田辺随筆クラブ会員による季刊随筆誌

第235号 目次

2021-02-01 09:59:10 | 「土」235号
      第235号 目 次


 故郷 ……………………………………………… 久 本 洋 文 …… 1
 人の善意は断れない …………………………… 松 川 賀 子 …… 3
 教え子たちと …………………………………… 玉 井 済 夫 …… 5
 道 草 …………………………………………… 岩 本 幸 子 …… 7
 川上村、そして後南朝 ………………………… 竹 中   正 …… 9
 クマゼミ ………………………………………… 國 友 チ ヨ …… 11
 大切な友 ………………………………………… 竹 田 博 和 …… 13
 お霊供膳 ………………………………………… 城   皆 子 …… 15
 閉塞感からの脱皮 ……………………………… 田 中 芳 子 …… 17
 方向を考える …………………………………… 津 守 晃 生 …… 19
 ウイズコロナの時代 …………………………… 橋 本 恭 子 …… 21
 恵子さんの暮らし ……………………………… 三ツ木 尚 子 …… 22
 散歩の朝 ………………………………………… 上 原 俊 宏 …… 23
 姉の死 …………………………………………… 国 本 多寿枝 …… 27
 血液型Aタイプの気質と性格について⑶ …… 三 瀬 薫 紀 …… 29
 N男の初恋 ……………………………………… 三ツ木   望 …… 31
 姉の死 …………………………………………… 小 川   進 …… 33
 古本二冊の話 …………………………………… 吹 揚 克 之 …… 35
 山奥での生活⑵ ………………………………… 坂 本 官 萬 …… 37
 お墓参り今昔 …………………………………… 飯 森 矩 子 …… 39
 人間(コロナ禍に寄せて)……………………… 弓 場 龍 渓 …… 41
 札幌の四季(春と夏)…………………………… 砂 野   哲 …… 45
 お 礼 ………………………………………………………………………… 48
 あとがき ……………………………………………………………………… 48
 賛助会員・会員名簿 ………………………………………………………… 49
 会員募集・役員会のお知らせ ……………………………………………… 50
 広 告 ………………………………………………………………………… 50


