田辺随筆クラブ会員による季刊随筆誌

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第226号 目次

2018-08-21 16:22:03 | 「土」226号
      第226号 目 次


 隣の般若心経 …………………………………… 城   皆 子 …… 1
 敗戦後の満州(中国東北部)で
           亡くなった若人 ……… 上 野   立 …… 3
 飢餓の時代 ……………………………………… 長 井   準 …… 5
 究極のジビエ料理 ……………………………… 平 野 雷太郎 …… 7
 父の晩年㈡ ……………………………………… 三ツ木 尚 子 …… 10
 古代から引き継ぐ ……………………………… 津 守 晃 生 …… 11
 ハッピーの思い出 ……………………………… 國 友 チ ヨ …… 13
 大相撲から旅の一座まで ……………………… 竹 中   正 …… 15
 南紀から故郷を思う …………………………… 三ツ木   望 …… 17
 大海和尚が逝く ………………………………… 吹 揚 克 之 …… 19
 かつては山岳霊場・伊吹山
   ―今ではお花畑の行楽地― ……………… 笠 松 孝 司 …… 21
 イタリア旅行記
   (ミラノ、ベネチア編)…………………… 鈴 木 輝 重 …… 23
 宝物 ……………………………………………… 久 本 洋 文 …… 25
 うらし・またろう
   (平成版・浦島太郎)……………………… 飯 森 矩 子 …… 27
 池大雅 …………………………………………… 弓 場 龍 渓 …… 29
 大塚国際美術館にて …………………………… 田 中 芳 子 …… 33
 権威の大きさ …………………………………… 上 原 俊 宏 …… 35
 道央−道東紀行 ………………………………… 国 本 多寿枝 …… 39
 泣く、哭く、鳴く、啼く ……………………… 砂 野   哲 …… 41
 法とのめぐりあわせ …………………………… 高 嶋 一 夫 …… 44
 つくらない句会 ………………………………… 花 光 賀 子 …… 45
 ポディー来了 …………………………………… 小 川   進 …… 47
 さあ、これからや(現実編) ………………… 中 本 八千子 …… 49
 八月十五日を前に、
 再び戦争の無いことを願って ………………… 殿 山   清 …… 50
 湯の峯温泉 ……………………………………… 坂 本 官 萬 …… 51
 わが町〝本宮〟自慢 …………………………… 西 村 佳 子 …… 53
 キッズチャレンジ ……………………………… 松 嶋 吉 則 …… 55
 お 礼 ………………………………………………………………………… 57
 合評懇親会 …………………………………………………………………… 58
 あとがき ……………………………………………………………………… 58
 賛助会員・会員名簿 ………………………………………………………… 59
 広 告 ………………………………………………………………………… 60



  226号             平成30(2018)年8月

本文紹介 〜隣の般若心経〜

2018-08-21 16:20:21 | 「土」226号
隣の般若心経   城   皆 子

 毎朝、仏壇に向かって般若心経を唱えるようになって四十年になる。夫が病に倒れたとき、すがる思いで祈りはじめ亡くなった後も続けて今に至っている。子どものころから両親が朝晩唱えている姿を見て育ってきたせいか、それしか祈りの言葉を知らなかった。
 ひとり暮らしになった今は毎朝の決まりごとのようにしているだけで、十分ほどのことなのに集中力に欠け、「夕飯はなににしようか」「電話しとかなくちゃ」などあれやこれやと頭に浮かんできてうわの空もいいところだ。
 蒸し暑い夏の日などは、仏壇の前で扇風機の風にあたりながら唱えていても汗が首筋を伝う。肩にかけたタオルで拭いていると子どものころに見た光景が浮かんでくるのだった。
 ラジオから引揚船入港の実況中継が流れていた昭和二十年代の中ごろ、私は小学校低学年で東京の大田区に住んでいた。疎開先の千葉から戻って来ての、間借り暮らしであった。度重なる空襲を免れたものの夫が戦死したり戦地で負傷して働けなくなった家では、焼け出された人に間貸しをしているところも珍しくなかった。
 私たちが間借りしていた家は平屋で、道路から三段ほどの階段を上ると、コンクリートの門柱が立っていて、石畳の先に玄関があった。右側には炊事場と板張りの間、左側には縁側に沿って和室が三部屋並んでいて、そのいちばん奥の部屋で床の間と押し入れのある八畳で親子三人暮らした。
 家主の家族は、夫婦と小学生の子ども二人。出征前、会社員であったという主人は色白で体格のいいおとなしそうな人であったが、戦地から帰って来た時には精神は正常さを失っていた。
 朝になると、背広にネクタイ、夏でも冬のオーバーを着、山折帽をかぶり、鞄を持つと革靴を履いて玄関を出ていく。近所を回って三十分も経たない間に戻って来て服を脱ぐ。これを夕方まで黙々と繰り返すのである。奥さんはあきらめているのか何も言わない。私は怖いとか気持ち悪いという感じはなかったが、普通の人ではないということはわかっていた。
 真夏の蒸し暑い午後のことであった。部屋でひとり遊んでいると、母が縁側から走り込んできた。口を両手で押え、体を折り曲げ、そのまま座り込むと私に隣の部屋を指さした。可笑しくてたまらないといった様子であったが、私はわけがわからないまま縁側に出て障子の開けっ放しになっている四畳半の部屋を覗いた。奥さんが箪笥の前でシミーズ姿のまま肩に手拭いをかけ頭にも手拭いをまいて、経本を手に大きな声で経をあげている。
 ぎこちない唱え方のうえ力が入っているせいか普段聞きなれているものとは違うもののように聞こえた。だが、私がびっくりしたのは奥さんの後ろ姿だった。多分ミシン用の椅子であったと思うのだが部屋の中ほどに置かれた木製の丸椅子の上に正座している。中肉中背の人であったが、円形の座から折り曲げた足もお尻も大きくはみ出て、椅子のたけよりも高い上半身が乗っていて、少しでもバランスを崩せば椅子ごとひっくり返りそうだった。
 夕食の時、母が笑いをこらえながら、父に事の顛末を話した。
 私の両親は、箪笥の上に置かれた厨子の中の観音像に毎朝毎晩手を合わせ、般若心経を唱えていた。共に子どものころからの習慣であったと聞かされている。
 ひとつ屋根の下で暮らして母と親しくなった奥さんは夫の病気で悩んでいることを打ち明けて、毎日聞こえてくる経を自分も唱えたいと言ったという。
 母に唱え方を習った奥さんは、小さな仏像を買ってきた。それを箪笥の上に置いたのだが畳に座ると下から見えない。そこで家にあるたった一つの椅子を持ってきてその上に正座することになった。暑さをこらえきれずついシミーズ姿になったものの仏さまに申し訳ないと手拭いで肩を覆い、流れ出る汗のために頭に手拭いを巻いたのだ。
 引揚船で大陸の各地から帰還してきた兵隊の中には身体に障害を負った人や病気の人もいたが、心の病気になっていた人もいた。戦後の混乱期その家族はどこからも顧みられることなく、経済的困窮だけでなく、世間からの同情はあっても好奇な目で見られていた。隣の子たちは外へ出て近所の子と遊ぶことはなかった。サラリーマン家庭の主婦であった奥さんも働きにいかなければならなかった。夕方になると化粧をし華やかな色の服を着て出かけるのをきれいだなと思って見ていたが、子ども心にもどんなところへ働きに行くのかわかっていた。今から思えば、病気の夫と子どもを置いて夜働きに行く不安から間貸しを始めたのかもしれない。
 六十年余りの歳月が流れ、私の両親と同じぐらいの年齢だったあの夫婦は多分この世にいない。私たちが引っ越した後も奥さんは祈り続けたのだろうか。
 暑い夏の日、仏壇の前で汗をぬぐいながら心経を唱えていると一心に祈る奥さんの後ろ姿が浮かんでくる。私も奥さんと同じ年齢になったころ、夫のために祈った日々が思い出されてつい涙声となってしまう。

