![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/92/b84b0a2bac5fbe71105003ab15723bc8.jpg)
なお、歌手としてのラテン文字表記はGeorge Yamamotoである。
甲子園に出場
早鞆高校時代の1967年、夏の甲子園出場。松商学園(長野)に敗れるも代打出場ながらヒット(内野安打)を打つ。
不遇の下積み時代
演歌歌手になりたくて上京。多くの職を転々とする。クラブのボーイ時代、お客の飲み残しのビールを飲み干す。中にはタバコの吸い殻がたくさん入っていた。肝臓を壊しやむなく帰郷、ひっそりと療養生活を送る。母親の叱咤で強い決意を持ち22歳で再び上京。再び職を変えながらスナックでギターを手に2年間弾き語りを続ける。たまたま店に来た浜圭介に誘われ芸能界入りした。当初は映画「ダーティハリー」にかけて、「伊達春樹」という芸名でデビューしたが、パッとせず、崖っぷちに立たされた。
北島三郎との出会い
最後の決意で北島三郎の仕事場に何度も足を運び頭を下げ、十数回繰り返したときに北島から突然、鞄(かばん)を渡された。即ち「鞄持ちになれ」という意味であり、以降2年間北島の付き人を務める。25歳だった。これを契機に1976年、ytv'の歌謡オーディション番組「全日本歌謡選手権」(司会?長沢純)に出場、「おもいで岬」や「中の島ブルース」などを歌って見事10週勝ち抜いた。本名でもある「山本譲二」名義でポニーキャニオンから再デビュー。またも鳴かず飛ばずが続く。
みちのくひとり旅で大ヒット
30歳の時に『みちのくひとり旅』をリリース。北島等からは「この曲でダメ(売れない)なら、(歌手を)諦めろ」と言われていたと言う。しかしこの曲も売れず大ヒットには更に10ヶ月を要した。年を越し1年近くが経過。「夜のヒットスタジオ」に注目曲として出演すると大きな反響を呼び大ヒット、31歳の時だった。最終的なレコード売上は130万枚[1]を記録した。
こうした経緯から北島を親父と慕い、現在は北島ファミリーの旗頭的存在である。代表的な歌曲に『みちのくひとり旅』、『旅の終りはお前』、『奥入瀬』、『花も嵐も』、『名もない花に乾杯を』など。
なお、『みちのくひとり旅』がヒットしていた頃、あるテレビ番組の企画で無人の甲子園球場のマウンドでこの曲を独唱したことがある。
時代劇に出演
1997年テレビ朝日の『暴れん坊将軍』では、め組の頭長次郎役を好演。 VIIIシリーズから800回スペシャルまで長次郎を演じた。 他にも、松平健、田村亮、北島三郎、高島忠夫、松金よね子、生稲晃子、名古屋章、中村あずさ、松下恵が出演していた。また北島が暴れん坊将軍に準レギュラーで出演する時には、北島が演じていた辰五郎を親父さんと呼んでいた。 また北島がめ組の頭時代に辰五郎に恨みを持つ役、め組の頭降板後は萩藩主毛利吉元役でゲスト出演している。
[アーティスト名] 山本譲二
[タイトル] ねっこ君
[CD番号] TECA-8078
[発売日] 2006-12-20
1 ねっこ君
2 ねっこ君(オリジナル?カラオケ)
3 ねっこ君(一般用?子供用メロ入りカラオケ)
http://down.mediajp.com/musiclists.php?mode=final&id=110110000100100011