  235号             令和2(2020)年11月

本文紹介 〜故郷〜

2021-02-01 09:58:31 | 「土」235号
故郷   久 本 洋 文

 この十月、台風十四号の大雨が降りしきるなか、宅配便で発泡スチロールの箱に氷に詰められた三十センチほどの二尾の鯛が届いた。
 やや黒味をおびて野生を残した形の魚で入りきれないのか、尻尾が切断されていた。父親の郷里、四国、愛媛県の南端の町から、十年来の知合いが、毎年季節ごとに、いろいろな海産物や鮮魚をおくってくれる。そのたびに私は故郷の味覚や、在りし日の思い出にしばらく酔いしれるのである。
 小学校に上がる前の半年余り、七歳であったか、私はこの父の郷里で祖母と叔母に囲まれて生活した。以来この土地が私の心の故郷になった。
 まだ現役で仕事をしていた頃、五十歳後半だから、三十年も前になる。突然、私の大阪の家に二人の見知らぬ来訪者があった。故郷の町の町長だという背の高い白髪の老紳士と少し若い国土交通省関係の人だった。
 数か月前に手紙がきて、私名義の土地の一部に幹線道路を敷設するので譲ってくれるようにとの要請だった。適当に処置してくださいと返事をだした。その交渉に、わざわざこられたのだ。
 話は土地のことは殆どなく、もっぱら町の様子ばかり。小さな昔の集落は合併して町になったとか、数年前に業者に頼んで壊してもらった家の跡地の様子など。
 気になったのは、この細身の老人は、私を名字ではなく名前を呼び捨てにするのだ。
「そうやろが、洋文」
 額の皺が濃く、初対面にしては遠慮なく方言が飛び出す。ふと気がついた。七歳のころに育った故郷での半年、さびしがりやの私を可愛がってくれた「醤油屋のお兄ちゃん」がいた。その人なのだと、思わず胸が熱くなった。
 今までに一度も思い出したことのないのが不思議だった。当時の記憶が一枚の写真のようにありありと脳裏に固定している。私を覚えてくれて、しかも名前まで。
 忘れていたとは言えなかった。
「子供の頃、いろいろ可愛がっていただいて」とおもわず声が出た。町長はほっそりした頬を少しやわらげて、私をみつめた。全然見覚えのない顔、すでに五十年ちかくなるのだから当然なのかもしれない。
 可愛がってくれたというただそれだけの思い出だが、懐郷のおもいを濃くして、二人の帰るのを見送った。
 やがて私は大阪の仕事をひきあげて、白浜に移住した。引っ越して八年目、また一通の手紙が届いた。
 家を壊したまま放置された空地に老人医療施設を建てたいとある。町ではなく、昔近所に住んでいた人の息子さんからだった。今後利用することはないと思うから、どうぞご自由にお使いくださいと返事を書いた。
 十日ほどして、車を走らせて、夫婦でこの白浜の我が家にやってきた。頑強な漁師の身体に故郷の方言が強いトーンで飛び出し、奥さんはよく笑う人だった。魚の養殖業で、手広く海産物を取り扱っているのだと。夜おそくまで談笑がつづいた。次の日手を振って帰っていった。
 数日後の電話で、私のことを「記念に一緒に撮った写真を祖母に見せたら、よう作兄に似ちょるのう、と言っちょりました」と方言交じりで話した。父の名は作吉で、近所の人は作兄と呼んでいた。その父親のことを知っている人がまだ存命で、私に似ているという。もう何歳になられるのか、嬉しくてたまらなかった。
 無事に老人施設が建ち、記念にと、季節ごとに鮮魚や海産物などを送ってくれる。今回は鯛が届いた。
 最近、中学時代からの友人に「お前、親父によく似てきたな」とつくづく顔を眺められた。高齢になると人間は親に似てくるものなのか、父親は七十二歳で逝ってもう三十年になる。脳出血の後遺症で八年間ほど寝たきりだった。病床で麻痺のない方の手をあげて顔の上で指を躍らせ、「こうやってグレを釣り上げる。グレは狡い魚だからなあ……」などと呟いていた。
「治ったら、郷里に帰って、伝馬舟で一日中釣りをする」
 これが口癖だった。
 父はいつも郷里の話をした。布団のなかで、弟と枕を並べて聞くのが子供の頃の楽しみだった。
「これが郷里の網だ」と木で支えた四角い捕虫網を作って、夕闇近い田圃に屯するギンヤンマを採りに一緒にでかけた。メジロを生け捕るために早朝、山に登った。小鳥をとる罠を仕掛けたり、キリギリスを採りに町はずれの土手を一緒に歩く。こうして、いつのまにか私の故郷は父親の幼い生活の思い出と重なっていった。
「海に出て釣りをしたい」という父の願いは、私を白浜に移住させた。小さな船で沖合で釣り糸を垂れる。
 ふと故郷とはなんだろうと思うことがある。産まれ育った大阪の思い出も多いのに、心の故郷はやはり父の郷里になる。
 私の家の二階の窓からは田辺湾がみえる。
「わしらの景色によう似ちょるの」と言ったのは鯛を送ってくれた夫婦が訪ねてきたときだった。
 今は壊して無い故郷の家、その二階の格子窓から、同じように屋並み越しに海の景色が見えた。