本文紹介 〜湯の峯温泉〜

2018-08-21 16:20:08 | 「土」226号
湯の峯温泉   坂 本 官 萬

 湯の峯温泉は今から一八〇〇年程昔に発見された「日本最古の温泉」と言われています。
 湯の峯温泉の名の由来は、源泉に含まれている硫黄の成分が大昔から噴出していて、その成分が薬師如来像の座像の姿に固まって、その胸部にあたる場所から源泉が吹き出していたことから、昔は「湯の胸温泉」と呼ばれていて、後に「湯の峯温泉」と呼ばれるようになった言われています。今でも当地の年配の人の中には「湯の胸」と発音する人もおります。
 その薬師像は、湯の峯温泉街の中心地にある東光寺に祭られていて年に一回、1月8日の初薬師の際に御開帳があるのですが、私はまだ拝見したことがありません。来年は必ず拝見させて頂きたいと思っております。
 この温泉に一四二三年(約600年前)常陸の国の城主であった小栗彦次郎平助重(小栗判官)が、戦に敗れ、落城し三河の一族を頼って落ち延びる途中、毒を盛られて瀕死の状態となって、部下や照手姫に土車で湯の峯温泉迄運ばれて「つぼ湯」に入り蘇生したという伝説も有名で、近くには、小栗判官が体力を回復し、力だめしに大きな円石を持ち上げたという「力石」と土車を埋めたといわれる「車塚」が祭られてあります。
 小栗判官が蘇生したと言われる「つぼ湯」は二〇〇四年に温泉としては初めて、ユネスコの世界遺産に登録されました。又、熊野本宮大社への参詣道も同時に登録されたため、日本はもとより、世界各国からの観光客が一気に増加しました。
 湯の峯温泉は、その「つぼ湯」と「薬り湯」、それに「一般公衆浴場」の三種類があります。
 まず、つぼ湯は湯の峯の街なかを流れる小さな湯の谷川の中にあり、つぼ湯を囲うように小屋を建てて、雰囲気の良い自然の岩肌をそのまま背景にして、ランプ式の電燈と灯し、脱衣場にはカゴを置いてあります。
 岩の自然にできた、直径が1.5m位の丸型で深さは3m以上ある穴になっていて、底の岩の割れ目から源泉が自然に湧き出しているのです。3mと深すぎるので、その底の方から、まず人の頭大の石を1m程入れ、次に小石(成人の握り拳大程)を1m程入れてから、玉砂利を30㎝程入れて、人の入れる深さに調整しているのです。
 毎日、夜10時に閉湯した後に、つぼ湯もポンプでお湯を全て吸い出して掃除をしますが、一年に2回、盆前と正月前には全ての温泉を一日休業にして、私達が大掃除を行います。その時の掃除というのが大変なことで、つぼ湯掃除担当の私達は鮎釣りをする時に着用する、いわゆる胴長の服を着用して、源泉が湧き出してくる中へ入り、ポンプで湯を吸い出しながら、玉砂利、小石、大石と、次々と外へ取り出しながら、全てをきれいに水洗いをして、岩穴もきれいに洗浄します。そして再び、その石を元のとおり、順番に納めていくのです。
 冬の場合も同じ作業で大変ですが、お盆前の7月後半の、この作業は熱地獄で胴長服の靴底には汗が「じゅくじゅく」に溜ってきます。
 「薬り湯」というのは、特に何かの薬草や薬が入っているのではなくて、90度近い源泉を温泉のある建物の裏側で、源泉が3t入るタンクの中にステンレス製のパイプを、くねくねと曲げて入れてあり、その中に冷水を通して源泉を44度から42度位迄下げて浴槽に入れ、いわゆる「源泉100%の湯」ということになり、大昔から神経痛、リウマチ、関節炎から火傷、切り傷その他、けっこう効果があるとされ、昔の人達が言い出した「薬の湯」が今でも呼び名として通用している訳であります。
 そして「公衆浴場」は源泉が高温のため、源泉約60%に冷水約40%を加水した温泉ですが、湯の花も多く含まれていて最高の温泉です。
 つぼ湯と薬り湯は石鹸、シャンプーは使用できません。入浴を楽しむだけです。公衆浴場のみが石鹸、シャンプー使用可能です。つぼ湯は先にも述べましたが、直径が1.5mしかありませんので、2人一組で入るのが理想でペアで入浴すると、身体が触れ合うことから、「子宝の湯」ということでも広く知られていて、1人770円で一組30分の貸切りとなっていて、外国人観光客にも人気があり、連日時間待ち状態となっています。ちなみに、薬り湯は370円、公衆浴場は250円です。
 湯の峯温泉は本宮町の四村川地区内にあって、四村川の財産である為、住人は公衆浴場のみは無料で入浴できるのです。私も大阪からUターンして早や13年になりました。私の住む仙人小屋にも、風呂はあるのですが当初から毎日、この温泉に通っています。
 私は大阪で34才の時、通風の発作を発症しました。右足親指の第一関節が突然腫れあがり、激痛の為七転八倒しました。病院で治療を受けましたが、3年後には足首へ、又10年後には膝へと上ってきて、発作が起こると膝がパンパンに腫れあがり、水がたまってその水を抜いてもらう時の痛さと気持ち悪さに、苦悩しました。しかし、この温泉に入るようになって、二年を経た後、一度も発作は発症しなくなりました。すでに11年を経た現在も健康そのものになりました。

