令和初年がいよいよ暮れてまいりました。
俄然クリスマスと年の瀬ムードが増します。
仏教徒としては、12月には大切にすべき記念日があります。
8日の成道会(じょうどうえ)という、釈尊がお悟りを開かれた日です。
“お悟り”があったということは、その以前の“迷い”“悩み”があったわけで、釈迦族の王子さまというセレブリティとしての何不自由ない暮らしには、老病死の大問題を解決する道ははなかったのでしょう。
6年間といわれる出家修行の果てに、菩提樹下の坐禅のまま12月8日の暁の明星に照らされ、忽然としてお悟りを開かれたといいます。
その時発したのは「我とこの世のすべてが同時に悟りを開いた」という意味合いの言葉で、お悟りが開けた時すでに世界は悟りのすがただったというものです。
お悟りといえど、その瞬間に何か特別で新しいものが世界に出現したわけではなく、坐禅によって奇跡を起こしたものではありません。
世界は12/8の前日も、1年前も、釈尊がお城を飛び出した日も同じで、ただ釈尊の世界に対する見方が変わった、仏さまの眼(まなこ)が開いたと言える出来事だったでしょう。
ものの見方というのは人それぞれで、考え方にも直結する大事なものです。
今シーズンの紅葉は、暖冬の影響により2週間程度遅れたそうです。
TVを観ていると、京都などの紅葉スポットに行列が出来ている場面が写っていました。
私はTV画面を通じて観て、現地の紅葉の雰囲気を想像するのみです。
行列の末に観た人々、ある人は待った甲斐があったと喜び、ある人は待つほどでもなかった来年はいいやと感じるかもしれません。
またある人は現実の紅葉よりも、スマホの画面への写り具合と、SNSのイイネを気にしています。
管理者は後日の掃き掃除の大変さが脳裏を支配しているかもしれません。
仏さまのものの見方の特徴は、“因果”“縁起”をも見つめるところにあると思います。
この紅葉にはかつて春の淡い緑の新芽の時期があり、季節の移り変わりにより紅黄色に染まった、そして地に落ちて土に還っていく。
実は、紅葉した葉は“落ちる”のではなく、木が“落としている”ようです。
立ち枯れの木の葉は、鮮やかな紅黄色にはならず、時期に至っても落葉することがありません。
木々はいのちのはたらきの一環として古い葉を落としているのでした。
落ち葉は微生物によって土=山のいのちへ還っていきます。
そのいのちは水の流れにのって川を下り海へ注ぎます。
これもTVで観たことですが、近ごろの水産養殖業者さんには、山で植樹をする方があるそうです。
山の栄養が豊かになれば、湾の海水が良くなり、良い魚が育つとのことです。
通常の見方をすれば、山に落ちた1枚の葉と魚とは無関係です。
しかし、仏さまの眼を通じて観る世界は、すべてが繋がっていて、世界は絶妙なバランスのシステムで成り立っていて、常にサイクルしている、となります。
しかも、我もこのシステム、サイクルと一体の“いのち”を生きている。生かされている。
このようなことがお悟りとしてほぞ落ちしたであろうことは、ブッダ=覚者となり説かれた、システムやサイクルを壊さない生き方の教えから想像出来るのです。
俄然クリスマスと年の瀬ムードが増します。
仏教徒としては、12月には大切にすべき記念日があります。
8日の成道会(じょうどうえ)という、釈尊がお悟りを開かれた日です。
“お悟り”があったということは、その以前の“迷い”“悩み”があったわけで、釈迦族の王子さまというセレブリティとしての何不自由ない暮らしには、老病死の大問題を解決する道ははなかったのでしょう。
6年間といわれる出家修行の果てに、菩提樹下の坐禅のまま12月8日の暁の明星に照らされ、忽然としてお悟りを開かれたといいます。
その時発したのは「我とこの世のすべてが同時に悟りを開いた」という意味合いの言葉で、お悟りが開けた時すでに世界は悟りのすがただったというものです。
お悟りといえど、その瞬間に何か特別で新しいものが世界に出現したわけではなく、坐禅によって奇跡を起こしたものではありません。
世界は12/8の前日も、1年前も、釈尊がお城を飛び出した日も同じで、ただ釈尊の世界に対する見方が変わった、仏さまの眼(まなこ)が開いたと言える出来事だったでしょう。
ものの見方というのは人それぞれで、考え方にも直結する大事なものです。
今シーズンの紅葉は、暖冬の影響により2週間程度遅れたそうです。
TVを観ていると、京都などの紅葉スポットに行列が出来ている場面が写っていました。
私はTV画面を通じて観て、現地の紅葉の雰囲気を想像するのみです。
行列の末に観た人々、ある人は待った甲斐があったと喜び、ある人は待つほどでもなかった来年はいいやと感じるかもしれません。
またある人は現実の紅葉よりも、スマホの画面への写り具合と、SNSのイイネを気にしています。
管理者は後日の掃き掃除の大変さが脳裏を支配しているかもしれません。
仏さまのものの見方の特徴は、“因果”“縁起”をも見つめるところにあると思います。
この紅葉にはかつて春の淡い緑の新芽の時期があり、季節の移り変わりにより紅黄色に染まった、そして地に落ちて土に還っていく。
実は、紅葉した葉は“落ちる”のではなく、木が“落としている”ようです。
立ち枯れの木の葉は、鮮やかな紅黄色にはならず、時期に至っても落葉することがありません。
木々はいのちのはたらきの一環として古い葉を落としているのでした。
落ち葉は微生物によって土=山のいのちへ還っていきます。
そのいのちは水の流れにのって川を下り海へ注ぎます。
これもTVで観たことですが、近ごろの水産養殖業者さんには、山で植樹をする方があるそうです。
山の栄養が豊かになれば、湾の海水が良くなり、良い魚が育つとのことです。
通常の見方をすれば、山に落ちた1枚の葉と魚とは無関係です。
しかし、仏さまの眼を通じて観る世界は、すべてが繋がっていて、世界は絶妙なバランスのシステムで成り立っていて、常にサイクルしている、となります。
しかも、我もこのシステム、サイクルと一体の“いのち”を生きている。生かされている。
このようなことがお悟りとしてほぞ落ちしたであろうことは、ブッダ=覚者となり説かれた、システムやサイクルを壊さない生き方の教えから想像出来るのです。