本文紹介 〜人の善意は断れない〜

2021-02-01 09:56:47 | 「土」235号
人の善意は断れない   松 川 賀 子

 函館から大きな冷凍の鮭が一尾、送られてきた。ちょうど出かける前に宅急便で届いたのだが、すぐには切れないし、冷凍庫はいっぱいで一尾そのままでは入らない。とりあえず箱から出して冷蔵庫の中に押し込み、急いで出かけたのだった。
 毎年お中元に送ってくれるのだが、よりによっていつも出かける前に「冷凍」で届く。お歳暮にと送られてくる鮭は「冷蔵」で、切身の粕漬けにしてあるのですぐに食べられる。その時は、
 「切身だと切らなくてもすぐに食べられるから有難いし嬉しいです」」
 と礼を述べつつ、口には出さないが一尾姿のまま頂いても切るのが大変なんですと、それとなく先方に伝えているつもりだった。
 ところが、今年の夏もやはりまな板からはみ出すような大きな鮭が送られてきたのだ。若い頃はさばくのもそれほど困らなかったのだが、年を重ねるにつれ力がなくなり、鮭の頭を切り落とすのも大変で、次は三枚におろすのだが包丁がなかなか進まなくなる。本来なら中骨にあまり身がつかないように切り込むのだが、まだ半解凍状態ということもあり、固くてうまくいかず中骨にぶ厚い身がついてしまう。
 帰宅後悪戦苦闘しているところへ、頂き物が届いたからとフルーツを持って、友人が訪ねてきてくれた。これ幸いと片身をそのままお福分けして事情を話した。
 「もう、切るのが大変だからこんなにたくさん頂かなくてもと、お礼の手紙でそれとなく伝えようかなと思うんだけど……」
 友人に相談してみると、
 「それはだめよ。有難く頂いておけば。うちなんかもそうよ。主人はアサヒしか呑まないって言ってるのに、違う銘柄のビールを送ってくれるのよ。私は呑めないし困るんだけどね。でもせっかく美味しくて珍しいものをと思って選んでくれているんだろうから言えないわ」
 そう言って諭された。
 もっともである。相手の気持ちを思うと、どんな切実な状況でも言葉に出せないことがある。
 小さい頃、お盆には母の実家に姉妹三人だけで泊まりに行った。大勢の親戚の人達で、どの部屋もいっぱいだった。
 祖母が作ってくれる混ぜ寿司は、甘辛く煮付けぶ厚く切った椎茸がたくさん入っていてとても美味しい。他にも刺身や茶碗蒸し、煮魚、酢の物などいろいろな御馳走が出されてお腹がいっぱいになってくるが、
 「おかわりしよしよ」
 祖母や伯母が忙しそうに大勢の親戚の人達の中を往き来しながら声をかけてくれる。
 「もういいです」
 と答えたけれど
 「遠慮せんと、ようけ(たくさん)食べよし」
 重ねて言われた。
 「そしたら少しだけ……」
 頷きながら伯母の顔を見ると、伯母は私の茶碗を手に
 「そんなこと言わんと、もっとようけ食べよしよ」
 にこやかな笑顔で答え、いっぱいに盛ってくれた。
 もうお腹いっぱいで食べられないからと告げたかったが、祖母や伯母が私達のために一生懸命作ってくれたであろう混ぜ寿司が、まだ半切りにたくさん残っているのを見ると、そんなことは口に出せなかった。
 相手の好意的な気持ちに接した場合、自分の本音を伝えられないものだ。二人目の子どもを妊娠した時もそうだった。近くの親戚の家を訪れ、いつもは玄関で用事を済ませるのだが、その日は部屋に通され叔母と話していると、若いお嫁さんがコーヒーを出してくれたのだ。妊娠中はコーヒーなど刺激物は良くないと思い、食べたり飲んだりは一切していなかった。だから
 「せっかく出して下さったのに申し訳ないけれど、お腹の赤ちゃんに良くないから」
 と言おうかと思い、喉まで出かかったけれどその言葉を呑み込み、まあ今日だけだからと思って頂いた。そのあと、育児書で赤ちゃんへの影響を読むにつれ、お腹の中の我が子に悪いことをしてしまったと後悔した。
 子どもが生まれてまだ赤ん坊だった時、親戚のMさんは私の家に来るたびにベビーカーに乗った赤ちゃんを抱き上げ、「高い高い」と自分の頭より高く上げたり下ろしたりを繰り返した。そんなことをしたらびっくりするしいやがるから「やめて」と言いたかったけれど、子どもが大好きで、喜ぶと思ってしているのであろう彼を見ていると、困った顔をするしかなかった。
 案の定、赤ん坊が泣き出しやめてくれたのだった。いつも言えずに、心の中で我が子に謝っていた。
 それから何十年も経って、今まで言えなかったことでも言えるようになったと思う。それでもやはり断れないこと、断らない方がいいこともあるのだ。相手はこちらが喜んでくれると思ってしてくれている。その、人の善意を喜ぶべきなのである。

第234号 目次

2020-08-29 15:00:36 | 「土」234号
      第234号 目 次


 何とかなるだろう ……………………………… 津 守 晃 生 …… 1
 ささやき ………………………………………… 砂 野   哲 …… 3
 肉球の黒い猫 …………………………………… 城   皆 子 …… 5
 山奥での生活 …………………………………… 坂 本 官 萬 …… 7
 山吹の花 ………………………………………… 岩 本 幸 子 …… 9
 コロナウイルス禍の日々 ……………………… 田 中 芳 子 …… 11
 ああ「県民の友」 ……………………………… 三ツ木   望 …… 13
 この町が好き …………………………………… 飯 森 矩 子 …… 15
 大砲巨艦主義 …………………………………… 上 原 俊 宏 …… 17
 驚天動地の二カ月 ……………………………… 竹 中   正 …… 21
 相棒 ……………………………………………… 竹 田 博 和 …… 23
 浪花節「沢市・お里の物語」
   ―大和の壺阪寺へ行く― ………………… 吹 揚 克 之 …… 25
 血液型Aタイプの気質と性格について ……… 三 瀬 薫 紀 …… 27
 遥かな飯田線 …………………………………… 小 川   進 …… 29
 新型コロナと私 ………………………………… 松 川 賀 子 …… 31
 新しい生活様式 ………………………………… 國 友 チ ヨ …… 33
 『恍惚の人』を読んで
    (有吉佐和子 著) …………………… 国 本 多寿枝 …… 35
 祥石山房 ………………………………………… 弓 場 龍 渓 …… 37
 伯母さんを訪ねて ……………………………… 三ツ木 尚 子 …… 40
 赤トンボ ………………………………………… 久 本 洋 文 …… 41
 桔梗………………………………………………… 中 本 八千子 …… 43
 お 礼 ………………………………………………………………………… 45
 合評懇親会 …………………………………………………………………… 46
 あとがき ……………………………………………………………………… 46
 賛助会員・会員名簿 ………………………………………………………… 47
 広 告 ………………………………………………………………………… 48