第225号 目次

2018-07-09 14:45:36 | 「土」225号
      第225号 目 次


 春愁 ……………………………………………… 久 本 洋 文 …… 1
 義母と椿 ………………………………………… 城   皆 子 …… 3
 「学徒動員」逃亡記 …………………………… 長 井   準 …… 5
 父の晩年㈠ ……………………………………… 三ツ木 尚 子 …… 8
 奥三河の霊場・鳳来寺山
  ―真言宗五智教団本山― …………………… 笠 松 孝 司 …… 9
 検索の時代 ……………………………………… 津 守 晃 生 …… 11
 今年こそは ……………………………………… 國 友 チ ヨ …… 13
 猫嫌い …………………………………………… 平 野 雷太郎 …… 15
 田辺にいた独身時代 …………………………… 小 川   進 …… 17
 獣害と自然災害 ………………………………… 坂 本 官 萬 …… 19
 こころの風景 …………………………………… 鈴 木 輝 重 …… 21
 さあ、これからや(第3ステージ) ………… 中 本 八千子 …… 23
 八丈島に残る謡、「紀州舟」 ………………… 吹 揚 克 之 …… 25
 バリ島アグン山噴火・余話 …………………… 飯 森 矩 子 …… 27
 こころのこりの本 ……………………………… 上 原 俊 宏 …… 29
 「匂う」と「臭う」 …………………………… 砂 野   哲 …… 33
 出会い …………………………………………… 楠 本 嗣 子 …… 36
 平草原散策とさくら …………………………… 国 本 多寿枝 …… 37
 二刀流 …………………………………………… 弓 場 和 彦 …… 39
 最 期 …………………………………………… 花 光 賀 子 …… 41
 遊 学 …………………………………………… 吹 揚 克 之 …… 43
 敗戦の年の新京(現・長春)
    第一中学校道徳のO先生 ……………… 上 野   立 …… 45
 〝すごい日本男子T氏〟 ……………………… 西 村 佳 子 …… 47
 最近の喜びと怒りと …………………………… 三ツ木   望 …… 49
 カズオ・イシグロとの出会い ………………… 田 中 芳 子 …… 51
 ハーモニカ老人のひとり言 …………………… 松 嶋 吉 則 …… 53
 木洩れ日の墓 …………………………………… 長 井   瑛 …… 55
 田辺市に活気を ………………………………… 殿 山   清 …… 58
 あとがき ……………………………………………………………………… 58
 賛助会員・会員名簿 ………………………………………………………… 59
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  225号             平成30(2018)年5月

本文紹介 〜義母(はは)と椿〜

2018-07-09 14:45:18 | 「土」225号
義母と椿   城   皆 子

 毎年、三月になると向かいにある叔母の家の椿が咲きはじめる。八重の大輪で赤地に白のまだら模様の花は遠くからでもよく目立つ。
 この椿が咲きだすと、家の裏に義母が植えた椿のことを思い出す。
 私の家は、田辺市から車で一時間の山里にあるが、義母の実家はここからさらに三十分かかる山中にある。六十歳のころであったろうか、墓参りに行ったとき、先祖の墓所に赤と白の絞りの椿が咲いていたのを見てから
 「あんな美しい花、見たの初めてや」
と繰り返し話していた。
 その年の冬には、ついに墓所に落ちていた種子を数個拾ってきて庭に植えると言い出す。
 「墓にある木のものなど気持ちが悪い。縁起でもないものを屋敷内に植えるな」
 義父の反対するのを聞いていて、若いころ読んだ水上勉の自伝的著述の中の一文を思い出した。
 ある日、椿の根元で墓堀をしていた父親がしゃれこうべをさしだして語りかけた。
 「つとむよ、おぼえておけ、みんなこれやど。肉は、はやばやと花に化けよる。後の骨もまた土になって花になりよる」
 私の村もまだ土葬であったので、特に墓所の椿は気味悪かった。義母はといえば全く耳を貸すことなく裏の畑の隅に種子を埋めた。私は黒くて栗のように固い実からそう簡単に芽が出ることはないだろうと思っていた。
 三ヶ月ほどした春の日、義母が畑から手招きするので行ってみると、「あれ」と指さす先に三十センチほどになった苗が四本並んでいる。まさかと思いながら近づいて見るとつやつやした明るい緑色の葉は椿だ。やわらかい若葉をつけた苗木を守るかのように、周りの草を引いたり根元に土をかき寄せたりしはじめたのでつい私も手伝った。
 三年目には二メートルほどの大きさになり、四本とも蕾をつけた。膨らんでいく様子を見に何度も畑へ行っていたが、待ちわびていた最初の一輪は赤だった。次は次はと期待していたもののどれも皆赤一色で義母をがっかりさせた。翌年も咲き始めると見てくるたびに「やっぱり赤ばっかりやな」と半ばあきらめていたのか、笑いながら戻って来る。その後は、椿のことを口にすることはなくなった。
 義母が亡くなった年に、義母の実家の墓をお参りしたことがある。林道から狭い山道を登ると、杉林の中に幅三間ほどの区画の墓があり、江戸時代からある古い墓石が十数基並んでいる。墓所の入り口と背後に椿の木はあ
った。入り口の木の幹は三本に分かれていたらしいが、いちばん太い幹は途中から切られている。残りの二本は白っぽい幹をまっすぐに高く伸ばしていた。白の縦線がわずかにはしる紅色の八重の花は、杉の木陰の中でくっきりと美しく咲いていた。
 「ああ、これだったのか」
 あんな美しい花、初めて見たと繰り返していた顔が浮かんできた。
 「どれくらい経ってるんやろな。ずいぶん昔からあったんやろな」
 一緒に行ってくれた村のおじいさんが、切られた幹の周りをさすりながら言った。
 義母が自分の家の庭に植えたいとあんなにこだわったのは、美しさに魅かれただけのことだったのだろうか。
 旧家の長女であった義母は、田舎では満足な教育が受けられないと幼稚園から高等女学校まで遠く離れた市内の祖父母の家で育てられた。幼くして家族と引き離され、両親の愛情を受けることも少ない淋しい日々を送ったようである。そのためか嫁いでからも仏事以外で実家に行くことはあまりなかった。義母が還暦を迎えた頃、実家の母親も老齢になり「会いたい」としきりに言っているというのを聞いて、たびたび会いに出かけるようになる。彼岸の墓参りのときに咲いていたのがあの椿だった。
 今は山中の実家には祖母も叔父夫婦も亡くなり住む人もない。義母の二十五回忌も過ぎた三月の末、二十年ぶりに墓所の椿を見に出かけた。汗ばむような陽射しを受けて山桜満開の山道を車で走る。杉山に入り墓所の登り口で降りると、陽の光はさえぎられてひんやりとする。人ひとり通るのがやっとの急斜面の道には、くるぶしまで埋まるほど栗の枯葉が降り積もっていた。。墓地はきれいに掃除されていて、真新しい花が供えられていた。
 椿の花を探してみると高い梢に一輪だけ咲いていた。深みのある紅色の花びらにうっすらと走る白い筋。「控えめな美しさ」という花ことばにふさわしい花だ。この木の下で、義母も母親とふたりで掃除をしたり花を供えたりしながら語り合ったのだろう。
 義母の母親の句集をめくってみた
   落ち葉掃く中にころころ椿の実
 あの時の種子は、掃除をしながら親子で拾ったものだったのかもしれない。義父の反対を押し切って植え、開花を待ちわびて何度も畑に通っていた姿が目に浮かぶ。

