
幼少/青年期
1968年、三人兄弟の長男として、岐阜県多治見市で生まれた。幼少の頃は父親に対する恐怖心があり、何らかのことを相談する際は、母親ばかりがその相手であったという。 岐阜県立多治見工業高等学校に入学し、在学中にバンドを始めた。同校のデザイン科を卒業し、工場へと就職する。
黒夢
黒夢以前に在籍したバンドはGARNET、SUS4等。
1991年に愛知県名古屋市を拠点として、清春と臣を中心に人時、鋭葵と共に結成。黒夢の興りであった。
バンド名の意味は『夢がない』『夢は叶わない』と言う意味とされているがこれは後付けであり、黒夢結成当時周りのヴィジュアル系バンド(当時は『化粧系』と言われていた)のバンド名の殆どが主に英語やフランス語等を使用した清春曰く『ラ行が多い』物であった事から、清春自身が『絶対に漢字がいい』と、前身バンドGARNETの楽曲であった『黒夢』をバンド名にする事を決めた事による。
中京圏を中心としてインディーズでの活動を続け、レンタルビデオ店やラブホテル等でアルバイトをしながらミュージシャンを目指していた。
ミュージシャンになれなかったら板金屋の実家を継ぐ予定であったが、25歳のときに黒夢のヴォーカルとしてメジャー?デビューを飾った。当時のライブのMCでは、『皆様のおかげで僕も芸能人になりました』と冗談交じりに語っている。
インディーズの時代から続いて1990年代の序盤までは今に言うヴィジュアル系と見做される外貌を保持していたが、この年代も中盤に近づく頃からしだいに化粧を落とし始め、黒夢のヴォーカルとしての活動の傍ら、一種のファッション?リーダーとしての人気を一身に集めてゆく。
特に当時はクロムハーツとの親和性が高く、清春といえばクロムハーツ、クロムハーツといえば清春、と謳われるほどであった。
独自のファッションブランド?S.A.D.;Sadistic And Dangerousを立ち上げ、数多のファッション雑誌のなかでも『古着系』と言われるAsayanなどにも頻繁に登場し、特に青少年の年頃の男子達からのカリスマ的な支持を受けつつ活動を続けた。
黒夢の終焉
おびただしい数のライブをその柱として活動を続けた黒夢であったが、1999年に至って突如『無期限の活動停止』を発表し、事実上の解散状態となった。 そんななか黒夢のサポートミュージシャン?坂下たけともらと共にSADSを結成する。
そして無期限の活動停止から丸10年、2009年1月29日の日本武道館にて黒夢一夜限りの復活、そして解散ライブが敢行された。
[アーティスト名] 清春
[タイトル] 黒夢 SELF COVER ALBUM 「MEDLEY」
[CD番号] AVCD-23813
[発売日] 2009-01-28
1 FOR DEAR
2 ICE MY LIFE
3 優しい悲劇
4 MISS MOONLIGHT
5 HAPPY BIRTHDAY
6 BEAMS
7 ピストル
8 LIKE A ANGEL
9 NITE & DAY
10 少年
11 MARIA
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