  234号             令和2(2020)年8月

本文紹介 〜山吹の花〜

2020-08-29 14:57:41 | 「土」234号
山吹の花   岩 本 幸 子

 四月四日の正午過ぎ、定期的に通院している眼科医院からの帰り、田辺にある「産直市場」に立寄った。
 コロナウイルス感染者が地方へも流行しはじめたので、外出ついでに一週間分の食料品を買溜めしようと、いつもより時間を費やして店を出た。
 それから二日後、新聞で田辺市内の男女がコロナウイルスに感染したことを知る。
 女性は私が立寄った所で勤務していた。すぐに店へ電話をすると、レジ担当だったと教えてくれた。
 あの日、この人から買物かごに山積した品物をレジ打ちしお釣を貰い、商品説明について会話までしている。
 家から遠く、年に数回しか利用しない店で、こんな偶然もあるのかと気が滅入り不安になった。数日すると咳が出るようになり、深呼吸すると背中まで痛くなる。
 三年前、風邪から肺炎を患い完治するまで三ヶ月近くかかったことがあって、いつの間にか仮想病に取り付かれてしまった。とりあえず人との接触を避け、二週間安静にして様子を見ようと、朝夕の検温、身体の状態を日記に記録した。
 発熱することもなく半月が過ぎた。もう大丈夫と思うと自然と身体が動き鼻唄まで出るが、何かしら不安。
 しばらく裏庭へ出なかった間に雑草が群がっている。
 狭い場所に、紫陽花、石蕗、君子蘭、カラー、アガパンサス等の枝や葉が重なり合った陰に、きみどりの小さい葉を付けた二十センチ程の細い茎を三本見つけた。
 「あれ、これは何の木」よく見ると山吹だ。
 三年前、知人宅を訪れたとき、玄関前の大きな木の枝に満開の黄色い花が揺らめいていた。
 「山吹きれいですね」と言うと、「よかったら小さい苗木あるから持って帰りなさいよ」と手渡してくれたものだ。
 その日のうちに、この場所へ植えたことを、すっかり忘れていた。
 大きく葉を広げた石蕗やカラーが場所を占領しているので、半分を取り除き陽が射し込むような空間を作った。根元の土を掘り返し、新しい土を盛り、素手でポンポンと根っ子を叩きながら
 「ごめん、三年間放ったままにして、今年は肥料をたっぷり入れたので、きれいな花を咲かせてね」
 汚れた茎と葉をジョウロの水できれいに洗い流した。
 小学二年生の頃のなつかしい想い出がある。
 クラスで何か部に所属することになっていて、美化部に入った。教室を美しくする方法はないかと思い巡らせていた。
 五月のある朝、祖母が畑から持帰った黄色い花が沢山付いた枝をバケツに入れていた。私はそれを五本貰い、新聞紙に包んで折れない様抱えて朝早く登校した。教室にはまだ誰も来ていなかった。
 新聞の包みを広げ、廊下窓側に吊してある花瓶に、水道から水を入れ花を挿した。三十センチ程の枝は花が重く枝垂れて美しい。やがて友人達が登校して来たけれど、誰も気が付く子はいなかった。
 授業開始のチャイムが鳴ると、騒々しかった教室が静かになって、担任の竹内先生が入って来られた。教壇に立って挨拶する前に、柱の方を見て「あら、きれいな花ね」と言った。
 「この花を持って来てくれたのは誰ですか」と笑いながらみんなを見廻している。
 背が高く色白で涼やかな目がとても眩しい。
 先生の視線を感じて、私は恥ずかしくなり紅潮した顔を上げることができない。
「この花の名前を知ってる人いるかな」やさしい声だ。
「知らん」
「知らん」みんなは口々に叫んだ。
「この花の名前はね、ヤマブキと言うのよ」
と教壇から花瓶の方へ歩いて行き
「今日はきれいな花をありがとう。朝から気持いいわ。それにとても上手に生けてるね」
 先生は当時二十歳位だった。窓から朝陽に照らされた横顔は、とても美しいと思えたのであった。
 六月に入ると我が家の山吹は肥料が効いたのか、二メートル近い高さに成長している。左右互い違いに葉が付きその葉の上に枝を伸ばし、何本にも枝分かれして四方に広がっている。
小雨降るある日の午後、窓の外を見ていると、山吹が小さい蕾をいっぱい付けているのに気がついた。
 ふと、正岡子規の歌を思い出した。
  ガラス戸のくもり拭えばあきらかに
        寝ながら見ゆる山吹の花
 もうすぐ山吹の花が咲くのはうれしいけれど、三十六歳の若さで逝った子規は病床のなか、苦しみに耐えながら、どのような気持で詠んだのだろうか。
 コロナで不要な外出はせず、家の回りや近所の庭を眺めていると、新緑の美しさに心ひかれる。
 やがて私も窓ごしに山吹の花を見るだろうなどと、ぼんやりと考えていた。