本文紹介 〜獣害と自然災害〜

2018-07-09 14:44:59 | 「土」225号
獣害と自然災害   坂 本 官 萬

 昭和61年(一九八五年)10月6日、岩波書店発行(今から33年前)の広辞苑には「獣害」という言葉は表示されていません。その後、孫が買った平成24年(二〇一二年)3月11日発行の広辞苑に「獣害」が記述されています。
 そこには簡単に「猪、鹿、猿等の動物による農作物、樹木等の食害被害」とだけあります。
 今から33年前と言えば「土」の会員の皆さんも、それぞれ若さで活気に溢れ活躍されていた年代だったと思います(失礼!! 今も活躍されていらっしゃる方々も多いこと)。確かに私が子供の頃(昭和30年代)には、武住の集落は雑木林に囲まれた家の周辺に田畑があったのですが、猪、鹿、猿等の姿は見たくとも全く見かけることはありませんでした。
 当時の家族構成は、三世代の寄り合い世帯で、子供も多いところでは5〜6人居るのが普通で人口も多かったのと、まだガスもなく燃料は薪に頼るしかありません。そのため、山中にも多くの人々が出入りしたことや、人工林である杉、桧と雑木林の比率もバランスがとれており、動物達の食料も山に多くあった為に、人間と動物の棲分もうまくいっていたのでしょう。
 その調和がおそらく昭和35年頃以降から徐々に崩れだしたのだと思います。戦後の復興で活気づいてきた都市部への田舎の人々の移住が年々増加していき、田舎の過疎化が始まったのです。
 本宮町の昭和35年の国勢調査で、世帯数二二七五、人口九五九一、昭和40年、世帯数二一五四、人口五三九八、昭和45年、世帯数一九六二、人口六一四七、昭和50年、世帯数一八九四、人口五三九八、と自然減を含めても、この15年間で世帯数で三八一、人口ではなんと四一九三人(約60%減少)となってしまっています。
 都会へと移住した人々は、当時の国策でもあった杉や桧を「植えよ、植えよ」で山の植えられる全ての場所や、笑い話でもないのですが石だらけとか、岩のところにも、カゴに土を入れて背おって行き、そんな場所にも植えたという話もききました。勿論、田や畠にも植えて都会へと出て行ったのです。
 当時、私の親も同じで植林して奈良県斑鳩町へ移り住みました。
 こういう行動は日本全国で起きた現象だと思います。本来、杉や桧の植林は植えた後、成長に合わせて何年もかけ、間伐をくり返し、枝打ちもくり返し、雑木、草等の下刈りもして50年から80年のスパンで、やっと立派な材木として収穫できるのです。そのことは子どころか孫の代へと継いでいかねばならないのです。
 植えっぱなしで都会へと移住した人々は、そのまま放置して、今では50年から70年も経って放置林となり、密集したままで木は痩せ細り根も張れず、材木の価値は全くありません。そして日光がさし込めず広葉樹も生育できずに土地は保水力もなくなります。大雨が降れば一気に下へ流れ土石流の発生につながります。全国各地でそれは発生しているのです。又、花粉症の元凶ともなって医療費も莫大なものなのです。
 そして、雑木を切って杉、桧を植えた為、山中に食べ物のなくなった猪、鹿、猿等が山から人里に現われて農作物を食べるようになり、その味を覚えてしまうと山のドングリや木の実、木の根等は食べられなくなるでしょう。有田や田辺のみかんも猪がネットを破って被害が多くあるとのことですが、ネットの内側にはおいしい食べ物があることを学習しているとのこと。又、神戸では六甲山で観光客が猪に餌を与えるため、人間を恐れなくなり、街の中に出没するようになったということです。
 こんなことは、ほんの一例に過ぎず全国各地で発生していることでしょう。
  私はいわゆるUターンして本宮に住み着いて、今年で13年になりました。その間、地元の人に放置林を切ってもらい梅の木を50本程植え、あまり広くない畑も耕しています。又、梅だけでは色気がないので柿、みかん、スモモ、イチジク、ぶどう、栗等一、二本づつ植えました。
 そのため、多国籍軍の猛攻撃に遭いました。若い梅の小枝や葉は陸軍の鹿、野兎に食べられ、柿、栗、イチジク、スモモ等は猿、カラス、ヒヨ等のごちそうとなってしまいました。畑の野菜、芋類も全て攻撃の対象となっています。
 そこで2mの高さのネットを張り、私の住む仙人小屋を中心に畑とそれぞれ果実の木を全て囲い込んでしまいました。それで陸軍である猪、鹿、カモシカ、野兎等の進入は防げましたが、猿と空軍であるカラス、ヒヨ等は畑の天井の部分もネットを張りめぐらせ、やっと防御することができたのです。近所のみんなは口を揃えて、作物を作る意欲を失ってしまうと言うのが私も実感しました。
 しかし考えてみれば獣害にしても自然災害にしても、全て私達人間の営みに起因していることです。人間は自然を必要としますが、自然は人間を必要とはしていません。霊長といって何でも、やりたい放題やってはいけないと思います。地球は人間だけのものではないと言うことを肝に銘じるべきだと思います。

