※ 以下の内容は、非常に個人的な興味・関心から書いております。また、専門家ではないため、間違い等もあるかと思いますが、ご了承ください。 ※
盛岡に、茶畑という地名がある。
現在の茶畑は、決して茶畑があったようには思えないある程度栄えているところである。
サザンパレスという結婚式場、タルトタタンという岩手では有名なケーキ屋さんがあり、「茶畑交差点」というと、国道4号線と、宮古方面へいく国道106号線が交差する場所であり、また、盛岡市内を走るバスも「茶畑営業所」行きというものがあるなど、茶畑は交通の要所ともいえるだろう(バスの本数はびっくりするくらい少ないが)。
さて、ここで疑問が生じる。
「なぜ『茶畑』というのだろうか」
という疑問である。
一番考えられるのは、昔、ここに茶畑があったということである。
以下のニュースをご覧いただきたい。
<盛岡市茶畑で茶摘み きのう八十八夜>2006年5月3日
盛岡タイムスwebニュースより
「盛岡市茶畑のサザンパレスで2日、八十八夜の茶摘みが行われた。サザンパレス前の茶畑は地名の由来を現代に伝えようと作られた。・・・・(中略)茶畑の地名の由来はサザンパレス付近に茶畑が広がっていたことに由来し、南部信直公の時代にさかのぼる。・・・・(中略)400年前にお城を建てたときの茶畑は2年ほどで失敗したと言われているが、・・・・(後略)」
(http://www.morioka-times.com/news/2006/0605/03/06050302.htm)
盛岡は城下町なので、昔の地名を由来にした町名が多い。
たとえば、鉈屋町、紺屋町、材木町などである。
また盛岡の中心部には「盛岡城跡公園」(元岩手公園)がある。これは南部藩の城があったところである。(現在は城壁しか残っていない)
ニュースに出てくる南部信直公とは、南部氏第26代当主で1546年生、1599年没。南部氏中興の祖と言われる人物だという。驚いたことに、現在の岩手郡一方井で生まれたという。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%9B%B4)
1500年代は、盛岡は温かかったとでもいうのか。
それとも温室でもあったのだろうか。
つまり、ここで、一般的に、岩手のような寒い土地でお茶が育つのだろうかという問題が出てくる。
そこで今回は、「茶畑」という地名にスポットを当てて書いてみたいと思う。
まず、お茶の生育条件についてみていきたいと思う。
ここで、茶というのは、緑茶などを作る「チャノキ」(学名はCamellia sinensis O.Kuntze。ツバキ科の常緑の潅木(低木)。発祥地は中国南西部の亜熱帯地方といわれている) であることを断っておく。
調べたところ、茶というのは、比較的温暖な気候で、朝晩の寒暖の差が激しく、朝霧がかかり、水はけのよい土地でよく育つものだという。お茶の名産地である静岡は、その条件に見事に合致しているところらしい。
また、細かく言うと、お茶は霜に弱く、そのため、静岡の茶畑には霜を拡散させるというプロペラのような、かざぐるまのようなファンが至るところに取りつけられているのが見られる。
さらに、一般的な作物の好むpH6〜7より低いpH4〜5程度の弱酸性になっていることなども必要になってくるという。
「比較的温暖な気候」というのはだいたい何度くらいのことを指すのだろうか。
㈱伊藤園のHPを参照すると以下のような記述がある。
「年平均気温が12.5~13度以上であること。14~16度が適温。」
「冬季の最低気温は低くても-11~-12度以上で-5~-6度以上が理想。」
「耐寒性の強い品種でも-15度、1時間で葉枯れを起こします」
(http://ocha.tv/production/cultivation/index.html)
さて、ここで岩手県盛岡市の平均気温と冬期間の最低気温を見てみよう。
1971年~2000年の平均値を見てみると、
「平均気温:10.0」
(http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=33&prec_ch=%8A%E2%8E%E8%8C%A7&block_no=47584&block_ch=%90%B7%89%AA&year=&month=&day=&elm=normal&view=)
とある。
つまり、この時点で、盛岡というところはお茶の生産には向いていないということがわかる。
念のため、ここで冬期間の最低気温を見てみよう。
同じく1971年~2000年の12月から2月の記録を見てみると、
「-1.0」