本文紹介 〜山奥での生活〜

2020-08-29 14:53:55 | 「土」234号
山奥での生活   坂 本 官 萬

 私は昨年11月発刊の「土」232号に「猪の恩返し」という題で投稿しました。内容は私の作った農作物を長い間にわたり猪にたらふく食べさせたので、そのお礼として私の知らない場所の土中にあった蒟蒻芋を、あちらこちらと掘りまくって1500個程、掘り出してくれたという意味のことを書いたのです。
 昨年11月26日を最後に5ヶ月間、進入はピタリと止まっていたのですが、今年春3月末、筍の出る季節となって再びあの悪夢の始まりとなってしまったのです。
 昨年、猪の進入を防ぐため家を囲んで周囲約300mの防護用ネットを更に補強する為に直径5㎜の鉄製ワイヤーメッシュを100枚余り買ってきてネットに張り付け、これで安心だと思っていたのですが、3月28日朝、庭から裏道へ行ってみると、その周辺が穴ぼこだらけに掘り返されていたのです。大きな穴をあけ周りは筍の皮が散乱し土や石が道を覆いつくしています。まだ土から上に出ていない筍を臭いでみつけて掘りまくり食べていたのです。それからが大変です。どこから侵入したのかと周囲300mのネット沿いに見て回らねばならず。傾斜地が多く足場の悪い崖っぷちもあるからです。
 今回は下の谷川から3m上に張りめぐらせたネットを押し上げて進入していました。そこを補強しておくと翌晩は別の場所の金属ワイヤーメッシュをグニャグニャに押し曲げて進入。知恵比べというよりは力比べということになっています。
 進入すると孟宗竹の林に入り大きな穴を掘って筍の根元のおいしいところから全てを食べてしまいます。孟宗竹の筍は大きなもので3kgから5kgもありますが、一晩で5本も7本も食べてしまいます。
 私の竹林は特に傾斜が急でほとんどが50度から60度程の崖になっていますので、そこに出た筍を掘りまくるので崖崩れが起きないかとの心配もあります。足場が悪いために私が入って間伐もなかなかできないために竹も外へ外へ拡張しようと、畑の方へも根を延ばしてくるので猪も畑近く迄きて、土の上に出る前に掘ってしまうので人間に届くのは限られてしまいます。
 そして何日となく進入され、それの阻止をくり返すうちに、ネットを破って入った跡がなくなっているにもかかわらず、毎晩筍をたらふく食べて帰り際には元、田圃であった場所で泥浴び迄して帰るようになり、揚句の果てには筍の一番おいしくて甘味のある根元から真ん中迄のみを食べて、先半分はアクが強いので残して帰るようにまでなったのです。あきれはてるばかりですが、放っておくことはできません。頼れるのは罠猟の免許を持つ友人です。
 猪の入る大きな罠を畑に仕掛けてもらい、今、猪がどこから進入しているのか調べてもらいました。何と、谷川の川岸から高さ2.4mの石垣の上が元、田圃であったその石垣をよじ登っていたのです。私が谷川の岸に立ち両手を挙げてみて、その上まだ40㎝程も届かないのです。その場所を何日間も登り下りをくり返していたらしいのです。これには私だけでなく友人も「こんなこと初めてや」と驚いておりました。よほど大きい猪のようです。
 そこで今度はトタン板を買ってきて、元、田圃であったところのアゼ道にトタンを敷き半分を石垣から谷川の方へ突き出したかたちにして上に重しとなる石を乗せ、アゼ道25m程に並べて登れないようにしました。これによって6月11日現在、やっと進入は止まりました。
 私は毎月一回、栗山医院で血圧を安定させる薬をもらいに行っていて先生と色々世間話をするなかで、前々から猪の被害のこと等も話題にしていたのですが、『土』を読んで頂いているので6月15日に行った時、先生から「和歌山県医報」第784号を私に見せて下さいました。
 こんな本を見るのは勿論私は初めてでした。その中に有田町に住む医師であり、みかん山を先代から受け継いで古稀を過ぎる年齢となっても医療とみかん栽培の両立をされておられる人が「この忙しさに追い打ちをかけるのがイノシシです。イノシシの通り道となった所は長年築き上げた段々畑が壊されます。ミミズを食べようと掘り返して畑も凸凹にされます。ミカンの木の根も切ってしまいます。イノシシが食べていたものは当初ミミズや所々に植えていたサツマイモやカボチャだったのが数年前からはみかんも食べるようになり、最初は落ちていたみかんを食べていましたが今では木になっているみかんも食べて枝を折ってしまいます。侵入防止の対策にトタン板100枚程でコツコツと山の周りを囲みましたが、下から持ち上げては侵入をくり返す。直径5㎜の鉄製ワイヤーメッシュと組み合わせて補強しても弱い場所を見つけては侵入をくり返します」とのことを書かれています。
 何と私と全く同じ悩みをかかえていたとは思いもよらぬことでした。勿論みかん栽培には剪定や肥料やり、消毒も何回か、収穫出荷と大変な重労働でしょう。「お医者さんでも私のやっていることと同じことをやっていて、悩みも同じなんだ」と思うと突然勇気が出てきたことは確かですが、野生動物との共存のむつかしさを実感させられたことも確かな事実です。