第224号 目次

2018-02-13 11:45:52 | 「土」224号
      第224号 目 次


 敗戦間近の新京(現・長春)
    第一中学校での出来事 ………………… 上 野   立 …… 1
 野菊の傍らに …………………………………… 城   皆 子 …… 3
 人生七十古来稀 ………………………………… 竹 中   正 …… 5
 私の「スタンド・バイ・ミー」 ……………… 鈴 木 輝 重 …… 7
 ベートーヴェンを聴きに ……………………… 田 中 芳 子 …… 9
 夜明けのウサギ ………………………………… 小 川   進 …… 11
 梛 ………………………………………………… 國 友 チ ヨ …… 13
 本宮町の「民俗昔話」⑵ ……………………… 坂 本 官 萬 …… 15
 「田辺に移住決意」の記事を読んで ………… 花 光 賀 子 …… 17
 さあ、これからや(退職の日編) …………… 中 本 八千子 …… 19
 朝の光の中で …………………………………… 上 原 俊 宏 …… 21
 要介護2に思う事 ……………………………… 国 本 多寿枝 …… 25
はじめてのエッセイ ……………………………… 三ツ木   望 …… 27
 戌(犬) ………………………………………… 弓 場 和 彦 …… 29
 年末随想 ………………………………………… 飯 森 矩 子 …… 31
 遥かなる鴨嘴 …………………………………… 長 井   準 …… 33
 田辺に引っ越して来るまでの話 ……………… 北 川 隆 春 …… 35
 残り火 …………………………………………… 楠 本 嗣 子 …… 37
 二回目の手術「急性虫垂炎」 …………………… 三ツ木 尚 子 …… 38
 私のおたから …………………………………… 吹 揚 克 之 …… 39
 不思議なこと …………………………………… 西 村 佳 子 …… 41
 有数の活火山・浅間山
  ―山麓に山岳信仰の歴史― ………………… 笠 松 孝 司 …… 44
 脳活の一環として ……………………………… 津 守 晃 生 …… 47
 夢 ………………………………………………… 久 本 洋 文 …… 49
 匂うと臭う ……………………………………… 砂 野   哲 …… 51
 クリとすごした十五年の日々 ………………… 平 野 雷太郎 …… 54
 兄の後を受け継いで …………………………… 殿 山   清 …… 59
 合評懇親会 …………………………………………………………………… 60
 お 礼 ………………………………………………………………………… 61
 あとがき ……………………………………………………………………… 61
 募集要項 ……………………………………………………………………… 62
 広 告 ………………………………………………………………………… 62