(http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_3m.php?prec_no=33&prec_ch=%8A%E2%8E%E8%8C%A7&block_no=47584&block_ch=%90%B7%89%AA&year=&month=&day=&elm=normal&view=)
とある。
また、過去最低気温は、1945年1月26日の-20.6度であるという。
かろうじて冬期間の平均気温はクリアしているように見えるが、最低気温が条件に当てはまっているとは言えない。
また、岩手県は、冬期間は積雪がある。
そこから考えても、岩手県はお茶の生産に向いている土地は言えないであろう。
最近では、盛岡でも地球温暖化の影響を受けていると言える。
30年以上前から岩手県に住んでいる人の多くは、
「小さい時は、高松の池でスケートができた」
と言う。
高松の池とは、岩手県でも有数の白鳥飛来地で、毎年多くの白鳥が北方から来ることでも有名である。
その池は、現在ではスケートリンクなど存在せず、当然、冬期間も水上には立ち入り禁止である。
一見すると凍っているように見えるが、実は氷はあまり厚くなく、人が降り立つと割れてしまう可能性があるからだそうだ。
そのような場所でスケートができたということは、当時はとても氷が厚かったということで、現在よりも気温が低かったのではないかと容易に想像がつく。
(きちんとしたデータが存在せず、申し訳ないと思う)
また、気象庁のデータを見てみても、「日最低気温TOP10」の中に入っているのは、だいたい1940年代から1960年代である。
そのため、現在では茶畑があったころよりも気温が高くなっているのではないかと予想が付く。
※現在、盛岡市内の冬期間平均気温は大変低いものとなっています。それは、玉山村と合併し、本州で一番寒いと言われている藪川を含んだからであり、岩手県の天気予報は、盛岡と藪川を分ける措置がとられているようです。
そのような土地で南部信直公はなぜお茶づくりをしようとしたのだろうか。
以下に興味深い記述を発見したので、掲載しておく。
「南部の殿様が、盛岡に町をつくった時、地元で身近にお茶を手に入れたいため、栽培のために呼んだお茶屋さんは、四ツ家に一件家をいただきました。
茶畑を設けて栽培をはじめますが、寒い東北ではお茶が育ちません。
お茶栽培はあきらめざるを得ない結果となりましたが、「茶畑」「四ツ家」は古い地名として盛岡の地に残っています。」
(http://taka-34.at.webry.info/200706/)
さて、上記文中に見られる「南部の殿様」とは「南部家」のことであり、そのルーツをたどると「甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲む」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E8%97%A9)ということらしい。
山梨というと、静岡の隣県である。
また、静岡でお茶の生産が始まったのは、「13世紀頃、聖一国師という 高僧が静岡市足久保に種を蒔いた」(http://www.city.shizuoka.jp/deps/norin/tea/)ことがきっかけだという。
実は南部信直は盛岡城を建設したが、城が完成する前にこの世を去っている。
南部信直は岩手郡の生まれだということのため、お茶畑を見て育つということはなかったかもしれない。しかし、お茶を飲むことが習慣化しており、南部家に代々伝わる習慣であったことは容易に想像がつく。
そのため、岩手生まれの信直公にもそのような習慣があった。
そこで、城をつくるにあたり、身近で新鮮なお茶を作り、飲むことができたらいいと思ったのではないだろうか。
残念ながら、信直公は完成した城を見ることができず、また、お茶づくりも2年で失敗しているとのこと。
しかし、地名だけは残そうとして、今現在の「茶畑」があるのではないか。
そう考えると、信直公の思いと、無念さが伝わってくる地名である。
また、いまだにこのような地名が残っていることを考えると、岩手県の南部家に対する思いというのがどうだったのか、伝わるような気もしてくるのである。
ちなみに、お茶づくりの北限とも言われているお茶が、
秋田県にあるという。
その名も「桧山茶」
また、もうひとつ、現在でも、岩手県ではお茶づくりが行われているところがあるという。
それは、陸前高田で行われており、その茶の名前は「けせん茶」という。
どちらも「北限のお茶」と称しているようだが、私としてはどちらでもよい。
どちらでもよいから、一度飲んでみたいと思う。
<参考URL>
気象庁
盛岡地方気象台
盛岡タイムスwebニュース
wikipedia
お茶百科(㈱伊藤園)
何時半次郎のKenBunLog