第233号 目次

2020-05-02 10:26:54 | 「土」233号
      第233号 目 次


 父の祈り ………………………………………… 岩 本 幸 子 …… 1
 新型コロナウイルス雑感 ……………………… 小 川   進 …… 3
 我が家の食事事情と
  コロナウイルス禍のこと …………………… 田 中 芳 子 …… 5
 生きる …………………………………………… 飯 森 矩 子 …… 7
 人それぞれに …………………………………… 津 守 晃 生 …… 9
 「淡嶋さん」は女の神様 ……………………… 松 川 賀 子 …… 11
 過ぎ来し方を振返って思う事 ………………… 上 野   立 …… 13
 憩室出血とサードライフ ……………………… 竹 田 博 和 …… 15
 じいじの膝 ……………………………………… 國 友 チ ヨ …… 17
 「大逆事件」犠牲者の墓参 …………………… 三ツ木   望 …… 19
 軽い印鑑 ………………………………………… 上 原 俊 宏 …… 21
 宝 物 …………………………………………… 坂 本 官 萬 …… 25
 立 春 …………………………………………… 弓 場 龍 渓 …… 27
 家庭科教師になって(二) …………………… 三ツ木 尚 子 …… 30
 ABO血液型と気質の関係⑴ ………………… 三 瀬 薫 紀 …… 31
 外国のトイレ雑記 ……………………………… 砂 野   哲 …… 33
 一億総マスクの世、二話 ……………………… 吹 揚 克 之 …… 37
 眼 病 …………………………………………… 国 本 多寿枝 …… 39
 青春グラフィティ
     世間はせまいよ ……………………… 長 井   瑛 …… 41
 青の思い出 ……………………………………… 城   皆 子 …… 43
 小さな花 ………………………………………… 久 本 洋 文 …… 45
 あとがき ……………………………………………………………………… 49
 広 告 ………………………………………………………………………… 50