  224号             平成30(2018)年2月

本文紹介 〜クリとすごした十五年の日々〜

2018-02-13 11:42:26 | 「土」224号
クリとすごした十五年の日々   平 野 雷太郎

 「平野さん、辛いでしょうが、助かる命ではありません。これ以上の治療はかえって痛み苦しみを長引かせるだけで、かわいそうですよ。このあたりが思い切る時と違いますか」
 十五年この方、常に私の傍らにあって、生活と行動をともにしてきた、かけがえのない犬・クリの治療にあたってくれた獣医の厳しい宣告が、私に決断を迫っていた。
 〝ああ、ついにその時が来てしまったのか〟
 なんとか立ち直って、もういちど、元気に野山を駆けまわってほしいと願い続けた私の心に、この言葉が匕首でえぐるように〝グサッ〟と突き刺さった。
 歯茎に悪性の腫瘍が見つかって、治療のために何度かの通院を重ねていた。しかし、病状の進行はあまりに早く、呻き声ひとつたてず、じっと蹲ったまま、激痛を堪えているであろう姿、みるみる衰弱してゆく容態を、なす術もなく、ただ見守っているしかない。なにかほかにしてやれることはないのか、苛立たしさばかりが募り、自分の無力さがあまりにも情けなく腹だたしかった。
 〝あれほどの犬が、こんなにも………〟
 無慚な最後を見届けるにしのびず、獣医の言葉に同意し、白布に包まれて生花が添えられた屍を納めた柩を引きとって、森林組合の中番住宅に帰りついたのは、その日の午後もかなり遅くなってからであった。
 冷たく横たわるクリに、
 「俺が火葬して送ってやるからな」
 と語りかけ、組合の製材所から出た端材を集め、住宅横の広っぱに送葬の壇を組み終えたとき、春まだ浅い二月の夕闇があたりを包もうとしていた。
 そそくさと夕餉をすませ外に出てみると、すでに周辺は漆黒の闇、ピシッと肌に痛い寒気と、チカチカと瞬く満天の星の下、
 〝もう二度と、こんな犬と出会うこともないだろう〟
 ツーンと鼻の奥に熱いものがつきあげ、思わずホロッとなりそうな眼頭をおさえて、柩を据えた薪の山に火を点じたのだった。
 みるみる噴きあがる真っ赤な炎と、パチパチと弾けとぶ無数の火の粉のなかに、この犬と出会った日から、今日の別れまでの、いろいろなできごと、十五年にも及ぶなつかしい思い出が、次から次に脳裏に浮んでは消えていった。
 今から二十五年以上も前の、愛知県吉良町という小さな町で営んでいた園芸店でのこと、朝夕めっきり肌寒さを覚えるようになった、よく晴れた晩秋の昼下り、常連さんから差し入れのあった今川焼(大判焼とも回転焼ともいう)を頬張りながら、皆で園芸談義に興じていると、
 「あら、あんな処にちっちゃな犬が……」
 パートさんのびっくりしたような声で、入り口に目をやると、そこには暗い灰茶色をもっと黒っぽくした毛並、両の手の平を合わせれば、その中にスッポリ納ってしまいそうな、ごく小さな仔犬が、どこからきたのか、フラフラと迷いこんでくるところだった。
 小振りの三角耳はピンと立ち、白タビ(四肢の先端に白毛の生えたもの)も履かず、鼻梁はキリッと短く、鼻の頭は真っ黒、体躯もズングリと引きしまり、クルッと巻き上げた尻尾がなんともかわいらしい。毛色こそ違え純粋のシバの仔犬を思わせる、日本犬らしい特徴をしっかりと備えた、私好みのなかなかの雄の仔犬だった。
 尻尾を掴んで逆さ吊りにして「キャンキャン」悲鳴をあげるようでは、根性なしの駄目犬だと聞かされてきた。こいつどうだろうと試してみると「クスン」とも鳴かず、
 〝よし、これなら飼ってもいいだろう〟
 手荒さ極まるテストに合格したのであった。
 食べ残した今川焼の皮を与えたところ、よほど腹が減っていたのだろう、パクパクと実に旨そうに食う。飼うと決めたからには、またぞろどこかへ迷い出て行かれても困る。店備えつけの買物籠に入れ、レジ横に置いて様子を見ていると、腹かくちくなったかして、コロンと横になり、体をクルッと丸めるや、スヤスヤ寝入ってしまった。これがその後十五年あまり、家族の一員として起居をともにすることになったクリとの出会いであった。
 母が亡くなって間もない時で、身近で仔犬がコロコロと走りまわっていれば、それだけでも寂しさを紛らわせてくれるだろうと、室内で飼うことに誰ひとり異論をはさむ者もいない。
 それから数日のあいだ、尿意便意を催せば、クンクン鳴いて訴え失敗もなかったから、これはこれは躾いらずの、なんと賢い犬かと安心していた。ところがその矢先、あろうことか、母の法要のため仏壇前に置いた僧侶用の上等の座布団に、コッテリとウンチを垂れているではないか。裏をかかれたと腹がたつ前にあきれてしまい、
 「このバカタレが!!」
 首根っこを押えつけ〝落し物〟に鼻先をもってゆくと、
 〝こんなこと絶対やってはならんぞ〟
 ゴツンゴツンと頭を小衝いてやった。これに懲りたか室内での粗相はピタッとなくなり、室内犬としての身分は安泰となったのである。
 散歩中の拾い食いにしても、鉄は熱いうちに打ての言葉どおり、その都度その場で、思いっきりどやしつけると、悪癖となることなくすっかり影をひそめ、私たちが与えた餌以外は口にしなくなった。
 仔犬の成長は早く、二ヶ月もすると器用に階段を駆けあがって、長男のベッドにもぐりこみ、寝起きをともにするようになった。それからざっと一年、かなりの体躯の中型犬に成長していった。ひとつベッドで同衾してきた気安さから、ある日のこと、高校生だった長男が背後から馬乗りになって首筋に抱きついたことがあった。
 犬社会は序列が〝もの〟を言う。何頭かを一緒にすると、延々争いが続いて、強いものから序列が決ると、ようやくまとまった集団ができあがる。わが家の一員となって一年とたたないうちに、クリは主人の私を最上位、餌をくれる女房が次、三番目は自分、ふたりの息子たちなどは、箸にも棒にもかからぬ下っ端と格付けしてしまったようだ。
 犬は己の優位を誇示するため、下位に対してマウンティング・馬乗り行動をとる。これに従わぬものは手痛い目にあわされる。厳然たる牙の掟だ。クリにしてみれば、下っ端の息子風情がマウンティングとはなに様のつもりだとばかり、息子の頬にパクッと牙を立てた。一年も同衾していた者に対してこの仕打ち。実に気性激しく、気位の高い犬であった。
