる。
 丸太を流す川は、急な流れだから、丸太を捌きながら流すのがコツである。そやこやで、冬休みの六日間、泊り込みでの経験をした。十二月三十日に仕事を終えて家に戻ったら、その夕方川流しの組の役付が、六日間の賃金持って来てくれた。手に取ってみると、三千六百円袋に入っていた。やっぱりな! 二〇一二年六月十九日

本文紹介 ~ 父の手 ~

2012-08-03 11:56:26 | 「土」202号
父の手   田 中 芳 子


 ここに一枚の写真がある。
 実家の両親の結婚60周年を祝って家族会がもたれ、その時に兄が写したものである。
 父の頭の両側には、まだ黒髪が少し残っており、顔は色白でつややかで、眼鏡の中に柔和な目がみえる。口元は少し笑っている。両膝の上に置かれた手はやさし気で、やわらかそうにみえた。
 父は田辺市江川の漁師の家に生まれた。一昔前は船主の家だったという。一族が大きな船を囲んでいる写真を見た記憶がある。兄弟はやはり漁師になった。父は身体が弱く、その上に弱視で、漁師にはなれなかったそうだ。
 本を読むことが好きで、その影響なのか、常々貧しい人を救うことの出来る人になりたい、特に悪を裁く検事になりたい、というのが口癖だった。
 祖母は「お前のように身体が弱く、頭でっかちの男は、何か技術を身につけないと生きてゆけないよ」と、いやがる父を和歌山の県立盲学校へ入学させた。
 父は鍼灸マッサージ師の資格を取得し、東洋医学を学ぶことになったのである。
 成績優秀で、一年飛ばして卒業したということだ。
「厚恩に対する報恩の方法について述べよ」という題の試験問題の答案が、ずば抜けて上手だと、担任の先生にほめられたのが、父の自慢だった。
 母校で一年間教鞭を執ったあとで帰郷し、23才で南部町に鍼灸治療院を開業した。そして結婚をする。
 仕事は順調で、経済的にも余裕が出来たようで、実家の普請の時には、かなりの援助をしたらしい。
 父には、生活が安定すると一ヶ所で落ち着いていられない癖があったと、母はよくなげいていたが、さっそく田辺市へ引越しをする。眼に障害のある人達が住み込んで、ここから何人かが独立していった。
 腕を脱臼した人、あごのはずれた人、足を骨折した人などもやって来た。幼児にかん虫の鍼を打つ。当時は小児麻痺が多く、毎日マッサージに通って歩けるようになった子供さんもいた。出産後の乳房をほぐしたりもする。友人は、「そんな事でお金をもらえる。ええ仕事やのう」とうらやましがったという事だ。
 ある人妻からラブレターを貰って、こっそり白衣のポケットに入れていたようで、後日、母が笑いながら娘たちに話してくれた。
 終戦前のある夜、アメリカ機の空襲にあい、七発の爆弾が家の近くに投下された。弾の破片が吾が家の屋根を貫いて、全壊状態となった。近所では亡くなられた人達もいたが、私の家族は全員無事だった。その頃二川小学校で代用教員をしていた長姉のつてで、二川に疎開することが出来た。家も財産も失くした父は、家族のために夜、昼なく働いてくれたと言う。
 父は多忙な仕事の間も、暇をみてはよく本を読んでいた。漢方や医学に関する本は勿論、古典、歴史、伝記、法律に関する本などが、本棚に並んでいた。政治にも興味を持っていて、友人らとはげしく議論をしているのをみたこともある。
 字が上手で、所属している会で、会合がある時は、会場の看板、題字などを毛筆で書くことが、父の役目だった。「絵は上手で描く、字は名で書くんや。絵の良さは上手、下手でわかるが、字は名のある人が書くと敬われる…」というのが口癖だった。
 父の部屋の壁に、「感謝状」の額が沢山並べられていたが、県や市の盲人会、鍼灸マッサージ師会の役を、何年も続けていたからだということだ。
 父の楽しみは、娘たちに新聞を朗読させることだった。中学生になってからは、その仕事は私の役目になった。難しい漢字をいちいち尋ねると、父はくわしく教えてくれた。学生時代、仕送りに礼状を出すと、「もっと漢字を使うように」とすぐ返事が来た。
 私の結婚が決まった時、色紙に「敬愛」の二文字を書いて手渡してくれながら、「夫には愛情を持つだけではなく、尊敬もしなければならない」と諭してくれた。
 父の好物は、さしみなどの魚、しらす、平天、玉子、豆腐、味噌、根菜類の煮物などで、肉はあまり食べなかったが、すき焼は好んだ。真夏でも上半身裸で、熱つあつのおかいさんを啜っていた。食べ終わると、
「喉の垢がとれた。ああ馬勝った、牛負けた」と冗談めいておどけてみせる。夏によくスイカを食べながら、「体内の毒素が水分と一緒に流れるんや」と言った。
 酒、煙草は嗜まなかったが、甘いものは好きで、和菓子、なかでも甘納豆をよく食べた。
 父は結婚したばかりの頃、身体が弱いので三十才まではもたないと言い、食事には特に気をつけていた様で、大病もせずに長生き出来たのは、この精進のせいかもしれない。
 晩年の父は、運動をかねて自転車で近所の患者さんの家を回っていたが、結婚したての頃の私のアパートにも、よく訪ねて来てくれた。その時は、父の好物のピーナッツとコーヒーを出してしばらく話をする。話上手で、聞いた事には何でも答えてくれる父が好きだった。
 その頃の父の視力がどの程度なのかと、閉じた目を薄く開けて、これ位かなと確かめながら、夕暮れどきの空の下を、自転車で遠ざかる後姿を見送っていた。
 丹田台に引越をしてからは、母と二人で静かに過ごしていたが、ある日のこと、急に父の姿が見えなくなり大騒ぎになった。やっと見つけると、「江川へ帰るのだが何処まで行っても堤防が見えない」と言ってみんなを驚かせた。それからは、時々家を出て歩き回るようになってしまったのだ。
 やがて老人ホームにお世話になる事になり、近くに住む次姉が、父の許を足しげく訪ねてくれていた。
 私が父に会いに姉と一緒に訪れた時、
「もうすっかり私たちの顔は忘れてしまったんよ」と姉は淋しそうに言い、父の両手を取って顔を近づける。そして「青葉茂れる-」と歌い出した。
 すると父は、うれしそうに、いきいきした声で、姉の声に合わせてはっきりと歌い出したのだ。歌詞を覚えているのだった。私もその声に合わせて一緒に繰り返し歌った。何度も何度も……。
 父の葬儀の時、江川の従兄弟が、
「おじさんはとにかく物知りだった。わからない事があるといつも親に、湊のおいやんに聞きに行け、と言われたものだ……」と弔辞を読んで下さった。
 父の教えが二つある。
 一つは、西洋医学の薬は、人体には異質のもの。頼りすぎは良くない。もう一つは、手当てというのは、患部に手を当てて治すものだ、ということ。
 父の言うように、私は薬をほとんど飲まない。痛いところがあると、まずは自分の手で、患部を撫でることにしている。
 父は職業人としての自分の手を大切にしていたが、写真の中のあの白い手で、私たち八人の子を育て上げてくれた。私にとって父の手は、まさに「ゴッド・ハンド」なのだと思っている。