  233号             令和2(2020)年5月

本文紹介 〜父の祈り〜

2020-05-02 10:26:29 | 「土」233号
父の祈り   岩 本 幸 子

 師走に入り庭の南天が赤くなるといつも父のことを想い出す。
 父が身体の不調を訴えたのは、私が高校一年生の秋だった。胃の調子が悪く一向に良くならないので、近くの市民病院で診てもらった。
 病院から帰宅した父は「先生が家族の人と話がしたいというので誰か行ってくれないか」と心配そうに話す。
 早速近くに嫁いでいる姉が病院へ急行し、先生から他院への紹介状をあずかってきた。母はいつまでも、帰宅する姉を玄関で待っているのだった。
 紹介された医大病院での精密検査の結果は、進行性の胃癌で、手術をして三年、そのままだと三ヶ月の命と告げられ、母は貧血を起こしその場へ座り込んだので姉が支えたという。
 私の下には、中学二年の妹と小学六年の弟がいる。それに二年前に脳梗塞で半身不随になった祖母の介護があり、これからの母の負担がどれ程大きくなるかと思うとつらくて涙が止まらない。
 数日後姉が「お父さん、検査の結果は胃潰瘍で簡単な手術だから心配しないで手術を受けようね」と説得する。
 十二月の初旬、今にも雨が降りそうな寒い朝、父は母と姉を伴って兵庫県立医大病院へ入院した。
 手術の結果は良好で、二週間を過ぎると粥を食べるまでに回復していると、付添っていた母から連絡が入ったときにはうれしさの余り、みんなで神棚に手を合わせた。
 年末、年始、母は家事と祖母の世話で付添ができなくなり、冬休みの間、私が病院へ行くことになった。少しばかりの身の廻り品と雑誌をバッグに詰め、母の手助けができるよろこびに胸をときめかして病院へ向かった。
 病室は四人部屋で、窓側の奥のベッドから父は私を見つけ「よう来てくれたな」とうれしそうに微笑んだ。
 同室の三人の患者さんは父より年配で、介護しているのはみんな奥さん。母よりずい分年上だ。私のような子どもの付添をかわいそうだと思ったのか、とても親切にしてくれた。
 病室では父のベット下の床に敷かれた畳一枚、そこに薄い布団を敷き毛布二枚を被って眠りに就く。消灯時間が告げられると黄色い豆電球が灯り、病院全体がシーンと静まり返る。隣りのベットから患者の大きな鼾が聞こえ眠ることができない。うつらうつらしているとかっての父との想い出がつぎからつぎへ浮かんでくる。
 小学三年のことだった。うっかりして窓ガラスを割り手首に破片が刺さる怪我をし、大量の出血にびっくりした母が外出していた父に連絡をした。
 夜九時過ぎ、隣の町の外科医院へ真っ暗な松林の中を自転車の荷台に乗せてもらって、ライトと月の光に照らされやっと辿り着いた時、父の激しい息使いが耳元で聞こえ額から汗の流れる姿に、私は傷の痛みを忘れた。
 抜糸するまで、自転車で仕事の合間をぬって学校まで迎えにきてくれ、毎日医院に通った。
 高校の制服を作るとき、わざわざ姫路の街まで連れて行って上質な生地を選んでくれた。
 入学式の朝、玄関に出て先に戸を開け「頑張れよ」とまぶしそうな顔をして送り出してくれる。
父の顔はいつもうれしそうに笑っていた。
 入院一ヶ月目の正月三日は風もなく暖かい日だった。
 「今日は気分が良いので湊川神社へ参拝に行こう」と急に父は言いだした。
 看護婦の許可を得、あわてて着替えの手伝いをする。
 結城紬の着物に黒マント、中折れ帽子、柾目の桐下駄。
 背が高く青ざめてはいたが、端正な顔立ちの父と一緒に歩くのが誇らしくとてもうれしかった。
 石畳を踏み締めながら本殿へと進むと、私はひたすら父の回復を祈願した。
 父は静かに目を閉じ、直立不動でいつまでも手を合わせている。そっと時計を見るともう十分以上もたっている。まるで根を張った樹木のような姿で祈り続けていた。
 父の後姿を眺めているとつらくて思わず目を逸らす。すぐ側の草むらの中の南天が風に揺られまっかな実が陽ざしを受け輝いていた。「きれいね」と心の中で呟いた。
 入院生活も五ヶ月が過ぎて四月末に退院することができた。しかし秋風が吹く頃、肝臓への転移が見つかり手術してから丁度一年後の十二月の夜半、五十八才で父は逝ってしまった。
 戦後、仕事の都合で満州から帰って来たのは、私が小学二年の春、思えば父と一緒に過ごしたのは八年余りの短い間で、毎日が楽しくて幸せだった。
 家族思いでやさしく、近所の人から慕われ、責任感が強く、五反もの田、畑仕事に精を出している逞しい姿は今でも私の理想の男性像になっている。
今年も庭の南天がたわわに実っているのを見ると、あの正月の父のことを想いおこす。
 みんなが隠していた癌のことを父は早くから知っていたのだと思う。死と向き合い、ひたすら家族の行末をお願いしてくれていたのだ。長い沈黙の祈りの姿は、六十年過ぎた今も忘れることができない。