 見知らぬ来訪者には吠えたてるが「黙れ!!」のひと言で吠えやむし、鼻面に深い皺を寄せ、牙を剥き出しての憤怒の形相を見せることもなかったので、よもや他人に危害を加える振舞に及ぶとは思ってもみなかった。
 ある日、初めての配達人がやって来た。ひと言ふた言言葉を交したあと、細長い箱を手渡そうと、サッと差し出した。その動きがあまりに唐突だったため〝すわ一大事、御主人様が危ない〟とでも勘違いしたのだろう、それまでおとなしく傍らで腹這っていたクリが、いきなり彼の尻に歯を立てた。一族郎党を護るということに、これほど律義使命感いっぱいの犬でもあった。
 散歩が大好きで、外出時には、必ずリードで繋いだ。リード即ち散歩と心得て、繋がれることをことのほか喜んで、途中でこれを外し「お座り、待て」と命じておいて、かなりの距離をはなれる。追いかけようとウズウズし、何度か尻尾を浮かせる様が見てとれた。
 しかし、次の声がかかるまでは、その命には絶対服従。「よし来い」のひと声で、一陣の黒い風となってふっとんできて、繋いでやると、まるで私との一体感を楽しむように、歩調をあわせて一歩前をトットと歩いてゆく。他人様の目には忠犬そのものに映っていたに違いない。
 ところで、犬は人間の言葉をどこまで理解することができるのだろう。当時、食堂のテレビの横に石油ファンヒーターが据えられ、吹き出し口のまん前が彼の定位置。夏も冬もその前に蹲り、熱風で毛が焼け焦げる臭いに、
 「クリ、毛が焼けてるぞ」
 と声をかけると、やおら立ちあがり移動してゆく。
 テレビに映った犬たちの見事な芸に見とれて、
 「なんて上手なんでしょう」
 「仕込んだら、こいつもうまくやるだろうか」
 などと話しあっている私たちの声が届くと、しばらく画面に見入ったあと、いかにもバツが悪そうに、尻尾を垂れて、スゴスゴ別の部屋に隠れてしまうのだった。
 「俺たちのしゃべってる会話の中身、ちゃんとわかってるんと違うか。おまけに、恥ずかしいという人並みの感情までもってるみたいだ」
 そんな会話をしたことすらあった。
 名古屋の北、木曽川に近い扶桑町に引っ越したときも、散歩に出かけてあちらこちら引っぱりまわされて、帰り道がわからないまま、とうとう隣接する江南市まで連れていかれた女房。秋の陽は西に傾き、あたりには、はやばやと夕闇が迫ってきて、はじめての土地で尋ねる人もないまま途方にくれて、
 「クリちゃん、あんたのせいよ。家まで連れて帰って」
 と、泣き言を洩らすと、それこそ警察犬並みの嗅覚で帰り道を嗅ぎだして、引っ越したばかりの家まで、無事連れ帰ってくれた。女房からはそんな話も聞かされた。
 水遊びが大好きで、夏の暑い日の散歩では、田ん圃脇の水路に駆けこんでの水浴びが日課。本宮に移ってからも、住宅横を流れる三越川がお気に入りの遊び場で、拾った棒切れを川面に投げこむと、ザブッと流れに跳びこんで、銜えてきては私の足元に放り出し、もっとやれとばかりに目で訴え、「ワンワン」と吠えてはせがんだ。
 何度やっても厭きるということがない。それではと、小石を拾って浅瀬に投げこんでみた。勢いこんで川中に走りこんだものの、目当ての物が見当たらず、ブルブルと胴ぶるいで水を振りきって駆け戻る犬に、同じことを何度も繰返すと、そのうち、目指す獲物は水の底だと気付いたようだった。いくら水中に顔を突っこんで探したところで、見つけだせるわけがない。
 さて、どうするだろう。見ていると、水中の小石には目もくれず、近くに転がるよく似た小石を銜えると、さも探しだしましたとばかり、得意げに尻尾を振り振り走ってくるではないか。
 「お前って奴は、とんでもない悪智恵の働く犬だな」
 上機嫌の私は、二つ三つ首筋をポンポンと軽くたたいて労をねぎらい、このゲームを終りにしたのだった。
 こんなこともあった。組合住宅に入って間もなく、同僚のひとりが仕事中に、腕の骨を折ってしまった。
 「嫁さんに運転してもらって、病院に行ってくるあいだ、娘の花織を預かってはもらえないだろうか」
 こんな頼みで、生後三ヶ月か四ヶ月になったばかりの幼い娘を、しばらくのあいだ、半日だけ預かることにした。日がたつにつれ、この幼な児が私たちに妙に懐いてしまい、やがて、、年子で妹が生まれたりして、ついにはわが家へ入りびたりとなってしまった。孫娘のようなもので、毎日毎日、「ジジ、ババ」と遊びにくれば、かわいくてしかたない。
 この娘が三歳になったころ、
 「花織、クリちゃんとお散歩するの」
 と言い出して、リードを渡せと聞きわけがない。もしなにかの拍子にパッと走り出したりして、怪我でもさせたらと、ハラハラしながらすぐ後ろをついて歩く毎日が続くこととなった。
 当のクリはといえば、この娘も自分が護らなければならない郎党の一員として受け入れたようで、おぼつかないヨチヨチの歩みに合わせながら、諦めたようにトボトボと散歩のつきあいをしていた。はたして、犬にそれほどのやさしい気配りができるものか、信じられぬ思いの日々ではあったが、この犬ならそれくらいのことはやってのける、並はずれた能力が備わっていても不思議ではない。そんな感慨も深かった。
 こんなクリではあったが、老いて齢十五をこえるころから、めっきり体力が衰え、食欲もなくなって、そのうち、口のなかにガンが見つかった。
 近所でひとり住いをしていた下の息子が、貰いうけた仔犬を私たちに預けていったのは、ちょうどそのころのことだった。老いて衰えた犬の存在など知らぬげに、あたりをわがもの顔で駆けまわる仔犬の登場で、負けるものかと発奮したのか、わずかに元気を取り戻したかに見えたクリだった。が、その元気な姿も、消えゆこうとする生命が、最後にかいま見せた、ほんの一瞬のきらめきにすぎなかった。
 若いころ、読み耽った、ジャック・ロンドンの『白い牙』『荒野の呼び声』、フレッド・ギプソンの『黄色い老犬』、中野孝次の『ハラスのいた日々』、これらの小説に登場する魅力あふれる主人公の犬たち、彼らに負けぬ、人に誇れる一頭を手に入れてみたいという私の望みは、クリとの十五年に及ぶワクワクとした日々で、充分に叶えられた。
 楽しい出会いがあれば、又、悲しい別れも必然のこと、胸にこみあげる万感の思いをグッと堪えて、積みあげた薪に火を点じ、長いあいだのクリとのつきあいの最後としたのだった。