おちゃの国しずおか
奈良県:お茶の木を植えてみませんか
日本茶業中央会
盛岡に、茶畑という地名がある。
現在の茶畑は、決して茶畑があったようには思えないある程度栄えているところである。
サザンパレスという結婚式場、タルトタタンという岩手では有名なケーキ屋さんがあり、「茶畑交差点」というと、国道4号線と、宮古方面へいく国道106号線が交差する場所であり、また、盛岡市内を走るバスも「茶畑営業所」行きというものがあるなど、茶畑は交通の要所ともいえるだろう(バスの本数はびっくりするくらい少ないが)。
さて、ここで疑問が生じる。
「なぜ『茶畑』というのだろうか」
という疑問である。
一番考えられるのは、昔、ここに茶畑があったということである。
以下のニュースをご覧いただきたい。
<盛岡市茶畑で茶摘み きのう八十八夜>2006年5月3日
盛岡タイムスwebニュースより
「盛岡市茶畑のサザンパレスで2日、八十八夜の茶摘みが行われた。サザンパレス前の茶畑は地名の由来を現代に伝えようと作られた。・・・・(中略)茶畑の地名の由来はサザンパレス付近に茶畑が広がっていたことに由来し、南部信直公の時代にさかのぼる。・・・・(中略)400年前にお城を建てたときの茶畑は2年ほどで失敗したと言われているが、・・・・(後略)」
(http://www.morioka-times.com/news/2006/0605/03/06050302.htm)
盛岡は城下町なので、昔の地名を由来にした町名が多い。
たとえば、鉈屋町、紺屋町、材木町などである。
また盛岡の中心部には「盛岡城跡公園」(元岩手公園)がある。これは南部藩の城があったところである。(現在は城壁しか残っていない)
ニュースに出てくる南部信直公とは、南部氏第26代当主で1546年生、1599年没。南部氏中興の祖と言われる人物だという。驚いたことに、現在の岩手郡一方井で生まれたという。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%9B%B4)
1500年代は、盛岡は温かかったとでもいうのか。
それとも温室でもあったのだろうか。
つまり、ここで、一般的に、岩手のような寒い土地でお茶が育つのだろうかという問題が出てくる。
そこで今回は、「茶畑」という地名にスポットを当てて書いてみたいと思う。
まず、お茶の生育条件についてみていきたいと思う。
ここで、茶というのは、緑茶などを作る「チャノキ」(学名はCamellia sinensis O.Kuntze。ツバキ科の常緑の潅木(低木)。発祥地は中国南西部の亜熱帯地方といわれている) であることを断っておく。
調べたところ、茶というのは、比較的温暖な気候で、朝晩の寒暖の差が激しく、朝霧がかかり、水はけのよい土地でよく育つものだという。お茶の名産地である静岡は、その条件に見事に合致しているところらしい。
また、細かく言うと、お茶は霜に弱く、そのため、静岡の茶畑には霜を拡散させるというプロペラのような、かざぐるまのようなファンが至るところに取りつけられているのが見られる。
さらに、一般的な作物の好むpH6〜7より低いpH4〜5程度の弱酸性になっていることなども必要になってくるという。
「比較的温暖な気候」というのはだいたい何度くらいのことを指すのだろうか。
㈱伊藤園のHPを参照すると以下のような記述がある。
「年平均気温が12.5~13度以上であること。14~16度が適温。」
「冬季の最低気温は低くても-11~-12度以上で-5~-6度以上が理想。」
「耐寒性の強い品種でも-15度、1時間で葉枯れを起こします」
(http://ocha.tv/production/cultivation/index.html)
さて、ここで岩手県盛岡市の平均気温と冬期間の最低気温を見てみよう。
1971年~2000年の平均値を見てみると、
「平均気温:10.0」
(http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=33&prec_ch=%8A%E2%8E%E8%8C%A7&block_no=47584&block_ch=%90%B7%89%AA&year=&month=&day=&elm=normal&view=)
とある。
つまり、この時点で、盛岡というところはお茶の生産には向いていないということがわかる。
念のため、ここで冬期間の最低気温を見てみよう。
同じく1971年~2000年の12月から2月の記録を見てみると、
「-1.0」