本文紹介 〜「淡嶋さん」は女の神様〜

2020-05-02 10:26:08 | 「土」233号
「淡嶋さん」は女の神様   松 川 賀 子

 「淡嶋さん」を初めて知ったのは、母が入院した時でした。父亡きあと、家業の経営で苦労をし、無理を重ねたからでしょう。衰弱し、もう一匙の重湯さえ喉を通らないほどになっていましたが、私も妹も学生で姉も家業を任されており、病院の母に付き添うことができません。
 それで家政婦さんのお世話になったのですが、その人から聞いたのです。
 「お母さんの病気は血の道やと思うわ。昔、お産のあと養生せんと無理されたんやろうね。和歌山市にある、加太の淡嶋神社にお参りしたらきっと良くなると思うよ。『淡嶋さん』は女の神様やから、女の病気は必ず治してくれるんよ」
 調べてみるとその昔、神功皇后が三韓出兵からの帰り、激しい嵐に出合った時神に祈り、たどりついた島が友ヶ島で、その後、孫にあたる仁徳天皇が来られいきさつを聞き、お社を対岸の加太に移され社殿を建てられたのが加太淡嶋神社の起こりだとありました。
 御祭神は少彦名命と大己貴命、それに息長足姫命(神功皇后)で、少彦名命は医薬の神様であり特に女性の病気回復や安産、子授けなどに霊験あらたかと書かれています。
 藁をも掴む思いで、母の代わりに私がお参りすることになりました。加太の海岸沿いにある神社の鳥居をくぐると、参道は右に折れ、すぐに朱塗りの柱が美しい拝殿があります。
 受付で申し込みをし、拝殿の中に上がって御祈祷をして頂きました。それから日曜日など大学の休みを利用し、何度も通ううちに母は快復の兆しを見せ始めたのです。
 淡嶋神社に通ううちに、ふと自分の「月のもの」が短く楽になっていることに気づきました。お参りに行った時は「どうか母を助けて下さい」と一心に祈るだけでしたが、母を助けてくれたばかりか私にまで御利益があったのです。これはきっと「淡嶋さん」にお参りした人は誰でも助けてくれるに違いないと思いました。
 それから十年ほど経って、同じ県内に嫁いでいた妹から急に出産することになったと連絡が入ったのです。
 それまでの検査で、双子だから帝王切開することになるとは聞いていましたが、まだ33週です。それなのに血小板の数値が異常に低くなったのですぐに手術することになったと言われ、姉と私は急いで大学病院に向かいました。
 病院の薄暗い廊下の椅子で待っている間に、何時間経ったのでしょうか。わからないほど長い間、待っていました。途中で、
 「血が止まらないんです!家族の方早く来て下さい」
 と呼びに来られたので、姉と妹の夫が急いで手術室のある方へと駆けていきましたが、二人までと言われたため、私と妹の義母は一緒に行くこともできず、姉達の走り去る姿を見送るしかありませんでした。
 辺りは暗くなってきますが、姉達はいつまで経っても戻ってこないのです。もういてもたってもいられなくなった時に、淡嶋神社のことが頭に浮かびました。
 「私、淡嶋さんにお参りしてきます。きっと助けて下さると思うから」
 一緒に待っていた妹の義母にそう言うと、
 「私も行くわ。もう九時を過ぎてるし、暗いから女性一人では危ないわ」
 と言ってくれ、二人でタクシーを走らせたのですが、お義母さんも私も道中ずっと無言でした。
 神社に着き鳥居の外でタクシーから降りたあと、境内の薄暗い電灯に導かれるように、灯りに沿って小走りで拝殿に向かいました。
 社殿の正面にある鈴緒を掴み、思いきり鈴を鳴らして祈り、願を掛けたのです。夫を亡くした母に、娘にも先立たれる悲しみを絶対味わわせたくない、どんなことをしてでも妹を助けたいと思ったからです。
病院に帰ってしばらくすると、姉達がやっと手術室の方から戻ってきました。
妹は出血が止まらず、身体中の血液が全部出てしまうほど出血し、用意していた輸血用の血液すべてを使ってしまってもまだ止まらなかったため、看護士さん達が何人も献血して下さったそうです。
 手術室から妹が病室に戻ってきたのは、もう夜明け頃だったでしょうか。ベッドに横たえられた妹の表情は生きている人のものとは思えないほど疲れ切り、身体中に心電図などの機械が装着されていました。よく生きて戻
って来れたと心の中で手を合わし、妹の手をさすりました。
手術室で、妹は赤ちゃんが生まれてすぐに「見せて下さい」と言って二人の顔を見せてもらったそうです。それぞれの顔をしっかりと見て目に焼きつけ、
 (私はこの子達のために、何としてでも生きなければ。絶対に死ぬわけにいかない)
 と強く心に思った途端、意識がなくなったそうです。
 その時の双子の赤ちゃんは、共にすくすくと健康に育ち、今では妙齢の女性になっています。

第232号 目次

2020-03-21 14:28:05 | 「土」232号
      第232号 目 次


 東京飯場物語 …………………………………… 小 川   進 …… 1
 劇・忍び寄る悪徒 ……………………………… 津 守 晃 生 …… 3
 人 形 …………………………………………… 城   皆 子 …… 5
 猪の恩返し ……………………………………… 坂 本 官 萬 …… 7
 ご縁 終活その後 ……………………………… 飯 森 矩 子 …… 9
 イエヒメアリ …………………………………… 久 本 洋 文 …… 11
 山里に秋を訪ねて ……………………………… 國 友 チ ヨ …… 13
 風呂の話 ………………………………………… 砂 野   哲 …… 15
 公共放送 ………………………………………… 弓 場 和 彦 …… 19
 家庭科教師になって …………………………… 三ツ木 尚 子 …… 22
 ふるさと ………………………………………… 岩 本 幸 子 …… 23
 私と家族の健康に関わる思い出 ……………… 上 野   立 …… 25
 旅の空Ⅱ  ………………………………………… 上 原 俊 宏 …… 27
 華岡青洲の里と高野山 ………………………… 国 本 多寿枝 …… 31
 幼稚園質問コーナー …………………………… 松 嶋 𠮷 則 …… 33
 千世子さん ……………………………………… 中 本 八千子 …… 35
 同窓会の一幕、部活の一端 …………………… 吹 揚 克 之 …… 37
 名前 ……………………………………………… 松 川 賀 子 …… 39
 好きなもの ー ファミリースキー ………… 竹 田 博 和 …… 41
 投書した「声」ふたつ ………………………… 三ツ木   望 …… 43
 田辺・弁慶映画祭 ……………………………… 田 中 芳 子 …… 45
 僕の正月五日間 ………………………………… 竹 中   正 …… 47
 合評懇親会 …………………………………………………………………… 49
 あとがき ……………………………………………………………………… 49
 広 告 ………………………………………………………………………… 50


  232号             令和2(2020)年2月