本文紹介 〜敗戦間近の新京(現・長春)第一中学校での出来事〜

2018-02-13 11:41:34 | 「土」224号
敗戦間近の新京(現・長春)第一中学校での出来事   上 野   立

   昭和二十年七月二十六日、米国大統領、英国首相及び中華民国主席の名において、ポツダム宣言がなされた。これは正式には「日本への降伏要求の最終宣言」と呼ばれ、全日本軍の無条件降伏等を求めた全十三ヶ条から成っている。
 他の枢軸国(日本の同盟国ドイツ、イタリア)が降伏した後も交戦を続けていた日本は、昭和二十年八月十四日にこの宣言を受諾し、八月十五日に敗戦に至った。
 しかし、受諾前の七月二十八日、鈴木首相は、「日本政府は共同声明(ポツダム宣言)を重大な価値あるものとは認めず、黙殺し、断乎戦争完遂に邁進する」と述べた。
 私は昭和二十年五月、新京第一中学校(以下・新京一中)に転入した。
 七月の末頃だったと思うが、奉天第一中学校から転任して来て間もない校長が全校生徒を講堂に集めた。全校生徒といっても、当時勤労動員で、三年生はいなかった。講堂は劇場型の立派な構造で、広く、後ろの方は段状に腰掛けが配列してあった。正面には演劇もできる舞台があり、前の方に演壇が置かれていた。
 私は一番後ろの方の腰掛けに座って、演壇に立った校長の話を聞いた。校長はポツダム宣言(ポッダム宣言と発音した)の十三ヶ条を逐条的に説明し、鈴木首相の「黙殺する」を引用し、「新京一中の生徒達も、いざという時は身を挺して戦い国を守ろう」という言葉で締め括った。
 校長の訓辞の後は、舞台で職員達による(生徒も手伝
ったかも知れない)劇が行われた。劇は「酒落男」と題する歌を昭和五年発売のレコードで演奏させながら行われた。その歌詞は次の通りだった。
 一俺は村中で一番 モボだといわれた男
  うぬぼれのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た
  そもそもその時のスタイル 青シャツに真赤なネク  タイ 山高シャッポにロイド眼鏡
  ダブダブなセーラーのズボン
 二吾輩の見染めた彼女 黒い瞳でポップヘアー
  背が低くて肉体美 おまけに 足までが太い
  馴れ染めの始めはカフェー この家は私の店よ  
  カクテルにウィスキー どちらにしましょう
  遠慮するなんて水臭いわ
 三言われるままに二三杯 笑顔につられてもう一杯
  彼女はほんのり桜色 エッヘッへしめたぞもう一杯
  君は知ってるかい僕の 親父は地主で村長
  村長は金持ちでせがれの僕は 独身でいまだに一人
 四アラマアそれは素敵 名誉とお金があるなら
  たとえ男がまずくても 私はあなたが好きよ
  おおいとしのものよ 俺の体はふるえる
  お前とならばどこまでも 死んでも離れはせぬ
 五夢かうつつかその時 飛び込んだ女の亭主
  ものもいわずに拳固の嵐 なぐられて吾輩は気絶
  財布も時計もとられ 大事な女はいない
  恐いところは東京の銀座 泣くに泣かれぬモボ

 原詞、原曲は一九二八年に米国で作られ、訳詞は坂井透で、二村定一によって歌われた。モボはモダンボーイの省略形で、大正から昭和初期にかけて最先端のファッションで都会を闊歩した若者を指す。セーラーのズボンは水兵服のズボンのように裾口の広がっているズボン。ポップヘアーは断髪のこと。
 レコードの歌に合わせて、適当な衣服をまとった男達と女装の男達がこの歌詞の通りの劇を演じた。
 生徒達はこれを喜んで見た。ところが、この劇が終ると、校長は厳しい口調で
 「日本が危機的状況にある時に、こんないい加減な劇を演じるとは何事だ。みんな深く反省しなさい」
とその場にいる人達を叱った。
 生徒達は
 「反省します」
 と一斉に立上って謝罪した。肩をふるわせて激しく泣いている生徒もいた。この時、私は一寸皆について行けないなと感じた。
 後で知ったのだが、校長はこのように怒ったが、当時とても利己的に動いていた。
 五月に三年生達は危険なソ満国境に勤労動員され、敗戦迄国境に釘付けになった。しかし、同じ三年生だった校長の息子は全く安全な別の地域に動員させた。
 日本が国を挙げて亡国の道を進んでいる時に、あのコメディをのびのびと演じて見せた職員達は賞賛に値すると思う。七十年経った今でも、あの劇の様子を鮮やかに思い出す。
 新京一中の前々校長は軍国主義とは反対のとても自由主義的色彩の濃い人だったため、当局は軍人を校長に任命したと聞いている。職員達は、前々校長の影響を大きく受けていたのだろうと想像する。

第223号 目次

2018-02-01 14:52:01 | 「土」223号
      第223号 目 次


 九月の季節は・・・ …………………………… 鈴 木 輝 重 …… 1
 わが家の猟犬 …………………………………… 平 野 雷太郎 …… 3
 庭のウグイス …………………………………… 城   皆 子 …… 5
 コーヒー店『ボォー』 ………………………… 津 守 晃 生 …… 7
 食べ物の話 ……………………………………… 國 友 チ ヨ …… 9
 かっこよいこと。 ……………………………… 久 本 洋 文 …… 11
 オペラ&歌謡曲 ………………………………… 西 村 佳 子 …… 13
 肥前、筑前の霊場・脊振山
   ― 今では国防レーダーの最前線 ― ……… 笠 松 孝 司 …… 15
 鯨 ………………………………………………… 弓 場 和 彦 …… 17
 南紀で出会った鳥獣たち ……………………… 三ツ木   望 …… 19
 田辺で3泊もするはめに ……………………… 竹 中   正 …… 21
 玄関の引き戸 …………………………………… 松 嶋 吉 則 …… 23
 敗戦時の新京(現・長春)、
     北朝鮮からの脱出 …………………… 上 野   立 …… 25
 私の第二の故郷 ………………………………… 国 本 多寿枝 …… 27
 希 望 …………………………………………… 上 原 俊 宏 …… 29
 毛沢東と遊撃戦 ………………………………… 小 川   進 …… 33
 友 ………………………………………………… 飯 森 矩 子 …… 35
 「匂う」と「臭う」 …………………………… 砂 野   哲 …… 37
 中秋の名月に想ふ ……………………………… 吹 揚 克 之 …… 41
 納涼茶会に寄せて ……………………………… 田 中 芳 子 …… 43
 本宮町の「民俗昔話」…………………………… 坂 本 官 萬 …… 45
 夢のはなし ……………………………………… 三ツ木 尚 子 …… 47
 義母を送って …………………………………… 花 光 賀 子 …… 48
 追悼  前川三千夫さん逝く ………………… 吹 揚 克 之 …… 49
 お 礼 ………………………………………………………………………… 50
 あとがき ……………………………………………………………………… 50
 賛助会員・会員名簿 ………………………………………………………… 51
 よみびとしらず ……………………………………………………………… 52
 広 告 ………………………………………………………………………… 52




  223号             平成29(2017)年11月