(http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_3m.php?prec_no=33&prec_ch=%8A%E2%8E%E8%8C%A7&block_no=47584&block_ch=%90%B7%89%AA&year=&month=&day=&elm=normal&view=)
とある。
また、過去最低気温は、1945年1月26日の-20.6度であるという。
かろうじて冬期間の平均気温はクリアしているように見えるが、最低気温が条件に当てはまっているとは言えない。
また、岩手県は、冬期間は積雪がある。
そこから考えても、岩手県はお茶の生産に向いている土地は言えないであろう。
最近では、盛岡でも地球温暖化の影響を受けていると言える。
30年以上前から岩手県に住んでいる人の多くは、
「小さい時は、高松の池でスケートができた」
と言う。
高松の池とは、岩手県でも有数の白鳥飛来地で、毎年多くの白鳥が北方から来ることでも有名である。
その池は、現在ではスケートリンクなど存在せず、当然、冬期間も水上には立ち入り禁止である。
一見すると凍っているように見えるが、実は氷はあまり厚くなく、人が降り立つと割れてしまう可能性があるからだそうだ。
そのような場所でスケートができたということは、当時はとても氷が厚かったということで、現在よりも気温が低かったのではないかと容易に想像がつく。
(きちんとしたデータが存在せず、申し訳ないと思う)
また、気象庁のデータを見てみても、「日最低気温TOP10」の中に入っているのは、だいたい1940年代から1960年代である。
そのため、現在では茶畑があったころよりも気温が高くなっているのではないかと予想が付く。
※現在、盛岡市内の冬期間平均気温は大変低いものとなっています。それは、玉山村と合併し、本州で一番寒いと言われている藪川を含んだからであり、岩手県の天気予報は、盛岡と藪川を分ける措置がとられているようです。
そのような土地で南部信直公はなぜお茶づくりをしようとしたのだろうか。
以下に興味深い記述を発見したので、掲載しておく。
「南部の殿様が、盛岡に町をつくった時、地元で身近にお茶を手に入れたいため、栽培のために呼んだお茶屋さんは、四ツ家に一件家をいただきました。
茶畑を設けて栽培をはじめますが、寒い東北ではお茶が育ちません。
お茶栽培はあきらめざるを得ない結果となりましたが、「茶畑」「四ツ家」は古い地名として盛岡の地に残っています。」
(http://taka-34.at.webry.info/200706/)
さて、上記文中に見られる「南部の殿様」とは「南部家」のことであり、そのルーツをたどると「甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲む」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E8%97%A9)ということらしい。
山梨というと、静岡の隣県である。
また、静岡でお茶の生産が始まったのは、「13世紀頃、聖一国師という 高僧が静岡市足久保に種を蒔いた」(http://www.city.shizuoka.jp/deps/norin/tea/)ことがきっかけだという。
実は南部信直は盛岡城を建設したが、城が完成する前にこの世を去っている。
南部信直は岩手郡の生まれだということのため、お茶畑を見て育つということはなかったかもしれない。しかし、お茶を飲むことが習慣化しており、南部家に代々伝わる習慣であったことは容易に想像がつく。
そのため、岩手生まれの信直公にもそのような習慣があった。
そこで、城をつくるにあたり、身近で新鮮なお茶を作り、飲むことができたらいいと思ったのではないだろうか。
残念ながら、信直公は完成した城を見ることができず、また、お茶づくりも2年で失敗しているとのこと。
しかし、地名だけは残そうとして、今現在の「茶畑」があるのではないか。
そう考えると、信直公の思いと、無念さが伝わってくる地名である。
また、いまだにこのような地名が残っていることを考えると、岩手県の南部家に対する思いというのがどうだったのか、伝わるような気もしてくるのである。
ちなみに、お茶づくりの北限とも言われているお茶が、
秋田県にあるという。
その名も「桧山茶」
また、もうひとつ、現在でも、岩手県ではお茶づくりが行われているところがあるという。
それは、陸前高田で行われており、その茶の名前は「けせん茶」という。
どちらも「北限のお茶」と称しているようだが、私としてはどちらでもよい。
どちらでもよいから、一度飲んでみたいと思う。
<参考URL>
気象庁
盛岡地方気象台
盛岡タイムスwebニュース
wikipedia
お茶百科(㈱伊藤園)
何時半次郎のKenBunLog
おちゃの国しずおか
奈良県:お茶の木を植えてみませんか
日本茶業中央会